石屋のないしょ話

大泥棒・石川五右衛門

大泥棒・石川五右衛門

洛東の名刹・南禅寺の壮大な三門に上がると「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金・・・」と、つい見得を切りたくなります。それほどに有名なこのセリフは、天下の大泥棒・石川五右衛門のものです。 しかし、その南禅寺の三門は応仁元年(1467)までに消失しており、復興されたのは江戸時代になってからの寛永五年(1628)なので、石川五右衛門(1557〜1594)が生きた時代には形をとどめていなかったはずです。石川五右衛門が、この三門を棲み家としていたとか、「絶景かな、絶景かな」の名セリフも、すべては歌舞伎のために初代並木五瓶が書き下ろしたフィクションなのです。 石川五右衛門は、一説には三好氏の臣・石川明石の子、あるいは遠州浜松に生まれ、のちに河内国石川群の医家・山内古底の家に寓したと伝えられています。太閤秀吉の活躍と同時代に悪名を轟かせたのが運の尽き・・・というべきか。 秀吉は、前田玄以に命じて五右衛門一味を捕らえ「釜茹での刑」という刑罰史にも残るほどの残忍な処刑を実行しました。 文禄三年(1594)のことです。三条大橋南の河原に大きな釜が据えられ、その中には湯がぐつぐつと煮えたぎっていました。そこに五右衛門ら、悪党総勢十人と、五右衛門の幼い子一人が入れられました。五右衛門は我が子を救おうと、釜の中に仁王立ちになって子供を両手で高く抱え上げていましたが、群衆が取り囲む中、最後には力尽き果てて親子もろとも釜の底に沈んだそうです。昔の風呂釜のスタイル「五右衛門風呂」とは、このときの釜の形に似ているところから名付けられたものです。 五右衛門は捕らえられ、刑場に引かれていく途中、下京区寺町四条下ルにあった大雲院の前を通りかかり、同寺の高僧・貞安上人に諭されて感泣したといいます。それが縁で、今も大雲院(現在は円山公園内、祇園閣とともにある)に五右衛門のお墓があります。墓には院号のある戒名が刻まれていますが、これは罪人では異例のことだそうです。 石川五右衛門の墓石のかけらを懐に入れておくと、盗癖が治るとの言い伝えがあります。盗癖に苦しみ、それを試す人がいるのか、五右衛門の墓石にはあちこち削り取られた跡があるそうです。   ご参考までに・・・。  

千灯供養

千灯供養

毎日暑い日が続きますが、皆さん夏バテなど大丈夫でしょうか?今月は二十三・二十四日に化野念仏寺で行なわれる「千灯供養」についてお話します。  嵯峨小倉山麓の化野あだしのの地は、東山の鳥辺野・船岡山の蓮台野とともに、古くから葬送の地として知られていました。 化野の「あだし(徒し・空し)」という言葉には、空しい・儚いという意味があります。 また「化」の字は、「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化ることや、極楽浄土へ往生する願いなどを意図しているといわれています。  化野念仏寺の創建は、弘法大師空海が弘仁年間(八一○~二四)に五智山如来寺をひらいて風葬により野晒しとなっていた遺骸を集めて葬ったのがはじまりとされ、鎌倉時代初期に法然が念仏道場としてより現在にいたる浄土宗のお寺です。 このお寺に入ると、境内にひしめくように立つ八千体もの石仏・石塔に驚かれるでしょう。 これらはかつて、この地に葬られた人々のお墓でしたが、長い年月の果てに無縁仏として散乱していたものを、明治の中頃に地元の人たちによってこのお寺に集められたのです。 賽の河原の模して「西院さいの河原」とよばれています。 「千灯供養」は二十三・二十四日の二日間、この西院の河原で無数のロウソクが灯され、供養されます。 ロウソクが少し秋めいてきた風に吹かれてゆらめき、石仏がその中に浮かび上がる・・・そんな幻想的な風景の中に静かに祈る人々の後姿があるのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

尼講

尼講

皆さんは、「尼講あまこう」という言葉をご存知でしょうか? 京都では「あまこう」のことを「あまこ」と言います。 今月は「尼講あまこ」についてお話します。  本来、「尼講」はお寺における檀家の婦人部のようなものですが、京都で言うところの「あまこ」は他所とは違い、宗旨に関係なく町内ごとにあります。 町内でご不幸があった場合、依頼があればそのお家に赴き、お葬式やお逮夜(本来初七日などの前夜)毎に、そのご仏前で御詠歌をあげるのです。 御詠歌というのは、霊場めぐりの時に唱える巡礼歌の一つで、京都では平安時代に成立したといわれる日本最古の観世音菩薩の霊場・西国三十三番のものが特に有名です。  昔の京都では、必ずこの御詠歌集が家庭にあり、姑や母親から代々受け継がれていたのです。 ある本に、京都には各町内に尼講という趣味の集団があると書かれていましたが、決して「あまこ」は趣味の集団ではありません。 仏様のお教えに導かれた心優しい人達の集まりなのです。 人々のお役に立つ為に、日頃から熱心に御詠歌の稽古を続けられているのです。 この三十三番までの(本当は番外さんというのが他にもあります)御詠歌は、御導師という先行して唄う人に続いて「ちち、ははの~」と皆が後について唱詠します。 すべてを唄い終えるまでは結構時間がかかりますので、二十四番目の中山寺まであげると休憩することに決まっています。 これらの霊場は殆どが山の中にあり、辿り着くまで坂道や石段を登らなくてはいけない難所ばかりであるため、このあたりで休憩するのです。 休憩の時には、ご不幸ごとのあったお家の方がお茶とお饅頭を用意して「あまこ」さんの方々に喉を潤してもらいます。 この休憩の前に、今夜は何人来て頂いているか、その人数を数えるのは子供の役目です。  普段は人を家にあげない京都人も、この時だけは夜遅くまでご町内の人がおられても、決してほうきを立てるようなことはしません。 ご近所の人々にこうして一緒に故人を偲んでもらえることを、本当に心強く感じるのです。 そして次の日、「夜前はおおきに有難うございました」と挨拶することから、ご近所との交流がまた一段と深まっていくのです。 「あまこ」は町内の連体を強める役割も持っているのです。 本当の町内のお付き合いは、ただ回覧板を回すだけではありません。 “遠くの親戚より近くの他人”というのは、こういうことなのではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

県祭

県祭

今月は五日に県神社で行なわれる「県祭あがたまつり」についてお話します。  五日から始まったお祭りは、深夜だというのに毎年十万人以上の人手で熱気にあふれています。 「暗闇祭」と別称される県祭は、日付がかわった六日にこのお祭りのクライマックスの「梵天渡御」を迎えます。 梵天とは御幣のことで、約千六百枚の白い奉書紙を球状に束ねて長さ約2、4メートルの丸竹につけ、直径1メートルほどの「梵天御輿」がつくられます。 五日の午後十一時頃から法被姿の担ぎ手が掛け声をかけながら、灯かりをおとした街道を練り歩き、途中御輿をぐるぐる回す勇壮な「ぶん回し」に見物客からは大きな歓声があがります。 後に配られる梵天の奉書は魔除けになるとされています。 石屋のないしょ話でした・・・。

川床

川床

今年は寒い日が続いて例年よりも桜を楽しむことができました。 桜が散ったと思ったら、鴨川では京都の夏の風物詩「川床」が見え始めました。 今月は「川床」についてお話します。  納涼床の起源は、江戸時代に遠来の客を迎えた裕福な商人たちが、少しでも蒸し暑さをやわらげて接したいと考えて、京都の中心を流れる鴨川の中州や浅瀬に床机をおいて川を渡る風にあたりながらもてなしたことに由来します。 寛文年間(一六六一~七三)に鴨川両側に石積みの護岸が築かれ、茶店や屋台がその上で商売をはじめ、また近くの花街祗園や先斗町の繁栄にしたがって川床も発展したといわれています。 現在は鴨川西岸の二条から五条にかけて、京都鴨川納涼床同組合に加盟する飲食店の約九十軒が櫓を組んで座敷をのせた床を、鴨川西岸の河川敷を流れる「禊川」に張り出しています。 この禊川は、昭和十年(一九三五)の鴨川の洪水後に作られた全長二キロほどの水路です。 鴨川の川床は五月一日から九月三十日までで、五月中は「皐月の床」、六月から八月中を「本床」、九月中を「後涼み」と呼びます。 現在では、暑さをしのぐというより京都らしさを味わうという意味で、地元の人はもとより観光客に人気があります。 石屋のないしょ話でした・・・。

吉野太夫花供養

吉野太夫花供養

やっと桜も咲いてきました。 皆さんはどこにお花見に行きますか? 今月は18日に常照寺で行なわれる「吉野太夫花供養」についてお話します。  赤い着物に華やかな内掛を着て、「心」の字のように帯を結び、「立兵庫たてひょうご」に結った髪に鼈甲の櫛と八本の笄、花かんざしを挿した太夫が、禿かむろ二人と傘持ちを従えて三枚歯の黒塗りの高下駄を履き「内八文字」と呼ばれる独特の足さばきで道中するその優美な姿に、見物客からは溜め息のような歓声があがります。 島原の名妓二代目吉野太夫(一六○六~四三)ゆかりの常照寺では、毎年四月の第三日曜日に吉野太夫を偲ぶ「花供養」が行なわれます。 太夫は、公家の遊女として、正五位を授けられていました。 和歌・唄・踊り・茶・聞香、また囲碁や双六・貝合わせなど諸芸が巧みで容姿端麗、人品も優れた最上の妓女でした。 吉野太夫は禿の頃から容色に優れ、教養が高く、諸芸にも天分を発揮していたといわれています。 熱心な法華経の信者であった吉野太夫は、常照寺の日乾上人に帰依をして、山門を寄進するほどでした。 これが朱色も鮮やかな「吉野門」として常照寺に残されています。 そして和歌や茶の湯に造詣の深い教養人の京都の豪商佐野(灰屋)紹益に身請けされます。 この結婚は周囲に反対され、勘当された紹益と貧しい生活を送った後、本阿弥光悦のとりなしで佐野屋に戻りましたが、吉野は寛永二十年に亡くなりました。  花供養では、常照寺近くの源光庵から太夫道中を披露した後、太夫の墓前で舞を捧げ、境内では野点も行なわれます。 石屋のないしょ話でした・・・。

春の人形展

春の人形展

バレンタインデーが終わったと思ったら、もうお雛様の季節です。 今月は雛の節句に近い三月一日から、あでやかな衣装をまとった雛人形や、愛らしい御所人形が披露される宝鏡寺の「春の人形展」についてお話します。 宝鏡寺は、尼五山の第一位であった景愛寺けいあいじの子院福尼寺ふくにじに、応安年間(一三六八~七五)、光巌天皇の皇女で景愛寺六世の華林宮恵巌かりんのみやえごん禅尼が御所に祀られていた聖観世音菩薩を安置し、寺名をかえて宝鏡寺としたことにはじまると言われています。 寛永二十一年(一六四四)に後水尾天皇皇女久巌里昌くごんりしょう禅尼が入寺すると紫衣がゆるされ、以降、皇女が住持となって入寺して尼門跡としての寺格を誇り、古い地名にちなんで「百々御所」と呼ばれています。 また、天皇から季節ごとにおくられた人形を多数所蔵し、いつしか「人形寺」と呼称されるようになりました。 人形展は、昭和三十二年(一九五七)からはじまり、平成十九年(二○○七)の春で開催百回をむかえています。 歴代皇女ゆかりの人形を三月一日から四月三日までと、秋は十一月一日から三十日の春秋に一般公開し、ふだんは拝観を謝絶している宝鏡寺を訪れるいい機械となっています。 島原の太夫による舞の奉納も行なわれます。 また、十月十四日には人形供養が営まれ、全国から納められた古い人形が供養されます。 石屋のないしょ話でした・・・。

二九

二九

年が明けたと思ったら、早いものでもう二月です。 今月は二月九日に山科区小山行なわれる「二九にのこう」についてお話します。 鎌倉時代の正和二年(一三一三)二月九日、牛尾観音(法厳寺)を参拝していた村人を襲った大蛇が、地元の武士によって退治されました。 その後、祟りを畏れた村人が大蛇の霊を弔うためにワラで編んだ大蛇を山科川(音羽川)の近くに祀ったのが「二九」のはじまりだといわれています。  音羽川の麓、山科川のほとりに位置する小山中島町では、以降七百年にわたって、地元の人によって毎年二月九日に約三百束のワラで長さ約十メートル、胴回り約三十センチの大蛇が新しく作られ、竹にわたして松の木にさし渡されます。 目には橙をもちい、青竹で作った口に酒を注ぎこんで五穀豊穣・家内安全を祈ります。 石屋のないしょ話でした・・・。

左義長

左義長

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2010年1回目の《石屋のないしょ話》は、「左義長さぎちょう」についてお話します。 小正月には、門松やしめ縄などの正月飾りを焼く「左義長」という祭礼が行なわれます。 地方によっては、「どんど焼き」や「さいと焼き」などと呼ばれています。 この祭礼の由来は、平安時代の宮中で行なわれた火祭りだとされています。 青竹を三脚のように立てて、陰陽師が謡い囃しながら扇子や短冊を焼いて邪気を祓う儀式です。 青竹は、馬に乗って木製の毬を打つ「打毬」という遊戯に使われる「毬杖ぎっちょう」で、これが「左義長」という名前の由来だという説もあります。 民間では、豊作を祈願して正月飾りを焼きました。 別名の「さいと焼き」を「道祖土焼き」と書くように、宮中の行事が道祖神信仰と結びついたと考えられています。 年の始めに大きな火を焚いて、人々が大声で囃したてるなどして大きな音をたてて、村に悪霊や邪気を寄せ付けないようにしたのです。 一月十四日の夜または十五日の朝に火をつけ、松の内に飾っていた門松やしめ縄、年始に書いた書き初めなどを焼きます。 この時の燃え方や燃える音、煙の流れる方向などで、その年の豊作物の豊凶が占われたりもしました。 また、その火で焼いた餅を食べると、その年は病気をしないと言われたり、焼いた書き初めが天高く舞い上がると字が上手になるという言い伝えもあります。 このように、門松やしめ縄を燃やすのは、焼くことで正月に迎えた歳神を炎と一緒に空へと見送るという意味も込められています。 石屋のないしょ話でした・・・。

お十夜

お十夜

今月の五日~十五日は、真如堂で「十日十夜別時念仏会」が行なわれます。 今月は、お十夜についてお話します。 お十夜とは、浄土宗の寺院で陰暦の十月五日から十四日まで十日十夜におよび行なわれる念仏法要のことです。 真如堂(真正極楽寺)がその起源で、今は十一月五日から始まり、十五日が結願の日です。 足利幕府に仕えた武将、平(伊勢)貞国は永享九年(一四三七)真如堂に参籠し、出家を志しました。 しかし、夢枕にあらわれた僧が三日の猶予を求めました。 そして三日三晩たつと使者が来て、貞国が家督を継ぐことを知らせてきました。 霊夢に感謝した貞国は、その後七日七晩の参籠を行ないました。 このことがお十夜のはじまりで、真如堂が根本道場となったのです。 五日から毎晩「鉦講中」の約二十人が、念仏が唱えられるなか大鉦を叩き鳴らします。 期間中、おおぜいの浄土宗徒が訪れますが、もっとも蝟集するのが結願の十五日です。 この日は朝から念仏と鉦の音が本堂に響き、円仁の作という「うなずきの弥陀」とよばれる本尊の阿弥陀如来像が開帳されます。 このうなずきとは「女人を救いたまえ」と祈願したところ、如来は三度うなずいたという話からの名です。 この阿弥陀像の手に「縁の綱」が結ばれて本堂から外に出されます。 この綱を持つ信徒たちと縁が結ばれるわけです。 さらに、午後二時ごろ貫主や僧侶や講中の人たち、稚児が境内を一周する「お練り」があって、結願法要となります。 参詣者には中風除けの「十夜粥」が授与されます。 石屋のないしょ話でした・・・。

大根だき

大根だき

日に日に、寒さが厳しくなってきました。 皆さん風邪などひいてませんか? 今月は、七日に千本釈迦堂で行なわれる「大根だき」についてお話します。 境内では、直径1メートルもの大鍋に油揚げとともに炊かれた大根が、美味しそうな匂いを漂わせています。 京都人はこれを「大根とお揚げさんのたいたん」といい、家庭のおばんざいとしても定番です。 十二月の寒風にさらされる境内でふるまわれるこの大根には、無病息災・中風除けのご利益があります。 大根だきは、七百五十年ほど前の鎌倉時代前期に千本釈迦堂(大報恩寺)の住持慈禅がお釈迦様が悟りをひらいたとされる十二月八日の成道会の法要で、丸大根に「ハク」というお釈迦様の名前を表わす梵字を一字書いて、その大根を参拝者にふるまったのが始まりといわれ、江戸時代中期に行事として定着したのだそうです。  炊かれる丸大根は聖護院一帯で作られていたため聖護院大根と呼ばれるものが使われていましたが、最近は淀で作られている同種の淀大根がふるまわれているそうです。 梵字が書かれた大根は、祈祷の後に輪切りにされて大鍋で炊かれます。 授与が始まる午前九時には多くの参拝者が門前に並んで順番を待っています。 翌八日も行なわれ、二日間で大根約五千本、一万五千食が授与されます。 ちなみに、授与は有料です。 石屋のないしょ話でした・・・。

ずいき祭

ずいき祭

今月の一日~五日は、北野天満宮で「ずいき祭」が行なわれます。 今月は、「ずいき祭」についてお話します。 京都の秋祭の先陣を切る「ずいき祭」は、室町時代、北野天満宮の神人が自ら収穫した作物を飾って神前に供え、五穀豊穣に感謝したのが始まりだと伝えられています。 「ずいき」とは、瑞饋・芋茎と漢字で書き、里芋の茎のことです。 このずいきで神輿の唐破風入母屋造の屋根を葺き、瓔珞(神輿の四方に屋根から垂らした飾り)にはキンセンカの花・赤茄子や唐辛子などをあしらい、穀物や蔬菜・湯葉・麩など乾物で周りを覆います。 この華やかな「ずいき神輿」は、四日の還幸祭まで御旅所に安置されます。 毎年趣向を変えて設える欄間や扉の細かい彫刻も、すべて蔬菜を材料にしています。 かつては、八月四日の北野祭のときにずいき祭の神幸祭も行なわれていましたが、応仁の乱で中断、氏子町の力でようやく明治八年(一八七五)になって復活しました。 一日は、三基の鳳輦に御霊を遷す神事が行なわれたのち、獅子を先頭に猿田彦神(天孫降臨のさい道案内をした神)が乗った導山や梅鉾・松鉾などが出て、約百五十人の行列が西ノ京御輿岡の御旅所まで練り歩きます。 到着後、着御祭が営まれ、氏子町の女の子が「八乙女田舞」を奉納します。 なお、四日の還幸祭は「おいでまつり」とも呼ばれ、菅原道真が乗っているとされる牛にひかれた御羽車が新たに加わり、天満宮創設を思い返す祭となっています。 石屋のないしょ話でした・・・。

通り唄

通り唄

皆さんは♪丸・竹・夷・二・押・御池・姉・三・六角・蛸・錦~という唄を聴いたことがありますか? 今月は、通り唄についてお話します。 これは、京都の東西(横)の通り名を覚えやすくするためのもので、通りの名前の頭だけを取り出して北から南へ順に唄ったものです。 京都では昔から社会勉強をさせるために子供を使いにやることが多く、買い物はもちろんのこと、祝い事のまんじゅうを配ったり、お中元・お歳暮も子供が先様に届けることがよくありました。 でも、この唄を知っていれば、大丈夫、まずは迷子になるということはありませんでした。 ご存知のとおり、京都の町は平安京の名残りをとどめ、東西と南北の通りが碁盤の目のように整然とならんでいます。(途中で曲がっているところもありますが・・・) そして、それぞれの通りにはすべて名前がついていて、この東西の通りと南北の通りが交差する辻(角)から東の方に入ることを“東入ル”、西に入ることを“西入ル”と言い、他所の人にはちょっと馴染みにくいかもしれませんが、それぞれの辻から北へ行くことを“上ルあがる”、南へ行くことを“下ルさがる”と言います。 ですから、寺町三条下ルは寺町六角上ルと同じところになるのです。 おわかりになりますか?  この“通り唄”がいつ頃から唄われるようになったのかはわかりませんが、主だった通りが碁盤の目になっている京都ならではの唄だといえるでしょう。 そして、それは手まり唄とか、子守唄といったものではなく、ただの符牒のようなもので、親から子へ、番頭さんから丁稚さんへと教えられてきたのです。 これも京都の教育の一つだと思います。 京都は昔から商業の町と言われていますが、こんな唄や遊びの中にも、ちゃんと教えやしつけが含まれていたのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

六道まいり

六道まいり

まだ梅雨明けもしないうちに、もう八月になりました。 今月は、八月七日~十日に六道珍皇寺で行なわれる「六道まいり」についてお話します。 六道珍皇寺の境内には、小野篁おののたかむら(八○二~五二)という昼は宮中に仕え、夜は冥界に出入りして閻魔大王のもとに通ったといわれた人物で、冥界の出入り口となった「冥土通いの井戸」があります。 六道とは、衆生(人間)が善意の業によって赴く地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六つの迷界のことです。 六道珍皇寺のあたりは、平安時代のころに野辺送りをした鳥野辺の地に近いことから、六道へいく辻にあたるとして「六道の辻」と呼ばれました。 そのため、古くからお盆に戻ってくる先祖(お精霊さん)は、六道珍皇寺を通ると信じられてきたのです。  「六道まいり」は、そのお精霊さんを迎えるお盆前の行事です。 まず、境内で精霊が乗るという高野槇を求め、薄い板の水塔婆に先祖など故人の名前を書いてもらいます。 そして十万億土の冥土まで響くという「迎鐘むかえがね」を引くように叩いて、先祖をこの世に呼び寄せます。 そのあと水塔婆を線香で清め、石地蔵が並ぶ「賽の河原」に納め、槇で水をかけて水回向します。 この水塔婆は、五山の送り火の翌日(八月十七日)に供養されます。 「六道まいり」は、七日の午前六時から十日の午後十一時まで行なわれますが、お寺のまわりは順番待ちの行列で囲まれ、迎鐘の音がとぎれることはありません。 石屋のないしょ話でした・・・。

七夕

七夕

七月七日は七夕の日です。 皆さんも子供の頃、七夕飾りを作り、夜空を見上げて天の川を探した記憶があるのではないでしょうか? 今月は「七夕」についてお話します。 七夕は、牽牛星(彦星)と織女星(織姫星)を祭る行事で、笹に願いを書いた短冊を飾ります。 結婚生活の中でお互いの仕事をおろそかにした牽牛星と織女星が天の川の両岸に引き離され、一年に一度、七月七日だけカササギの橋渡しのおかげで会うことができるという話は有名です。  中国では、機織の上手な織女にあやかって、この日に裁縫や詩歌など手習い事の上達を願う「乞巧奠きっこうでん」という習慣がありました。 この風習は奈良時代に日本に伝わりましたが、宮中でのみ行なわれ、民間には浸透しませんでした。 石屋のないしょ話でした・・・。

竹伐り会式

竹伐り会式

六月二十日は鞍馬寺で「竹伐り会式」が行なわれます。 今月は「竹伐り会式」についてお話します。 「竹伐り会式」とは、黒い法衣に白袈裟を弁慶かぶりにした僧兵が二手にわかれ、大蛇にみたてた大竹を山刀で伐るという豪壮な会式です。 日に日に緑が濃くなっていく鞍馬山中腹に建つ鞍馬寺で、この日「竹伐り会式」が行なわれます。 もともとは、蓮の花が咲く旧暦七月に行なわれていたので、「蓮華会」とも呼ばれています。 この儀式の由来は、今から千百年前の寛平年間(八八九~九八)にさかのぼります。 鞍馬寺で修行中の僧峯延に一匹の大蛇が襲いかかりました。峯延が真言を唱えて退治しましたが、すぐに別の大蛇が現れました。 これも退治しようとすると、大蛇は鞍馬の御香水を護ることを誓って命乞いをしたので、峯延に許されたといわれています。 この話から、厄災を断ち切り、水の恵みに感謝する「竹伐り会式」がはじまったと伝えられています。 江戸時代中頃から、東の近江座・西の丹波座にわかれて竹を伐る早さを競い、勝った地方が豊作となる吉凶行事となりました。 ほら貝を合図に、僧兵に扮した地元の人が登場し、まず本殿前で試し伐りの「竹ならし」で直径十センチの大竹が四本、長さ約五メートルに切りそろえられます。 「竹ならし」に続いて雅楽と舞が演じられます。 そして「勝負伐り」になり、かけ声とともに青竹をあっという間に一節ずつ伐りおとして勝負が競われます。 石屋のないしょ話でした・・・。

端午の節句

端午の節句

五月五日は子供の日です。 今月は「端午の節句」についてお話します。 男の子の節句である「端午の節句」は、五節句のひとつです。 「端」は「初め」、「午」は「午の日」を意味し、本来は「五月初めの午の日」ということでしたが、「午」が「五」に通じるため、五が重なるこの日を「端午の節句」と呼ぶようになりました。 現在は「子供の日」として国民の祝日になっていますが、慣例で男の子の節句として祝う風習が残っています。 鯉のぼりや武者人形を飾り、柏餅やちまきを食べ、菖蒲湯につかるなどして祝うのが一般的です。  もともとこの日には宮中をはじめ、広く民間でも、香りの強い菖蒲や蓬で邪気を祓うという中国から入ってきた風習がありました。 鎌倉時代になると武家では「菖蒲」を「尚武(武芸を重んじること)」とかけて武具を飾るようになり、いつしか端午は男の子の節句として定着したのです。 現在のように鯉のぼりや武者人形を飾るようになったのは、江戸時代に入ってからとされます。 端午の節句に鯉のぼりを立てるのは日本だけの習慣ですが、由来は中国の「登竜門」の故事にあります。 黄河にある竜門という急流を登った鯉が竜になったという話から、鯉は出世魚とされました。 この故事にあやかり、我が子の立身出世を願って鯉のぼりを立てるようになったのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

都をどり

都をどり

桜がちらほら咲いてきました。 皆さんは、「都をどり」をご覧になったことがありますか? 今月は一日から三十日に祇園甲部歌舞伎練場で催される「都をどり」についてお話します。 「都をどりはヨーイヤサァー」の掛け声で、花うちわを手にした芸妓・舞妓が花道から舞台に登場すると、会場である歌舞練場は歓声と共に春の華やいだ雰囲気に包まれます。 「都をどり」は、明治五年に第一回京都博覧会の「附博覧」として企画されました。 前年京都で開いた日本初の博覧会がいまひとつ盛り上がりに欠けたため、翌年に万策を尽くして開催することを決定、博覧会の集客をうながすために、京舞井上流三代目井上八千代さんに相談したところ、八千代さんは伊勢古市の亀の子踊に着想を得て、「都をどり」を創作しました。 踊り子三十二名・地方十一名・囃し方十名が七組七日交代で三月十三日から五月いっぱいまで出演したといいます。 これが評判を呼び、以後戦争中の休演をはさんで春に開催され、平成二十年の公演で百三十六回を数えます。  他の花街の踊りは「都をどり」と同じく明治五年にはじめられた先斗町の「鴨川をどり」、宮川町では、昭和二十五年から「京おどり」、上七軒では昭和二十七年から「北野をどり」、そして同年祇園東が「祇園をどり」が、それぞれの花街の特徴をみせながらあでやかに披露されます。 石屋のないしょ話でした・・・。

修二会

修二会

「お水とり」が過ぎると、寒さもやわらぎ、春がやってくると感じます。今月は、お水とりが行なわれる奈良の東大寺二月堂で行なわれる「修二会しゅにえ」についてお話します。 毎年お正月に、罪や穢れを仏に懺悔し、五穀豊穣などを祈願する仏教法会を「修正会しゅしょうえ」といいます。 そして、旧暦二月に行なわれる、同じく悔過を中心とした法会が「修二会」です。 特に有名なのが奈良の東大寺二月堂で行なわれる修二会です。 そもそも修二会は、七五三(天平勝宝四)年に、二月堂の開祖である実忠上人が、菩薩聖衆の悔過行法したことにならって始めたとされています。  二月堂の修二会は、三月一日から十四日にわたり、さまざまな行事が行なわれます。 なかでも、十四日間通して行なわれるのが「お松明」です。 三月十二日にひときわ大きな籠松明が修行僧によって回廊へと担ぎ運ばれ、災厄が祓われるという火の粉を浴びようと待ち構えている参拝者の上で、大きく振り回されます。 翌三月十三日の未明からは、主要行事である『お水とり』が始まります。 二月堂の下にある閼伽井あかいから、本尊である十一面観音に供える「お香水」と呼ばれる水が汲み上げられます。 この香水の水源は、若狭国(福井県)の音無川で、この水を飲むと病気が治癒すると伝えられています。 かつては春の始まりだった旧暦の二月一日から行なわれていたことから、お水とりは春迎えの行事となっています。 石屋のないしょ話でした・・・。

事八日

事八日

まだまだ厳しい寒さが続きますが、年が明けたと思ったらもう二月です。今月は、「事八日・針供養」についてお話します。 旧暦の二月八日は、新たに物事に着手するという意味から「事始め」、十二月八日は物事を終えるという意味から「事納め」といわれ、この二つを称して「事八日」と呼びます。 逆に、十二月八日を事始め・二月八日を事納めとする地方もあります。 もともと事始めは、二月八日に農家がその年の農作業を始めること、または十二月八日に正月の準備を始めることを意味していました。 同じく事納めは、十二月八日にその年の農事を終えること、または二月八日にすべての正月の行事を終えることを意味していました。 二月八日を事始めとし、十二月八日を事納めとする場合は農事に関するもの、十二月八日を事始めとし、二月八日を事納めとする場合は正月の神事に関するものが多いようです。  事八日には、江戸時代から続くと言われる「針供養」が全国各地で行なわれます。 折れた針を豆腐やこんにゃくに刺して川に流したり、神社に納めたりするもので、裁縫の上達を願う行事です。 色白の美人になる、まめに働けるようになど、由来には諸説あります。 この日は、一日、針に触れないようにします。 とくに東日本では、この日に妖怪や厄神が家を訪れるという伝承が多いのも特徴です。 江戸の町では、それらを追い払うまじないとして、目籠をくくりつけた竹竿が町中に立ち並びました。 また「御事汁」という味噌汁を魔よけのために食べる習慣もありました。 現在でも、事八日には目籠やニンニクなどを庭先に置くという風習が残っている地域もあります。 石屋のないしょ話でした・・・。

小正月

小正月

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2009年1回目の《石屋のないしょ話》は、「小正月」についてお話します。 一月一日を「大正月」というのに対し、旧暦の一月十五日を「小正月」といいます。 本来は小正月までを松の内と呼び、この期間中は玄関などに門松を飾っていました。 地方によっては、松の内の間に忙しく働いた女性を休ませ、男性が料理を作って労を労うという習慣もあり、「女正月」とも呼ばれます。 奈良時代まで、日本の暦は月の満ち欠けを基準とする太陰暦で、十五日の満月から次の満月までを一ヶ月としていました。 中国から太陰太陽暦が採用されると、朝廷では一月一日を年始とするようになりましたが、農村では旧暦がそのまま残ったのです。 明治に入り太陽暦が採用されても、とくに農業にかかわる正月行事が、大正月ではなく小正月に行なわれるのも、そのためです。 大正月は歳神に供え物をし、迎え入れるという神聖な行事が中心ですが、小正月には農業や家庭など、より人々の生活に密着した豊作や開運祈願に関する行事が多いのが特徴です。 大正月の門松に対して小正月には、柳の枝などに小さく丸めた餅や団子をたくさんつけた「繭玉」や「餅花」、木を削って花のようにした「削り花」を飾ります。 これらも同じように豊作の願いが込められたものです。 地域によっては、いまでも小正月の朝に小豆粥を食べ、一家の健康を祈ったり、その年の農作物の豊凶を占う粥占という習俗が残っています。 ほかにも鳥追い、なまはげなど、小正月には豊作を願ったり占ったりする行事がたくさんあります。 石屋のないしょ話でした・・・

一条戻橋

一条戻橋

皆さんは「一条戻橋」をご存知でしょうか? 一条戻橋は、堀川通りの一条にかかっている小さな橋のことです。 今月は、「一条戻橋」についてお話します。  その昔、その橋に愛宕山の鬼が出没し人々を悩ませておりましたが、ある日、源頼光の四天王の一人渡辺綱という武士がその鬼の腕を切り落としたという伝説があり、この話は“戻橋”という演題で歌舞伎にもなっています。 京都では有名なところですが、婚礼儀式の時には決してこの橋を渡ってはいけないと言い伝えられています。 これは、この橋の名称である“戻り橋”という名にこだわり、嫁ぎ先から嫁が戻ってこないように言い出されたことで、今でもそこを通らず、わざわざ遠回りをするのです。 このような場所は、一条戻橋だけでなく、ほかにもみられます。 このようにお話しますと、京都人はつまらぬことにこだわると思われるかもしれませんが、ここに京都人の事を行う儀式作法の考え方の原点というべきものがあるのです。 些細なことにこだわりながら、一つの儀式を大切にしてきたのです。  婚礼という人生の一大儀式を軽く考えず、重たく考える発想から、道順という些細なことに神経を遣い、まわりの者がいろいろと智慧を出し合いながら、時には一方通行の道路を警察署に書類を提出し、逆方向に通らせてもらうといったことまでしてきたのです(現在は警察でこういったことが許可されるのかはわかりませんが、昔は儀式だからと粋な計らいがされたようです)。 儀式に対する思い入れ、これこそ京都なのです。 京都の結納用品の専門店やデパートの婚礼用品の売り場でも、「婚礼用品は商品の性格上、返品はお受けできませんので何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます」といった返品お断りの小さな看板を見かけることがあります。 返品された商品を、わからなければよいといって他のお客様に販売するような感性を、京都人は持ち合わせていないのです。 この一条戻橋には、戦争中、出征兵士を見送るのに、わざわざこの橋まで行って、必ず戻ってきてほしいと願ったという悲しい話も残っています。 現在では、京都を訪れた人がこの橋を渡れば、川にコインを投げ入れなくてももう一度必ず京都に来ることができると言われているそうです。  石屋のないしょ話でした・・・。

亥子祭

亥子祭

11月1日に、護王神社で「亥子祭」が行なわれます。 今月は「亥子祭」についてお話します。 旧暦10月の亥の日には、農作物の豊作を田の神に感謝する収穫祭が行なわれます。 これは「亥の子」といって、西日本を中心に見られる行事で、関東では旧暦の10月10日に行われる「十日夜とおかんや」という収穫祭と一緒になっているところもあります。 「亥の子」は、もともと平安時代の宮中行事で、亥の日の亥の刻に大豆などでつくった餅を食べると病気をしないという中国の風習を取り入れたものでした。 天皇をはじめ、宮中の役人が亥の日亥の刻に餅を食べて万病を払ったといわれています。 また、多産である亥(猪)にあやかって、子孫繁栄もあわせて祈願されました。 多産の神は豊穣の神にも通じるとされたため、農村では田の神に感謝する収穫祭となりました。 商家でも多産を商売繁盛ととらえ、同様に亥の子を祝いました。 普通は10月の最初の亥の日に祝われましたが、江戸時代には最初の亥の日は武士、第二の亥の日は農民、第三の亥の日は商人が祝う日とされました。 亥の子の日には「亥の子突き」という子供の行事があります。 子供達が歌を歌いながらワラや石で地面を叩きながら、一軒一軒を訪ねて歩き、褒美に亥の子餅をもらいます。 地面を叩くのは、大地の神を呼び起こすためなどと言われています。 石屋のないしょ話でした・・・。

恵比須講

恵比須講

朝晩は涼しくなり、秋の足音が聞こえてきました。 今月は「恵比須講」についてお話します。 「恵比須講」は、商売繁盛の神様である恵比須様にお供え物をするお祭りです。 もともとは商売繁盛を祈願して恵比須神を祀っていた商家が、旧暦の十月二十日に恵比須様にお供え物をし、客人を呼んでもてなした祭礼に由来します。  十月は「神無月」と呼ばれますが、これはこの月に日本中の神々が出雲大社に集まるため、他の地には神がいなくなるということからつけられました。 ただし、その留守を預かる留守神という神もいて、恵比寿様もその一人です。 商家で十月に恵比寿様にお供え物をしたのは、留守を預かる恵比寿様を慰めようというところから始まったと言われています。    この日は、床の間に恵比寿様の掛け軸を掛けて、膳とお神酒をお供えします。 膳には、恵比寿様が手にしている鯛の尾頭つきが欠かせません。 恵比寿様はもともと豊漁の神でした。 海岸にはいろいろなものが流れ着きますが、見慣れないものは「夷」と呼ばれます。 昔はそうした漂着物は「寄り神」として祀られ、夷は大漁と航海の無事をもたらす神として、漁師たちの信仰を集めていたとされます。 恵比須講では、商人などが日頃の商売の駆け引きで客を騙した罪を祓うという意味から、神社に詣でたり、罪滅ぼしのために大安売りが行なわれたりします。 商店では、縁起物として笹の飾り物や熊手といった商売繁盛・開運を願うものが並びます。  石屋のないしょ話でした・・・。

お布施

お布施

京都に住んでおられる方なら、「おぅーほぅー」と言いながらまわられる修行僧の声を聞いたことがあると思います。 今月は「生活の中にあるお布施」についてお話します。 一般的に、京都人は自主的でない押し付けの寄付というものが嫌いなようです。 災害の寄付はおろか、自分のお寺や神社から集めにこられるのもあまり好きでなく、隣りが五百円したからうちも五百円にしておこうというくらいに思っている方が多いようです(すべての方がそうだとは言いませんが・・・)。 金額を決められて強要されると、特に抵抗があります。 ところが、生活の中には“お布施”の心が昔からちゃんとあるのです。 ・・・というのは、京都にはお寺がたくさんあり、禅寺の雲水さん(修行僧)が「おぅーほぅー」と言ってまわって来られるのを子供もお金を握りしめて待ち、お布施をするのです。  私たちの耳には「おぅーほぅー」と聞こえますが、本当は「法ー法ー」と言われ、仏様の法(教え)を説き歩いておられるのです。 雲水さんのこの声が遠くから聞こえてくれば、「おぅーさん来はった」と家の人に知らせてお金をもらい、子供が門口でお布施をする光景は今日でもよく見られます。 お布施をしますと、雲水さんは深々とお辞儀をされ拝んでくださるのですが、これはその家に災難が起こらないようにといったことではなく、「これからも一所懸命、修行に励みます」という意味で拝まれるのです。    衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 佛道無上誓願成  このお布施、昔はお米や食物だったのですが、今ではほとんどがお金になったそうです。 京都人はこういうことを率先して行なってきたのです。 布施の心とは、決して自分の利益のためにするものではなく、お仏壇を拝んだり、お供えをする行動と同じ佛事作法の一つなのです。 佛様を、佛様の教えを、お坊様を、ご先祖様を大切に思う心が、京都人の生活の中にしっかりと根付いているのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

大向う

大向う

刺身にワサビが付き物のように、歌舞伎にないと物足りないのが「大向う」と呼ばれる客席からの掛け声です。 皆さんも「成田屋!」などの掛け声を耳にしたことがあると思います。 今月は「大向う」についてお話します。 基本的に、舞台への声掛けは誰がやってもかまいません。 しかし、芝居の空気を壊さないのが原則で、生半可に声を上げるには勇気がいります。 かといって声が少ないと寂しいので、芝居好きで掛け声の“うまい人”が会を作り、公演中、誰かが客席にいるようにしているのです。  実は、こうした会は劇場公認で、会員になると客席上段に無料で入れる通行許可証がもらえるのです。 ただ、会に入るには、まず劇場に通い、声を掛け続けなければなりません。 その中で、“筋がいい”と認められた人だけが会員から勧誘される、スカウト制を採っているそうです。 うまい掛け声とはどんなものなのか・・・勇敢な主人公には大きく勇ましく、美しい女形へはきれいな声で掛けます。 また、役者の声や三味線・拍子木のチョンなど、直前に響いた音と同じ音程で声を出すと、より空気に合い、舞台と調和し、舞台と客席の一体感が増し、芝居の味がぐっと引き立つのです。 “間”も難しく、台詞にかぶるのは厳禁なので、役者の息遣いに耳を澄ませることが大切です。 しかも芝居は生き物で、演じ方は役者や日によって違ってくるので、声の掛け方は千変万化です。 特に掛け声は、東京がキッパリ目、上方は柔らかさが特徴です。 これは、芝居が東京は力強さ、上方は柔らかみのある芸を代々特徴としてきたのと同じで、東京は「成田屋」の場合「た屋っ」と聞こえるほど短くかけますが、上方は「まつしまやあー」と優しい音になります。   掛け声も立派な『伝統芸』として、客席で伝承されているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

土用丑の日

土用丑の日

皆さんもご存知の通り、『土用の丑の日』といえば鰻です。 今月は「土用」についてお話します。 自然や人事など万物の事象を木・火・土・金・水の五行になぞらえて解釈する陰陽五行説。 その中で春は木・夏は火・秋は金・冬は水にあてはめられ、土は各季節の終わりの十八日間にあてはめられました。 つまり、「土用」というのは、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前の十八日間ということになります。 ただし現在では、とくに立夏前の十八日間をさして土用と呼ぶことが多いようです。 そもそも、かつては「土旺」と書かれていました。 「旺」は「盛ん」の意味なので、つまり夏の土用は一年でもっとも暑さが厳しい時期というわけです。    土用の丑の日には、夏バテ防止のため鰻の蒲焼を食べる習慣があります。 これは、江戸時代中期に、平賀源内が鰻屋から夏場の売り上げ不振を相談された際に思いついたとされています。 これが民間で広く信じられていた「丑の日に“う”のつくものを食べると夏バテしない」という伝承t相まって、土用丑の鰻は現在まで続く夏の風物詩となりました。 土用の間は土の気が盛んになるため、穴を掘るといった土を犯すことがタブーとされました。 埋葬もこれに含まれるため、夏の土用の死人は腐乱が進んで大変だったそうです。 ほかにも、日差しの強い土用に衣類や調度に風を通す「土用干し」や、家中を掃除する「土用掃き」など、さまざまな風習があります。 石屋のないしょ話でした・・・。

衣替え

衣替え

日中は汗ばむような陽気の日も多くなり、すっかりコートやセーターは要らなくなりました。 今月は「衣替え」についてお話します。 季節に応じて服を変える衣替えは、もともとは平安時代に物忌みの日に行なう祓えの行事として宮中で始まった「更衣」に由来します。 この時代には、旧暦で四月一日と十月一日にそれぞれ夏装束と冬装束に替えていました。  「更衣」という言葉はその後、天皇の衣替えを司る女官や、天皇の寝所に侍した女御に次ぐ者の名としても使われるようになりました。 このため民間では「更衣」ではなく「衣替」として広まったといわれています。 江戸時代には衣替えの回数は年二回から四回に増やされました。 四月一日からは「袷あわせ」という裏地つきの着物・五月五日からは「帷子かたびら」という裏地なしの着物・九月一日からは再び「袷」・九月九日からは表布と裏布の間に綿を入れた「綿入れ」に衣を替えたわけです。 旧暦四月一日の衣替えを「綿抜き」と呼びますが、これは綿入れから綿を抜く日だったためです。 ここから「四月朔日」と書いて「わたぬき」と読ませたと言われています。 明治に入ってからは夏服に替えるのは六月一日・冬服に替えるのは十月一日からとなりました。 現在でも、学生の制服などはこの日に衣替えが行なわれるほか、和装の場合、七~八月は絽・紗・麻・などの「うすもの」を、六~九月は裏地のついていない「単衣ひとえ」を、十~五月は裏のついた「袷」を着用します。 石屋のないしょ話でした・・・。

八十八夜

八十八夜

『夏も近づく八十八夜~♪』という歌は、皆さんもお聞きになったことがあると思います。 今月は「八十八夜」についてお話します。 「八十八夜」は雑節の一つで、ちょうど「立春」から八十八日目の日のことです。 夏の始まりを意味する「立夏」まであとわずかですが、この頃は昼夜の温度差が激しいこともあって、「晩霜ばんそう」と呼ばれる霜がおりることがあります。 「忘れ霜」や「八十八夜の別れ霜」という表現はここからきています。 この霜は農作物に大きな被害を与えるため、農家に注意するようにという意味でもうけられた雑節が「八十八夜」です。   また、「夏も近づく八十八夜~」と歌われるように、この時期にはその年最初の茶摘みが始まります。 とくに八十八夜の日に摘んだ茶の葉は、栄養価が高く、極上の味わいとされています。 この日以降、霜がおりることはまれになるため、農家では稲の種まきを始める時期とされました。 また、「米」という字が「八」と「十」と「八」に分けられることからも、農家では非常に大切にされる日です。 この日は、「種まき粥」と呼ばれる粥を田の神に供えたり、野山で釜飯を炊いて同じように田の神に供えたり、豊作を占う水口といった風習が残っています。 これらも五穀豊穣を願っての行事とされています。 石屋のないしょ話でした・・・。

やすらい祭

やすらい祭

四月八日に行われる「やすらい祭」は、京都市北区紫野の今宮神社境内にある疫えやみ神社のお祭です。 今月は「やすらい祭」についてお話します。 起源は古く、『百練抄』には「久寿二年(1155)四月、京中の児女風流を備へ、鼓笛を調べて紫野に参る。 世にこれを夜須礼やすらいという」とあります。  現在の練り行列は、先立・鉾・督殿(リーダー)・小鬼(少年二人)・大鬼(赤毛と黒毛のシャグマをかぶった各二人)・花傘・音頭取り・囃子方の総勢数十人が時代衣装をまとって練り、要所で踊り歌います。 歌に「花や咲きたる、やすらえ、花やー」と囃子言葉が入り、やすらい祭の根底には田遊び・田楽がとどめられています。  徳川五代将軍綱吉の母桂昌院は京都西陣の町人の生まれで、今宮神社の氏子であったので、鶴の一声で八坂神社の氏子地域を今宮神社に変更させたり、疫神社を修復・復興したそうです。  練り衆は上賀茂・西賀茂・雲林院・上野の四集落から出ていましたが、今は上野だけとなり、今宮神社と境内の疫神社および行き帰りの町中で踊ります。 人々は花傘に入ると厄を逃れると言われているので、競って傘の下へと集まります。 太秦の牛祭・鞍馬の火祭とともに、京都三大奇祭の一つです。 石屋のないしょ話でした・・・。

雛祭り

雛祭り

三月三日は、皆さんご存知の雛祭りです。 今月は「雛祭り」についてお話します。 三月三日の雛祭りは上巳じょうしの節句と呼ばれ、一月七日(人日)・五月五日(端午)・七月七日(七夕)・九月九日(重陽)と合わせて五節句の一つに数えられる節句です。 かつて旧暦の三月三日に行われていた頃は、ちょうど桃の咲く季節だったことから「桃の節句」とも呼ばれます。 そもそも旧暦の三月は、その年の農事を始める直前にあたり、上巳の節句は禊みそぎの意味がありました。 古代中国では、上巳の日に水辺で香草を身体に塗り、穢れを祓って身を清めるという風習がありました。 これが日本に伝わり、上巳の日に紙で作った人形で身体を撫でて身の穢れを移し、それを川に流して身を清めるという禊の行事となったのです。 これに、平安時代に公家の女子の間で広まった雛遊びというままごとのような人形遊びが結びついて雛飾りに変化したとされています。    現在のように、三月三日に雛人形を飾り、女の子の成長を願うという風習が定着したのは、江戸時代になってからのことです。 ちなみに・・・当初、雛人形は紙や粘土で作られていましたが、嫁入り道具でもあった雛人形は、しだいに良縁を願って飾られるようになり、徐々に華美になっていきました。 元禄時代にはすでに段飾りが登場し、雛人形が豪華になると流し雛の風習はなくなっていき、現在のような飾り雛が定着するようになりました。 ただし、地方によっては現在でも「流し雛」を行うところもあります。 これは人形を流して穢れも流すという、昔ながらの風習の名残と考えられます。 石屋のないしょ話でした・・・。  

「ガッテンだ!」の語源は京都?

「ガッテンだ!」の語源は京都?

「がってんだ!」は、漢字で書くと「合点だ」です。威勢がいいので、イキのいい江戸ことばだと思っておられた方も多いのではないでしょうか? ところが、元をたどれば京都に語源があるのです。 「合点」は、もともと和歌・連歌・俳諧の用語です。なので、和歌・連歌の発達とともに、平安から鎌倉時代にすでに使われていたようです。 つまり、歌を判者が批評するとき、良いと思われる歌の右上に鉤点をつけました。鉤とは、先の曲がった金属製のもので、その形を記しました。今でいうところのチェックです。評する判者がもう1人いる場合は、右上に続いて左上に鉤点をつけるのが慣わしでした。その点が「合点」であり、点をつけることを「合点する」といったそうです。 そこから、名前が書き並べられた回覧文書などが回ってくると「承知しました」「同意します」と言う意味で鉤型の合点チェックをするようになったのです。また「確かに目を通しました」「了解です」という意味でも、合点チェックは行われました。 藤原定家の日記『名月記』の建久3年(1192)3月7日の項に「不可及合点(合点に及ぶべからず)」と記されています。 ではなぜ、江戸ことばだと思われるようになったのでしょうか? この言葉は江戸時代に入ってからもよく使われており、「合点した」とか「合点が参りませぬ」などと、狂言をはじめとする江戸期の作品にしばしば登場するそうです。 ちなみに「早合点」という言葉は「合点」からの派生語で、現在では早とちりなど、よくない意味で使われていますが、本来は文字通り「すばやい合点」で、「すばやく承知する」という意味だったそうです。   ご参考までに・・・。

日本初の水力発電所

日本初の水力発電所

  我が国最初の水力発電所は、京都市東山区粟田口に現存する蹴上発電所です。 第一期琵琶湖疏水建設の付帯事業として、明治23(1890)年1月に起工し、翌24年11月に発電を開始しました。琵琶湖疏水は、滋賀県大津市三保ヶ崎の取水口から山科を経て、蹴上で市内に通じる運河です。明治初期における京都近代化政策の最大の基幹事業として、京都府第3代知事北垣国道が計画し、工部大学校(東京)卒業直後の田辺朔郎が設計と工事を担当しました。     運河や水力の利用状況を調べるために、明治21年10月、田辺朔郎は北垣知事の命を受けてアメリカに渡りました。そこでコロラド州アスペンの水力発電を視察し、翌年帰国して蹴上発電所の建設に着手しました。 この発電所は、蹴上付近で高度差が生じた運河の間を、インクラインで舟を上下させるのに必要な電力を供給するためのものでした。 京都の電気事業は、すでに明治20年に京都電灯会社が設立され、外国製機会を使用した火力発電により同22年には営業を開始していましたが、送電時間が短いうえに料金が高く、普及しませんでした。そこで、3年後に蹴上発電所の水力発電所の水力電気に切り替え、電灯料値下げに成功してから普及することとなったのです。 また、明治28年2月には京都電気鉄道会社により、我が国初の市電が塩小路高倉・伏見下油掛町間に開通した際、この発電所の電力が利用されています。 その後、電力需要の増大に伴い、第2次疏水工事と並行して明治45年に第2期発電所が増設されました。 現在は、第1期発電所の姿は失われていますが、第2期発電所の赤煉瓦造りの建物は京都大学が研究施設として利用し、発電所は関西電力が保有しています。   ご参考までに・・・。

京菓子が和菓子として有名な理由

京菓子が和菓子として有名な理由

わが国最初の菓子は、平安時代初期に京都でつくられた中国伝来の唐菓子で、今も神饌菓子として伝えられています。鎌倉時代から室町時代になると、禅とともに伝えられた点心は、本来の肉・野菜などの蒸し物から甘い蒸し菓子(羊羹・饅頭の原型)となり、饅頭や団子などに広がっていきました。また、桃山時代以降は茶の湯とともに製菓技術が発展し、繊細巧緻を極めた干し菓子や有職故実に基づく鑑賞用菓子などがつくられるようになり、京菓子の原型が形づくられていきました。 やがて、鑑賞用菓子は茶道の影響を受けて京都で洗練され、四季の移ろいや、古典にちなんだ菓子が次々と生み出されて、上菓子(献上菓子)や御用菓子と呼ばれるようになりました。さらに、江戸時代中期に貴重な輸入品の白砂糖を用いるようになると、幕府公認の京都の上菓子株仲間だけが白砂糖を使う菓子製造が認められました。 こうして、京都で作られた菓子は大変好まれて特産品となり、京菓子の名は江戸時代中期には一般に知られるようになり、江戸にも「京菓子所」と称する店が現れました。これらの中から桜餅・大福・金つば・煎餅などの雑菓子も登場するようになりました。 京菓子が発展した理由には、材料となる近江の米、丹波小豆や寒天などに恵まれたことや、砂糖が京都へ直輸入されたこと、良質の水があったことなどがあげられます。 そして何よりも長い間、京都に都が置かれ、政治や文化の中心地となったことから、宮中や公家の四季の行事・神社や寺院の儀式・茶道の作法などと関係しながら発展したことが考えられます。 古くから京都には、たとえば餅菓子の川端家のように、宮中や公家などに出入りした御用菓子司が存在し、今も有職に基づいた菓子をつくり、伝統を守っているのです。 ご参考までに・・・。

初午

初午

旧暦二月の最初の午の日は「初午」といい、稲荷神社の祭礼が行われます。 今月は「初午」についてお話します。 七一一(和堂四)年の初午の日に、稲荷神社の本社である伏見稲荷の祭神が、馬に乗って伊奈利いなり山に降臨したとされることから、祭りが行われるようになりました。 そもそも稲荷とは、五穀を司る神様の総称で「稲生りいねなり」に由来すると言われます。 その主祭神である宇迦之御魂神うかのみたまのかみは、食物の神または農耕の神として知られています。 農村ではこの時期、春の耕作に際して、田の神を山から迎えるという風習がありました。 稲荷神が稲作の神様だということもあり、この風習と稲荷神社の祭礼が合わさり、農村では初午の日に神様に供え物をし、豊作を祈ったのです。 この稲荷祭りでは、お神酒や赤飯と一緒に油揚げをお供えするところが多いのですが、それは油揚げがキツネの好物だからです。  稲荷神社では、狛犬の代わりにキツネの像が置かれているのをよく見かけます。 これは、キツネが田の神である稲荷神の使いであるという俗信に由来するものです。 キツネそのものが、稲荷神であるかのように言われることもありますが、これは誤解です。 石屋のないしょ話でした・・・。

七草粥

七草粥

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2008年1回目の《石屋のないしょ話》は、お正月明けに食べる「七草粥」についてお話します。 年末年始の暴飲暴食で疲れた胃腸を休ませるのにぴったりなのが、1月7日の朝に食べる「七草粥」です。 お粥に入れる七草は時代や地方によって異なりますが、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・スズナ・スズシロ・ホトケノザが一般的です。 これらは薬効の高いものが多いため、野菜が不足しがちな冬に滋養をつけるために食べられていたと言われています。 1月7日は「人日の節句じんじつのせっく」とも呼ばれます。 この日に七草粥を食べる習慣が広く定着したのは江戸時代のことですが、平安時代に書かれた『枕草子』に、すでに記述が見られます。 「正月一日は」で始まる章に「七日、雪間の若菜摘み、青やかにて・・・」とあるように、宮中では古くから七種の野草を摘んで羹あつものにして食べていました。 冬でも芽を出す野草の強い生命力にあやかって、邪気や万病を祓おうとしたようです。 また、神にこれを捧げて、五穀豊穣を祈るという意味もありました。 もともと日本では1月15日に米・アワ・キビ・ヒエ・ミノ・ゴマ・アズキという七種の穀物の粥を食べる習慣がありました。 この習慣と、中国の「七種菜羹ななしゅさいのかん」という、やはり七種の野草を羹にして7日に食べ、無病息災を願うという習慣と結びついて生まれたとされています。 石屋のないしょ話でした・・・。

すす払い

すす払い

近年では、大掃除といえば大晦日前の行事ですが、かつてはすす払い」といって、十二月十三日に行われていました。 今月は、「すす払い」についてお話します。 「すす払い」は、お正月の歳神を迎えるにあたり、一年分の家の汚れを落とし、その年の厄を祓うためにします。 戦前までは、この日には仕事を休んで一日がかりで大掃除が行われていました。 十二月十三日に「すす払い」が行われるようになったのは、江戸城の煤払いが毎年この日だったため、庶民もこれにならったからだと言われています。   ただしお正月までにまだ日があるので、近年はこの日は神棚や仏壇などを掃除するにとどめ、家中の大掃除は暮れが近づいてきてから行うようになりました。 また、この日は「正月事始め」といって、正月準備を始める日とされ、門松用の松を野山に採りに行く「松迎え※1」なども行われます。  寺社では、現代でも毎年この日を「すす払い」の日としています。 手拭いなどで頭・顔を覆った修行僧らが、昔ながらの「すす梵天※2」や笹の束などを使って仏像や堂内の汚れを払ったり、お堂の畳を叩いてホコリを追い出したりする光景が見られます。 ※1 松迎え・・・山村で門松や正月用の様々な木を切り出しに行くこと。 松に限らず、榊や椎・ゆずり葉・裏白など正月飾りに用いる草木を採りに行く。 ※2 すす梵天・・・竹竿の先に藁をくくりつけたすす払い用の道具。 使用後も捨てずに注連縄をはって祀っておき、左義長のときに燃やす。 石屋のないしょ話でした・・・。

七五三

七五三

11月になると、かわいい晴れ着姿で七五三参りに向かう子供さん達を多く見かけます。 今月は、七五三についてお話します。 七五三とは、男の子が三歳と五歳のとき、女の子は三歳と七歳のとき、11月15日に神社に参拝して、我が子の無事な成長を感謝し祝う行事です。 地方によっては七・五・三歳のとき男女を問わずに祝います。 幼児の成長に応じて行われる祝いの行事としては、鎌倉時代に三歳の男子・女子の髪置に儀式がありました。 幼児は生まれてから頭髪を伸ばさずに剃っていたのを、三歳になると伸ばしはじめました。 髪置親を頼んで垂らした髪に米の粉を塗って白髪に見立て、女子は綿帽子をかぶりました。 長寿と幸せな一生を願ったものと見られています。 この髪置が江戸時代に11月15日におこなわれるようになりました。   さらにさかのぼれば、平安時代には三歳あるいは五歳の男子・女子に初めて袴を着せる袴着の儀式がありましたが、江戸時代には五歳の男子に限って碁盤の上で裃を着せる形になりました。 勝負の舞台となる碁盤の上で祝ったのは、強い男子になることを願ったからです。 室町時代からは男子・女子が九歳になったとき帯解の祝いを行いました。 のちに男子は五歳から九歳の間、女子は七歳のときに11月吉日を選んで行われましたが、やがて15日に定着しました。 これまでつけていた子供の付け紐を解きはずして、初めて帯をしめるお祝いです。 この日は盛装して氏神さまにお参りしました。 このように、個々の年祝いであった行事が「七五三」として11月15日の行事にまとまるのは、江戸末期から明治時代のようで、東京を中心とする関東地域においてです。 同時に子の髪や袴・帯を調える家庭内の行事から離れて、晴れ着を着て盛装し、神社に参詣する行事となりました。 七五三に付き物の千歳飴は、元禄・宝永ごろ江戸浅草の飴売り七兵衛が初め「千年飴」、ついで「寿命糖」「千歳飴」の名で江戸市中を売り歩いていたのが始まりといわれています。 一般には、ただ「長袋」とよばれて変哲のないものだったが、紙袋に「寿」の文字や鶴亀・松竹梅を色鮮やかに描いたものに変えたことから、細く長く長寿を願う七五三の祝い物となりました。 袋の中には年の数だけの紅白の棒飴を収め、神社から帰って親しい人に配ります。 それはともかく、このように色々な意味が込められた左と右、何が正しくて何が誤りだと結論づけることはできませんが、こんなところにも何か京都的なものを感じますし、私達がふだん何気なく見ているものの中にも、京都は存在しているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

右が左

右が左

昔から、京都ではいつも御所というものを目の当たりに見ることができたためでしょうか?町中においても御所がいつも中心にあり、私達の生活の中にしっとりと溶け込んでいるのです。 ですから、御所を主体にした左と右に・・・すなわち、左が右であることに、京都人は何の疑問も持っていないのです。 今月は、京都では右が左についてお話します。 京都では、現在の地名においても、御所に向かって右が左京区・左が右京区となっています。 つまり、御所の方からご覧になって左右を決められたものですので、向かって“右が左”で“左が右”ということになったのです。 そのために、京都ではお雛様をお飾りするときも、男雛を左側(向かって右側)に置きますし、左大臣・右大臣も、また桜も橘も、他所の地方とは反対に並べるのです。 結納飾りの尉と姥の高砂人形も、これまた同じことが言えます。 (ただし、高砂人形は姥が手にするほうきによって、あえて尉を右、すなわち向かって左にする場合もあります。) このことは、物事が京の都から他所に伝わっていく過程において、いかに誤りが起こり得たかという一つの証拠ともいえるでしょう。  左と右、この左右論とも言うべきものは、他にも色々とあります。 しめ縄の巻き方も地域によりその巻き方が異なりますし、帯の巻き方にも京都式と関東式があり、京都では左巻きと言われていますが実際には右に巻いていくのです。 金銀の水引のかかった金封を頭に思い浮かべてください。 向かって右に金色・左に銀色がくるように結んであります。 一説によると、これは神話に登場する伊弉諾いざなぎと伊弉再いざなみに由来し、この二神が出会われ仲睦まじく結ばれた姿を水引の結びで表現しているのだと言われています。 向かって右が陽で男性を表現した金色・向かって左が陰で女性を表現した銀色。これら金封の水引については不思議と全国的に統一されていますが、本当は逆に結ぶべきだという説を唱える学者さんもおられますので、一層話がややこしくなっています。 それはともかく、このように色々な意味が込められた左と右、何が正しくて何が誤りだと結論づけることはできませんが、こんなところにも何か京都的なものを感じますし、私達がふだん何気なく見ているものの中にも、京都は存在しているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

放生会

放生会

9月15日は『放生会ほうじょうえ』の日です。 京都では、三宅八幡宮や本能寺で行われます。 ふだんの殺生・肉食を戒め、慈悲を実践するために、捕らえられている虫・魚・獣まどの生き物を池や野に解き放つ仏教の行事です。 中国から経典とともに伝えられました。 今月は『放生会ほうじょうえ』についてお話します。 放生は、676年(天武五)に初めて畿内に命じられ、放生会は720年(養老四)に初めて宇佐八幡宮で行われました。 859年(貞観一)に宇佐八幡宮を山城(京都府)に勧請した岩清水八幡宮では、863年に放生会を行ない、948年(天暦二)には勅祭とされて、国家的行事として盛大に行われました。  五代将軍徳川綱吉は「生類憐みの令」を発令して殺生を禁じましたが、さらに放生も盛んに行っていました。 その際、放つ場所を限定し、金魚は藤沢遊行の池、鶏は芝神明宮と道明寺の境内、トビ・カラスは三宅島、タカは磐城小名浜・上総九十九里などと厳密に定め、御徒目付ら役人に運送させました。 カラスは、役人が戻るより先に、三宅島から江戸に舞い戻っていたそうです。 岩清水八幡宮の放生会(岩清水祭)は、葵祭・春日祭とともに三大勅祭とされ、陰暦8月15日に行われていましたが、現在は9月に行われています。 石屋のないしょ話でした・・・。

愛宕さん

愛宕さん

京都は、放火は別として火事が大変少ないところであることをご存知でしょうか? 今月は、京都ならどこでも見かける“愛宕さんのお札”についてお話します。 京都の町家は、隣とくっついていることもあり、火事についての意識が高く、火を出してはいけないということに、昔から非常に神経を使ってきました。 念には念を入れて火の始末をするという、京都人の「しつこさ」で、京都の町を火から守ってきたのです。  それぞれの住人の責任感の強さがそうさせてきたのでしょうが、京都人はこれを「愛宕さん(愛宕神社)のおかげ」というのです。 ここに京都の一種独特の言葉使いがあり、奥床しさがあるのです。 「愛宕さんのお札」 京都の家庭にはもちろん、近代的なビルの中でも、このお札を見かけます。 毎年7月31日から8月1日にかけて、愛宕さんで千日詣というものがあり、この日にお詣りすれば千日分のご利益があるとされています。 この日はご町内単位でお詣りされるところもあり、毎年大変なにぎわいをみせています。  しかし、だからといって、お詣りした人だけがこのお札を貼っているわけではありません。 例え、愛宕さんがどこにあるかを知らない人でも、京都ではこのお札は知っているものなのです。 愛宕さんには誠に失礼なことですが、普段は気にもとめていませんし、ゆっくりながめることもなければ、お札に手を合わせることもありません。 いわば、このお札は京都人にとって空気と同じような存在なのです。 これほど自然にさりげなく、京都の人々の暮らしの中に溶け込んでいるお札というものも、他にはないように思います。 「火の要慎・火の要慎・・・」 石屋のないしょ話でした・・・。

和紙と風呂敷

和紙と風呂敷

白い和紙で包むことはその品物自体を清める意味があり、風呂敷で包むことは大切な品物ですということを表現しているのです。 そして、和紙にも風呂敷にも、その包み方にはお作法があります。  重ね合わせた時に、向かって右が必ず上にくるように包むのです。 人に着物を着せていると考えれば、たやすくお解かりいただけると思います。 その左右を逆にして着物を着せる時はどういった時か・・・この後は、もうご説明する必要はないでしょう。 ですから、これを一つ間違えますと、お祝いの品でもご不幸ごとの品になってしまうのです。 お店でお買い物をし、包装紙をセロハンテープで止めていただく時にも、必ず向かって右が上にこなければいけません。 この“右上”という考え方は、和紙や風呂敷だけではなく、目録・金封・敷紙・片木へぎ・三方・戸棚・襖・障子もみんな同じなのです。 一度、お家の中のものをゆっくり見回して見て下さい。   京都のこの包み込みの発想は、ただの包み方の作法だけではなく、自分を優しく温かく包み込んで下さいということも意味しています。 ですから、風呂敷を進物にするといったことは京都ではよくあることで、花嫁様の挨拶まわりの手土産にも風呂敷が最もよく用いられます。 風呂敷に包んで風呂敷を持参するのです。 もの言わぬものにものを言わせる・・・といったことを好む京都人が、品物を和紙や風呂敷に包むことで贈る心や意味合いを表現してきたのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

お参りの手順

お参りの手順

神社にお参りするというと、多くの人が初詣を思い浮かべるのではないでしょうか? また、お宮参りや七五三などのお祝い事・合格祈願や、旅先でその地の有名な神社を訪れるといったこともあるかと思います。 しかし、正しい手順でお参りできているでしょうか? 今月は知っているようで知らないお参りの手順についてお話します。 日常生活では、ひんぱんに神社を訪れる人は少ないかもしれませんが、日本人なら、神社にお参りするときの正しい手順を心得ておきたいものです。 おおまかにいうと、まずは「浄め」、つぎに「参拝」となります。 浄めは、神社の境内の手水舎で行います。 手水舎の手水鉢の前に来たら軽く一礼し、右手で柄杓を取って水をすくい、その水を左手にかけて洗い浄めます。 そのあと、左手で柄杓を取り、同じ要領で右手を浄めます。 次に右手で柄杓を取り、左の手のひらに水を注ぎ、その水で口をすすぎます。 使った柄杓は、そのまま元の位置に戻してはいけません。 いったん垂直に立てて、残りの水で柄の部分を浄めてから、元の位置に戻して一礼します。   こうして身を浄め、本殿へと向かうわけですが、参道を進むとき、その中央を歩いてはいけません。 参道の中央は神様の通る道だからです。 本殿まで進んだら参拝です。 本殿の前に立ち、軽く一礼します。 このあと、賽銭箱に賽銭を入れ、鈴を鳴らして拝礼をします。 拝礼の作法は「二拝二拍手一拝」が基本です。 つまり、二度おじぎをして、二度手をならしたのち、両手を合わせてお祈りをして、もう一度おじぎをします。 このうち拍手は、まず胸の前で両の手のひらを合わせ、右手をわずかに下にずらしながら、両手を肩幅の広さにまで広げ、両てのひらを打ちます。 本殿から立ち去る前に、本殿に軽く一礼して参拝は終了です。 おみくじを引いたり破魔矢を買ったりするのは、参拝が終わってからです。  石屋のないしょ話でした・・・。

敷居のタブー

敷居のタブー

最近は洋室ばかりで和室がない家も多いため、和室での作法を知らずに育った方もいらっしゃるかもしれませんが、「敷居や畳の縁をふんではいけない」という言葉は耳にされたことがあると思います。 今月は敷居や畳の縁を踏むのがなぜタブーになったかをお話します。 かつての子供たちは「戸や障子などの敷居や畳の縁を踏むのは、親の顔を踏むようなものだ」と教えられ、和室を歩く時はうっかり踏まないように注意したものです。 こんなしきたりが生まれた理由は「境界」という概念で考えれば説明がつきます。 敷居は、部屋と部屋を区分けする境界の役割を果たしています。 なた、畳は「立って半畳、寝て一畳」といわれるように、一人の人間が暮らすための最小限の空間とされています。 そこから、畳の縁は一人一人に必要な空間を区分けする境界とも考えられます。 このような「境界」を重視する考え方は、日本だけのものではなく、世界に共通するもので、例えば二十世紀初めのフランスの民族学者A・フォン・ヘネップは『通過儀礼』の中で境界について、あちら側でもこちら側でもない、あいまいで不安定な場と記している。 そこから様々なタブーが設けられ、また通過する時には儀礼が必要と考えられるようになったといいます。  我が国の身近な例では、橋のたもとや村はずれなどにお地蔵様が祀られているのも境界への恐れの表れといえるでしょう。 お地蔵様を祀ることで、境界が持つ危うさから逃れようとしたのです。 そういう境界に対する認識から、敷居や畳の縁も境界の一種と考えられるようになり、「踏んではいけない」というタブーが生まれたのです。 そのタブーを破ることは、家の秩序や格式を破壊することにもつながりかねません。 そこで、親の顔を持ち出して子供達に守らせようとしたのです。 また昔は、畳の縁に家紋を刺繍する家もあったそうです。 家紋を踏んではいけないという意味でも、畳の縁を踏むことをタブーにしたのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

残し方の美学

残し方の美学

お客としておもてなしの料理を出して頂いた時、皆さんは全部食べてしまいますか? 京都では、そのお料理を全部きれいに食べてしまわず、ほんの少しだけ残すのがお作法なのです。 今月は京都の残し方の美学についてお話します。 もし、全部たいらげてしまったら、もてなして下さった先様が「少し量が足りなかったかな」と余計な神経を使われるかもしれません。 少し残すというのは、そのための気配りなのです。 このお作法にはお客の方にとっても結構便利なこともあるのです。 万が一、自分の嫌いなものが出てきた時には、このお作法がありますので随分と助かります。 家庭料理なら残すと失礼になりますが、京都では必ずといっていいほど、仕出し屋さんのものが出されますので、嫌いなものは遠慮なく、そして作法どおりに残せるのです。 もし、寿司桶の片隅のバランに隠れて遠慮がちにお寿司が一つ残っているのをご覧になったら、これが京都だと感じて下さい。  っこのお作法は、あくまでもお家でお料理を頂戴した時のことで、料亭などに行った時にはこんなことは致しません。 全部たいらげてもよく、残してもよいのです。 気心の知れた親戚等の集まりの時に料亭などで料理を残しますと、必ずといっていいほど“折”が出てきます。 残したものを折りに詰めて持ち帰るのは板前さんに対する気配りであり、これも一つのお作法なのです。 残り物を折り詰めにして持ち帰るなんてあまり美しくないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。 ところが、京都のご婦人方は皆さんどこで覚えられたのか解りませんがよく心得られたもので、その手際の良さと折に詰められた料理の美しさは、お膳とは別に最初から折り詰めが注文してあったかのように見えるほどです。   折り詰めにして持ち帰ることにも、京都の伝統というべき理由があります。 その昔、西陣地域では料理に出された時におつゆが出ると、つゆだけを飲んで具は持って帰る風習がありました。 食料の貧しかった時代に、訪問した先でこれだけのおもてなしをして頂いたという感謝の気持ちを家で待つ家族に知らせる役目があったのです。 こんなところから、儀式ごとには欠かせない手土産としての折り詰めが全国的に用いられるようになったのでしょう。 一つの風習・作法というものが、人々の絆をいかに高めていくかが、こんなことからもおわかりいただけると思います。 石屋のないしょ話でした・・・。

清水の舞台

清水の舞台

全国的に有名な「清水の舞台」。 今まで清水寺に参拝されたことがない人でも、大変な決意で物事をする時の覚悟のほどを“清水の舞台から飛び降りる”気持ちと表現することはご存知だと思います。 今月は、「清水の舞台」のいわれについてお話します。  多くの修学旅行生が清水寺を参拝するのも、清水の舞台の高さを確かめにきているのかもしれません。 しかし、この「清水の舞台」のいわれについては様々な説があり、そのいずれの説もつまるところはご本尊である観音様のお守りいただき、そのお陰で死なないのだという、いわゆる観音信仰から発生したものなのです。 「宇治拾遺物語」の話を紹介しますと、ある若者が、ある日運悪く大勢の人間と斬り合いになり、清水の舞台に追い詰められ、もうどうしようもない、殺されるだけだと思い、すべてを観音様に預けて飛び降りたところ、不思議なことに死なずに助かったそうです。 こういった話がいくつもあるとのことですが、どれをとってもそこには京都人の信仰の深さがうかがわれます。 平成になってからも飛び降りた人が一人あったとのことですが、この人も信仰が篤かったのか助かられたそうです。 ちなみに清水の歴史が始まってから、六十人以上の人が飛び降りたらしいのですが、今までに亡くなられたのはご年配の一人だけだそうです。  京都では、子供の頃から「観音さんは自分の前にいはって、お地蔵さんは後ろにいはる」と教えられて育った人がたくさんいます。 だからといって、清水寺に行き、一生懸命手を合わせて拝むわけではありません。 宗教というと何か絶対的なものととらえられがちですが、京都の宗教は少し違って、いわゆる生活の一部に信仰があるという感じなのです。 そんな中から生まれたこの「清水の舞台」の喩え。 現在では言葉だけが一人歩きしてしまいましたが、京都人の中に自然と溶け込んだ観音様を尊ぶ心がそこにしっかりと生き続けているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

雪月花

雪月花

「雪月花」は、日本の美しいものの代表と言われてきました。 そして、京都人が殊更この雪や月や花を好むのには深い理由があるのです。 今月は「雪月花」についてお話します。 雪は積もり、月は満月となり、花は咲き誇るように、それぞれそのものの最盛といわれる時がありますが、雪は陽に、月は地球の陰に、花は風によって、その姿を無くしてしまいます。 雪は解け、月は欠け、花は散ってしまうのです。 しかし、やがて季節が巡ることで、再びその美しい姿が必ずよみがえります。 京都人は何度も何度も都を荒らされてきましたが、その度毎に必ず復興してきたその京都の姿と、この雪や月や花を重ね合わせているのです。 雪・月・花に“見”という一文字を付け加えれば、それぞれ雪見・月見・花見となり、それは平安の時代から宮中において催された宴であり、儀式なのです。 これらを愛でて詠まれた歌が、現在も数多く残っています。  雪・・・雪の白さは、混じりけのない純粋で清らかな例えとして賞賛され、またその白さから白髪を連想し、めでたきものと考えられてきました。 それに雪は“五穀の精”とも言われ、雪の多い年は豊作の前兆とも、また五穀(米・麦・粟・豆・黍)を雪汁にひたせば虫が食わないとも言われてきたのです。 雪の都、それはまさに絵にも描き表せないほど美しいものです。  月・・・月は古来より神仏としてあがめられ、人々の月への思いは強く、月を中心として世の全てのものが動いていると信じられていました。 そんなところから、現代でも使用されている暦が生まれたのです。 また“月の都”という言葉があり、これは都の美しいさまを例えて言ったものです。  花・・・花ほど人々の生活の中に密接に関わっているものも珍しく、慶びごとにも悲しみごとにも必ず登場します。 そして、物事を花に例えることが大変多くみられます。 “花の都”という言葉があるように、まさに京都は花そのものでもあるのです。  この雪月花、これらは全て美しくはかないものばかりですが、またいつの日にか、必ずやよみがえるという再生象徴のものでもあるのです。 京都人は、一見弱々しく、はかなく見えるかもしれませんが、内に秘めた凛とした再生への思いを、いつも持ち続けているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

雨降って・・・

雨降って・・・

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2007年一回目の《石屋のないしょ話》は、祝いの日の雨についてお話します。 お祝い事の日に雨が降った場合、「雨降って地固まる」といって験げんの良いことだと言われていますが、本当のところ、これは一種のなぐさめの言葉なのです。  お宮詣りをはじめとして、結納や婚礼の日はもちろんのこと、特に荷出しの日に雨が降れば娘のために今まで支度をしてきた親の気持ちは察するにあまりあります。 どうしても陰気になり、気が滅入ってしまうものです。 人間にはどうすることもできない自然界のこと、誰もが空を見上げながら泣きたくなるのも当然です。 そんな時、相手の気持ちを察して「雨が降るのは地が固まって験がいいですね」と話しかけるのです。 この言葉に当事者の方はどれだけなぐさめ力づけられることか計りしれません。 それだけではなく、地が固まって験が良いだけで終わらさず“降り込む”“入り込む”などといった験の良い言葉をも創り出したのです。 これも生活の知恵であり、京都ひいては日本人の心根の優しさと言えるでしょう。  京都人は、単に迷信や言い伝えにこだわっているわけではありません。 迷信や言い伝えから心の優しさを取り出し、事を行ってきたのです。 だからこそ全国津々浦々にまでこんな言葉が広まったのだと思います。 このように、儀式作法とは、本来、心根の優しいものだったのですが、最近の若い人々に受け入れられないのは何故でしょう。 それは、本当の意味や心が正しく伝わらなかったためではないでしょうか。 ただ、表面上の形ばかりにとらわれて、儀式作法を一人歩きさせた責任を十分に自覚しながら、その反省の上に立ち、本当の意味・心を伝えていかなければと思います。 それが伝承というものだと思いますし、京都の心を残す大切な事柄の一つなのではないでしょうか。  これとよく似たことに、数字の“八”というのがあります。 例えば、八万円の金額をお祝いとして受け取った時、本来“八”という数字は偶数の陰の数であり、あまりお祝いごとにはふさわしくありません。 しかし、頂戴した以上は仕方ありません。 そんな時、「八は末広がり(扇子を逆にした形)」という言葉を使うことで、相手の心をなぐさめてきたのです。 このほかにも、人を思いやる言葉は数多くあると思います。 これらは全て生活の知恵であり、京都人ひいては日本人の心根の優しさと言えるでしょう。 石屋のないしょ話でした・・・。

お火焚

お火焚

皆さんの中には、先月の8日に伏見稲荷大社で行われた火焚祭をご覧になった方もいらっしゃると思います。 今月は、お火焚についてお話します。 お火焚の行事は、京都だけでなく一部の地域にもみられるものですが、その発祥はやはり京都であると思われます。 お火焚の由来には色々な説がありますが、もともと宮中の重要行事である新嘗祭(収穫祭)が民間に広まったものであるといわれています。 稲穂を育てていただいた太陽と大地に感謝し、また来る年の豊作を祈って行う祈祷行事です。  かつては11月になると神社だけでなく、連日、一般家庭や町内・会社でもこの行事を見ることができ、京都の初冬の風物詩でもあったのです。 火を扱いますので一時禁止されたり、自主的に取りやめたりしてその数は少なくなりましたが、今でも広い敷地をお持ちの方は毎年きちんと行われています。 秋にとれた新米を神前にお供えし、願い事を書いた護摩木(火焚串)を焚いて悪霊を追い祓い、家内安全・無病息災・商売繁盛・火難除けを神に祈るのです。 お火焚の終わりに、護摩木を焚いたその残り火でみかんを焼きます。 そのみかんを食べると、来る冬の間、風邪をひかないといわれています。 それに、その年のお米でつくったおこしと、おたまと呼ばれている火焔紋の焼き印が押してある紅白饅頭を神からのおさがりとして頂き食します。 神と共に同じ食物を頂くことで、神の力を授かるのです。  古来より、火の神は太陽の神とも考えられ、世にある不浄なものを消滅させる力があると信じられてきたのです。 こんなところから、京都では神仏のお札はもちろんのこと、お守りや縁起物、それに心のこもった礼状など、ごみとして出すには少し気がひけるものの処分は、火にあげるといって燃やしてしまうといったことが日常的にどのお家でもなされているのです。 京都といえばお寺のイメージが強く、仏教行事ばかりがクローズアップされますが、このお火焚の行事だけでなく、一年をとおして一般の家庭にも神事がきちんと行き続けているのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

敷居の上

敷居の上

皆さんの中には、「しきたり」とか「お作法」という言葉を聞いただけで拒否される方もいらっしゃるかもしれません。 また、虚礼廃止という名のもとに、全てを簡素化しようとする考え方もあるでしょう。 しかし、「しきたり」とか「お作法」というものは、決して虚礼ではありませんし、前近代的なものの考え方でもありません。 人と人とが暮らしていくための潤滑油のような役目があるのです。 今月は、「しきたり」や「お作法」を通じて人とのつながりを大事にすることについてお話します。 「しきたり」や「お作法」は、自分が恥をかかないためにあることは言うまでもありませんが、それ以上に相手の心を思いやる大切さ、相手に無礼・失礼にならないために、また相手に恥をかかせないために存在しているのです。 この儀式のこの時には、このように事を運ぶといった、完成された「しきたり」と「お作法」、それを現代的に勝手な解釈をしてアレンジしてしまっては、かえって話が難しい方向へと発展し、ひいては相手まで混乱させてしまう結果になるのではないでしょうか? 古来より受け継がれてきたその本当の意味と意義を十分に理解し、大事にすることが、人と人とのつながりをより一層強いものに高めていくのです。  しかし、人とのふれあいといっても京都のそれはべったりとしたお付き合いではなく、自分を少し引いたところで相手を立てるところが他所とは異なるのです。 一般的にイメージされるものより、京都の「しきたり」と「お作法」は現代的なものなのです。 ですから、京都には風習・風俗・民族といった言葉がなぜか当てはまらないように思われます。 いくら親しくなっても、他所でみられるような奥座敷まで上がりこむといったものが京都にはありません。 自分の領域をきっちりと守りながらお付き合いしているのです。 『京都人のお付き合いは敷居の上』と言われていますが、まったくそのとおりだと思います。 敷居の中に入れば厚かましくなり、外に出ていると水くさい人になります。 お付き合いはちょうど敷居の上(本当は敷居を踏んではいけないので、例えです)ぐらいの、入るでもなし、出るでもないといったところがよく、これが京都流であり世界に誇る都の感性だと思います。 石屋のないしょ話でした・・・。

一条戻橋

一条戻橋

皆さんは「一条戻橋」をご存知でしょうか? 一条戻橋は、堀川通りの一条にかかっている小さな橋のことです。 今月は、「一条戻橋」についてお話します。  その昔、その橋に愛宕山の鬼が出没し人々を悩ませておりましたが、ある日、源頼光の四天王の一人渡辺綱という武士がその鬼の腕を切り落としたという伝説があり、この話は“戻橋”という演題で歌舞伎にもなっています。 京都では有名なところですが、婚礼儀式の時には決してこの橋を渡ってはいけないと言い伝えられています。 これは、この橋の名称である“戻り橋”という名にこだわり、嫁ぎ先から嫁が戻ってこないように言い出されたことで、今でもそこを通らず、わざわざ遠回りをするのです。 このような場所は、一条戻橋だけでなく、ほかにもみられます。 このようにお話しますと、京都人はつまらぬことにこだわると思われるかもしれませんが、ここに京都人の事を行う儀式作法の考え方の原点というべきものがあるのです。 些細なことにこだわりながら、一つの儀式を大切にしてきたのです。  婚礼という人生の一大儀式を軽く考えず、重たく考える発想から、道順という些細なことに神経を遣い、まわりの者がいろいろと智慧を出し合いながら、時には一方通行の道路を警察署に書類を提出し、逆方向に通らせてもらうといったことまでしてきたのです(現在は警察でこういったことが許可されるのかはわかりませんが、昔は儀式だからと粋な計らいがされたようです)。 儀式に対する思い入れ、これこそ京都なのです。 京都の結納用品の専門店やデパートの婚礼用品の売り場でも、「婚礼用品は商品の性格上、返品はお受けできませんので何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます」といった返品お断りの小さな看板を見かけることがあります。 返品された商品を、わからなければよいといって他のお客様に販売するような感性を、京都人は持ち合わせていないのです。 この一条戻橋には、戦争中、出征兵士を見送るのに、わざわざこの橋まで行って、必ず戻ってきてほしいと願ったという悲しい話も残っています。 現在では、京都を訪れた人がこの橋を渡れば、川にコインを投げ入れなくてももう一度必ず京都に来ることができると言われているそうです。  石屋のないしょ話でした・・・。

京のお茶漬け

京のお茶漬け

皆さんは「京のお茶漬け」をご存知でしょうか? 今月は、「京のお茶漬け」についてお話します。 京都の家を訪問し、帰り際に「そろそろ失礼します」と言うと家人から「お茶漬け一杯ぐらい食べていってください」と言われ、そのとおりに食べて帰ったら「図々しい」などと陰口をたたく京都人を皮肉に表現している「京のお茶漬け」ですが、本当は「私はあなたとまだお話していたい」という意味であり、そう思うほど楽しい時間を過ごせて良かったという親愛の情を表現した言葉なのです。 「失礼します」という言葉に対して「そうですか」と答えるのが普通かもしれませんが、それではあまりにも味気ないと感じられませんか? それに、そう簡単に言ってしまうといかにも早く帰ってほしいと願っていたように受け取られては大変だと、京都人は気を遣いなんとか引きとめようとするのです。 本当に「さようなら」を言うまで、しつこいまでのやりとりでコミュニケーションをはかり、より親密なお付き合いをしてきたのです。 有名なこの「京のお茶漬け」というのは、会話の一つの流れであり、せっかくの和やかな雰囲気を断ち切らないように余韻を持ってお別れするためのもので、お客様を不愉快な気持ちにさせずお帰りいただくための心温まる言葉なのです。 最近は誤解が誤解を生んで、「そろそろ時間ですからお帰り下さい」という時に、京都人が使用する言葉だと解釈されているようです。 いつの間にか言葉が一人歩きしてしまったのでしょう。 よほど無礼な人にはそういう意味で使うことがあるかもしれませんが、実際にはそのような悪意を持って使われることは決してありません。 「お茶漬け一杯・・・」と言う相手は、もうすでにお料理をお出ししているような大切なお客様なのですから。 家人がそう言って本当にお茶漬けを準備されていることもあり、そのお茶漬けを有難く頂いて帰るのがお作法の場合もあるのです。 心にもないことを平気で言う京都人の“いやらしさ”や“いけずなところ”や“二面性”など悪いイメージだけが広まってしまいましたが、この言葉は京都人の奥床しさの代名詞ではないでしょうか? 転居通知というものをご存知だと思いますが、そこには必ず「お近くにお越しの際は是非一度お立ち寄り下さい。」と記されています。 でも、いくらこのように書かれていてもそんなに親しくもない人のお家を、近くに来たからと言って訪問されることはないでしょう。 社交辞令的なものが全ていけないとは思えません。 石屋のないしょ話でした・・・。

お盆と殺生

お盆と殺生

京都人は、ご先祖様に対する思いが強く、今の自分があるのは全てご先祖様のお陰だと考えている人も少なくありません。 そのため、京都では仏事作法というものがしっかりと入り込んでいるのは今までの「石屋のないしょ話」でもお話しましたが、特にお盆の時には枚挙にいとまがないほどの様々な風習や言い伝え・しきたりがあります。 今月は、その一つである「お盆には虫を殺してはいけない」についてお話します。 これは京都では当たり前のことで、そこにお盆の行事の本質があるように思います。  京都人は、子供の頃からお盆には昆虫採集をしてはいけないと言われて育っってきました。 皆さんは“おはぐろとんぼ”という昆虫をごぞんじでしょうか? 黒くて細い上品なとんぼなのですが、このとんぼにご先祖様が姿を変えられてお浄土から我が家に帰ってこられるといわれています。 京都では、このとんぼのことを“お精霊とんぼ”とよんでいます。 他の地方の人からは滑稽に思われるかもしれませんが、この“お精霊とんぼ”に手を合わせることもあるのです。 また、仏様にお水をお供えするとき、その器の中に蓮の葉や樒の葉を浮かべますが、これにも同じような意味があり、暑い夏の日に虫たちが水を飲みに来て過って溺れないよう葉に止まって水が飲めるようにと、殺生をしないために気を配り、こんなことをしているのです。 もちろん、ご先祖様がとんぼに変身するとか虫が溺れないようになど、本気ななって考えているわけではありません。 しかし、そこには京都人の優しい感性というべきものがあるように思います。  今年もまた、ご先祖様に気持ちよくお帰りいただくために、お仏壇を綺麗に整え、提灯を吊るしたり、松明を焚いたり、きゅうりやなすびにお箸で足をつけたり、麻殻ではしご段を作ったりして、ご先祖様をお迎えするのです。 そしてそこに、その家々の独特の風習が生まれ、それが祖母から母へ、母から娘へと受け継がれていくのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

きゅうりと紋

きゅうりと紋

皆さんは、きゅうりの切り口をじっくりご覧になったことがありますか? 今月は、きゅうりの切り口と祇園祭についてお話します。  きゅうりの切り口が祇園さん(八坂神社)の紋にどことなく似ていることから、その紋を食べてしまうのはあまりにももったいないと、京都では祇園祭(八坂神社のお祭り)の間はきゅうりを食べない人が少なくありません。 他の地方の人は祇園祭といえば二・三日ぐらいの間と思っておられるかもしれませんが、祇園祭というのは随分長い期間にわたるお祭りで、およそ一ヶ月ほどあります。 この間、特にきゅうりの美味しい時期に食しないのですから、けっこう大変なことなのです。 京都では、シンボリックな紋というものに対して敬う気持ちが非常に強く、大事にしているのです。 石屋のないしょ話vol.22でもお話しましたが、紋はその家やその人を表すものであり、神聖なものだと考えていますので、あまり軽くは扱わないのです。 京都では、広蓋や袱紗や風呂敷に、しっかりとご自分の家の紋が入っており、そのように代々残して伝えていくものがあるからかもしれません。 そして、それらはただの装飾品ではなく、日常生活の中で、事あるごとに使用するものでもあるのです。 日々の生活の中で培われてきた、紋というものを重たく思い入れる心が、きゅうりを食しないことにつながっているのです。  もともと紋は公家が使っていた輿や牛車につけられていたことが始まりであると伝えられています。 このように、家紋発祥の地である京都には、紋に関するしきたりがあり、儀式作法には必ずといっていいほど登場します。 京都人は、自分の家の紋を知っているのが当たり前であり、またそも紋には男紋と女紋があるのです。 京都は紋=シンボル(象徴)を敬い、大切にする土地なのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

お札

お札

京都では、いたるところにお札が貼ってあります。 お札によるご利益や災難除けの意味があるのはもちろんですが、ちょっと意味合いの違う理由もあるのです。 今月は、お札についてお話します。 京都では、台所はもちろんのこと、仕事場や機械や道具にも一枚のお札を貼ることによって、その場所を、そのものを神聖化し、決して粗末に扱わないようにしているのです。 お札の使い道として、これほどすばらしいアイデアはないと思いますし、これもまた京都の生活の知恵なのです。 お札は機械類を扱われる仕事場で特に多く見ることができます。 織物の機械をはじめ、近代的な外国製の機械などにもお札が貼ってあります。 祇園祭の粽に添えられているお札をご覧になったことがあるでしょうか? そのお札には「蘇民将来之子孫也」と記されています。 それにはこんな謂れがあります。 昔、インドに牛の頭のように角のはえた王様がいました。 名前は牛頭天王といい、大変恐ろしい人物でしたが、ある時お妃を探すため旅に出ました。 ある日、巨旦将来という男に出会いましたが、この男は裕福なのに大変なケチで、牛頭天王をもてなすどころか怒らせてしまいました。 しかし次の日、蘇民将来という男の家に一夜の宿を頼んだところ、その男は大変貧しい暮らしをしているにもかかわらず、真心を込めて牛頭天王をもてなしたのです。 その姿に牛頭天王は大変感動されました。 そしてそのおかげでお妃も見つけることができました。 やがて牛頭天王は再び蘇民将来の家を訪れ、「心のこもったもてなしができるということは、人間として最も大切なことである。 以後は門口に蘇民将来と書いて吊るしておけば、子々孫々まで悪いことは起こらぬ」と言って立ち去りました。   この物語がなぜ京都に伝わったかはわかりませんが、祇園祭のこのお札を門口に吊るすということは、悪疫や災難から逃れるためだけではなく、人に対しての最高のもてなしであると共に、その人に幸福が訪れるようにと祈っているのです。 京都は、もてなす文化が非常に発達したところだと言われています。 それは、蘇民将来のお札が吊るされているからかもしれません。 石屋のないしょ話でした・・・。

風呂敷

風呂敷

風呂敷は生活の知恵から生み出された大変便利なものです。 紙袋などと違い、風呂敷は四角い箱型のものも、丸い形のものも容易く包むことができますし、必要でない時には折りたたむと大変コンパクトになります。 その上、近頃問題になっている過剰包装もなくなるのです。 今月は風呂敷についてお話します。 近年、日常的には使うことが少なくなった風呂敷ですが、最近京都では風呂敷研究会というものをつくり、包み方も含めて再度風呂敷を普及させようと頑張っておられるグループがあります。 この研究会では、会合に出席する時の本や書類などは、必ず風呂敷に包んで持参するという約束ごとがあるそうです。  そもそも風呂敷というのは、字のとおり風呂で使用したことに由来しているのです。 お風呂屋さんで脱いだ衣類を、今はかごやロッカーにいれますが、昔はそれぞれ自分の衣類を布で包んでおいたのです。 それで、他の人のものと間違わないように風呂敷に名前を入れるようになりました。 現代においても風呂敷に名前を入れるのは、その名残りなのです。 また、京都では風呂敷で包んだ品物を人様に渡す時、風呂敷をはずして渡すのがお作法ということになっています。 ところが、京都にはおため(おうつり)というお返しの習慣がありますので、こちらに風呂敷を預からなければそのおためを入れることができません。 そんな時、京都人は「すんまへん。ちょっと風呂敷貸しておくれやす」と言い、言われた方も「そうどすか。えらいすんまへんなあ」と言い、すぐに風呂敷を差し出してそこにおためをいれてもらいます。 京都には、こんな楽しいお付き合いの約束事があるのです。 風呂敷があれば、そこに花が咲くと言われています。 皆さんも今一度風呂敷を見直してみてはいかがでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

お祝い

お祝い

お祝いは、大安・先勝・友引の午前中にお伺いするのがお作法であり、昼から伺うと験が悪いとまで言われていますが、昼から伺ったからといって決して験が悪いわけではありません。 今月は、なぜ午前中にお祝いに伺うのかをお話します。 もともと、結婚式そのものが、ほんの少し前までは夜に行われることが当たり前であったことは、ご年配の方なら皆さんご存知だと思います。 それなのに、なぜお祝いは午前中にと時間までしばるようになったのでしょうか? それは、先様に対する心遣い、気配りからなのです。 午前中にと限っておくことで、お祝いごとのあるお家でも、気兼ねなしにお昼から外出ができ、午前中だけの拘束ですむようにと、こんなしきたりが生まれてきたのです。 特に嫁方では、挙式前には挙式の打ち合わせだけではなく、細々としたものまでたくさん買い揃えなければならないため大変忙しく、時間がいくらでも必要なのです。 そして、そのお買い物も新生活に必要なものですから、やはり大安などの良き日に買い求めたいと思われるのも、これまた人情です。 こんなところからも、京都ではお祝いに伺ってもお部屋にはあがらず、たとえ先様に勧められてもお断りをして、玄関先で失礼するのがお作法であり、当たり前なのです。 この時、先様がこぶ茶とおまんじゅうをお出しになります。 こぶ茶は一口でも飲まなくてはいけませんが、おまんじゅうは頂かないことになっています。 おまんじゅうは最初から別の物がお持ち帰り用としてちゃんと半紙に包んであるのです。 これも時間短縮の一つかもしれません。 しかし、いくら時間短縮をしても、お祝いの品は決して他の地方のように金一封だけというものではありません。 京都の結婚祝は、金銀の水引のかかった金封に、必ず熨斗と寿恵広を添え、片木台にのせます。 そして、広蓋という漆器の盆にのせ、その上から袱紗をかけ、それを定紋入の風呂敷に包んで持参するのです。 他所では考えられないほど丁寧な形です。 これが、京都人の発送なのです。 こうして整えたお祝いの品を持参するのは、必ず午前中に、昼からでは験が悪い、とする京都のこのしきたりは、長い長い経験の中から生まれ、やがて一つの事柄でしばるようになったのです。 そこには、先様に対する気配りがしっかりと息づいているのです。 一見、不合理・不便にみえるものが、その実、大変合理的であり、また非常に便利でもあるのです。 京都のしきたりやお作法は、人々がお互いに暮らしやすくするために考案されたものばかりだと思います。 石屋のないしょ話でした・・・。  

お見送り

お見送り

昔から、他所のお家を訪問する時には訪問する者が気を遣い、辞去する時にはその家の者が気を遣うものだと言われています。 今月は、お客様(訪問客)を見送るときのことについてお話します。 もし、あなたが他所様のお家を訪問して辞去するとき、玄関を出てすぐに門灯を消されたり、そのお家の中から笑い声が聞こえたりしたら、どんな気持ちになるでしょう。 せっかく楽しいひと時を過ごしても、これでは台無しになってしまいます。 訪問して下さったお客様がお帰りになるとき、玄関でお別れをすれば外までは出ないのが普通ですが、京都では外で出てお客様が曲がり角を曲がられるまでお見送りをするのです。 部屋の中でお別れの挨拶をし、玄関でもう一度、そして外で、曲がり角で・・・と、何度もお辞儀をしながらお別れをするのです。 最近では一般家庭では少なくなったかもしれませんが、昔からのしきたりを大切にしているお店などでは見られる光景です。  こんな京都の礼儀作法、これが自然と身につき育った者にとっては、何の疑問も抱かないのですが、他所から来た人には何度も何度もお辞儀を繰り返す京都人を理解してもらえず、こういったところをとらえて京都人はしつこいとか慇懃無礼だと感じるのかもしれません。 しかし、これはせっかくご訪問して下さったお客様に対する礼儀というものであり、楽しかったという余韻を大切に大切にしていることでもあるのです。 そして、またのご訪問をお待ちしていますよという気持ちと心を行為で示しているのです。 「本当に楽しかったです。 ありがとうございました。 またお越しください。」と何度も繰り返して言うよりも、曲がり角まで見送るという京都のこの当たり前が、すべてを表現し物語っているのです。 京都の別れの作法は、再会への序奏でもあると思います。 人との出会い、そして別れ・・・人の一生はその繰り返しかもしれませんが、その時々の人と人との触れ合いを、ただ表面的な形だけにせず、そこにいかに心を込めるかを京都人はずっと以前より考えてきたのではないでしょうか・・・。 石屋のないしょ話でした・・・。

しきたりと作法

しきたりと作法

最近は「しきたり」や「作法」など、小難しいことは敬遠されがちですが、今月は「しきたり」と「さほう」についてお話します。 「しきたり」と「作法」とは、よく似たことで同じものだと思われている方も多いでしょうが、この二つには微妙なニュアンスの違いがあるのです。 「しきたり」とは、こういう時にはこの水引を使用するといったことで、「作法」とは、そのものをどのように表現するかということなのです。  具体的にお話すると、例えば人様にお礼をする場合、赤白の水引のかかったもので熨斗のついたお金包み(金封)に“御礼”と書くというところまでが「しきたり」なのです。 それを“御礼”と書くか“御禮”と書くかといったところから、「作法」の域に入ってくるのです。 “礼”を“禮”と書くと画数が増し、ほんのわずかですがそれを書いてる時間が長くなります。 同様に筆ペンよりは墨をするほうが時間がかかります。 それは、その人が先様のことを意識の中に強くえがいているというこであり、その思いが先様にも通ずるのです。 “御礼”よりも“御禮”、“御仏前”より“御佛前”と書くのが「作法」なのです。 「作法」とは、些細なことにまで神経を配り、先様への思いを表現することなのです。 殊に、結納の儀式はとかく難しいと言われていますが、おさめたりおさめ返したりといった煩雑なことをするからこそ、その間に相手を理解し交流を深めることができるのです。 また、京都ではこの結納の時に家族書と親族書を添えますが、お互いに添えるという「しきたり」が確立していれば、わざわざ相手に確認する必要もありません。 ところが、それが他の地方では、家族書・親族書は重要視しないという言い方をするために、添える人や添えない人があり、かえってどうすればよいのか解らなくなってしまうのです。 先様に対する気配りや、先様を思いやる心を大切にするならば、「しきたり」や「作法」が京都のようにしっかりと確立されているほうが良いと言えるのではないでしょうか?   一見、「しきたり」にしばられ、「作法」が難しく、京都は暮らしにくいと思われるかもしれませんが、数多くの「しきたり」や「作法」があるおかげで、事を潤滑に運んでいける最良の方法が見つかるのです。 これほど楽なことはありません。 言い換えれば、複雑に難しくすることによって、その手順が簡単により解り易いものになるのです。 今後、この京都の「しきたり」や「作法」がどのような形に変化するかは解りませんが、複雑になればなるほど容易くなると思いますし、簡素化されればされるほどその方法に戸惑うことが多くなることでしょう。 石屋のないしょ話でした・・・。

お正月に・・・

お正月に・・・

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2006年一回目の《石屋のないしょ話》は、京都ではお正月にほうきをもってはいけないといわれていることについてお話します。 一般的に、お正月に何かをすると一年中それを続けることになると言われていることから、お正月にほうきを持つと一年中掃除をしなければならないからほうきを持ってはいけないという意味にとらえられていますが、本当はほうきというものが悪いものを掃いてしまう(邪気をはらう)道具と考えられてきたことからそう言われているのです。 しかしお正月には「お正月様」という神様が家に降りてこられているため、本来悪いものなどあるはずがありません。 せっかく、神の「よりしろ」だという意味でしめ縄を張ったり玄関飾りをして神様をお迎えしているのに、ほうきを持つことによってその神様まで掃きだしてしまってはいけないという、そんな理由からお正月にほうきを持ってはいけないと言われてきたのです。  しかし、これは一種の後付の理由であり、実は「女性は日ごろから何かと忙しく動いてきたのだから、お正月ぐらいはゆっくり休んでください」という意味があるのです。 京都人の女性に対する思いやりの表現と言えるでしょう。 姑さんが若いお嫁さんに対して「お正月はほうきを持ってはいけない」と厳しく叱っていたとしても、その本意は「お正月の間ぐらいゆっくりしなさい」ということなのです。 それならその本意をはっきり言えばいいのにと思われるかもしれませんが、これを一つの『しきたり』とすることに大きな意味があるのです。 『しきたり』でなければ、掃除をする人も出てきて、しないでいると何か怠けている感があり、また働くことになります。 例え埃がかぶっていても、決して恥ずかしいことではないという『決まりごと』にしてしまうことで、本当に休むことができるのです。 お正月のおせち料理も、お正月の間は料理をせず休んでいられるようにという同様の配慮があるのです。 ちなみに、お正月の一番最初に汲み上げる『若水』も男性が汲むのがしきたりとなっていますが、これも男性が汲まなければ縁起が悪いというわけではありません。 これらを、京都人の持ってまわったいじわるな表現だと思われる方もあるかもしれませんが、あえていうなら京都人の持ってまわった優しさとでもいえるでしょう。 ささいなことにも二重三重の意味があり、それが京都人の知恵として強く根付いていることで、逆に人間関係を大変楽にしてきたと言えるのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

吉例顔見世

吉例顔見世

京都の年の瀬は、南座の顔見世とともにやってきます。 今年は中村雁治郎改め坂田藤十郎襲名披露もあり、役者名を独特の字体で書かれた「まねき」が南座に上れば、京都の人は年末を実感します。 今月は、吉例顔見世興行についてお話します。 南座といえば顔見世、顔見世といえば南座と、格別の歌舞伎ファンでなくとも年中行事となっているのが京都の顔見世です。 そもそも顔見世とは、向こう一年の新しい役者の顔ぶれを披露するための興行でした。 歌舞伎役者は元禄の時代(一六八八~一七〇三)頃までに、各座と役者が一年ごとに契約を交わす制度となり、その契約更改が年の瀬を前に行われました。 毎年、人々は「今年はどんな千両役者が誕生するのだろう」「どんな大スターが南座に来るのだろう」と噂しながら吉例顔見世の幕が開くのを待ったそうです。 つまり歌舞伎の世界では、顔見世が一年の最初の公演であり、新しい年の幕開けなのです。  ですから、顔見世は京都に限ったことではなく、歌舞伎の世界の慣わしだったのです。 しかし、役者と劇場の一年契約制度が寛保年間(一七四一~一七四三)には崩れたようで、その後も顔見世興行は続いていたものの、江戸では幕末期に姿を消してしまいました。 でも、京都の南座だけは顔見世の伝統が脈々と守られ、それが今日あるというわけなのです。(現在は各地で再び顔見世の名が復活しています) こういう歴史を知れば、「まねき」に名題以上の役者名が上がる意味や、正面屋根上の櫓と天に伸びる二本の梵天、それに劇場前を飾る大提灯も顔見世において新調され、それから一年を通じて使用される意味がわかります。 南座は顔見世において、一足早いお正月を迎えているのです。 とくに神が降りるという梵天は、古法にのっとって精進潔斎をし、昔ながらの美濃紙でつくられています。 他の劇場ではプラスチック製の梵天がまかり通る中で、南座だけの伝統です。 そして「まねき」もまた、南座だけのものです。 「まねき」書きは、一人の職人の手によって五日間で約五十枚の役者名が書き上げられます。 その文字は独特の勘亭流で、観客が隙間なく入りますようにとの願いを込めて、内へ内へと巻き込むような字体です。 字を書く墨は、酒で薄めて使います。 長さ一・八メートル、幅三十二センチの檜の大板に書く時間は、一枚約二十分だそうです。 字の勢いが命なので、筆の動きはかなり早いのですが、書き損じは許されないので、当世ただ一人の「まねき」書きなのだそうです。 石屋のないしょ話でした・・・。

しつけ

しつけ

最近は、公共の場などで他人の迷惑を顧みない行動をする人達が多いように思います。 今月は、京都の「しつけ」についてお話します。 京都では、親が子供を叱る時に「○○さんに怒られるからやめときなさい」という言葉をよく使います。 これは、地方の人には責任転嫁しているように聞こえるらしいのですが、そうではありません。 本当は、人様に迷惑がかかるからいけないという意味で使われる、強い叱りの言葉なのです。 例えば、他のお家で子供が走り回ってる場合、「○○さんが怒られるからやめなさい」と言うのですが、子供が走り回ること自体が悪いと言っているのではなく、走り回ることで人様に迷惑をかけることになるからいけないと、しつけているのです。 親子で買い物に行って、店内で子供が商品を触ろうとした場合でも、「お店の人に怒られるからやめなさい」と叱ります。 子供もこう怒られることで、感覚的にお店に迷惑がかかるのだということを理解するようになるのです。  万が一、子供が触ったことで商品が破損したような場合、子供の対して「誤りなさい」と強く叱る方もおられるでしょうが、京都の親は子供に謝らせる前に、まず親がきちんと謝るのです。その方が人様に対するより深い謝罪だと思っていますし、子供も真剣に謝罪する親の姿を見て、本当に深く反省するようになるのです。 親は親、子供は子供といった考え方ではありませんので、現代的ではないかもしれませんが、これが京都のしつけなのです。  京都の町は、人様の目を意識したり、意識させることで、どういうことが人様の迷惑になり、何が人として恥ずかしいことなのかを自然と覚えられるように子供をしつけてきました。 この言葉は、子育ての一つの知恵ともいえますが、こんなところから、京都の子供達は京都人としての素地をしっかりと身につけていくのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

冥加に悪い

冥加に悪い

最近、「もったいない」という言葉が見直されています。 今月は、京都で使われている「冥加に悪い」という言葉の意味についてお話します。 「もったいない」とちょっとニュアンスは違うのですが、「冥加」というのは神仏のご加護(助け)という意味です。 京都では「そんなことをしたら冥加に悪い」とか「冥加につきる」など、この「冥加」という言葉をよく使います。 「冥加に悪い」とは、物を粗末に扱ってはいけない、そんなことをすると神仏のご加護がうけられない、もっと倹約しなさいという意味で使われます。 主に、大人が子供に対して使う言葉だといえるでしょう。  他府県の人からみれば、京都人のこういうところをケチくさいと思われるかもしれませんが、これはケチなのではなくその根底には例え紙一枚でもそのものが生きていると考えなさいということなのです。 不思議な縁で手に入れた品、そこに冥加という神仏のご加護や恵みがあって、はじめてその人の努力が実り、仕事や勉強ができるようになると考えたのです。 もし仮に、何かが壊れて捨てなければならなくなった時、その捨てる物に感謝の念を持って捨ててこそ、神仏のご加護がうけられるのです。  この、自分が手にした品物に生命を吹きかけ、その物自体が喜びを感じるくらい大事にしなさいという考え方は、使い捨てが当たり前になるつつある今日だからこそ、今一度見直すべきなのではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

送り火

送り火

夏休み・お盆休みを利用して、京都に旅行に来られた際に大文字の送り火をご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか? 今月は「大文字の送り火」についてお話します。  毎年八月十六日、夏の夜空に燃え上がる大文字。 全国的にも有名ですが、これは決して京都の夏の夜の観光イベントではありません。 お盆の最後の行事である、ご先祖様をお浄土にお送りするための仏教行事なのです。 他府県の方は、この大文字の送り火のことを「大文字焼き」などと言われますが、送り火は山焼きではありません。 ご先祖様をお送りするために灯す清らかな「火」なのです。  大文字のことを「五山の送り火」というように、「大」の文字(如意ヶ岳)だけでなく、「妙」「法」(松ヶ崎)・船形(船山)・左大文字(衣笠山)・鳥居形(嵯峨鳥居本)と、西へ西へ次々と点火されるのです。 昔はこの他にも「い」・「一」・「竹に鈴」・「蛇」・「長刀」などがあったと伝えられています。 おそらく、それぞれに仏教的な意味があったのでしょう。  送り火の点火に用いられる護摩木に、姓名・年齢などを書いておさめると厄除けになると言われています。 消し炭を白い奉書紙に巻いて水引をかけ、家に吊るしておくと、盗難除けのお守りになる・煎じて飲めば腹痛が治まるとも言われています。 また、盃に水を入れ、大文字の「大」の字を映して飲むと願い事が叶う・無病息災に暮らせるとも言われています。   石屋のないしょ話でした・・・。

うなぎの寝床

うなぎの寝床

最近は町家がブームになっており、町家を改造した飲食店や、町家をウィークリーマンションやホテルとして貸したりしているところもあるそうです。 今月は一般的な町家のつくりである「うなぎの寝床」についてお話します。 京都の住まいは「うなぎの寝床」と言われているように、間口がせまく奥行きが深くつくられています。 もともと京都は商人の町でしたので、玄関横の格子をはずせばすぐに商売ができるように考案されていました。 それにより、のれん一枚を吊るすことで店と生活の場を区切ることも可能だったのです。 普段このような住居に住んで生活している京都の人には気がつかないことかもしれませんが、このつくりは様々な儀式(結納・結婚・葬儀・年忌など)を行う上で、大変利にかなったものになっているのです。  例えば、結納の日を想定してみると、結納揃えを飾りつける場所・仲人・両親の座る位置・目録を受け取り受書揃えを準備する部屋など、全ての作法が潤滑に運ぶよう考えられているのです。 また、親族が大勢集まる年忌など大広間が必要なときには、襖を取り除き、お仏壇を中心にお坊様を囲んで皆が集まり手を合わせられるよう配慮されているのです。  京都の住居は風通しや採光・トイレの位置が悪いなど、色々な欠点があるように思われていますが、住む者にとってはそのような欠点に気付かないほど住みごこちが良いのです。 その家にとって大事な日(儀式の日)を最優先した家づくり、その先人の知恵の結晶がこの京都の住居を誕生させたのだと思われます。 京都の町家は動線が悪いからこそ他人から家を守ることもできますし、またその反面、他人との交流がしやすいつくりでもあるのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

祇園祭

祇園祭

今月の14~16日は、京都市内の各山鉾町で祇園祭の宵山が行われ、17日には山鉾が巡行します。 今月は京都の三大祭りの一つである祇園祭についてお話します。 祇園祭といえば、今では動く文化財とか動く芸術品と言われ、何となく観光ショー化してしまった部分もありますが、もともとは平安建都後、京の都に大流行した疫病を追い払うために、町衆が寄り集まって知恵を出し合い、自分たちの為に自分たちの力で作り上げた祭り(神事)なのです。 それから千有余年、今なおこの祇園祭に携わっている町衆の心意気というものが感じられ、そこに、この祭りを現代まで受け継ぐことができた大きな要因があるように思います。 数年前の話ですが、山鉾巡行の道である御池通りでは、地下鉄の工事が行われていた為、御池通りは巡行できないのではないかと思われていました。 しかし、前日まで路上にあった全ての物を取り除き、無事に山鉾は通過できたのです。 山鉾を通す為だけに、わざわざ工事の物を取り除くなんてと思われる方もいらっしゃるでしょうが、それほど京都の人々にとって祇園祭は特別なものなのです。 ちなみに、山鉾巡行の順番を決める為に、毎年京都市の市議会議場に紋付姿の鉾町の代表が集まり、くじ取り式が行われます。 そして巡行当日、京都市長が当時の装束に身をかため、そのくじを改める大役(奉行の役)を演じます。  祇園祭ほど長い期間にわたって無駄の限りをつくした祭りはないと言われていますが、その無駄の中から、人々とのふれあいを・心のゆとりを生んできたのです。 山鉾をただ見上げて眺めるだけでなく、こうした鉾町の町衆の思いや、京都の人たちの祇園祭に対する思いに心を合わせてみると、また少し違った思いで山鉾を見ることができるのではないでしょうか・・・? 石屋のないしょ話でした・・・。

おため

おため

皆さんは「おため」「おうつり」という言葉をご存知ですか? 結婚・出産・新築などのお祝いのときに頂いたお祝い金の一割を返礼としてお返しすることをさす言葉なのですが、今月は「おため」「おうつり」についてお話します。 こういった作法は京都だけに限ったものではなく、全国各地にもみられます。 ただし、大阪や滋賀など一部の地域を除いて他府県ではお金を返すという風習はないようです。 例えばご近所からお菓子などを頂いた時、その器に半紙を入れて返されるといったことは、どこの地方でもあると思いますが、その時の半紙(和紙)のことを「おため紙」と言い、「溜め紙」「御為」とも書き表します。 また、この紙のことを「移利紙」とも言い、婚礼時のものに限っては「夫婦紙」「和合紙」「抱き合わせ紙」とも言われています。 今日では、その言葉の混乱を無くすため、一般的に紙のことを「ため紙」、一割を封入するお金を包む紙のことを「うつりの金封」と呼んでいます。    京都では、結婚・出産・新築などのお祝いを頂戴すれば、一帖(二十枚)の半紙と共にお祝い金の一割を金封に封入し、その場でご持参された先様の広蓋や進物盆に入れてお渡しします。 おため紙をお渡しするということは、「当方に祝い事があれば、その折には今お渡しした紙に包んでお祝いしてください」ということを表現しており、「お宅様と当方とは、これから先も縁が切れないよう、お付き合いを続けていきましょう」という思いを半紙一帖に託しているのです。 一割を封入した「うつり」の金封も同じで、「当方の慶び事の縁が、お宅様にもうつりますように」といった意味が込められているのです。   また、祝い金の一割を封入することは、返礼として頂いた「おうつり」の金封の中に千円札が入っていれば、間違いなく先様に一万円のお祝いができたという確認ができるからでもあるのです。 「おため」「おうつり」は、先様の心を気持ちよく頂戴するために考えられたものであり、人と人とのつながりの大事さ、大切さを伝えていくためのものでもあるのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

お箸の作法

お箸の作法

皆さんは外食した際、食べ終わったお箸をどうしていますか? 今月は使い終わったお箸の作法についてお話します。 食べ終わった後のお箸は、お箸紙がある場合必ずお箸紙におさめなくてはいけません。 これは他人を不愉快にさせないための小さな気配りなのです。 どうせ捨てるものなのだからそこまでしなくても、と思われるかもしれませんが、汚れたお箸を他人に見せるというのは決して美しいことではありません。 正式な作法では、お箸をお箸紙におさめてから、使用したことを表すためにお箸紙の端を少しだけ折り曲げておくのです。 昔は使い終わったお箸は必ず折らなければいけないといった作法もありましたが、これはお箸はその人だけのもので、他の人が同じものを使ってはいけないという約束ごとがあったためです。  しかし折るという行為そのものに美しさを見出せなかったことや、折らないことにより、決して使いまわすようなことをされないという相手への信頼を表す意味が生まれ、この作法はだんだん無くなってきたのです。 お箸をお箸紙におさめるのはもちろんのこと、器も元通りにきちんと並べておくぐらいの気配りは心得ておくとよいでしょう。 ちなみに使った爪楊枝もお箸紙の中に入れておくのが作法です。 例え「ごちそうさまでした」と手を合わせなくても、食せた感謝の心だけは持っていたいものです。 石屋のないしょ話でした・・・。

十三詣り

十三詣り

今月の13日は、数え年で13歳のなった子供が嵐山の虚空蔵法輪寺などにお参りする十三詣りの日です。 今月は別名「知恵もらい」とも言われている「十三詣り」についてお話します。  皆さんの中でも十三詣りに行った方は、「渡月橋を渡りきるまでに振り向いたら、もらった知恵を返してしまうから振り向かないように」と注意された覚えがあるのではないでしょうか? この言い伝えは京都では大変有名なものですが、これは伝統や信仰といったものではなく、子供に対するしつけ(作法のはじまり)なのです。 昔は十三詣りに行くと、お寺の境内で十三種のお菓子を買い求め、菩提様にお供えし、それをお下がりとして頂いていたそうです。 そのお菓子を境内を出るまでに全て食べきらないと授かった知恵を返してしまうとも言われていました。 小さな子供はお菓子を頂いてもなかなか食べられなかったり、まっすぐ前を向いて歩かなかったりするものです。 そこで「知恵を返してしまいますよ」ということで、もう十三歳にもなったのだから、世の中の決められた約束事(作法)は守らなければいけないというしつけをしてきたのです。   十三詣りという儀式は、虚空蔵菩薩様の縁日にあたる旧暦の三月十三日に、数え年で十三歳になった子供(現在では男女共)の大人の仲間入りを祝い、心身ともに健康であるようにと祈り願う習わしとして生まれ、今日まで伝わってきたものです。 またこの十三詣りは、もともと皇族の方々の行事だったものが民間に広まったもので、本来は男の子の行事であったともいわれています。 石屋のないしょ話でした・・・。

お朔日のおかず

お朔日のおかず

先月は京都の商家の豆まきについてお話しました。 今月は商家のお朔日おついたち(一日)のおかずについてお話します。  商家にとってお朔日というのは、一般の方の元旦と同じくらいの思い入れがあり、今月もお朔日を迎えられたという喜びと、またこの一ヶ月うまく商売ができるようにと願いを込める大切な日なのです。 この日商家では、豆に働けるようにと豆ごはん・「あらい・め」(仕入れ値と売り値の差が大きく、利益があがること)がでるようにあらめを食べる風習があります。 ちなみにこのあらめを炊いた時に出る黒い煮汁をまく風習もあります。 これはお客様におみえいただく門口に「あらい・め」がでるように、商売繁盛を願ってまくのです。 また、きわの日(月末)のことは「晦つごもり」(十二月三十一日は大晦おおつごもり)と言い、特に忙しい日なので、すぐに食べられるおからを煎る風習があります。 おからは炊くとは言わず煎るというため、「日銭が入る」にかけ、うまく集金できるように験をかつぐのです。 おからを「きらず」というところから、「お金がきれないように」ともいわれています。 このように京都の商家では月初めや月末を大切に考え、食べるものを決める風習があります。 しかし商家にかぎらず、一年を通じて食べる日が決まっているものもたくさんあります。 一月七日には七草粥・一月十五日の小豆粥・二月節分のいわし・六月三十日の水無月・七月土用のうなぎ・八月お盆の精進料理・九月お月見のお芋・十二月八日の針供養のこんにゃく・十二月二十二日冬至のかぼちゃなど、その日に食べる云われがあります。 二月のいわしと六月の水無月については、「石屋のないしょ話」vol.23とvol30でお話していますので、ご覧下さい。  石屋のないしょ話でした・・・。

大福茶

大福茶

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2005年一回目の《石屋のないしょ話》は、お正月に飲まれる大福茶についてお話します。  お正月にお屠蘇をお飲みになる方も多いと思います。 しかし京都では例えお屠蘇を準備されても飲まない方が結構いらっしゃいます。 それはお屠蘇というものが、もともと薬であったために、元日から薬を飲むのは嫌だという発想からきているのです。 「年の初め」「月の初め」「日の初め」である元日に薬を飲むと、一年中薬を飲まなくてはいけないというところに由来しているのです。   「大福茶」とは、煎茶の中に小さな昆布と小梅が入った縁起の良いお茶のことです。 昆布は喜ぶに通じ「子生婦」とも書き、子孫繁栄を願うもので、梅は春に先がけ一番に花を咲かせ実を結ぶものとして尊ばれ、お茶そのものは葉の緑が色を変えぬところから、意思の強さを大地にしっかり足をつけて生き続ける験の良いものとして、この三つを合わせてお祝いするのです。 もともとこれは皇族や公家の飲み物で、今では「大福茶」と書きますが、歴史的には公家の場合は「皇服茶」、一般的には「王服茶」と書かれたそうです。  石屋のないしょ話でした・・・。

節分

節分

年が明けたと思ったら早いものでもう節分です。 節分の豆まきの時に大きな声で「鬼は外、福は内」というのは皆さんもご存知のとおりですが、京都の商家では「福は内、鬼は内」というのはご存知でしょうか? 今月は節分についてお話します。  「福は内、鬼は内」この「オニは内」のオニとは大荷と書き、大きい荷物を意味しています。 大荷を遠ざけていては商売が成り立ちません。 大荷は内に入ってこそ商売繁盛となり、それが商うための第一歩だと考え「大荷は内」と言うのです。 いわば一種のこじつけですが、こんな些細な言葉な中にも商売人の切なる願いが込められているのです。 京都の商家にはこんな言い伝えがたくさんありますが、その一つをお話します。 節分のこの時に二升五合の豆を煎るとか、一升枡二個に五合の豆を準備し神棚にお供えするといったことがあります。 これはいずれも「ますます、はんじよう(枡々半升=益々繁盛)」という意味になります。 そしてその豆を神棚から下ろして自分の数え歳より一つ多くの豆を食べ、それと同じ数の豆を半紙に包みます。 それから豆まきが始まるのですが、一ヶ所でまくのではなく、家中歩き回ってその場を清め、この一年のご加護と無病息災を祈るのです。 豆まきが終わると、先ほど半紙に包んでおいた豆を家族みんなで近くのお地蔵さままでお供えに行き手を合わせるのです。 もともと豆をまくのは魔の目(豆)が悪いものを退治するためだと言われていますが、宮中では豆をまかれず桃の実を投げられたそうです。 桃の実は伊弉諾命いざなぎのみことが黄泉の国で追っ手を追い払うために桃の実を投げて難を逃れたという神話に由来し、古来より邪気を払い、かつ不老長寿の薬とも考えられてきたのです。 京都では、豆まきだけでなく、聞鼻かぐばなという鬼を退散させるため、鰯の頭を柊の枝にさして門口にかかげたり、節分の夜に鰯を食べる風習もあります。  石屋のないしょ話でした・・・。

年越しそば

年越しそば

時が経つのは早いもので、今年ももう終わりです。 大晦日といえば年越しそばです。 今月は年越しそばについてお話します。 大晦日にお正月を迎える準備をしながら食べるそばの味には格別のものがあります。 老舗のそば屋さんの繁盛ぶりも、毎年必ずテレビで報道されています。 このように年越しそばを食べて送る大晦日の風景は、明治・大正の頃も同じだったようです。 年越しそばは江戸中期からの風習であるらしいのですが、この風習が全国に広まったのはずっと後のことだそうです。 江戸後期の桑名地方では、年越しそばを食べるのは毎年恒例だったそうですが、柏崎の方ではその風習はなかったようなのです。 また大阪では、麦飯と赤鰯を食べていたそうです。 年越しそばの由来に次のような説があります。 鎌倉時代に宋の国から博多に来ていた謝国明という貿易商が、年末貧しい人々に「そばがき餅」をふるまったところ、翌年は運が向いてきたというので、毎年「運そば」を食べる習慣ができたというのです。 しかもそばの実は三角形の面でできており、古来から三角形は邪気を払うとされていたので、そばは縁起の良い食べ物と考えられていました。 そこで無病息災を祈って大晦日にそばを食べたというのです。 またある説によると、江戸時代では麺になったそばは「そば切り」と呼ばれたそうです。 これは細く長いので、長寿で身代が長く延びるようにと食べられたというのです。 これらの他にもまだまだ説はありますが、人々は色々な名称をつけ、それぞれの理屈に納得しながら食べ、新年の活力をそばからもらっていたのではないでしょうか・・・? 石屋のないしょ話でした・・・。

喪中はがき

喪中はがき

11月に入り、文房具屋さんや印刷屋さんの店頭に「喪中はがき予約承ります」のポスターが目に付くようになりました。 しかしあまり早くから喪中のはがきが来るのはおかしいのです。 今月は「喪中のはがき」についてお話します。 もともと喪中のはがきというのは「当方は現在喪に服しておりますので、新年のご挨拶をご遠慮させていただきます」という意味なのです。 「当方は喪中ですからお祝いの挨拶をしないで下さい」とお断りをしているのではありませんので、作法上は12月13日の事始め以降に出すべきものなのです。 ところが最近では、10月の初め頃から店頭に喪中はがきの受付のポスターが出始め、「相手様が年賀状を書かれないうちにお出し下さい」などの説明がなされているため、多くの方が誤解をなさっているのです。 以前は「喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮させていただきます」という文章だけだったのですが、最近は「○月○日の○○が死亡しました」と付け加えられるようになり、住所・氏名・電話番号まで書き添えられているのです。 喪中のはがきは○○が死去したという告知をするためのものではありません。 喪中のはがきは先様に対する気配りとして始まった作法ですが、いつのまにか自分の都合を主張するだけのものに変化してしまいました。 今一度、喪中のはがきを心の問題として考え直し、ゆがめられた作法を修正することも必要なことではないでしょうか・・・。 ちなみに、先様が喪中とは知らず年賀状を出してしまった場合には「存じ上げず失礼致しました。お寂しいことと拝察致しますが、どうぞ御身お大切に・・・」と書かれてお出しになれば、形だけでなく心と心の交流ができると思います。 石屋のないしょ話でした・・・。

一見さん

一見さん

京都のお店は「一見いちげんさんおことわり」が多いというイメージを持っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか? 今月は「一見いちげんさんおことわり」についてお話します。  「一見いちげんさんおことわり」とは初めてのお客様だけでのご来店はお断りしますという意味で、主に祇園のオ茶屋さんなどで行われているシステムです。 表面的にはお客様を差別しているようにとらえられるかもしれませんが、本当はお客様により満足して頂きたいという京都商法の原点ともいうべきものなのです。 京都はお馴染みさん・ご贔屓さんといわれる顧客をとても大事にするところで、大切な時間をさいて来て頂いたお客様に楽しいひと時を過ごして頂けるよう最大限の努力をするのです。 そのために一見いちげんさんをお断りしているともいえます。 商売の常道からいえば、不特定多数の人々にご来店頂き、売り上げを上げることが最も大切だと考えられがちですが、そこには本当の意味でのサービスが存在しないと京都の商売人は思っているのです。 京都でいうところの本当のサービスとは価格競争でもなく、うわべだけの美しい言葉や笑顔でもありません。 お客様の好みなどをしっかり把握し、その人に合わせた応対・おもてなしをさせて頂くのが最高のサービスなのです。 つまり、お客様のお好みのお部屋を用意し、掛け軸や花を選び、そのお客様が本当にご満足して頂けるように心くばりをするのです。 一見のお客様を粗末にするということではなく、一見さんにはおもてなしをするデータがないのです。  京都の商売は一過性のものを好みません。例え細々であっても長く続けていくことが一番大切なのです。 お客様とのお付き合いを長く続けていくことに神経を使い、そのお客様のご要望にお応えしていきたいと願っているのです。 サービスがマニュアル化されすぎた近頃ではこういったサービスの心と知恵を的確に把握することが大切なのではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

中秋の名月

中秋の名月

最近は朝夕と涼しくなり、秋の気配を感じている方も多いのではないでしょうか? 今月は中秋の名月にちなんでお話します。  皆さんは「月々に月見る月は多けれど、月見る月はこの月の月」という歌をご存知でしょうか? この歌は、もともと中秋の名月(陰暦の八月十五日)に宮中で女官たちによって唄われたもので、歌の作者は不詳ですが、昔は芋に箸で穴を開け、その穴から月を覗いてこの歌を詠まれるしきたりがあったそうです。   京都ではこの月の宴のことを芋名月ともいい、芋をお月様にお供えしたり、その芋を食べたりする風習がありました。 また陰暦の九月十三日の宴は豆名月と呼ばれ、豆をお供えしたり食べたりしたそうです。 お月見といえば必ずススキの穂が登場しますが、お月見にススキを生けるのはススキを稲穂に見立てて、やがて来る今秋の米の豊作を祈る収穫の予祝(前祝)のためであるともいわれています。 初日の出を含めてお日様(太陽)を拝むという風習は全国的にありますが、お月様を拝むというのは、おそらく京都だけではないかと思います。 京都の人たちは月に対する思い入れが強く、古来より月を神佛とも思ってきたのです。 日本では約百年前まで月を中心とした太陰暦を使っていたのは、皆さんご存知のとおりです。 月日という言い方そのものが月が日よりも上位と考えてきた一つの証だとも思います。 陰陽道では、太陽が陽で男性を表し、月が陰で女性を表すといわれています。 女性が月を拝むというのは、自分の身体を労わる一つの信仰だったのかもしれません。  京都では今もまお、平安時代より月の名所といわれた右京区の大覚寺・大沢の池での観月の宴をはじめ、様々な場所で月見の宴が催されています。 皆さんも日常の喧騒からはなれ、ゆっくりと夜空の月を見上げてみてはいかがでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

地蔵盆

地蔵盆

京都に生まれ育った方なら、子供のころ夏休みになると「地蔵盆」を楽しみにしてた方も多いと思います。 今月は「地蔵盆」についてお話します。 京都には「地蔵盆」という仏教行事があり、人々には親しみを込めて「お地蔵さん」と呼ばれています。 むかし大津の三井寺に常照というお坊さまがおられましたが、三十歳の若さで亡くなられ、お坊さまなのに地獄に堕ちられました。 地獄に堕ちて苦しんでおられるお坊さまの前にお地蔵様が姿を現され「お前は小さい時によく私を拝んでくれた。 極楽に行かせることはできないが、もう一度人間界に戻してやるので、世のため人のために役立つ人間になりなさい。」と言われ、お坊さまを生き返らされました。 その日が八月二十四日であり、地蔵盆のいわれとされています。 京都では地蔵尊の縁日にあたるこの日を中心に各町内ごとに行われ、お地蔵さまの顔を絵の具で綺麗にお化粧し、お供え物をあげ、町内の子供の名前を書き入れた提灯を吊り下げてお地蔵さまを祀ります。 そしてお地蔵さまの前で大きな子供も小さな子供も一緒になって遊んだり、大人に混じって車座になり大きな長い数珠をまわしたり、お菓子をもらったり、福引などをして楽しい二日間を過ごします。 大人は子供たちを楽しませるために色々と趣向を凝らします。 子供たちはそんな大人たちの温かい心を子供なりに感じながら、成長し大人となり、またその子供たちへと受け継いでいくのです。  京都の子供たちはいつもお地蔵さまを身近に感じながら、自然に仏さまの教えに慣れ親しんできました。 ところが最近は子供たちの縦わりの絆を深める地域のコミュニケーションの場である「地蔵盆」も衰退しつつあり、お地蔵さまの存在も希薄になってきているように思われるのが残念でなりません。 今一度、「地蔵盆」が仏教行事であることを確認する必要があるのではないでしょうか・・・?  石屋のないしょ話でした・・・。

水無月

水無月

六月三十日は「夏越の祓」でした。 神社の境内に設えられた大きな茅の輪をくぐって無病息災を祈り、水無月を食べた方も多いのではないでしょうか? 今月はこの「水無月」の形についてお話します。  京都では、「夏越の祓」の日に「水無月」を食べると厄払いになると言われています。 水無月とは旧暦六月のことですが、今回お話する「水無月」は六月のお菓子です。 直角二等辺三角形のしんこ餅で、表面には小豆がたっぷりとのっています。 三角形の和菓子も珍しいのですが、この三角の形は氷室から取り出された氷をかたどったものなのです。 『枕草子』の一節に「あてなるもの(上品なもの)。 ・・・けづりひ(削り氷)にあまづら(甘葛)入れて、あたらしきかなまり(金鋺)に入れたる」とあるように、清少納言は今から千年以上も昔にの平安時代に削り氷に甘いシロップをかけたカキ氷のようなものを夏の涼味として味わっていたのです。 その氷は洛北の山中に設けられた朝廷直属の六つの氷室から、天皇の食膳に供するために献上されていました。 冬の間、氷池で氷が製造され、山かげに掘った氷室で大切に貯蔵され、四月から九月の終わりまで吉日を選んでは宮中に運ばれていました。 そして六月一日宮中では、献上された氷を臣下に分け与える「賜氷の節」という節会が行われていました。 これにちなんで氷の形を模した三角形に作られるのが、「水無月」なのです。 氷室は京に都がやってくるはるか昔、大和の時代からあったらしいのですが、京の氷室は平安京の造営とともに都の周辺六ヶ所に設置されました。 五ヶ所は失われてしまいましたが、京都市北区西賀茂氷室町にある栗栖野氷室は現在ただ一つ残っている氷室です。 石屋のないしょ話でした・・・。

家紋

家紋

最近は和のテイストを取り入れたファッションなどが流行っています。 ある有名ブランドのロゴも、日本の家紋が元になっているのだとか・・・。 今月は「家紋」についてお話します。 本来「家紋」というものは、平安時代の公家の牛車や輿が他の人のものと区別できるように目印として文様をつけたものが、その始まりと言われています。 それがやがて武士の世界にも広がり、旗や幕をはじめ、裃かみしもや羽織などの衣服・調度品にも家紋が描かれるようになったのです。 一般庶民が広蓋や袱紗などに紋をつけるようになったのは、明治になってからのことです。  商人の町であった京都で、商う店を代々受け継いでいくことは、自分たちの生活を守るだけでなく人々の生活をも支え、ひいては京の都を形成し守っていくことでもあったのです。 親から家紋をもらうことで、店(家)を継ぐ責任感が同時に芽生えるのです。 むかし京都では、提灯と紋付の服・雑煮椀などで紋を伝えてきました。 今では広蓋・袱紗・風呂敷が代表的なものですが、京都は紋を伝承する方法を持っています。 普段は家紋の入った品を目にふれないところにしまっておき、何か事がある時に取り出し大事に扱うことで、単なる装飾品ではなく、大切なものとして伝承できるのです。  紋には男紋と女紋があり、男紋は家庭紋とも言われ、代々その家に伝わってきたもので、女紋は女性個人のもので、母親の紋を継承したり、お嫁入りの時に新たに定めることもあります。 このお嫁入りの時に作られる紋付(喪服)は、地方によって嫁ぎ先の女紋や男紋を入れたりしますが、京都では必ず花嫁の実家で定めた女紋をつけて嫁いでいきますので、実家に事があれば、その衣服の紋を見ることで「この人はこの家から嫁がれた」ということが一目でわかります。 京都で生まれた家紋は、千二百年の歴史を経て今なお家族や親族の絆を守り、人々との交流を深め、都を支える大事なものとして、生活の中にしっかりと根をおろし生き続けているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

熨斗

熨斗

人様にものを贈る時または頂いた時に目にする「熨斗のし」ですが、皆さんはこの「熨斗」が何のためについているかご存知ですか? 今月は熨斗についてお話します。 本来「熨斗」は鮑貝の肉を長く延ばしたもので、「長く延ばす」ということから延命に通ずると言われ、古来より長生不死の妙薬として珍重されてきました。 大切な進物品やおめでたい儀式には必ずこの熨斗あわびが添えられていますが、「のし」を添えるというのはその品は真新しくて新鮮なものですという表現でもあります。  私たちが日常で目にするのは、扇形をした紙折の中に小さな干しあわびを模したものを差し入れたもので、時代と共にその形は美しく整えられ変化してきましたが、先様の健康と長寿を祈るために用いられていることには昔から変わりはありません。 ところが数年前からお見舞いを贈る時にはこの「のし」をつけると病気が長引くので「のし」をつけないで贈るという風潮があります。 しかし「のし」は長生不死の薬であり、延びるのは病気ではなく命なのです。  本来、先様に元気を出してもらうための薬であった「のし」が、いつの間にかその本質を見失い、間違った理由をつけられ、今では「のし」なしの金封が販売されるようにさえなりました。 作法上では、いかなるお見舞いであっても「のし」をつけるのが正式であり、先様に対する最高の気配りなのです。 進物の金品に「のし」を添えないのは、仏事作法の関する場合だけです。 それは「のし」が「なまぐさいもの」であるからです。 石屋のないしょ話でした・・・。

鍾馗さん

鍾馗さん

日中は暖かい日も増えてきて、春が待ち遠しい今日この頃です。 気候が良くなってくると、散歩に出かけられる方も多いのではないでしょうか? さて、今月は昔ながらの町並みを歩いていると目にする、「鐘馗しょうきさん」についてお話します。 京都の中京や西陣など昔ながらの町並みを歩いていると、町家の屋根瓦の上に瓦人形が置いてあるのをよく見かけます。 この瓦人形は「鐘馗しょうきさん」と呼ばれており、姿や形は様々ですが、二~三十センチ程の高さで、右手に太刀を持ち、前方をにらみつけています。 なぜ屋根の上に「鐘馗さん」を置くようになったのでしょうか? むかしむかし三条のあたりに薬屋さんが大きな家を建てたそうです。 その屋根に大きな鬼瓦を置いたところ、その瓦を見た向かいの家に住む娘さんが、その鬼に睨まれているような気がして毎晩うなされ、ついには病気になって寝込んでしまったそうです。 心配した両親はあれこれ手を尽くしましたが一向に良くならないため、向かいの薬屋さんに鬼瓦を取り外してくれるようにお願いしましたが、大金を払って苦心して取り付けた鬼瓦だから外せないといわれたそうです。 そこで鬼に勝つものは何かと考え、「鐘馗さん」ならということで「鐘馗さん」の形をした瓦を瓦屋さんに作らせたのだそうです。  「鐘馗さん」とは、そのむかし唐の玄宗皇帝が病に伏した時に、夢の中で鬼が楊貴妃の宝物を盗もうとしたところ、そこに出てきてその鬼を退治した伝説の人物です。 寝込んだ娘さんの両親がその物語にならって「鐘馗さん」を鬼瓦に向けて置いたところ、娘さんの病気はすっかり治ったそうです。 これが「鐘馗さん」を屋根の上に置くようになった云われです。 もちろん鬼瓦も魔除けなのですから、「鐘馗さん」はこの鬼瓦に対して二重の防衛として創られたことになります。  しかし現在では向かいの家の鬼瓦に対抗しているわけではなく、自分の家にふりかかる邪気から守るために取り付けられているのです。  ちなみに鬼門に植えられる南天や桃の木なども、これと同じ意味があります。  石屋のないしょ話でした・・・。

座布団

座布団

あちらこちらで桜が咲き始めました。 この春から新しい生活が始まり、改まった席におよばれされる機会が増えた方もいらっしゃるかと思います。 今月は座布団のお作法についてお話します。 ふだん私たちが何気なく使っている座布団ですが、表裏・前後があります。 座布団は「わさ」(輪)になっているところが一ヶ所あり、それが前です。 あとの三ヶ所には必ず縫い目があります。 表裏については一般的に房のある方が表で、〆糸がある方が裏なのですが、最近は両面に房がついたものが多く、一目見ただけでは表裏の判断が難しくなっています。 この場合は座布団の柄を見れば簡単に分かるると思いますが、無地のものは縫い目で判断します。  お作法上座布団の裏側を使うことはありません。 自分の使用した座布団を裏返しにして他の人に出すという行為は、大変失礼なことです。 他の人に座布団を渡す際は、形を整えて前後に気をつけて出せばよいのです。 座布団というものは、その人の座るべき位置を示したもので、勝手に動かしてはいけないことになっています。 もちろん正式な口上(結納時の挨拶など)を述べる時には、座布団は決して敷くものではありません。  むかし座布団には畳の下から刃が出てきて敵に襲われた時に、足の保護・防御をする役目があったのです。 ですから他所の家で挨拶をする時に座布団をはずすということは、自分がへり下るという意味だけではなく、私はお宅を信用しています。 という表現でもあるからです。 お茶室では座布団を敷かないことは皆様ご存知の通りです。 それは人を信用する茶道の伝統なのです。 また、むかしは人に座布団を出す時には必ず二つ折りにしたものを広げて出すというお作法がありました。 これは、この座布団には貴方を傷つけるようなものは忍ばせていませんという表現でもあったのです。 足の痛みを和らげるだけが、座布団の効用ではありません。 座布団というものをとおして、相手への信用を言葉ではなく形で表現するというお作法でもあるのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

節分のおばけ

節分のおばけ

年が明けたと思ったら、早いものでもう二月です。 二月と言えば節分です。 今月は『節分のおばけ』についてお話します。   今では殆んど見られませんが、ひと昔前の京都では、節分の日に女性が男性に扮したり、お年寄りが若い女性の格好をしたりして、お宮様にお詣りするという風習がありました。 色々な格好に「化ける」ということから、この風習を「節分のおばけ」と言ったのです。  昔は節分の日に神社にお詣りすると、境内は「おばけ」だらけだったそうです。 「おばけ」になるということは、悪い鬼を化かす為のカムフラージュであったり、自分と違う格好をすることによる厄除けの為であったり、お年寄りが若い格好をする場合は若返りの為であったり、子供が年頃の女性の格好をする場合はして良縁を願う為など、それぞれ意味があったのです。 これは仏事や神事に関係なく、民衆の風俗として広まり、昭和四十年頃までは盛んに行われていました。 「笑う門には)福来る」の諺がこの風習より先にあったはどうかは分かりませんが、色々な格好に化けた姿を見て笑い、その「笑い」で悪いものを追い払うという意味があったのではないでしょうか? 余談ですが節分の日にその年の恵方(今年は東北東)に向かって巻寿司をまるかぶりすると、その年に幸福が訪れるという風習がありますが、巻寿司には「福を巻き込む」という意味が込められていて、包丁を入れると「縁が切れる」という縁起かつぎから、まるごと一本を無言で食べなければいけないと言われているのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

除夜の鐘

除夜の鐘

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2004年一回目の《石屋のないしょ話》は、皆さんが大晦日に耳にした除夜の鐘についてお話します。  「除夜」は一年を除くという意味で、ご先祖様をまつり家族が一年間無事に過ごせたことに対して感謝の宴をひらき、夜を通して人々が過ぎゆく年を惜しむということでこの夜を過ごす・・・と昔の本に記されています。 近頃では年末年始の休みを利用して旅行に行ったりする人が増えてきたようですが、ご先祖様への感謝が忘れられているのは悲しいことです。 自分たちのことばかりしか考えられなくなって、直接目に見えないものに対する感謝の心がなくなったとき、幸せは長続きしないのではないでしょうか? お正月もお盆と同様、ご先祖様をまつるときであることを忘れないようにして下さい。  ところで皆さんは除夜の鐘がなぜ百八つなのか、ご存知ですか? 百八つの鐘がつかれるのは、人間の迷い・欲望(煩悩)が百八つ数えられるから、それを一つ一つ打ち消し、浄めるためだといわれています。 人間の煩悩を百八つに数える数え方は『感覚と心の六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)と、それによって感覚され、思考される対象となる六塵(色・声・香・味・触・法)、この六根と六塵が関係しあったとき、そこに好・悪・平(良くも悪くもない)という三種の関係が考えられるから、六×三の十八種の「迷い」がある。 そしてこの十八種にそれぞれ染(迷い)と浄(迷いのない状態)の二つがあるから、十八×二で三十六種となる。 この三十六にそれぞれ過去・現在・未来の三種があるので、合計すると百八になる』という説や、『眼・耳・鼻・舌・身・意の六根に苦・楽・捨(苦楽に関わらない)の三受(心の働き)があって十八。また六根に好・悪・平の三種があって十八、合して三十六種となり、これに過去・現在・未来の三世がそれぞれにあるから乗じて百八となる』という説があります。 これらの説は、人間の心の迷いを三世にわたって数えあげたものですが、この他に百八の数は、一年の十二ヶ月と二十四気・立春・立夏・七十二候の数に応じるという説もあります。いずれにしても来たし方を反省し、これから迎える新しい年に気持ちを引き締めてゆく一つの節として、古人は素晴らしいものを残してくれたのではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

霜柱

霜柱

日中は例年に比べて暖かいですが、朝夕は冷えこんで冬将軍の到来といった今日この頃です。 皆さん風邪には十分気を付けて下さい。 さて今月は、冬の晴れた朝に見られる「霜柱」についてお話します。 霜柱とは土の表面にできた氷の柱です。 しかしどうして水もない土の表面に氷が成長するのでしょうか? それは「冬の晴れた朝」という条件です。晴れているために地表の物体と上空の冷たい大気との間に光を遮るものがありませんから、地表の物体からこの冷たい大気あるいはその向こうの宇宙に向かって赤外線が放射され熱が奪われます。 これを放射冷却といいます。 熱が奪われるのは、石でも土でも落ち葉でも、みんな同じく大気に触れる表面です。 こうして気温に先立って地表の温度が下がります。 寒気が強い場合にはこれらの表面は0℃以下になり、大気中の水分が表面に凍りついて霜になるのです。 土の表面では、霜ではなく霜柱ができます。 しかしなぜ土にだけ霜柱ができるのでしょうか? 霜柱を手にとって観察すると、一番上の部分が必ず薄い土帽子を乗せていることに気が付きますが、この薄い土がポイントです。 この土が宇宙へ向かう赤外線の発信基地なのです。この部分が0℃以下になると、土は水を少し含んでいるので熱を放出することにより水が凍ります。 1㌘で80㌍という大きな熱が放出され、この氷に向かって液体の水がその下の土から流れ込みます。 そして放射冷却が進むにつれて次々と氷が成長し、霜柱となるのです。 土の中を液体の水が流れるのを毛管現象と言います。 毛管現象とは、水の表面張力により土の小さい隙間の中に水が保持されることです。 関東地方の霜柱が特に有名なのは、ときに10㌢にもなる大きな霜柱ができるからです。 これは土が火山灰起源であるため、毛管が発達していて水をよく運べるからです。 しかし、現在でも霜柱ができる現象は、完全に解明されていません。 土の下層から表面の氷に向かって非常に速く水が移動するメカニズムが解ってないからです。 この流れの速さは常温時より数段速いといわれています。 もちろん駆動力は大きな温度差によるのですが、それによって生じるポテンシャル差の大きさや、その時の土の浸透性など、まだ十分に解っていません。 このように、自然界には解明されていない秘密がたくさん残されているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

お寺の神社

お寺の神社

皆さんはお寺にお詣りした際、境内に稲荷神社があるのを不思議に思ったことはありませんか? 今月は、なぜお寺の中に神社があるのかについてお話します。 平安時代の初めに、天台宗の開祖・伝教大師最澄は比叡山を開くにあたって、この土地に古くから鎮座する地主神である「比叡」の神を丁重にまつりました。 最澄が比叡山の開創に先立って、比叡の神をまつったことは、神仏習合(日本固有の神に対する信仰・神道と、仏教の信仰を調和融合したもので、我が国独自の信仰。 仏教伝来から間もない奈良時代に始まり、平安時代の後期以降は日本の寺社信仰の中心になった。 明治の神仏分離で神道と仏教は一応引き離されたが、現在でも根強い人気があり、山岳修業する山伏なども神仏習合の産物である。)の魁となる出来事でした。  そして平安時代の中頃になると、神社の境内には神宮寺というお寺が建てられ、僧侶が神前でお経を唱え、寺院には神々をまつる神社が建てられるようになりました。 つまり外来の宗教である仏教と日本古来の神道の神が、同じ敷地の中で仲良く暮らすようになったのです。 この不思議な現象を神仏習合といい、時代とともに盛んになっていったのです。 このように神仏が共存する状態は、江戸時代の末まで続いたのです。 しかし明治になって維新政府が神道と国教を定めると「神仏判然令」というものを作り、それまで一緒になっていた神社と寺院を引き離して神道の本拠地である神社の存在を確立させようとしました。 その結果、寺院内の神社や神社内の神宮寺は境内の外に出され、神仏の共存に終止符が打たれたのです。 しかしどうしても神社と寺院を切り離すことができない所もありました。 例えば日光東照宮は二荒山神社・輪王寺とともに二社一寺が渾然一体となっていて、これを完全に切り離すことは不可能でした。 そのため現在でも東照宮の入り口には五重塔が建ち、境内には薬師堂や鐘楼などが残されているのです。   第二次世界大戦後には神道が国教でなくなり、神仏をともにまつることも各寺院の裁量に任されました。 その結果、かつて神仏判然令で移転させられた神を再び観請(他所にまつられている神仏を招いて新たにまつること。 八幡社や稲荷社はすべて宇佐八幡や伏見稲荷の神霊を分けてもらってまつったもの)したり、さらには稲荷などを新たに観請して社を構える寺院が多くなったのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

お彼岸

お彼岸

皆様ご承知のように、お彼岸は春と秋の年二回あり、三月二十一日の「春分の日」と九月二十三日の「秋分の日」が国民の休日となっています。 法律では、春分の日は「生物をたたえ、自然をいつくしむ日」・秋分の日は「祖先をうやまい、亡くなった人をしのぶ日」とされています。 この祝日を中心に前後三日間を加えた一週間がお彼岸で、仏教寺院ではこの期間「彼岸会」や「お彼岸」といわれる法要を行い、亡くなった人を供養します。 また人々はお墓に詣でてご先祖様に感謝をささげます。 この日が一年三百六十五日の中で特別なのは、天文学の上で太陽が真東から真西に沈むからです。 春分の日には太陽は黄道(太陽の通る道)上で北から南へ移動する出発点にあたります。 それを春分点といい、逆に南から北へ移動する点を秋分点といいます。 この太陽の春分点から春分点に戻る一周の三百六十度を二十四等分して、各季節の変化に名称をつけたのが「二十四節気」と呼ばれる中国の暦です。 冬至・夏至・春分・秋分・立春・立夏・立冬などがそれで、太陽の動きで月を中心にした陰暦を修正したものです。 お彼岸は、節分・七夕・お盆・土用などと共に、二十四節気を補うために日本で設けた暦日の一つです。 この暦が便利とされるのは、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、季節の移り変わりがよく分かるからです。 農業国の日本では、春には五穀の種を供えて豊作を祈り、秋には収穫のお礼まいりをします。 この節目に当たるのが、春と秋のお彼岸なのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

四国遍路

四国遍路

最近のバスツアーで人気があるのは、四国のお遍路さんコースだそうです。 一度目はバスで行っても、二度目は自分の足で歩かれる方も多いとか・・・。 さて今月は、四国遍路についてお話します。  四国のお遍路さんがかぶっている笠には、「同行二人」という文字が書かれています。 一人はお遍路さん自身で、もう一人は弘法大師空海です。 四国遍路とは、かつて弘法大師が修業した聖跡を巡る旅なのです。 その旅には常に弘法大師が同行しているという意味で「同行二人」という文字が書かれているのです。 お遍路さんは常に金剛杖という杖を持っています。 これは弘法大師の分身と考えられ、大師の霊力が備わっていると信じられています。 そのためお遍路さんは宿に着くと杖をきれいに拭いて部屋の上座に据え、合掌して一日の無事を感謝し、明日も無事に旅ができるように祈るのだそうです。 四国遍路では、昔から「お接待」と称して土地の人がお遍路さんを手厚くもてなす独特の習慣があります。 人々が率先してこのようなお接待をするのは、生きた弘法大師と共に旅をするお遍路さんに対する尊敬の念からだといわれています。 このようにお遍路さんやお接待をする土地の人が同行二人を信じて疑わないのは、弘法大師が今も生き続けて人々を救ってくれるという入定信仰によるものです。 そして無事に遍路の旅を終えた人が最後に「お礼参り」として参詣するのが、高野山奥の院です。 杉の老木に囲まれた廟の中には、今も弘法大師が瞑想しながら人々を見守ってくれています。  ちなみに四国遍路では、うるう年に八十八番から逆に巡ると弘法大師に会えると信じられているそうです。 四国遍路の弘法大師は伝説から抜け出した身近な存在でもあります。 そして、そのように身近な弘法大師と共に行く四国遍路の旅には、限りない功徳があると考えられています。 遍路は単なる旅ではありません。 一歩一歩功徳を積んでいく旅なのです。 そしてその功徳は人生のどこかで思いがけない果報をもたらしてくれることでしょう。 その旅の一歩一歩は弘法大師が優しく導いてくれているのですから。  石屋のないしょ話でした・・・。

ミミズ

ミミズ

昔は道端などでミミズを見かけましたが、最近はあまり見かけませんよね? アスファルトが多くなったせいでしょうか・・・。 今月はミミズについてお話します。 ミミズは「目不見」「蚯蚓」「雨の虫」「地球の虫」「大地の虫」などと呼ばれてきました。 目がなく、体そのものが腸で、一日に自分の体重以上の餌を食べます。 餌は野菜のくずや枯れ葉などの植物質が中心です。 泣いたり二つになったりすることはありませんが、木に登ることはあります。 ミミズは雌雄同体であるにもかかわらず、子孫を作るには何故か異なる個体との出会いが必要なのです。 ミミズはその姿からあまり人には好かれませんが、古代エジプトでは土を肥やす神の使いとされていました。 さて、ミミズはどんな働きをしているのでしょうか? あるリンゴ園でミミズを持ち込んだところ、数年を待たずに地表にあった枯れ葉はなくなり、代わりにミミズの糞が大量に見られました。 このミミズ糞の塊はスポンジのように多数の小さな穴があり、大量の水や空気を保つことができます。 枯れ葉などがミミズの腸を通って分解されるので、植物の成長を促進させる効果もあります。 ミミズがいることでリンゴの生産量が増加したのは言うまでもありません。  また酪農で知られるニュージーランドでは、土の基礎はミミズと言われ、ミミズが大事にされています。 それは、この国の草地に土着しているミミズの働きが悪かったためイギリスからミミズを持ち込んだところ、草の生産量が増加したからです。 この成功のポイントは、多種類のミミズの中からその土地に相応しいものを選び出したことと、ミミズを住まわせる条件についての実験観察にあったのです。 かの有名なダーウインは、彼の最後の本【ミミズと土】の中で「ミミズとは黙々と活動し、遂には巨石をも地下に埋める能力のある、稀な生き物である」と述べています。 小さなミミズが糞をするという単純なことでも、絶えず繰り返されていれば究極の大きな作用になるのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

紫陽花

紫陽花

もう少し続きそうな梅雨ですが、これが明けると夏本番です! 今月は梅雨時の雨上がりに咲く紫陽花(アジサイ)の色が何故変わるのかについてお話します。 一つの木に咲き始めの白から青、終わり頃の赤紫と様々な色の花(がく片)を楽しませてくれる紫陽花ですが、海岸地方などでは花が青くならないものもあります。 このような花には青い花よりアルミニウムが少ないことが五十年以上も前から判っていましたが、最近になって色素(アントシアン)とある種の有機物質にアルミニウムが加わって安定した青い色が出ることが証明されました。 アルミニウムが少なくてpHが高い砂質土壌では、アルミニウムを吸収できないために青い花をつけられないのです。 植物の色は環境によって変化します。 カシの葉は干ばつにあうと赤く色づき、海岸に生えるマングローブに葉は塩分が濃いと塩を吹き出して白くなります。 重金属汚染地ではイネの葉が黄色くなり、大豆の茎には赤い斑点が出るなど、植物はそれぞれの表現方法で、私たちに土壌や自然からのメッセージ(苦しみ)を伝えています。  植物の生育には窒素・リン・カリウムの他にカルシウム・マグネシウム・イオウ・塩素・鉄・マンガン・ホウ素・亜鉛・銅・モリブデンなどが必要です。 これらの元素がバランス良く供給されないと、植物は何らかの症状を示します。 例えばトマトは窒素や鉄の不足で葉が黄色く、リン不足では葉の裏が赤く、カルシウム不足では果実の先が黒くなります。 このような症状は元素ごと、植物ごとに違うので、専門家たちは作物を見ただけで土壌に何が足りず、何が多すぎるのか判るのです。  経験に頼っていた作物の栄養診断技術も最近では体系化されつつあり、また肉眼では見えない変化も機械の目を通して観察できるようになってきました。 その範囲は細胞から個体・群落・さら人工衛星を使った地球レベルのものにまで広がっています。 しかし人の気持ちを機械で測れないように、愛情をもって接しなければ植物の気持ちは解らないにではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

砂漠の防衛戦

砂漠の防衛戦

先月は砂漠からやってくる黄砂についてお話しましたので、今月は砂漠の防衛線についてお話します。 地球上には砂漠を含む砂丘地が約13億ヘクタールもあって、生活の為に砂漠の周りの木を伐採するので砂漠の面積が年々拡大していると言われています。 そしてこの砂漠化進行は最近大きな社会問題となっています。 日本には砂漠はありませんが、海岸砂丘が発達している所が多く、その砂丘地にはたいてい美しいクロマツ林が見られます。 林は海から吹きつける厳しい風を弱めて飛砂の発生を抑え、風に乗って飛んでくる飛砂を捕捉し、風下側の土地の利用を可能にしています。 飛砂の固定は現在では構造物によってでも可能ですが、林の方が成長に伴って大きな効果を発揮するので、経済的・防災的・景観的効果を総合すると海岸林を育成する方が構造物よりも有利だといえます。  砂丘上の砂粒が動き始める速度(限界速度)は砂粒の大きさ・比重・形・湿りぐあいによって変わります。 飛砂量は風速の三乗に比例して変わるので、飛砂量を少なくするにはまず風速を減少させることが重要です。 また、砂の飛ぶ高さは90%以上が高さ数10㎝以内の範囲に集中するので、少しの障害物や林木によってその移動が阻止されるのです。 クロマツ海岸林の防風効果の観測結果によると、砂丘の風土(海側)風速が15.0m/秒(観測高1.2m)の風は、林帯内に40~70m以上入ると2.0/秒以下に減少しました。 飛砂の限界風速は5~6m/秒ですから、15.0m/秒の風が吹いても林内では飛砂が全く発生せず、海側の砂丘で発生した飛砂が林縁から少し入った所で阻止されることがわかります。 風速の低下は、普通の気象状態では保護区域内の地面からの蒸発量を減少させ、土壌の乾燥を防ぎます。 この働きは乾燥地帯では特に顕著に現れ、これが砂漠地帯を緑に変える大きな役割として期待されているものなのです。 森林は飛砂や土壌の乾燥を抑える働きがあるので、砂漠地帯の砂丘移動抑制や環境の改善手段として期待されているわけですが、雨が多い日本の砂丘とは異なり、きわめて雨の少ない砂漠では森林を育てるのは容易でないことも知っておくことが重要ではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

地下水

地下水

京都と滋賀・大阪で開催されていた第3回世界水フォーラムも3月23日閣僚宣言「琵琶湖・淀川流域からのメッセージ」を採択し、無事に閉幕しました。 今月は水フォーラムにちなんでお話したいと思います。  皆さんは「水の旅」のお話を聞いたことがありますか? 屋根の上に降った雨が庭を流れ川に集まりダムや田んぼ・都市の中で色んな経験をしながら海へ到達するお話です。 これは地表を旅する水のお話ですが、私たちの周りにはもう一つ水の旅があります。 それは地下水の旅です。 両者の水量を比較すると、地下水は川や湖の水の約100倍もあり、殆んどの水が地下水の旅をしていることがわかります。 この二つの分岐点は土壌表面なのです。 では、土壌に浸透した水はどれくらいの速さで移動しているのでしょう? 関東ローム層を50cmの厚さを単位として深さ20mまで採取して、それぞれのブロックに含まれた水のトリチウム濃度を測定しました。 トリチウムは水素の同位体で、雨の中に含まれ濃度は1963年頃をピークとして特徴的な変化をしてきました。 このトリチウム濃度の違いの順序は土中にそのまま保存されていました。 新しい雨が古い雨を押し上げるように浸透していたのです。 その速度が毎年1m前後であることもわかりました。 しかし地下水の流速は一定ではありません。 砂利層の中は速くて粘土層の中は遅く、両者は何万倍以上も違うのです。 雨や井戸からの揚水によって加速される場合もあります。 1969年頃を境に浸透速度が倍増していますが、これは工業団地が進出した時期と一致しています。 ローム層の下の砂れき層から大量の地下水を汲み出したために、ローム層中の水の浸透が速くなったのです。     それでは地下水の滞留時間はどれくらいなのでしょう? 比較的浅い所を移動して山麓や崖から湧き出すなど短期間で地表に戻る場合もありますが、私たちが普段利用している数十メートルの深さの地下水は、数年から数十年前に土壌にしみ込んだ雨なのです。 一般に深層の地下水ほど滞留時間が長く、地下水全体の平均滞留時間は約5000年と試算されています。 中には地層が堆積する時に地層中に封じ込まれて何万年・何十万年と殆んど動かない、化石水と呼ばれる地下水もあります。 アメリカやオーストラリア・アフリカなどの乾燥地帯ではこの化石水を利用していますが、石油と同様限りある資源であり、いつ枯渇するかわからない心配があるのが現実なのです。  しかし京都盆地の地下には、琵琶湖の水量(275億トン)に匹敵する約211億トンもの地下水が眠っています。 その天然水がめの大きさは南北約33km、東西約12kmです。 天王山(大山崎町)付近が水がめの唯一の出口ですが、水がめの大きさの割に出口の幅が狭いため、地下水は溜まる一方で出て行くことは殆んどありません。 石屋のないしょ話でした・・・。

黄砂

黄砂

今年は例年に比べて黄砂が少ないという記事が、先日新聞に掲載されていました。 今月は砂漠からやって来る黄砂についてお話します。  「飛砂走石・天昏地暗・伸手不見五指」とは、ゴビ砂漠の黄塵万丈の世界を述べたものです。 砂嵐によって巻き上げられた砂は、偏西風に乗って東に移動します。 人工衛星からは太平洋上空を数千kmも移動しているのが見えることもあり、北アメリカ大陸にまで届くそうです。 春の黄砂は、中国の砂漠から吹き上げられ、西風に乗って運ばれてきた砂ぼこりが原因です。  日本上空にきた黄砂はそのまま素通りするのではなく、重いものから次第に地上に落下し、雨や雪の核となって地上に落ちてきます。 春先の雨の後、車の屋根や窓につく汚れや、時折積もる「赤雪」と呼ばれる色のついた雪を調べてみると、黄砂に由来する粒子が多く含まれています。 「赤雪」はヨーロッパ各地でも見られますが、これはサハラ砂漠から「ハルマッタン」と呼ばれる強風に乗って地中海を越えて飛んできた砂ぼこりが雪の核になっています。 サハラの砂ぼこりは大西洋を越えて、西インド諸島や南北アメリカ大陸にまで届きます。     もう一つの空から降ってくる「土」火山灰が日本では黄砂に比べて多いため、黄砂はあまり調べられていませんでした。 しかし最近の研究で黄砂も無視できないほど積もっていることが解ってきました。 日本に達する黄砂は数ミクロン~数十ミクロンですが、長い年月の間に降り積もると、3メートルに達するところもあります。 黄砂の影響の大きい土壌は中国に近い西南日本以外にも各地に見られ、東北・北陸地方では雪の多い所に厚く堆積しています。  黄砂の日本への降下量は場所によって違いますが、10万~1万年前の最終氷河期には1平方メートルあたり1000年19~32kg、氷期後の1万年前からは1000年で5~10kgと推定されています。 土1立方cmあたりの重さを1.4gとすると、この10万年に1平方メートルあたり2~3トン、厚さにして130~214cm、最近の1万年では0.5からトン、4~7cmの黄砂が積もったことになります。 この殆んどは中国の黄土地帯から運ばれてきたものです。  石屋のないしょ話でした・・・。

泥粘土

泥粘土

寒い日が続いてますが、街中に出かけてお洋服やお化粧品を見ると春満開って感じですよね? 今月はお化粧品にも使われている泥粘土についてお話します。  お化粧品に泥粘土?と思われる方も多いと思いますが、口紅や頬紅にも使われているのです。 太古の昔から化粧用として、泥粘土は重宝されてきました。 粒子が小さくて(メーキャップ用で20~40ミクロン・打粉用ではより粗い)、水に溶けにくく、肌によく付き、伸びがよく、肌に優しく、柔らかい感触を与える特性があります。 化粧用粘土の仲間にタルク・カオリン・マイカ(雲母)・ベントナイトなどがあります。   その中で大活躍しているのはタルクで、製品によって異なりますが「おしろい」の主要成分として40~50%の割合で入っています。 肌に塗布すると滑りがよく(タルクは滑石とも呼ばれている)、付着力も強いのが特徴です。 また汗をよく吸収する性質もあるため、ベビーパウダー(69%)・クリーム状ファンデーション(2%)などに利用されています。 カオリンは被覆力に優れていて、肌に対して鎮静・冷却作用を持っています。 汗をよく吸収しますが伸展性がないため、タルク・マイカや他の粘土と一緒に使われることが多く、おしろい(5~15%)・液体おしろい(5%)・ベビーパウダー(5%)・固形頬紅(20%)・パック(7%)などに利用されています。  カオリン・タルク・マイカはそのもの自体が粉体として利用されるのに対して、ベントナイトは水に分散して水の中で漂っている状態(コロイド状)として利用されるのが多いようです。 それは肌に塗布するとフィルムを作り、脂肪などの有機高分子のようにベタベタした感じがなく、さわやかな感触を与えるからです。 ベントナイトの構造の特徴は、内部表面積が大きく、たくさんの水や有機物分子までも取り込んでしまうケイ酸アルミニウムのシートを持っていることです。 この性質がベントナイト独特なコロイドの肌触りを与えるのです。 パック(5%)・ファンデーション(4.7%)に使用されるのはそのためなのです。 冒頭で口紅にも粘土が入っていることをお話しましたが、口紅には雲母チタン粘土が15%入っています。 雲母チタンとは、白雲母の結晶に酸化チタンが付着したもので、付着酸化チタン膜の上面と下面の反射光の干渉によって真珠のような光沢を出したり、青から紫色系の光彩を出したりするのが特徴です。 この酸化チタン膜の厚さを変えることによって口紅の色を調節することができるのです。  ちなみに弊社では、粘土ではありませんが日々の美容に関する新商品を近々発表する予定です。 皆様お楽しみに!! 石屋のないしょ話でした・・・。

おいしい水

おいしい水

健康と美容の為に、ミネラルウォーターを飲んでいる方も多いと思います。 今月は「美味しい水ができるまで」についてお話します。  最近は「飲み水は買うもの」という意識が強く、全国どこでも名水と称するミネラルウォーターを売っています。 厚生省が開いた美味しい水研究会では、水を美味しくする要件のうち蒸発残留物と硬度だけを見ると、全国殆んどの地域で下記の表の条件を満たすと言っています。     蒸発残留物 30~200mg/1 硬度 10~100mg/1 遊離炭酸 3~30mg/1 過マンガン酸カリウム消費量 3mg/1以下1 臭気度(臭気強度) 3以下 残留塩素 0.4mg/1以下 水温 最高20℃以下 美味しい水の水質要件   環境庁が選定した名水100選は日本各地に美味しい水が存在することを示しています。 岩の間からの湧き水や砂れき層から地下水が汲み上げられたりするのを見ると、美味しい水は地下深くで作られると思う人が多く、美味しい水を作るのに土が関係あると考える人は少ないでしょう。 しかし雨が地下に浸透していく前に土を通過することを忘れてはいけません。   一般に雨水に溶けている成分は河川水や地下水よりも格段に少なく、大雨時には蒸留水に近い純度になります。 しかし蒸留水を美味しいと言う人はあまりいません。 何も含まれていない水は味気ないからです。 しかも最近の雨はpHが4・5の酸性に傾いています。 水道水のpHの基準値は5.8以上8.6以下とされているので、雨水は飲めないことになります。 雨の中のアンモニア態窒素や粉塵も気になるところです。 では、日本国土の8割を覆っている農・林地に降った雨はどうなるのでしょうか?  地表面には植物と土壌があり、植物に当たった雨は茎葉や幹を伝わって土壌に注ぎます。 この際に植物体からのミネラルや他の成分の供給があります。 湛水期の水田には水の層が形成されますが、降った雨は稲の影響の他に用水や藻類の影響を受けながら土壌に浸透していきます。 そして日本に降った雨の大部分は土壌に注がれていくのです。 塵界や動植物など遺体の固形物は、微細な土壌粒子によりろ過されます。 そうして土壌を通り抜けた水はさらに地下で岩石と長い間接触して、硬度が増し遊離炭酸やケイ酸が増え、温度も安定して地域ごとの特徴を備えた美味しい水になるのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

楊箸

楊箸

さて今月はお正月に使う「柳箸」がなぜ両方削ってあるかについてお話します。  「柳箸」とは、お雑煮などをいただく時に使うお箸のことで、「両口箸」や「両細」とも呼ばれ、両端が削ってあります。 その為、どちらを使っても良いのですが、実際食べる時には片方しか使いません。 片方で食べて、もう片方は取り箸として使用すると思っている方も多いようですが、そのために両方削ってあるのではありません。 もともとお正月には、「年神様(お正月様)」という神様が遠い山の向こうからおみえになっており、その神様と共にお雑煮やお煮しめを食すると考えられていました。 お箸の一方を人間が使い、もう一方は神様が使われるのです。 神様と共に食事をすることによって、神様のご加護を受け、神様と喜びごとを共にしているという思いを表わすために、こんなお箸があるのです。   このお箸は柳で作ったもので、折れにくく丈夫です。 それにこの木の木肌が白いところから、ものを清浄にし邪気を払うものと考えられてきました。 また、柳は春一番に芽を出す縁起の良い木でもあります。  日本人の一生は箸に始まり箸に終わるとも言われていますが、そこには神や仏が必ず存在しているという思いがあるのではないでしょうか? 食事をする時の「いただきます」には、神仏ともいうべき大自然の恵みをいただくことに対してのお礼の意味が込められていますし、「ごちそうさま」には仏様に対する感謝の心が表わされているのですから・・・。 石屋のないしょ話でした・・・。

家庭菜園

家庭菜園

最近は健康・安全食品・土とのふれあいなどを求めて家庭での菜園作りが盛んになっています。 今月は家庭菜園の土作りについてお話します。 誰にでも簡単に作れる小松菜・大根・茄子などを上手に育てるためには、菜園の土がどんな性質かを知り、土にあった肥料の管理をしたいものです。 そのためには土の細かさ・粗さを調べてみることが大切です。 まず湿った土を指先でこねて、こよりを作るように伸ばしてみて下さい。 ツルツルした感じで1cm以上伸びれば粘土が多く、ザラザラした感じで全く伸びなければ砂が多いということです。 粘土が50%以上の土を埴土、12%以下の土を砂土、中間の土を壌土と呼びます。 砂と粘土の違いは粒子の大きさの違いですが、粘土にはコロイドという独特の性質があります。 コロイド性とは伸びや粘りがあり、水や養分を吸着・保持する性質が強いという特徴があります。 そのため粘土の多い土は水や養分を保持できる反面、排水が悪く酸素不足で根が腐りやすくなります。 これとは逆に、砂の多い土は乾燥による障害が出やすくなります。 これらの対策として、粘土が多い場合には耕す深さを30cmほど深くするか、畝を作って空気の流れや水はけを良くすると良いでしょう。 砂の多い場合には有機物を入れることをお薦めします。   土の色は主に有機物(腐植)と鉄の量や質と深い関係があります。 黒っぽい土は腐植が多い土です。 腐植は窒素が多く、水や養分の保持・運搬に大きな役割を果たしますし、お互いに集まる性質があるので粒状の構造を作り、通気性が良くなります。 また微生物の繁殖も活発になります。 明るい色の土は腐植が少ないので、養分を保ちにくいということになります。 だから良い土を作るためには腐植の源である有機物を入れることが肝心なのです。 台所の生ゴミは貴重な有機物の材料となりますので、菜園の片隅に穴を掘り、半年ほど寝かせてから菜園の土に混ぜると良いでしょう。  日本に多い火山灰はリンを取り込んで離さない性質を持っています。 菜園の土が火山灰であれば、リン酸肥料を入れることをお薦めします。  良い土ができても上手に栽培できない場合もあります。 茄子・ピーマン・唐辛子・ジャガイモなどは皆同じナス科なので、繰り返し栽培すると養分のバランスや土の物理的性質が悪くなったり一種の自家中毒を起こし病気が発生したりするので、必ず土をローテーションするように注意して下さい。 石屋のないしょ話でした・・・。

ストレス

ストレス

何事も近代化された今日は、人々の生活を筋肉労働から頭脳労働へと変えてしまいました。 今月は心の病とも言えるストレスについてお話します。 本来、神経と筋肉はともに動物が身体を動かし行動するために進化・発達してきたものですから、神経と筋肉の両方を合わせて使用しなければ、アンバランスになり欠陥が生じてくることになります。 さらに現代社会の過剰な精神的ストレスが加われば、加速的に「心の病」を増やしてしまうのは言うまでもありません。 「心」を辞書で調べると、「知・情・意などの働きのもとになるもの、またはその動き」と書かれています。 つまり、知性が非常に豊かであっても、人間らしい思いやりが欠けていたり、やる気がなければ健康な心の持ち主ではなく、逆にやる気ばかりが旺盛でも知や情が伴わなければ、これもまた健康な心の持ち主とは言えないのです。 事実、ストレスの多い職場では神経症や心身症だけでなく、精神病の発病率も高くなる言います。 厳格で小言ばかり言う上司の下では心の病になる部下が多く、単身赴任や転勤などを頻繁に行っている職場でも心の病を発病する人が多いと言われています。  ある調査では、運動・スポーツに期待するものとして「ストレスの解消」が圧倒的に多く、「成人病の予防」や「体力の増強」よりも多いのです。 この結果は現代社会の人々が強くストレスを感じており、運動・スポーツに強い期待を抱いていることを示しています。 運動・スポーツでのストレス解消作用には、運動やスポーツの持つ娯楽性・気晴らし機能・孤独感の解消・達成感などの心理社会的側面や、苦痛を軽減し多幸感を生じさせるような体内麻薬の分泌や、脳神経・筋のリラクセーション効果などの生理的側面があります。     適度なストレス(快ストレス) ・適度な量と質、受けてにあったストレス ・心身の動きを活発にする 悪いストレス ・神経症は不安、不満、恐怖、欲求などのストレスによる心の異常 ・不眠症、頭痛、不安神経症、強迫神経症、抑うつ神経症など ・心身症:潰瘍、慢性胃炎、高血圧症、虚血性心疾患、気管支喘息、円形脱毛症など   皆さんもストレスのためすぎには、くれぐれも気を付けて下さい。 石屋のないしょ話でした・・・。

肥満

肥満

日ごとに涼しくなり、過ごしやすい季節になってきました。 秋と言えば「食欲の秋」です。 ついつい食べ過ぎて太ってしまいがちなこの時期に耳の痛い話ですが、今回は「肥満」についてお話します。 肥満は、食べ過ぎ・運動不足・遺伝・食事の偏り・熱産生障害(体温維持や食後のエネルギー燃焼低下)・自律機能の低下などが複雑に絡み合った結果であると考えられています。 ですから太る原因は人によって様々なのですが、皆さんもご存知のよう、肥満は殆んどの生活習慣病(糖尿病・高血圧・脳や心臓血管系疾患など)の温床になっています。肥満のメカニズムは複雑で、単に遺伝だけで決まるわけではありません。 ただ、父親よりも母親が太っているほうが、子供の肥満が多いという事例から、母親の毎日の食生活や生活習慣が子供に多くの影響を与え、結果的に遺伝しという形になってしまうのかもしれません。 最近のペットブームにおいても、家族の食生活や運動習慣がペットにまで影響し、まったく遺伝が関係しないペットにも肥満が蔓延している今日この頃です。 この飽食と運動不足の社会では、誰にでも太る可能性があるのです。   最近は肥満にかかわる幾つかの遺伝子が発見されていますが、食べたエネルギーを極力無駄遣いせずに貯め込めるエネルギー倹約遺伝子を持っている人々が日本人の場合、3~4人に1人の割合で見つかっています。 いわゆる「太りやすい体質」の持ち主です。 しかし遺伝的に太りやすい体質を持っていても太っていない人や、逆にそうでない体質の人でも太っている人がいます。 つまり肥満はその3割が遺伝的要因で、のこりの7割が後天的な要因によるものなのです。 遺伝的に太りやすい体質の人でも、食事や運動習慣などの生活習慣を変えていけば、肥満は十分予防できるというわけです。 いきなり食事を減らしたりするのではなく、30分でも歩くことから始めてみてはいかがですか? 「継続は力なり」です。 きっと良い結果がでるのではないでしょうか? 秋は「スポーツの秋」でもあるのですから。 石屋のないしょ話でした・・・。

お茶

お茶

今回は、皆様にも馴染み深い”お茶”についてお話します。 普段何気なく飲んでいるお茶ですが、皆様はお茶についてどのくらいご存知ですか? 緑茶・紅茶・ウーロン茶などが一般的ですが、これらはすべて同じお茶の樹で作られている事はご存知でしたか? 発酵させるかさせないか、また発酵の程度、そして覆いをするかしないかで様々な種類に分けられているのです。 さて、美味しいお茶の入れ方ですが、①あらかじめ茶器を温めておく。②お湯を充分に沸騰させる。③お茶の濃さがそれぞれの茶碗に均等になるように注ぎ分け、急須に残さないように出し切る。④抹茶はあらかじめ「ふるい」にかける。 以上四つのことに気を付けて下さい。 その際に、できるだけ良い水を使用し、出がらしの上に新しい茶葉を加えたりしないでおくと、さらに美味しいお茶が頂けます。 ご参考までに三人分の標準量は下記の通りです。   茶種 茶の量 湯の量 湯の温度 待ち時間 玉露 大さじ1.5杯(約7~8g) 半カップ(約100cc) 40~60℃ 2分半~5分 煎茶かぶせ茶 大さじ1.5杯(約7~8g) 1カップ(約200cc) 80~90℃ 30秒~1分 玄米茶川柳 大さじ3杯(約10~11g) 1カップ半(約300cc) 熱湯 即時~15秒 ほうじ茶 大さじ4杯(約10g) 1カップ半(約300cc) 熱湯 即時~15秒 抹茶(一人分) 茶杓2杯(約1.5~2g) 1/3カップ(約70cc) 70~80℃ 点てる間   以上のことを参考にお茶を入れ、目まぐるしく移り変わる現代社会を少しの間だけ忘れて、ゆったりとした時間を過ごしてみてはいかがでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

母親がお宮参りに行けない理由

母親がお宮参りに行けない理由

生後1ヶ月前後の赤ちゃんを連れて、近所の神社に行くのが「お宮参り」です。赤ちゃんを氏神様に引き合わせ、先々お守りしていただくための儀式です。母と子、親族が連れ立って神社に出向き、氏神様に子供の成長と健康をお祈りします。 この時、赤ちゃんを抱くのは父方の祖母で、その祖母が不在の場合は別の女性が赤ちゃんを抱くのが正式なしきたりです。では、肝心の母親はどこにいるかというと、後ろの方にいて、赤ちゃんを抱くことはできません。これは、母親の〝お産の忌み〟が明けていないためで、古くは母親が一緒に参拝することすらタブーとされていました。 お産を忌みとするのは、日本に古くからある習俗で、かつては女性が妊娠すると、母屋とは別に産屋を作り、妊婦はそこで生活してお産していました。別の部屋で生活するのは、同じかまどの火を使うと、お産の穢れが移って不吉と考えられていたからです。また、母親がお産で穢れたのであれば、産まれてくる子供にも穢れがついていると、昔の人は考えました。だから「お宮参り」の儀式は、その子供の穢れが晴れる日、つまり新生児の忌が明けた日に行われます。子供の忌は、東日本では男子が30日で女子が31日、西日本では男子が32日で女子は33日に明けます。 現在も、お宮参りには産まれてから1ヶ月前後で行くものですが、これは不浄を嫌う神様と対面するのに、忌が明けていない子供を連れて行ってはまずいと考えられていたためなのです。 ところが、母親のお産の忌は、東日本では75日、西日本では100日と、子供の忌に比べて長いです。忌が明けないうちは、神様と対面できないから、この日ばかりは母親は後ろの方にいて、付き添い役にまわったのです。   ご参考までに・・・。

砂岩

砂岩

砂岩は、名の示す通り、砂が固まってできた堆積岩の一種です。砂の大きさはまちまちで様々なものがありますが、硬さは中程度の硬さを持つ石材です。北アフリカ諸国や中東などでよく見られ、サンドストーンの名称で親しまれています。日本でも和泉砂岩が古いお墓に使われていました。主な構成成分、鉱物は石英と長石ですが、吸水率が高めです。このため、風化や耐侯性などに面では花崗岩に劣りますが、独特の風合いを持つ外観を醸し出すことができます。硬さは凝灰岩よりは硬いですが、他の硬石よりは軟らかめになります。このため加工はしやすい石材です。江戸時代から大正にかけては墓石材として関西ではポピュラーでした。これは、加工のしやすさと文字の彫刻が容易なため一般に普及したものと考えられます。

お墓の永代使用料

お墓の永代使用料

お墓や墓地は、一般の不動産と違い「所有権」を売り買いするものではありません。寺院や霊園からその墓地区画の「永代使用権」を購入したり、譲渡されるのものです。 あくまで使用権ですので、自己の都合で返還する場合は、「無償返還」が原則となります。また、祭祀のための使用であるため、継承者は親族もしくはそれに準ずるものに限られることになります。 (但し、ごくまれに例外もあります。)ただ購入するということでは、一般の商品となんら変わることはありません。購入される際には、契約時に「使用規則」「墓地・墓域図面」「使用許可証」などを必ず確認の上、お独りで決めずに御家族でよく話し合って決められることをお勧めします。もしも事業者に重大な過失・契約違反等があった場合【消費者契約法】や【訪問販売法】の適用を受けられることがありますので解約が可能です。

大谷石

大谷石

大谷石は栃木県宇都宮市大谷地区で、生産される緑色擬灰岩で古くから日常生活に用い られ、火に強いことから煮炊きをする、かまどをはじめ建物の土台石、敷石、土留め、蔵、倉庫などの積み石に使用される一方、火災から守るため、屋根石(石 瓦)や、板蔵の貼り石として、外装、内装の建築用材ほか、様々な形で使用されてきました。自然石として大谷石の魅力は柔らかくて 加工しやすく、熱を通しにくく耐久性に優れ、控えめな地色は素朴で温かみさえ感じさせる、独特の風合いを持った石です。昭和30~40年年代に石塀として多く使われましたが、最近は、外壁だけじゃなく室内にも使われることで見直されてきました。写真は、12月にオープンされた「モリタ屋」様の離れの施工写真です。

お地蔵さん

お地蔵さん

京都の街角ではよく見かける「お地蔵さん」ですが、最近では子供の減少・町並みの変化に伴い引き取りの依頼が多くなってきています。子供の頃には夏休みの終わり頃になると京都の街角では「地蔵盆」が催されてきました。昨今子供の数より高齢者の数の方が多くなり、「地蔵盆」自体を行わない町内が増えてきています。そういう中で今回「お地蔵さん」の改修工事をさせてもらいました。ご町内皆さまの喜ばれた顔を見て、これからも大切にしてもらえそうだなと感じました。やむなくお地蔵さんを撤去しなければならなくなった時など、当社にご相談いただければ、引き取っていただけるお寺様をご紹介します.

大理石について

大理石について

装飾や造形に適した大理石は、一般に直径0.3ミリメートル前後の等粒状の方解石がよくかみあっていて緻密で均一です。 光をある程度透過させ、内部では方解石の劈開面などで反射を繰り返し、入った光の一部を再び出す性質があります。 また、彫刻に適した硬度と粘りを持ち、研磨によって表面に滑らかさと光沢を与えることもできます。 日本での大理石の利用は、奈良時代の薬師寺の仏壇や、法隆寺の仏像の台座が最も古いといわれています。 本格的な建築用大理石の加工利用は大正に入ってからで、ヨーロッパからの原石の輸入も始まりました。 その後、第二次大戦後の復興と経済成長によって、建築内装の需要は急増し、ほとんどを輸入でまかなっています。 主な輸入先はイタリアをはじめ、ギリシャ・フィリピン・台湾・アメリカ・中国などです。 大理石には様々な種類があります。 多くは多少変成作用を受けていて、原岩の石灰岩がほぼ純粋な炭酸カルシウムからできている場合には、方解石だけが集まった純白の大理石が形成されますが、普通は少量の他の成分が含まれていて、炭質物(黒色)・酸化鉄鋼物(赤褐色)・緑泥石(緑色)などのために着色したり、方解石自身が色を帯びている場合もあるため、様々な模様や色を持った大理石になっています。 もっとも有名なイタリアのカラーラ産の白大理石は、白地に淡青灰色のすじや斑点が入ったものが多く、世界中の建築内装材に用いられています。 カラーラ産の次に有名な白大理石は、ギリシャのアテネの近くで産出し、パルテノン神殿にも用いられたもので、白地に淡灰ないし淡緑色の縞が入っています。 模様のある大理石で古来珍重されているのは、イタリアでブレッチア、日本では更紗と呼ばれている網目模様の礫岩状大理石です。 更紗模様の大理石には、黒更紗といって灰黒色の角礫を多く含み、礫や基質にフズリナなどの化石を含むものも産出します。  最近好まれる模様のある大理石は縞模様の石で、平行縞と細孔をもったトラバーチンと呼ばれるクリーム色の石は、温泉・鉱泉などに溶け込んでいた炭酸石灰の無機質な沈殿によってできたもので、世界的に内装用として用いられています。 オニックスと呼ばれる科学的沈殿でできた縞状半透明の石もありますが、大理石としては最も高価なため、建築利用は稀で主にテーブル・花瓶などの工芸品に用いられます。

岩石と土の違いについて

岩石と土の違いについて

岩石と土は、共に私たちが住んでる大地を形成している大切なものです。土には石ころも入っていますが、岩石と土は違うものです。硬い軟らかいの違いだけでなく、岩石には草木も生えず物質的で無機質な印象を受けますが、土は緑にあふれ生物的で有機的な感じがします。さて、その違いはどうして生じたのでしょうか? 岩石は主に鉱物粒子の集合した塊です。岩石は、マグマが冷えて固まってできた火成岩・色々な岩石が地球内部で高温高圧のため組織が変わったり、新しい鉱物が生まれたりしてできた変成岩・風化や浸食された岩石が運搬、堆積されて再び固まってできた堆積岩に分けられます。 このため火成岩や変成岩は地球内部の状況を反映しているのに対し、堆積岩は元になった岩石の特徴や堆積した場所などの地球表層の環境を反映しています。これらの岩石が地表に現れ、太陽や風雨にさらされると次第に細かい粒子になります。このような細かい粒子の集合物を「土」と呼ぶこともありますが、緑を育てている「土」とは少し異なります。 緑を育てている土の中には、動植物や微生物・その遺体や排泄物・あるいは微生物によって分解された腐植といった有機物が必ず入ってます。これは生物が関係していることを示すもので、このような土を土壌といいます。土壌は岩石表面にバクテリアやコケの類が生活を始めるときから少しずつできています。これらの生物は岩石から溶け出した養分を利用しますし、養分を取るために岩石を溶かす成分を出します。その遺体も岩石を溶かす成分に変わります。成分の一部が溶け出した岩石は砕けやすくなり、次第に細かい粒子になります。そこに住むことのできる生物も多くなり、加わる有機物の量も増え、土壌ができてくるのです。 岩石や砕けた粒子など土の元になる物質を母材と呼びます。土壌が侵食され、運搬・堆積した場合のように、母材には有機物が含まれることもあります。このような母材に生物が働いて一つの複合体になったもの、これが「土」すなわち「土壌」なのです。

日本の庭園について

日本の庭園について

八世紀末に京都が都になると、古い地層の山に囲まれて庭石と景勝にめぐまれた庭園に最適の地である京都には、本格的な庭園が次々と誕生しました。貴族の寝殿造の住宅の南庭は敷地いっぱいが庭園となり、白砂が敷かれ、遺水(やりみず)と呼ばれる流れもつくられました。当時の公家の橘俊綱が書いたといわれる『作庭記』では、とくに立石(石組み)について「石の乞わんに従って石を立てる」とし、自然の石が人間に要求してくるのに従うという、日本独特の自然観と造園思想がみられます。平安中期(十世紀)以後になると、仏教の影響が強くなり、寺院の庭園が発展して極楽浄土の有様をこの世の庭に反映させた浄土庭園が生まれました。 十二世紀の末に禅宗が伝わり、鎌倉時代には禅宗の自然観で構成された禅寺の庭が誕生しました。室町時代の末頃から京都や堺では茶の湯が流行し、茶室の周りの庭には、自然の山間の趣を出そうと山の常緑樹を植え、飛石と手水鉢と石燈籠を用いるようになった茶庭が生まれました。手水鉢は低くつくばって手を洗い清める「つくばい」が主に用いられ、燈籠は夜の茶会の照明として、飛石は歩くために据えられました。 これらは実用のために始まりましたが、庭の景観にも大きく寄与するものとなりました。茶庭は露地(路地)ともいわれ、茶室への道を意味しています。手水鉢や石燈籠は古びたものが好まれ、風化して苔が生えた「わび」の姿が鑑賞されました。見る要素が強くなるとともに、築山をもうけ池や流れをつくり、石組みも見られるようになり、飛石には自然石だけでなく切石も用いられるようになりました。 茶庭の様式は江戸時代に確立しましたが、町人文化が栄えると大名の庭園は広い芝生をもった明るいものとなりました。書院の庭や茶庭が建物に従属する性格をもっていたのに対し、築山や池の周りを散策する回遊式庭園が主体となりました。石組みは多く用いないで、石を置く場合は「捨石」といって要所に一個だけを捨てたように配置することが行われ、比較的に丸みのある石はが好まれました。金沢の兼六園などが代表的です。 大正から昭和にかけては小庭園の時代となり、自然主義的な写景ではなく、枯山水の伝統を受け継いだ抽象的な庭が復活してきました。また、建物に付属した庭園に始まった造園技術は、都市公園・集合住宅の緑地・広場・道路などに応用され、新しい造形が試みられるとともに洋風和風さまざまな伝統的庭園の様式も融合して用いられています。

神話の中の石について

神話の中の石について

「日本の神話中には、石や岩に関する言葉や話がたくさんでてきます。 「古事記」には、イザナギとイザナミの兄妹神が夫婦となって日本の島々や神々を生んだ後に、死んで黄泉国(よみのくに)に行ったイザナミをイザナギが呼び戻しに行く話があります。黄泉国のイザナミにはウジ虫がたかっており、これを見たイザナギは驚き恐れ逃げ帰ります。イザナギはイザナミとその軍勢に追われながらも、やっとのことで黄泉国とこの世との境界の比良坂に辿り着き、ここを千引岩(ちびきのいわ)でおし塞ぎ、岩をはさんでイザナミと問答して別れました。この黄泉の坂を塞いだ石はチカエシノオオカミ、またの名をヨミドノオオカミと名づけられています。 塞の神(さえのかみ)とも呼ばれ、境界や道の民族神とされている道祖神は、ほとんど石が神体としてまつられています。この千引岩の話は、石が道の神であるという古代人の観念を示すものといえます。この種の話は、死の起源を物語るとともに、石を不死あるいは永遠の象徴とみなす古代人の観念を示しています。現代においても”お墓”が何故石を使うかとの問いの答えになるのです。よく似た話は東南アジアに広く分布しています。 道祖神が石で表されることは、境界的な意味合いが強いと考えられています。堅固で不動の永遠性をもつと同時に生命の根源という存在でもある”石”は、日本の民族の中で生命のあるものと生命のないもの現世界と死後の世界、地上と地下など中間に位置してふたつの異質の領域をつなぐ境界性をもち、二面性をそなえたものと考えられているのです。我々の祖先にとって自然の大地を構成する石は、生命力の根源であり神霊が宿るところであり永遠の象徴として宗教心を表現する素材でもありました。死者の墓が石で作られているように”石”は宗教とかたく結びついており人々の心のよりどころでもありました。 これからも人の心と石のかかわりが決しておとろえることのないようにしていきたいものです。

現代の石の道具について

現代の石の道具について

石を用いた道具は、金属が道具の主材料になってからも続いて使われ、金属を加工するために用いられるなど、文明の進歩とともに新しい用途も出てきました。 石器時代の石皿の多くは平たい磨製石器で、塊状の食物などを叩いたり、押しつぶしたり、擂ったりして粉末にする道具ですが、くぼみが深い乳鉢型のものもあります。石臼とも呼ばれるこれらの石皿は、木製あるいは鉄製の臼とともに食物の調製をはじめ、鉱山で鉱石を粉砕するなど、目的に応じた石臼が工夫されて作られました。現在でも正月の餅つきや、穀物・陶磁器原料の粉砕などに石臼が用いられています。身近な石の道具に硯・碁石・灰皿などがあります。多くの硯は頁岩あるいは粘板岩ですが、中国の端渓石や山口県厚狭の赤間石は凝灰岩です。 碁石の白石はハマグリが用いられ、黒石は三重県産の珪質粘板岩(那智黒または那智石)が最上質とされています。那智黒は、試金石として金の純度の判定にも用いられます。銀や銅などと合金になっている金を試金石にすりつけてできる黄色の条痕は、硫酸をかけると銀や銅は溶けて金が残るので、標準品の条痕や溶け具合と比較して、金の純度を判定することができるのです。 印鑑の石質材料には、水晶・メノウなどが用いられています。筆記道具は情報伝達と記録の大切な道具で、古くには粘土板があり、石を用いた筆記方法として、粘板岩などの平らに剥がれやすい黒い岩石(石盤・石板)にロウ石やタルクなどの石筆で書く方法がありました。石筆という言葉は、江戸時代に西洋から渡米した鉛筆を意味していましたが、明治になって石盤が低年齢児の学習具として使われるようになってからは、石の筆記具のロウ石・タルクなどを指すようになりました。ロウ石は耐火物や陶磁器原料にもなる粘土質の軟らかい岩石です。石盤と石筆は、明治・大正から昭和の初めにかけて小学校などで広く用いられてました。

石の鑑賞について

石の鑑賞について

ひと口に鑑賞する岩石あるいは石といっても、自然の風景の石・庭園の石・建物や石碑などに用いられている石・家の中に飾られた石などがありますから、石のあり方や環境によって石の見方も変わってきます。 鑑賞される石の性状は、鉱物鑑定の時と同様にまず石の形が基本ですが、色・光沢・模様・触感・硬度などがあげられます。庭石などの自然に形がつくられた自然石の場合は、形態とともに「さび」や「野面」と呼ばれる表面の風化摩滅の状態が重視されますが、石材などの切石では加工表面の模様(岩石の内部構造・組織)が重要です。 石の加工がさらに進んで彫刻品になると、石は彫刻材料としての鑑賞対象になります。庭園の石なども同様で、石を鑑賞するというよりは、石の配置や植木・池・背景などとの調和の美しさを鑑賞するという方が正しいかもしれません。 山や海岸・渓谷など大自然の中の石を、雄大な風景をつくっている素材として風景全体を鑑賞したり、奇石や形状石から色々なものを連想して自然の造形を楽しむなどの見方もあります。しかし特に決まった石の鑑賞の仕方があるわけではないので、あまり難しく考えずに身近な石から鑑賞してみてはいかがでしょうか? (注:「さび」と「野面」について詳しくは石のおはなしvol.5をご覧下さい。)

水石・盆石

水石・盆石

日本庭園に庭石が重要な存在になった後、室町時代には茶の湯の流行とともに、書院などの室内に手頃な大きさの石を置いて楽しむ愛石の趣味が盛んとなりました。 このような愛石の趣味は盆石と呼ばれ、江戸時代中期頃から文化人の間で流行し、多くの流派が生まれました。本来は一つの石だけを盆に据えて鑑賞するものだったのが、後には盆山・盆景・盆庭・盆画などと呼ばれる縮景の要素も含むようになり、丸盆などに大小の石を置き、砂をまいて波や雲などを表して苔や草木を植えたり、家の模型を置いたものまで現れました。 盆石の趣味は盆栽の一種とも考えられ、茶道のほか華道・山水画・書道などとも関係が深く、石を陶磁器の水盤に入れて水を注ぎ鑑賞することも行われました。江戸時代の末頃から盆石と同じような意味で用いられるようになった「水石」という言葉は、この水盤の石から出たといわれています。しかし盆石・水石などの言葉の用法に様々な説がありますので、ここでは語感的に好ましい「水石」を用いることにします。 水石の条件として、①自然石であり、加工はできる限りしないこと ②室内で鑑賞するので、大きさが適度であること ③一個で鑑賞し、二個以上の石の組み合わせでないこと などがあげられます。①~③の条件を満たした上で、形が良く、石質が適度に硬く(硬度6~7程度)、色が濃くて気品があり、自然らしさや風格がある水石は、さらに優れた水石とされています。 また、宝石のような価値は水石にはなく、宝石の原石は一般的に水石ではないとされています。

庭石について

庭石について

おもに日本庭園で鑑賞のために用いられる庭石は、自然石の中から形態の良いものを選んでそのまま用いるので、加工した石材を庭石とはいいません。自然石は産出場所の違いによって風化や磨滅の程度が異なります。一般的に山地から出た「山石」は角張っていて形に厳しさがあり、河川から採取された「川石」は丸みを帯びて優しさがあり、海浜の「海石」は波があるため微妙な凹凸があるとされています。これら自然の形に加えて、傷や破損した部分がなく、表面の色彩が古びて「さび」を生じ、深い味わいのあるものが良い庭石とされています。 岩石が風化作用を受けた時に表面がざらざらになった状態を「野面」といいます。表面鉱物が風化分解して酸化鉄などの被膜を生じた「さび」は、庭石に用いる前の風化による「山さび」だけでなく、庭石に用いてからも風化を受けてまわりの植木などと調和した「庭さび」を生じ、様々な苔もついて、野面とともに年月が経つにつれて古色と風格がそなわってきます。したがって庭石の良否は石材とは異なり、岩質や美しさよりは外観や渋味が好まれることになります。 また、層理や節理など、石材としては均質な大塊を得にくい性質が、庭石には「気勢」といわれる石の方向性を与えるものとして歓迎されます。「石は気勢あるいは勢い」といわれ、層理・節理・片状構造などをもつことが庭石の大切な条件とされています。これらが見られない石は庭の重要点に据える庭石にはなりません。 岩石を庭石に利用するとき、庭を構成する上で重要な場所に用いる小数の庭石を一般に「景石」といいます。ときには眺めるために一つだけ置いた形の良い石を「景石」あるいは「捨石」といい、二つ以上の石を組み合わせて置いた場合は「組石」といいます。また、「飛石」といって歩くためと庭の空間構成とに役立てる石もあり、「短冊石」「沢渡」などと呼ばれる石もあります。 さらに燈籠や手水鉢などの加工された石も、庭の重要な構成要素の石として鑑賞されます。

石材について

石材について

色々な岩石のうち、種々の加工をして土木建築をはじめ墓石・記念碑・工芸品・実用品の製作などに利用されるものを石材といいます。量的には土木建築用に多く用いられています。自然石のまま利用される庭石や、採取してそのまま用いられる砂利や砂は広い意味では石材ですが、加工して使わないので石材には含まれません。 石材は石器時代から利用され、西洋の石造建築は古代エジプト・ギリシャ・ローマ時代の神殿から中世のゴシック教会堂へと発展しました。日本では明治になってから、洋風建築や鉄道・港湾などの土木工事が始まるとともに石材の需要が増えました。その後、鉄筋コンクリート技術の導入により建築構造材としての利用は減りました。 代わって骨材としての川砂利の利用が始まりましたが、近年は川砂利では需要を満たすことができないので、骨材はおもに各地の採石場から得られる砕石を用いるようになりました。 また石材技術の進歩とあいまって、建築石材はおもに板材として装飾用に利用され、磨くと美しい光沢面が得られる御影石と大理石が重視されるようになりました。最近はこれらの石材の多くを海外から輸入しています。 これらおもに建築の内外に用いられる石材と、庭石として庭園に用いられる自然石の特徴や種類は下の表のとおりです。   石材・庭石名 岩石名 産地 おもな用途・その他 本御影(ほんみかげ) 花崗岩 神戸市御影 装飾・灯篭・景石 淡紅色 稲田御影 花崗岩 茨城県稲田 装飾・石碑・飛石 鞍馬石 花崗岩 京都市鞍馬 景石・飛石・石垣 万成石(まんなりいし) 花崗岩 岡山市万成 装飾・石碑・桃紅色 鉄平石(てっぺいせき) 安山岩 諏訪市 板石・敷石 暗灰・暗褐色など 白丁場(しろちょうば) 安山岩 神奈川県湯河原 石碑・飛石・景石 灰白色 根府川石(ねぶかわいし) 安山岩 神奈川県根府川 石碑・飛石・板石 抗火石 流紋岩 静岡県伊豆新島 建築・景石 耐熱性 大谷石(おおやいし) 凝灰岩 宇都宮市大谷 建築・石塀・石垣 和泉石(いずみいし) 砂 岩 大阪府和泉 石垣・敷石 那智黒(なちぐろ) 粘板岩 和歌山県那智 工芸・碁石・景砂利 寒水石(かんすいせき) 大理石 茨城県久慈・多賀 装飾・配電板・工芸 赤板大理石 大理石 岐阜県赤坂 装飾・配電板・工芸 伊予青石 緑泥片岩 愛媛県西部地域 景石・飛石 秩父青石 緑泥片岩 埼玉県秩父 景石・石碑・飛石 鳩糞石(はとくそいし) 蛇灰岩 埼玉県秩父 装飾 青緑色に白色の網目

なぜお墓は石で作られているのか?

なぜお墓は石で作られているのか?

何年か前、ステンレスやセラミック製のお墓が新聞やテレビで話題になりましたが、人気がなくてすぐに消えてしまいました。日本人は「お墓は石で」という気持ちが強く、石以外は受け付けません。それは何故なのでしょうか? 日本人は神代の昔から「石」には霊力が宿ると考えてきました。日本には八百万の神々がいますから自然界のあらゆるものに霊が宿っていますが、「石」には特別な霊力があると思われていたのです。例えば「古事記」にはスサノヲの命が天照大神に身の潔白を明かす「誓約」のとき、天照大神の八尺の匂玉に息を吹きかけると五人の男神が生まれたという話があります。つまり匂玉は霊力がある石だったのです。 「日本書紀」大化二年の「薄葬令」には「王より以下、小智以上の墓は小さな石を用いよ」「庶民は土に埋葬せよ」とあります。しかし庶民も河原の丸い石を霊が宿る依り代にして埋葬地に置いた思われます。何故なら今でもその民族習慣が各地に残っているからです。 日本人が古代からお墓を死者の霊魂が宿る依り代の「石」で作るのは、「石」の霊力を信じる伝統があったからなのです。その伝統が一朝一夕に失われるものでないからこそ、二千年たった現在でもお墓は「石」で作られているのです。

花崗岩(御影石)の生成について

花崗岩(御影石)の生成について

花崗岩は地球の内部から上昇してきたマグマ(溶岩のようなもの)が比較的地下の深いところでゆっくりと冷え固まって出来ると言われています。岩石は地球の深いところにあるほど比重が大きく固体の状態で存在しますが、何かの原因で温度が異常に上昇したり周囲の圧力が低下したりすると岩石の一部が溶けて液体(マグマ)になることがあります。 同じ物質が液体になると固体の時よりも比重が小さくなるので、溶けた岩石は軽くなって上昇することになります。しかしもともと浅いところにある岩石よりも比重の大きな岩石ですから、ある程度上昇するとまわりのとけていない岩石と比重が釣り合ってしまい、それ以上浅いところへ上昇できなくなります。上昇できなくなったマグマはまわりの岩石を溶かし込みながら横方向に広がっていきます。 この時、より軽い鉱物を溶かし込んだマグマは再び周囲の岩石よりも軽くなり、更に浅い場所へと上昇していきます。このようなことを繰り返し、色々な種類の鉱物を取り込みながらマグマは次第に地表へと近づいていきます。こうして取り込まれた鉱物の含有比率の違いによって様々な色合いの岩石が形成されていくのです。 ・上の写真を見て解るように、御影石は2~3種類の異なる粒状の結晶が複雑な模様を描いています。その模様の違いはマグマが冷えて固まる際の条件によって生じるものです。マグマが地表に噴き出したり或いは地表のすぐ近くまで上昇してきた場合には急激に冷却されるために鉱物の結晶が作られず、御影石の特徴である「等粒完晶質」の岩石は形成されません。またあまり長い時間をかけて固まった場合は一つ一つの結晶が大きくなりすぎてしまいます。適度な時間をかけて冷却され、適度な大きさの結晶の粒が形成された場合に「御影石」が生成されるのです。

花崗岩 (御影石)

花崗岩 (御影石)

花崗岩は一般に御影石と呼ばれ、広く石材として利用されています。国会議事堂をはじめ、官庁、銀行などのどっしりとした建物の外装、堅固な橋、数多く並ぶ墓石などの大半は御影石で作られています。この名称は、神戸市の御影で産出された花崗岩が石材として有名になったために一般的になりましたが、花崗岩と御影石はまったく同じものではありません。それは含まれている鉱物の種類の違いで、見かけや強度等が似通った岩石が多種存在するからです。 岩石の種類で「花崗岩」と呼ばれるものは「石英」「長石」を主として、これに「雲母」「角閃石」「輝石」等の鉱物が加わったものです。個々の鉱物は大体同じぐらいの大きさの結晶で成り立っています。それを「等粒完晶質」といいます。花崗岩ではないけれども御影石と呼ばれている石材は、含まれている鉱物に違いはあっても皆この「等粒完晶質」であることは共通しています。では何故、含まれている鉱物に違いがあるのに見かけが類似した岩石があったり、逆に含まれている鉱物の種類は同じなのに見かけの異なる岩石があったりするのでしょうか?    (上・磨いた後   下・磨く前)     (上・磨いた後   下・磨く前) ・二つの写真を見て解るように、御影石は磨く前と磨いた後では表情が変わります。   ・白く不透明なところが「長石」、半透明の灰色がかったところが「石英」、黒い部分が「黒雲母」あるいは「角閃石」という鉱物です。