石屋のないしょ話

石材カットの料金相場と選び方!一般消費者向けお得な石材加工ガイド #石材カット料金 #石材 #カット #料金

石材カットの料金相場と選び方!一般消費者向けお得な石材加工ガイド #石材カット料金 #石材 #カット #料金

石材のカット料金は、素材や加工内容によって大きく変動します。家庭で使用する場合やリフォーム、外構工事など、さまざまな場面で必要とされる石材カットですが、適正な料金を知ることは重要です。石材自体の種類やカットの難易度、サイズによって費用は異なるため、まずは基本的な料金の目安を理解することが求められます。   さらに、追加加工や持ち込み、送料なども総額に影響を与えるため、事前に見積もりを依頼することが賢明です。業者によってはサービス内容や料金体系が異なるため、選び方のポイントも押さえておくと安心です。料金の安さだけでなく、信頼できる業者を選ぶための知識を身につけることで、後悔のない石材カット依頼ができるでしょう。これから石材加工を依頼しようとしている方にとって、適切な準備が成功への鍵となります。     石材カットサービスとは 石材カットサービスは、さまざまな種類の石材を顧客の指定するサイズや形状に加工する専門的なサービスです。石材は硬く、一般的な工具では切断が難しいため、専門的な機械や技術を用いることで、精密なカットを実現します。石材カットの需要は幅広く、家庭内でのインテリアやエクステリア、公共施設や商業施設での利用など、さまざまな場面で役立ちます。   基本的な石材カットの工程には、まず素材選びが含まれます。石材には大理石や御影石、砂岩、タイルなどさまざまな種類があり、それぞれに特性や用途があります。たとえば、大理石は美しい光沢を持ち、主に室内の床や壁、キッチンカウンターに使用されることが多いです。一方、御影石は耐久性に優れ、屋外の階段やモニュメント、墓石などに用いられることが一般的です。このように、石材の選択は、使用する場所や目的に応じて慎重に行う必要があります。   次に、カットの方法も重要です。石材カットには、ダイヤモンドブレードを使用した湿式切断や乾式切断、さらにはウォータージェットを用いた高精度な切断などがあり、それぞれの方法によって仕上がりや適した用途が異なります。湿式切断は、水を使って摩擦熱を抑えることで、素材を損なわずにカットする方法です。乾式切断は、水を使わないため、施工現場が乾いた環境で必要な場合に適しています。また、ウォータージェットを使ったカットは、複雑なデザインや曲線を切り出す際に有効です。これにより、個々のプロジェクトに最も適したカット方法を選ぶことができます。   石材カットの用途も幅広く、一般的な住宅のリフォームや新築工事の際に利用されるほか、商業施設のデザイン、または公共事業におけるモニュメントや記念碑の製作など、多岐にわたります。住宅の外構工事では、庭や歩道に敷かれる石材のカットが求められることが多く、また、屋内の床材や壁材としても使われます。さらに、キッチンカウンターやバスルームの台など、実用的な目的でも石材が用いられることが多いです。石材はその耐久性と美しさから、多くの場面で需要がある素材です。   また、最近では個人の住宅でも、より個性的なデザインや高級感を求める顧客が増えているため、オーダーメイドの石材カットのニーズも高まっています。これにより、石材カットサービスは、一般消費者から専門業者まで幅広い層に利用されています。     石材カットの料金相場 石材カットの料金は、石材の種類や加工内容、面積、厚みなど、さまざまな要素によって決まります。一般的に、石材の種類が高級なものであるほど料金は高くなり、カットが複雑な形状や特殊な加工を必要とする場合も費用が上がる傾向にあります。カット料金の目安を知ることで、予算内で最適な選択を行うことが可能です。   まず、石材の種類によって料金は異なります。大理石は、その美しい模様と高級感から、一般的にカット料金が高めに設定されることが多いです。大理石は柔らかい素材であるため、切断作業自体は比較的容易ですが、その分、表面の仕上げに時間がかかるため、費用がかさむことがあります。一方で、御影石は硬さと耐久性に優れていますが、その堅牢さゆえにカットが難しく、専用の機材を使って切断する必要があるため、こちらも料金は高めになります。タイルのカットは比較的安価であることが多く、特に家庭内の小規模な改修や装飾に使用されることが多いです。   料金は、面積と厚みによっても変動します。一般的に、カットする面積が大きければ大きいほど、料金は高くなりますが、これには一括カットによる割引が適用されることもあります。たとえば、住宅の床材や壁材として大量の石材カットを依頼する場合、まとめてカットすることで単価が下がることもあります。また、石材の厚みが増すにつれて、カット作業に時間と労力がかかるため、費用も上がる傾向にあります。特に、厚い石材は専用のカット技術を必要とすることが多いため、その分コストがかさむ可能性があります。   カット料金を左右するもう一つの要素は、追加加工の有無です。曲線カットや斜めカットなどの特殊な形状が求められる場合、通常の直線カットよりも高額になることが多いです。さらに、エッジ加工や研磨仕上げを依頼する場合も、追加料金が発生します。これらの加工は、石材の見た目や質感に大きな影響を与えるため、仕上がりにこだわる場合は見積もり時に確認しておくと良いでしょう。   石材カットの料金相場は、素材や加工内容、作業の複雑さによって大きく異なるため、まずは石材の用途や希望する仕上がりを明確にし、業者に具体的な見積もりを依頼することが大切です。特に、大理石や御影石のような高価な素材を使用する場合、カットにかかる費用は予算の中で大きな割合を占める可能性があるため、あらかじめコストを十分に把握しておくことが重要です。     石材カットにかかる追加料金 石材カットにかかる追加料金は、依頼内容や加工方法によって大きく変動します。基本的な直線カットに比べ、特殊な加工やサービスを追加すると、それに伴い費用が増えることが一般的です。これには、特殊な形状や仕上げ、搬送や設置にかかる費用が含まれます。   まず、特殊加工にかかる料金についてです。石材のカットは直線が基本ですが、曲線カットや斜めカットなどの形状が複雑になると、加工の難易度が上がり、それに伴い料金も高くなる傾向があります。曲線カットは特に難易度が高く、熟練した技術者や専用の機材が必要です。そのため、直線カットに比べて時間がかかり、費用も増すことが一般的です。また、斜めカットも同様に、精密な技術が求められるため、追加料金が発生することがあります。さらに、エッジ部分の仕上げ加工や角の丸みをつける加工など、細部にこだわる場合はさらに費用がかかることがあります。   次に、送料や持ち込みの有無による料金差についてです。石材は非常に重い素材であるため、配送にかかる費用が高額になることが多いです。特に、大型の石材や長距離の輸送が必要な場合、送料は無視できないコストとなります。一部の業者では持ち込みによる割引サービスを提供していることもありますが、逆に持ち込みが困難な場合や専用車両での搬送が必要な場合には、追加料金がかかることが予想されます。依頼する前に、輸送費用について業者に確認することが大切です。   さらに、設置サービスや材料の手配を依頼する場合も追加費用が発生します。石材をカットするだけでなく、設置までを依頼する場合、作業の手間や時間が増えるため、設置費用が加算されます。特に、屋外の大規模な工事や重機が必要な設置作業は、工賃が高くなる傾向があります。また、材料の手配を業者に任せる場合、石材の購入費用に加え、手数料や調達にかかる時間なども考慮する必要があります。自分で石材を用意する場合よりも、費用が増える可能性があるため、事前に見積もりを依頼し、細かい条件を確認することが重要です。   石材カットにかかる料金は、基本的な加工費用だけでなく、特殊な加工や運搬、設置などのオプションサービスによって大きく変わります。依頼する前に、どのサービスが必要であるかを明確にし、それに基づいて業者と詳細な相談を行うことで、予算内で納得のいくサービスを受けることが可能です。     石材カット料金を抑える方法 石材カット料金を抑えるためには、いくつかの方法を考えることができます。まず、最も効果的な方法のひとつとして、材料を自分で用意して持ち込むことが挙げられます。石材業者に材料の調達を依頼すると、手数料や取り扱いのコストが上乗せされることが多いです。そのため、自分で信頼できる石材を手配し、業者にカットだけを依頼することで、費用を抑えることができます。特に、大量の石材を使用する場合や特定の石材にこだわりがある場合、この方法は効果的です。持ち込む際には、業者が取り扱える石材の種類や大きさを事前に確認しておくことが大切です。   複数の石材を同時に注文することで、カット料金を割引してもらえる場合もあります。石材のカット作業は、同じ機材や技術を繰り返し使うため、一度に多くのカットを依頼する方が効率が良い場合があります。特に、住宅のリフォームや新築工事などで複数の場所に石材を使用する場合、一括での依頼を検討することが賢明です。業者によっては、一定の数量を超えた注文に対して割引を提供していることもあるため、事前に確認し、可能であればまとめて依頼することが費用を抑える一つの方法です。   施工業者に直接依頼するか、石材カット専門の業者に依頼するかの比較も、コスト削減に影響を与えます。施工業者がカット業務も行っている場合、そのまま依頼する方が手間が少ないと考えるかもしれませんが、専門の石材カット業者に依頼することで、より精密でコストパフォーマンスの高いサービスを受けられる可能性があります。施工業者は多くの場合、カットを外部に委託しており、そこに中間手数料が加わることがあるためです。直接石材カット業者に依頼することで、その中間コストを削減し、結果として料金を抑えられる場合があります。   また、リーズナブルなカットオプションを選ぶことも料金を抑えるポイントです。たとえば、特殊な曲線カットや装飾的なエッジ加工などは、見た目にこだわる場合には必要かもしれませんが、これらの加工は一般的に高額です。用途や場所によっては、シンプルな直線カットで十分な場合もあります。必要最低限のカット内容を選ぶことで、コストを抑えられることが多いです。また、業者によっては、標準的な加工方法の範囲内であれば追加料金がかからない場合もあるため、事前に確認し、無駄なオプションを追加しないように心がけることが大切です。   これらの方法をうまく活用することで、石材カットにかかる費用を抑えることが可能です。予算に合わせた選択を行うためには、業者としっかりとコミュニケーションを取り、見積もりを詳細に確認することが大切です。     まとめ 石材カットを依頼する際には、料金の内訳や必要なサービス内容を事前にしっかりと確認することが大切です。料金は石材の種類や加工の複雑さ、さらに面積や厚みなどによって異なるため、見積もりをしっかりと把握し、予算に応じた選択をすることが重要です。また、複数の業者に相談し、直接依頼するかどうかを慎重に検討することで、余計なコストを削減できる可能性もあります。カットが必要な石材の用途や設置場所によって、必要な加工やサービスも異なるため、最適な方法を選ぶことが重要です。   さらに、材料を自分で調達する場合や、複数のカットを一度に依頼する場合、料金が抑えられることもあります。業者とのコミュニケーションを密にし、具体的な内容や条件をしっかりと伝えることが、スムーズな依頼の実現につながります。石材カットは、正確さと美しさが求められる作業であり、そのために適切なサービスを選ぶことが、長く満足できる結果を得るための鍵となります。適切な業者選びと準備が、石材カットの成功を左右するといえるでしょう。     会社概要 会社名・・・有限会社北尾石材 所在地・・・〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町67 電話番号・・・075-781-9523

中古石材運搬車の選び方と注意点!高品質でコスパの良い中古車両を探す方法 #中古石材運搬車 #中古 #石材 #運搬車

中古石材運搬車の選び方と注意点!高品質でコスパの良い中古車両を探す方法 #中古石材運搬車 #中古 #石材 #運搬車

石材を安全かつ効率的に運搬するためには、専用の車両が欠かせません。特に大きな石材や重量のある石材を扱う場合、運搬車の性能や耐久性が非常に重要です。中古の石材運搬車を選ぶ際には、コストパフォーマンスを重視することが一般的ですが、単に価格だけで選ぶと後々のメンテナンス費用や耐久性に影響が出る可能性があります。   中古車の選定においては、車両の年式や走行距離、メンテナンスの履歴、さらに車両自体の状態を詳細に確認することが求められます。石材運搬には高い負荷がかかるため、エンジンや荷台の状態は特に重要です。また、石材を運搬する用途によって、適切なサイズや性能が異なるため、運搬する石材の種類や量に応じた選び方をする必要があります。適切な運搬車を選ぶことで、石材の安全な輸送が可能となり、効率的な作業が実現します。     中古石材運搬車のメリットとデメリット 中古の石材運搬車を選ぶ際には、いくつかのメリットとデメリットが存在します。まず、中古車を選ぶ最大のメリットは、購入費用を大幅に抑えられる点です。新車に比べると価格が低く抑えられるため、初期投資を軽減でき、コスト削減を図りたい事業者にとっては大きな魅力となります。特に予算が限られている場合、中古車は経済的な選択肢として非常に有利です。   次に、中古車の場合は、在庫があれば即納品が可能である点も大きなメリットです。新車の場合、注文から納車までに数ヶ月を要することがありますが、中古車であれば、すでに市場に出回っている車両を迅速に手に入れることができます。これにより、急ぎで石材運搬車を必要とする場合でも、短期間で準備が整う可能性が高くなります。   環境面でのメリットも挙げられます。中古車を購入することで、車両の再利用が促進され、資源の節約や廃棄物の削減に貢献することができます。新しい車両を製造するためには、多くのエネルギーと資源が必要ですが、中古車を使用することでその負担を軽減することができ、環境に優しい選択となります。   一方で、中古の石材運搬車にはデメリットも存在します。まず、メンテナンスや修理費用がかかる可能性がある点が挙げられます。中古車はすでに一定の使用期間があるため、劣化した部品や摩耗した箇所があるかもしれません。そのため、購入後にメンテナンスを頻繁に行う必要がある場合もあります。特にエンジンやブレーキなどの重要な部分に関しては、事前に状態をしっかり確認することが求められます。   中古車を選ぶ際には、適切な車両を見極める力が必要です。選び方を誤ると、すぐに修理が必要になるような車両を選んでしまい、かえってコストがかかる場合があります。特に、石材運搬という重量物を扱う特殊な用途に使用するため、選ぶ車両の積載量やエンジン性能、荷台の強度などを正確に判断しなければなりません。これらのポイントを無視してしまうと、適切な性能を発揮できず、作業効率が低下する可能性があります。   中古車を選ぶ際には、車両の年式や走行距離だけでなく、過去のメンテナンス履歴や修理履歴をしっかり確認することが重要です。これにより、どの程度のメンテナンスが必要か、今後どのくらいの費用がかかるかを予測することができます。信頼できる販売元から購入することも、リスクを最小限に抑えるための重要な要素となります。   中古の石材運搬車にはコスト面や納品スピード、環境面でのメリットがある一方で、メンテナンス費用や適切な車両選定の難しさといったデメリットがあることを理解しておくことが大切です。     石材運搬車の選び方ガイド 石材運搬車を選ぶ際には、いくつかの重要なポイントを考慮する必要があります。まず、車両のサイズや積載量の確認が欠かせません。運搬する石材の大きさや重量によって適切な車両が異なるため、実際に取り扱う石材の量や質を基準に車両を選定することが重要です。積載量が過少な車両を選ぶと、運搬の回数が増え、作業効率が低下します。逆に、必要以上に大きな車両を選ぶと、コストや燃費の面で無駄が生じる可能性があります。実際の業務に合わせた適切なサイズと積載能力を持つ車両を選ぶことで、効率的かつ安全な運搬作業を実現できます。   エンジン性能と燃費も大きな選定基準となります。石材の運搬は重量物を扱うため、エンジンに高い出力が求められます。エンジン性能が不足していると、石材の運搬中に車両がスムーズに走行できず、作業に支障が出る可能性があります。さらに、燃費は長期的な運用コストに直結するため、燃費の良い車両を選ぶことで、コスト削減につながります。特に遠距離での運搬が多い場合には、エンジンの出力と燃費のバランスが取れた車両を選ぶことが必要です。また、エンジンの耐久性やメンテナンスの容易さも選定時に考慮するべきポイントです。   荷台の形状や材質も、選定時の重要な要素です。石材はその形状や大きさにより、運搬時の荷台に与える負荷が異なります。例えば、大型で不規則な形状の石材を運ぶ場合は、荷台がしっかりと固定できる形状や、耐久性の高い材質が必要です。鋼鉄製やアルミ製の荷台は、それぞれの用途に応じた特徴がありますので、扱う石材の種類や運搬方法に適したものを選ぶことが大切です。荷台の高さや角度の調整機能があるかどうかも、効率的な作業を行うためのポイントとなります。   運転のしやすさと安全性も選定基準として欠かせません。石材運搬車は長時間の運転や狭い場所での取り回しが必要な場合が多いため、運転がしやすい車両であることが重要です。特に、運転席からの視界の確保や、操作系の配置などが快適であれば、作業効率も向上します。安全性に関しては、車両が石材の重量をしっかりと支えられるかどうか、ブレーキやサスペンションの性能が十分かどうかを確認することが必要です。また、運搬中の揺れや振動が石材に与える影響を最小限に抑えるための工夫がされているかも重要なチェックポイントです。     中古石材運搬車を購入する際の注意点 中古の石材運搬車を購入する際には、いくつかの重要なポイントに注意する必要があります。まず、年式や走行距離は車両の状態を判断する上での基本的な指標となります。古い年式の車両や走行距離が長い車両は、部品の摩耗やエンジンの劣化が進んでいる可能性が高く、これに伴いメンテナンスの頻度が増えることが考えられます。年式や走行距離が新しい車両であれば、それに比例してトラブルの発生リスクが低くなる可能性があるため、選定時に考慮すべき要素です。ただし、年式や走行距離が同じでも、車両の使用環境やメンテナンスの状態によって大きく異なるため、一概に新しさだけで判断することは避けるべきです。   過去のメンテナンス履歴の確認も重要です。定期的なメンテナンスが行われていたかどうかを確認することで、その車両が今後どれだけ信頼できるかを判断できます。メンテナンス履歴は、通常は整備記録として保存されている場合が多いため、購入前に整備記録簿をチェックし、オイル交換やタイヤ交換などの定期的な整備が行われていたかを確認しましょう。これにより、車両が適切に管理されているか、また今後どのような修理が必要になる可能性があるかを予測することができます。   信頼できる販売業者を見極めることも非常に重要です。中古車の購入においては、販売業者の信頼性が大きく影響します。まず、過去の取引実績や口コミなどを参考にして、評判の良い業者を選ぶことが大切です。また、実際に車両を確認する際には、説明が丁寧で、車両の状態を隠さずに正直に伝えてくれる業者を選ぶと安心です。さらに、複数の業者を比較して、価格だけでなく提供されるサービスや保証内容をしっかりと確認することが、失敗を防ぐためのポイントです。   中古車を購入する際には、保証やアフターサービスについても注意して確認する必要があります。中古車の場合、新車と違って保証がつかないことが一般的ですが、信頼できる業者は独自の保証サービスを提供している場合があります。この保証があるかどうかは、購入後のトラブル発生時に大きな違いを生むため、保証内容を詳しく確認することが大切です。特に、エンジンやブレーキなどの主要な部分に対する保証が含まれているかどうかを確認することで、購入後の安心感が得られます。また、アフターサービスの内容についても、購入後のメンテナンスや修理対応をスムーズに行ってくれる業者を選ぶと、長期的に安心して車両を使用できます。     中古石材運搬車の価格相場と予算設定のポイント 中古の石材運搬車を購入する際、価格相場を理解し、適切な予算を設定することは非常に重要です。まず、石材運搬車の市場における価格帯は、車両の年式や走行距離、エンジン性能、荷台の状態などに大きく左右されます。一般的に、年式が新しく走行距離が少ない車両ほど高額になり、逆に年式が古く走行距離が多い車両は低価格になる傾向があります。しかし、年式や走行距離だけでなく、車両のメンテナンス状況や過去の使用環境によっても価格が変動するため、単純に新しさだけで判断することは避けるべきです。   中古石材運搬車の価格帯としては、安価なものは数十万円程度から、高性能で新しめのものは数百万円を超える場合もあります。特に、特定の石材を運ぶためにカスタマイズされた車両や、高機能なエンジンや装備を備えた車両は高値で取引されることが多いです。中古市場では、このような特殊用途の車両は需要が高いため、価格が予想以上に上がることもあります。購入者は、自分の業務に必要な機能を明確にし、無駄な機能にお金をかけることがないようにすることが重要です。   予算設定においては、単に購入費用だけを考慮するのではなく、今後発生するであろうメンテナンス費用や部品交換費用も見込んでおく必要があります。中古車は、新車に比べて購入時の価格は安いですが、長期的な視点で見た際に、維持管理にかかる費用が重要なポイントとなります。そのため、購入時にいくらか余裕を持った予算を設定し、予期せぬ修理費用やメンテナンス費用に備えることが大切です。また、予算に対してどの程度まで交渉の余地があるかを理解しておくことで、より良い条件で購入できる可能性が高まります。   交渉においては、販売業者との信頼関係を築くことが重要です。価格交渉を行う際には、単純に値下げを要求するのではなく、車両の状態や市場価格をしっかりと把握した上で交渉することが効果的です。例えば、走行距離が多い車両や、メンテナンスが必要な箇所がある車両については、その修理費用を見込んで価格交渉を行うことができます。交渉の際に、具体的な根拠を提示することで、より現実的な価格を引き出すことが可能です。また、複数の業者を比較して、競合の価格情報を活用することで、価格や条件の交渉が有利になることもあります。   購入後の保証やアフターサービスについても交渉の一環として確認することが重要です。特に、エンジンや荷台部分など主要な部分に不具合が発生した場合の対応を事前に確認しておくことで、予期せぬトラブルに備えることができます。保証がある場合は、それが価格に含まれているのか、追加で費用がかかるのかも確認することが大切です。     まとめ 中古石材運搬車を選ぶ際には、さまざまな要素を慎重に検討することが求められます。車両の年式や走行距離は基本的な指標となりますが、それだけでなく、メンテナンス履歴や車両の全体的な状態も非常に重要です。適切な車両を選ぶためには、過去の使用状況を詳しく調べ、どの程度のメンテナンスが行われていたかを確認することで、今後の維持費や修理費を見積もることができます。また、信頼できる販売業者を選ぶことも、良質な中古車を手に入れるための大切なポイントです。評判や実績をもとに、適切な業者を選びましょう。   購入後のアフターケアや保証内容も確認しておくことが長期的に車両を使用するための鍵となります。特に、石材の運搬という負荷のかかる作業に耐えられる車両を選ぶことで、効率的な業務遂行が可能になります。中古車を選ぶことでコストを抑えることができる一方で、長期的な視点でのメンテナンスコストや修理費用も視野に入れる必要があります。   車両選びに際しては、最終的にどれだけのコストパフォーマンスを発揮できるかが重要な判断基準となります。計画的な予算設定と効果的な交渉を通じて、自社に最適な石材運搬車を見つけることができれば、業務の効率化だけでなく、長期的なコスト削減にもつながります。     会社概要 会社名・・・有限会社北尾石材 所在地・・・〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町67 電話番号・・・075-781-9523

千日回峰行

千日回峰行

先日、千日回峰行に挑んでいらっしゃる釜堀住職が堂入りを達成されました。 テレビなどでご覧になった方も多いと思います。 今月は千日回峰行についてお話します。死への旅立ちとして、白浄衣のいでたちで挑む比叡山千日回峰行。 この世にこれ以上、過酷な修行はないといわれています。 実際、五年目で迎える堂入りは生きたままの葬式といわれ、九日間の断食・断水・不眠・不臥は、医学的には不可能とされています。 しかし、不可能といわれても、実際に行を完遂される大阿闍梨だいあじゃりさんが戦後だけでも13人もおられるのだから、医学的根拠も用をなしません。  千日回峰行とは、七年間に千日をかけて四万キロ、ちょうど地球一周の距離を歩きます。 最初の三年間は、一年間に百日ずつ、比叡の山上山下三十キロを拝して歩きます。 午前一時に出峰して、東塔ー西塔ー横川ー日吉大社ー無動谷まで、闇の中を三十キロ。 この三年間で三百日を終了します。 四・五年目は、同様の行を一年間に二百日ずつ歩きます。 四年目に五百日、五年目に七百日を終了後、明王堂での堂入りとなります。 断食・断水・不眠・不臥で九日間。 一日三度、一回二時間ほどのおつとめ以外は、死者扱いの逆さ屏風のもとで十万回、陀羅尼を唱えます。 日に一度、午前二時に閼伽井に水を汲みに行きます。 六年目、再び一年間に百日、赤山禅院までの往復を加えた五十キロを歩きます。 この時点で八百日終了。 最後の七年目は、一年間に二百日、初めの百日間は一日八十四キロを巡る「京都大回り」の難行が待っています。  一日目午前零時、山坊を出て通常コースの五十キロを巡り、小休憩後、赤山禅院へ下ります。 午前十時、赤山禅院を出発して薬師堂ー真如堂ー八坂神社ー清水寺にて昼食一時間ののち、午後は六波羅蜜寺ー因幡薬師ー五条天神ー神泉苑ー出世稲荷ー北野天満宮ー西方尼寺ー上御霊神社ー下鴨神社ー河合神社ー十八時頃、宿舎の御所の東近辺の寺院到着。 そして翌朝午前零時、一日目の逆コースをとり、赤山禅院より比叡山へ、山上の通常コースを巡り自坊へ。  この行程が百日間続き、のちの百日間は通常の三十キロを歩き、千日を終え満行となります。 現在、千日回峰行に挑まれている釜堀師は、順調なら2017年9月に満行を迎えられます。 石屋のないしょ話でした・・・。

錦小路

錦小路

「錦小路」と言えば、「京の台所」と呼ばれる錦市場を連想します。 錦市場は、高倉通りから寺町通りまで、東西に約390メートル延びる間に130余のお店が軒を並べています。 鮮魚・精肉・漬物・京野菜・おばんざいなど食料品店が狭い通りの両側にひしめき合っています。 今月は「錦小路」についお話します。 この「錦小路」という名前は、いかにも京都らしい雅な地名ですが、かつては思いもよらない珍名がついていたのです。 なんと「糞小路くそこうじ」と呼ばれていたのです。 よりによって市場に「糞」の名とは、あまりにも不釣合いです。 平安時代末期の説話集「宇治拾遺物語」にその謂れが記されています。 その中に「清徳聖奇特の事」という説話があります。 清徳という僧は、母が亡くなったため、愛宕山にこもり絶食して成仏祈願しました。 3年後、山を下りるとあまりの空腹のため畑の葱を取って食べていました。 そこへ畑の持ち主が出てきて、尊い僧が葱を食べているのに驚き、さらに100升の米を炊いて差し出すと、清徳聖はぺろりと平らげてしまいました。 この話を聞いた右大臣藤原師輔は、本当にそんなに食べられるのか確かめたくなり、清徳聖を招いて食べさせることにしました。  清徳聖が師輔邸に参上するとき、実はその後ろに餓鬼や犬・狼・カラス・虎などの畜生が数万もついてきているのですが、他の者にはまったく見えていません。 100升の米が出されると、清徳聖は食べていないが、後ろにいる餓鬼や畜生が全部食べてしまいます。 しかし他人には、清徳聖が食べているように見えたそうです。 清徳聖たちは邸を出て、現在の錦小路にやってくると、後ろの餓鬼や畜生たちが、今度は糞を撒き散らしました。 そこで、人々がこの通りを「糞小路」と呼ぶようになったそうです。  これを聞いた当時の天皇は、なんとも品のない名なので、変えようと思われました。 四条通りの南には「綾小路」という風雅な名の小路がありました。 そこで、この綾小路と対になるようにと「錦小路」と名付けられたそうです。  このような説話が伝わっているものの、実際には昔このあたりは具足類を扱うお店が並んでおり、「具足小路」と言われていました。 この「具足」が転訛して「糞小路」となったようですが、1054(天機喜2)年に後冷泉天皇の宣によって「錦小路」に改称されたと伝えられています。  石屋のないしょ話でした・・・。 石屋のないしょ話

乳歯

乳歯

皆さんは乳歯が抜けた時、どうしましたか? そのままゴミ箱に捨てた方は少ないことと想います。 屋根の上に投げたり、縁の下に投げ込んだりされたのではないでしょうか? 今月は、抜けた乳歯についてお話します。 歯を捨てずに投げるのは、立派な永久歯が生えそろうことを願うおまじないのようなものです。 地方によって、色々な投げ方があります。 もっとも多いのは、下歯を屋根の上に投げ、上歯を縁の下に投げるという方法です。 これは、下歯は上に向いて伸び、上歯は下に向いて伸びてほしいという願いを込めたものです。 逆に、上歯を屋根に投げ、下歯を土に埋める地方もあります。 他には、トイレの屋根に投げ入れる地方もあれば、「ねずみの歯に代えてくれ」と唱えたり歌ったりしながら投げる地方もあります。 これは、ねずみのような丈夫な歯を望むおまじないです。 「すずめの歯と代えてくれ」と唱える地方もあります。 じつは、ねずみの歯は、この風習の謎を解く鍵でもあります。 歯を投げた先である屋根も縁の下も、ねずみの通り道です。 屋根や縁の下に歯を投げるにも、ねずみの歯にあやかるためと考えられるのです。 このおまじないは、日本だけでなく、世界的に存在します。 中国や朝鮮半島にも同様の風習があり、ドイツには抜けた歯をねずみの穴に入れる風習がありました。 やはり、ねずみのような丈夫な歯を望んだのでしょう。 イギリスやアメリカでは、夜寝るときに枕の下に抜けた歯を入れておく風習があります。 すると、寝ている間に、妖精が枕元に現れて抜けた歯を預かるかわりに、コインを置いていくとされています。 国は違えど、我が子の歯を大切に思う親の気持ちは変わりませんね。  石屋のないしょ話でした・・・。

めやみ地蔵

めやみ地蔵

四条大橋たもとの南座を東へ、八坂神社の方向へ向かって歩くと、大和大路の東にお寺があります。 今月は、祇園j商店街の中に唯一あるお寺「仲源寺ちゅうげんじ」についてお話しします。 地元祇園町では「仲源寺さん」、京都の人々には「めやみ地蔵さん」「泣き地蔵さん」として親しまれていますが、それだけではありません。 眼病平癒にかけては、全国にその名を知られています。 本堂に安置されているお地蔵さんこそが、このお寺のご本尊である目疾めやみ地蔵なのです。 通称「泣き地蔵」。その由来は、一丈六尺のお地蔵さんの玉眼入りの右目が、赤く充血して涙を流しておられるように見えることからです。 いつの頃からか「眼病に悩まされている人々の身代わりになって、お地蔵さんが目を患っている」と言い伝えられてきました。 以来、眼病に悩む人々が祈願に訪れ、また眼病が治ったとして、お礼詣りに来られる人も多いそうです。 ところが、この目疾地蔵、古くは雨止み地蔵として、鴨川とは切っても切れない縁がありました。 現在の祇園町が形成されるずっと以前、鎌倉時代のことです。 もとは四条大橋たもとから北東に通じる畔道にお堂があり「畔くろの地蔵」と呼ばれていました。 昔は暴れ川だった鴨川。 何度も氾濫するたびに、それを鎮めてくださったお地蔵さんとして祇園村の人々がお堂を建て、信仰してきました。 当時は八坂神社や知恩院にお詣りする人がにわか雨にあうと、雨宿りできる場所はここしかなかったのでしょう。 地蔵堂で雨宿りをしたことから、雨止み地蔵とよばれるようになったといいわれています。 雨止み地蔵が本来で、「あめやみ」「めやみ」・・・と目疾地蔵に変わったと聞くと、駄洒落のようで拍子抜けしますが、日本の信仰には、案外こういう例が多いのです。 鴨川の氾濫から眼病まで、時代時代の人々の苦しみを映し出しているようでもあります。  石屋のないしょ話でした・・・。

若冲のお墓

若冲のお墓

2000年に行われた没後200年記念の展覧会以降、いまだ人気が衰えることのない伊藤若冲。 今月は、石峰寺にある伊藤若冲のお墓についてお話しします。 伊藤若冲といえば、代表作である『動植綵絵』で綿密な画風を見せたかと思えば、鶏をはじめ様々な動物をユーモラスな筆致で描くなど、その絵は見る者の心を捉えて離しません。  錦市場に生まれ、青物商を営んでいた若冲が本格的に絵を学び始めたのは30代の頃と言われており、同時期に交流が始まった相国寺の大典禅師から、若冲の号を得たと推測されています。 若冲は相国寺に『釈迦三尊図』と『動植綵絵』(現在は宮内庁所有)を寄進しているほか、自身で寿蔵(生前墓・非公開)を建てています。 大典禅師の残した記録によると、若冲は絵を描くこと以外、俗なるものには全く興味を示さなかったそうです。  晩年は石峰寺に庵を結び、約10年の歳月をかけて五百羅漢の下絵を製作。 石峰寺の密山和尚の協力も得ながら石像群を完成させ、没後同寺に葬られました。 墓石に刻まれている「斗米菴」とは、米一斗の報酬で絵を描いたことからつけられた別号である。 また、墓石の傍らには筆の形をした筆塚が建てられていますが、これは幕末三筆の一人、貴名海屋が若冲の遺言に従って若冲の生涯を記したものです。 冒頭、「奇ナルカナ若冲居士」と始まり、時に「奇想の画家」と評される若冲の人となりをよく表しています。 現在も石峰寺を訪ねれば、若冲のl眠る裏山に五百羅漢石像を見ることができます。 柔和な表情の石像たちは、若冲のお墓を優しく見守っているようでもあります。 石屋のないしょ話でした・・・。

船岡山

船岡山

京都市の北区紫野、大徳寺の南西にある標高112メートルの小高い丘が船岡山です。山裾から山頂までわずか5分ほどで登ることができ、山頂には織田信長を祀る建勲神社があります。 山頂からは京都の町並みが一望でき、五山の送り火のときは「左大文字」の送り火が間近に見える絶好の観賞スポットです。今月は「船岡山」についてお話しします。  優雅な山容が舟形に似ていることから、古来「船岡山」と名付けられました。 平安朝では王侯貴族の散策の地として愛され、若菜摘みや蕨取りを楽しむ光景は、和歌にも多く詠まれています。 清少納言も『枕草子』に「岡は思いつく中で船岡山が一番いい」と称えています。 また、平安朝では都の中心を走る朱雀大路の北の基点とされました。 朱雀大路は、南の羅生門から北の船岡山までを結んだ通りでした。  桓武天皇は平安京を風水思想によって造営しましたが、その四神相応の法則によると、東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武の聖歌がいて四方向を守るといわれています。 青龍は川、朱雀は湖、白虎は道、玄武は山に対応します。 北を守る玄武を船岡山に見立てたのです。 玄武は亀と蛇が合体した聖獣で、北の山に生息すると言われています。   船岡山は、古代では神が宿る山で、邪気から都を守る魔物封じの霊山として崇められていました。 その証拠に、今でも山頂には古代の祭祀遺跡である巨石の磐座が残されています。 この磐座で、古代の人々は神を祀り、神のお告げを聞いたのです。  霊山として崇められた船岡山でしたが、平安期も後半になると、山の麓は蓮台野という葬送の場所となり、平安京の人々の死体がこの地に捨てられ野ざらしにされる場所と化したのです。 さらには、保元の乱(1156年)では、源為義、頼仲父子らが斬首された処刑場となったのです。 中世には応仁の乱(1467~77年)で西軍の砦が築かれ、戦乱の舞台となって多くの戦死者の屍がここに積み上げられたのです。   そのため、怨霊が彷徨う山として忌避されるようになりました。 桓武天皇がつくった平安京の来たの基点が、平安京を焼き尽くした応仁の乱の基点となったのは、何かの因縁であるのかもしれません。  現在も山上はひっそりと静まり、建勲神社の境内も、緑が生い茂る山道もどこか幽玄な雰囲気が満ちています。 石屋のないしょ話でした・・・。

高瀬川

高瀬川

天気のよい日中は、初夏を感じる新緑の綺麗な季節になってきました。 今月は木屋町通りに沿って流れる「高瀬川」についてお話しします。 実はこの高瀬川、木屋町沿いだけではなく太秦・西院・壬生・伏見まで、京の町を縦横無尽に流れているのです。 高瀬川は三つあります。 高瀬川・東高瀬川・西高瀬川です。 しかし、五つあるという人もいます。 高瀬川・東高瀬川・西高瀬川・古高瀬川・旧高瀬川です。 高瀬川は三つか五つか? これはどちらも正解なのです。 高瀬川といえば、もちろん角倉了以が開削した運河です。 これが作られたきっかけは慶長十五年(1610)、方公寺大仏殿再興の巨材運搬に鴨川を利用する「鴨川水道」を開いたことでした。 この水路は、伏見から三条大橋の下まで延びていました。 しかし、これは鴨川の川底を深くしたもので、上流から土砂がたまるなどして限界がありました。 そこで、鴨川に平行して別の運河を切り開いたのが高瀬川なのです。 木屋町二条から東九条まで延びて鴨川に合流し、さらに鴨川を横断して竹田を通って伏見で淀川につながります。 これにより、大阪と京の舟運がつながったのです。 さて、西高瀬川のほうは、桂川から京の市中へ材木や農産物を運び入れ、下流部は鴨川から伏見へ届く、大きな役割を果たした運河でした。 これは角倉了以が鴨川以前に大堰川を開削し、丹波山中と京をつないだその流れの延長線上です。 西高瀬川は幕末の文久三年(1863)、嵯峨から現在の南太秦小学校近くを通って四条通り沿いを流れ、天神川にそそぐように開削されました。 しかし、それから七年後の明治三年、流路を北よりの三条通りに変更しました。 そこで、三条通りを流れる新しい西高瀬川に対し、元の流路を古高瀬川と呼ぶようになったのです。 千本三条から四条間に材木商が軒を並べたのは、この西高瀬川開削によるものです。 そして東高瀬川。 こちらも似た運命にあります。 角倉了以が遺した高瀬川のうち、流れを鴨川の西沿いから東沿いに変える中流域以降を東高瀬川といいます。 この終着点に近い伏見の流路が、昭和初期西側に付け替えられました。 これによって、新しい流れを東高瀬川(当初は新高瀬川と呼ばれていました)、そして役目を終えた元の流れを旧高瀬川と呼ぶようになったのです。  いずれの高瀬川も、その昔の舟運という大役を無事務め上げて、今は静かに余生を送っています。 石屋のないしょ話でした・・・。

天使突抜

天使突抜

春の日差しが心地よくなってきましたね。 皆さんはお花見に行かれましたか? 今月は京都市内にある、大胆な地名「天使突抜てんしつきぬけ」についてお話しします。 京都の中心部を東西南北に貫く通りは、古くは平安遷都の際につくられたものと、新しくは豊臣秀吉の京都大改革の際につくられたものです。 そのため、いまでも市街地の通りにはその当時につけられた古くて面白い地名や通り名がたくさん残っています。その変わった通り名、町名の代表格が「天使突抜」です。 下京区の西洞院通と油小路通の間の南北の通りが「天使突抜通」です。 この通りに沿って「天使突抜」から「天使突抜四丁目」まで四つの町が南北に長く並んでいます。  この名は、豊臣秀吉の強引とも言える所業の結果です。 この近く西洞院松原を下がったところに五条天神宮があります。 平安遷都の年、弘法大師が都の鎮護のために創建したといわれ、かつて「天使の社」と呼ばれていました。 この天神宮の祭神は大己貴命・少彦名命・天照大神の三神で、天から降った神であることから「天使」とされたのです。 天神宮から清水寺までの五条大路は、平安時代の京都でも最も賑わった通りで、清水寺の観音様と五条天神の天使さまがとが当時の民衆の信仰の双璧だったのです。  ところが、一五九○(天正一八)年、天下統一を成し遂げて関白となった秀吉は、京都の大改革を強引に推し進めました。 東西南北に新しい通りを貫通させて短冊形の町をたくさんつくりました。 そのため、寺の多くは京極大路に移転を余儀なくされたのです。 五条天神は移転することは免れましたが、一本の道が境内の中を貫通することになってしまいました。 秀吉は、弘法大師が建てた天神宮を串刺しするかのように、道を通して境内を真っ二つに割ったのです。 天神を信仰してきた人々はこの秀吉の所業にあきれ果て、また恐れをなしたそうです。 そして新い通りの両側にできた町に皮肉を込めてつけたのが「天使突抜」という地名なのです。 その後、五条天神宮は一八六四年に蛤御門の変で本堂が焼失。 その後再建されましたが、明治以後は区画整理によって境内は狭くなり、現在はビル街のなかにひっそりとたたずんでいます。 石屋のないしょ話でした・・・。

雨乞祭

雨乞祭

今月は九日に貴船神社で行われる「雨乞祭」についてお話しします。 「雨たもれ、雨たもれ、雲にかかれ、鳴神じゃ」二人の神職がそう唱えて榊を神水を満たした桶に浸し、天に向かって高く水をまきます。 三人の神職が鉦・太鼓・鈴を鳴らし、大きな声で唱和します。 「雨乞祭」は五穀豊穣と、順調な降雨を祈る祭礼で、かつては奥宮山中の雨乞の滝で行われていましたが、明治に入り本殿での神事となりました。水を司るたかおかみの神を祀る貴船神社は、御所の御用水となる加茂川上流にあたり、朝廷から尊崇をうけて嵯峨天皇のときに長雨には白馬、日照りには黒馬が奉納されたという記録が残されています。 生きた馬にかわり「板立馬」が奉納され、これが絵馬の起源となりました。 石屋のないしょ話でした・・・。

参拝の手順

参拝の手順

現代では神社にお参りするというと、多くの人が初詣を思い浮かべるのではないでしょうか?お宮参りや七五三などのお祝い事・合格祈願や旅先の土地の有名な神社を訪れることもあるでしょう。今月は知っているようで知らない「お参りの手順」についてお話しします。 日常生活では、神社をひんぱんに訪れる人は少ないかもしれませんが、日本人なら神社にお参りするときの正しい手順は心得ておきたいものです。 おおまかにいうと、まずは「浄め」次に「参拝」となります。 浄めは、神社の境内の手水舎で行います。 手水舎の手水鉢の前に来たら、軽く一礼し、右手で柄杓を取って水をすくい、その水を左の手のひらにかけて洗い浄めます。 そのあと、左手で柄杓を取り、同じ要領で右手を浄めます。 次に右手で柄杓を取り、左の手のひらに水を注ぎ、その水で口をすすぎます。 使った柄杓は、そのままもとの位置に戻してはいけません。 いったん垂直に立てて、残りの水で柄の部分を浄めてから、元の位置に戻して一礼します。こうして身を浄め、本殿へと向かうわけですが、参道を進むとき、その中央を歩いてはいけません。 参道の中央は神様の通られる道だからです。本殿まで進んだら参拝です。 本殿の前に立ち、軽く一礼します。 このあと、お賽銭箱にお賽銭を入れ、鈴を鳴らして拝礼をします。 拝礼の作法は「二拝二拍手一拝」が基本です。 つまり、二度お辞儀をして、二度手を鳴らしたのち、両手を合わせてお祈りをして、もう一度お辞儀をするのです。このうち拍手は、まず胸の前で両の手のひらを合わせ、右手をわずかに下にずらしながら、両手を肩幅の広さまで広げ、両の手のひらを打ちます。 本殿から立ち去る前に、本殿に軽く一礼して参拝が終わります。  石屋のないしょ話でした・・・。

門松

門松

明けまして おめでとうございます。 今年もgood-stoneをよろしくお願い致します。 2015年1回目の《石屋のないしょ話》は、「門松」についてお話しします。 家の門口や玄関先に飾られる門松は、年神様のための目印です。 門松は神様が宿る「依代」であり、注連縄は祭場の印だったのです。 わかりやすく説明すると、お正月とは年神様が滞在している期間のことで、その期間中は各家庭が祭場、つまり神社のような場所になるのです。 しかし門松を飾っておかないと、年神様が迷って家に降りてきてくれないかもしれません。 それで、お正月には必ず家の周囲に飾りをつけることになったのです。 ところで門「松」というくらいだから、神様の宿る木はもっぱら松ということになっていますが、松が飾られるようになったのは平安時代以降のことです。 それ以前は、杉や竹、椿、榊などの常緑樹なら何でもよかったようです。 それまでは「門杉」とか「門椿」も存在したのです。松だけに限定されたのは、もともと松が縁起のいい木とされていたからで、加えて竹もまっすぐに伸びて縁起がいいということで、松に添えられるようになったのです。 こうして現代のような門松が生まれたのです。 門松を立てる場所は、門や玄関先が一般的ですが、なかには屋内に立てる地方もあります。 クリスマスツリーのように、室内に大きな松をドーンと立てるのです。 皆さんのご家庭にも年神様が迷わず降りてこられるように、ちゃんと目印をつけておきましょう。 石屋のないしょ話でした・・・。

二枚舌

二枚舌

一年過ぎるのは早いもので、もう十二月です。 皆さんた風邪などひかないように気をつけてください。 今月は「二枚舌」についてお話しします。 小さいとき「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」と両親に言われた経験がある方は多いと思います。 「閻魔様に舌を抜かれる」というのは、この「二枚舌」からきたようです。 「二枚舌」のいっぽうを抜くことで、一枚だけの健全な舌に戻しましょう、ということだったのでしょうか? 一枚しかない舌を釘抜きのような怖い道具で抜き取ってやろう、などと脅すつもりは閻魔様にはなかったのかもしれません。 このように閻魔様が登場するのは「二枚舌」がそもそも仏教用語を語源としているからです。 今、一般に使われている「二枚舌」の意味を調べると「嘘をつくこと」と出ていますが、単なる嘘つきというよりは、あっちではこう言い、こっちではこう言うといったあちらこちらで矛盾したことを平気でいうような嘘のつき方です。  しかし、もともとの仏教用語には、嘘をつくという意味はなかったのだそうです。 「二枚舌」はサンスクリット語を訳した言葉で、仏教では「両舌りょうぜつ」ともいわれています。 そして、これは仏教でいわれる十悪業のひとつで、二人の人にそれぞれ別のことをいい、その結果、二人の仲を裂くことを意味するそうです。 つまり、悪口や陰口をコソコソ言うのも「二枚舌」という十悪業のうちなのです。 「嘘をつくと閻魔様に舌をぬかれますよ」ではなく、「悪口をいうと閻魔様に舌を抜かれますよ」にすべきだったのかもしれませんね。  ところで、仏教の十悪業には「二枚舌」と別に「悪口」というのもあります。 現在使われている「悪口」という言葉は、仏教でいえば「二枚舌」のことです。 では、仏教でいう「悪口」とは何を指すのでしょうか? これは、「わるくち」ではなく「あっく」と読みます。 直接、相手に向かって悪い言葉を吐き、人を傷つける行為をいうのだそうです。 そういえば、「悪口祭」を「あくたれ祭」とか「あっこう祭」と呼びますね。 これはかつて八坂神社でも大晦日の除夜祭として行われていたもので、この種の祭りは全国に見られます。 暗闇の中、すれちがう見知らぬ他人同士が互いに悪口を言い合い、ののしり合い、言い負かしたほうが勝ちだとか。 新年の縁起をかついで悪口を言い合うというユニークな祭りです。 石屋のないしょ話でした・・・。

化野念仏寺

化野念仏寺

竹林の古道、紅葉の寺が情緒あふれる嵯峨野。 四季を通じて訪れる人の心を和ませる名所ですが、この嵯峨野に「化野あだしの」という地名があります。今月は「化野」についてお話しします。 「化」という字は「化す」「化ける」の意で、「生が化して死となる」ことを表しています。 読み方の「あだし」は、「はかない」「むなしい」という意味です。 つまり「化野」には「この世は人が生を受けて死んでゆくはかないもの。 だから再び生まれ化すことや極楽浄土に往生することを願う」という古代人の深い思いが込められているのです。    平安時代、庶民は貧しかったうえ、天災や飢饉が続いて行き倒れになる人や野垂れ死にする人が多かったのです。 道端や野に捨てられた遺骸はそのまま放置され、疫病を蔓延させました。 華やかな暮らしをしていたのは貴族だけで、平安京には至るところに腐りかけた死体がゴロゴロあったのです。 それでも、平安京には葬送の場が三ヶ所しつらえられていました。 東の鳥辺野、北の蓮台野と西の化野で、化野は風葬の地であったのです。 人々はこの三ヶ所に死体を運んで野ざらしにし、風化にまかせていました。   八一一(弘仁二)年、嵯峨野を訪れた弘法大師は、野ざらしにされた死体を哀れみ、疫病の発生を防ぐためにも人々に土葬を教え、死体を埋葬して供養のために一千体の石仏を祀ってここに如来寺を創建したと伝えられています。 後に法然が念仏道場にしたので「念仏寺」と改められました。 化野念仏寺には、現在も八○○まる体に及ぶ石仏・石塔群がびっしりと境内を埋め尽くすように立ち並んでいます。 平安時代の名もない行き倒れの遺骸を埋葬して立てた無縁仏郡で、その奇怪な光景は賽の河原を連想させます。 石屋のないしょ話でした・・・。

朱肉は赤

朱肉は赤

日中は暑いぐらいですが、朝晩は冷え込む季節になってきました。 皆さん風邪などひかないように気をつけて下さい。 今月は、印鑑を押すのに朱肉を使う深い理由についてお話しします。 色にはそれぞれの働きがあり、人間の身体や心に影響を及ぼすといわれています。 それを研究するのが「色彩心理学」と呼ばれる学問分野です。 その研究によると、青には気持ちを抑制し、冷静にさせる作用があり、緑には安らぎを与え、心をリラックス状態に招く働きがあるそうです。 一方、赤には興奮作用があります。 赤はファイトが湧いてくる色なのです。 ところで、書類に印鑑を押すときには、決まって赤が使われています。 正式な書類に、青や緑の印肉を使ってハンコを押す人はいません。 それは何故でしょうか? 日本では古くから、赤い色は太陽や燃える炎に通じるところから、おめでたい色と考えられてきました。 そこから、魔除けとしても赤が使われ始め、神社の鳥居やお札、ダルマも赤く塗られるようになりました。 印鑑に用いられる赤もこれと同じで、おめでたい色であり、魔除けの意味があるから使われ始めたわけです。 色彩心理学に照らし合わせて考えても、印鑑に赤を用いるのは理にかなった選択といえます。 とりわけ、実印を押すのは家を買うとか、会社を立ち上げるなど、人生の大きな選択をした瞬間です。 そんなときに、青い朱肉で印鑑を押して「いや待てよ」と妙に冷静になっても、緑の朱肉で「まあ、ゆっくりお茶でも飲んで考えよう」とリラックスしても勢いがつきません。 人間、何かことを起こすときには、勢いとパワーが必要です。 というわけで、印鑑を押すという行為には、やはり赤が合うのです。 色彩心理学などなかった昔でも、人々は赤い色の持つパワーを無意識のうちに感じ取っていたのでしょう。 石屋のないしょ話でした・・・。

2024年 10月 5日 15:26 の記事

2024年 10月 5日 15:26 の記事

早いものでもう9月です。 今月は、「いってらっしゃい」と手を振る振る訳についてお話しします。 仕事に出かける父親に向かって、子供と母親が「いってらっしゃい」と手を振る光景はよく見かけますが、この手を振る動作には「今日も無事に帰ってかられますように」「仕事でいいことがありますように」などと、相手の無事や幸運を祈る意味が込められています。 「振る」という動作は、昔から神に祈願する時に用いられてきました。 たとえば、奈良時代の絵には、薄い布を肩から両腕にかけて巻きつけた女性の姿を描いたものがあります。 その布は「頒布ひれ」と呼ばれる、神に奉仕するときに用いる道具です。 昔の人は、空気を振ることで、神霊をふるい立たせることができると考えていました。 そこで、頒布を振ることで神を招き寄せ、またその力を増幅させようとしたのです。 頒布以外にも、鈴を振ったり、拍手を打つなど、空気を振動させて、神の霊験にあやかろうとする行為は数多くあります。 出かける人に向かって手を振るのも、その延長線上の行為といえるでしょう。 出張や旅行など、しばらく帰ってこない人に対しては、手を振る動作も自然と大きくなるものです。 これも「いつも以上に、神のご加護がありますように」という気持ちが、無意識に働いているからかもしれません。 石屋のないしょ話でした・・・。

拍手

拍手

夏本番の暑さです。 皆さん熱中症にはくれげれもお気をつけ下さい。 さて、今月の石屋のないしょ話は、先月の「一本締め」に続き、「拍手」についてお話しします。 コンサート等で素晴らしい演奏に出逢った時や、スポーツ選手jがファインプレーを見せた時、私たちは称賛の気持ちを込めて拍手をします。 日本人は、すでに弥生時代には手を叩いて相手を褒め称えていたようです。 三世紀の日本について記した「魏志倭人伝」には、下戸(庶民)が大人(身分の高い人)に出会うと拍手をしたと書かれています。 手を叩くことによって敬意を示していたのです。 これは、かつて日本では手を叩く音に精霊を呼び寄せる力があると考えられていたことが関係しているとみられています。 先に触れたとおり、神社でお参りするとき、パンパンと拍手を打つのも、手を叩く音で神様を呼び出すためです。 神社などで催される神楽では、太鼓や笛や琴などが奏でられますが、これも拍手を打つ代わりに楽器の音を使って、神様を呼び出そうとしたものです。ふだんの場面で手を叩くのも、同様の理由からと考えられます。 大勢で手を叩き、その音で神様を呼び寄せ、称賛する相手に祝福を与えようというわけなのです。拍手は結婚式や誕生パーティーなどのおめでたい場でよく行われますが、これも神様を呼び寄せ、主賓たちを祝福しようというきもちの表れといえます。   石屋のないしょ話でした・・・。

一本締め

一本締め

宴会や会合では、お開きとなる前に誰かが「お手を拝借」と言って、参加者に手締めを促すことがあります。 お祭りや結婚式などのお祝いの席、上棟式・忘年会や新年会などで皆さんも経験があるでしょう。 また、酉の市でも縁起物の熊手を買う際や、値切りの交渉を経て商談が成立すると、異性のいい手締めが響くにもおなじみの光景です。 証券取引所では、年末の大納会は手締めで終わるのが恒例となっています。今月は「一本締めと三本締めの違い」についてお話します。 「よぉ~」のかけ声で始まり「シャンシャンシャン」と手を叩く手締めは「手打ち」といい、もとは契約や争い事などの和解が成立したとき、協力者などに感謝して、お互いに拍手することを指しました。 手を叩くのは、手のひらを広げて拍手することによって、手に武器などを持っていないことを知らせるためです。 それを、害意がないことを示し、平和に契約や和解が成立したことのシンボルとしたのです。 また、互いに神前で誓いため、神様を招き寄せようと拍手したという説もあります。 この手締めには、一本締めと三本締めがあり、一本締めは「シャンシャンシャン、シャンシャンシャン、シャンシャンシャン、シャン」と叩くもの、三本締めは一本締めを三回繰り返すものを指します。 シャンシャンシャンを三回打った後、一回シャンと打つこのリズムは、シャンシャンシャンが三回で九、これにシャンの一を加えると「丸」になるという意味だそうです。 「これで丸く納まりました」というシャレなのです。 ちなみに、「シャン」と一回だけ打つのを「一本締め」と誤解されている方も多いですが、それは「一本締め」ではなく「一丁締め」と呼ぶのが正しいのだそうです。   石屋のないしょ話でした・・・。

手刀

手刀

きっと皆さんが無意識に切っている「手刀」ですが、意味をご存知でしょうか? 今月は「手刀」についてお話します。  「手刀」は日本独特の習慣です。 西洋の場合、手刀を切ったりせず「エクスキューズ・ミー」と言いながら相手に微笑みかけて通りすぎます。 なぜ日本では手刀を切るかというと、相手のテリトリーと自分のテリトリーの堺を作るためといえます。 人間のみならず、動物にはみんなテリトリー意識があります。 テリトリー内に他者が侵入してくると、不快に思い警戒心を抱きます。 場合によっては相手に攻撃をしかけることもあるでしょう。 テリトリーの範囲は相手によって異なります。 親しい人なら相当近づかれても気になりませんが、見ず知らずの他人ならちょっと侵害されただけで緊張するものです。  他人の前を通るのも、相手のテリトリーを侵す行為になるから、無用な軋轢を避けるには、相手の緊張を緩めるような行為をする必要があります。 それが西洋人の場合は笑顔であり、日本人は手刀なのです。 手刀を切ることで、相手のテリトリーの中に、一時的に自分のテリトリーを作らせてもらうのです。 もちろん、このとき作るテリトリーは相手のものより小さくなければならない。 そこで手刀を切るときは、小さく遠慮がちな動作になるし、背中を少し丸めて、できるだけ目立たないようにするのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

安倍晴明蘇生伝説

安倍晴明蘇生伝説

新緑が綺麗な季節です。 今月は真如堂にある安倍晴明の蘇生伝説を裏付ける証拠についてお話します。  いまや雅で華やかなイメージがありますが、京都は平安の時代から怨霊や物怪が出没し、天皇や皇族が恐れおののく都でした。 底知れぬ闇を抱えた平安王朝では、呪術・占術を駆使して怨霊を退治し人の生死を操作した陰陽師たちが活躍しました。 なかでも、安倍晴明は恐るべき呪力を発揮した天才陰陽師で、関白・藤原道長に重用されました。 その安倍晴明の呪力と奇跡を伝える名刹が真如堂なのです。  真如堂は、京都の東・吉田山の中腹にあるお寺で、紅葉の名所として有名です。 正式名称は真正極楽寺です。 比叡山の戒算上人が九八四(永観二)年に開山しました。 本堂に安置された不動明王像は、死んだ安倍晴明の命を救った念持仏だと言われています。 真如堂が秘蔵する「真如堂縁起」には、驚くべきことに晴明は一度は死んだものの、晴明の呪力を惜しんだ不動明王が閻魔大王に生き返らせるように願い出たとする記録があるのです。 閻魔大王は不動明王の願いを聞き届け、晴明に衆生の民を救うなら蘇生させようと、秘印を授けて娑婆へ今一度戻したことになっています。 真如堂の宝物に、蘇生して閻魔大王の前にひれ伏す晴明の姿が描かれた図と、晴明のシンボルとなっている五芒星の印判が残されています。 この印判は、閻魔大王が人々を救済するなら蘇生させるといった、その誓約書に押した判と言われています。 晴明はさらに、真如堂の殺生石にまつわる事件でも呪力を発揮しました。 殺生石とは、天竺(インド)・中国・日本で暴れまわった妖怪の九尾の狐が石と化したもので、真如堂の地蔵堂に祀られている地蔵菩薩像が、この殺生石で作られています。 この妖怪狐は、玉藻前という美女に化けて鳥羽上皇に近づき、上皇を骨抜きにして寵愛を受けるようになりました。 玉藻前に化けた妖怪狐は上皇の兄の薄雲皇子と謀って天下を取ろうとしますが、安倍晴明に正体を見破られてしまいます。 すると、妖怪狐は空高く舞い上がり下野国那須野に逃げたといわれています。 玉藻前に化けた狐の正体を見破ったのは安倍晴明と伝えられていますが、時代的には晴明の死後100年ほど後のことなので、五代後の子孫・安倍泰親だとも言われています。 石屋のないしょ話でした・・・。

鴨川牧場

鴨川牧場

鴨川を散歩するのに、気持ちの良い季節になってきました。 今月は鴨川畔に日本で最初の西洋牧場があったことについてお話します。   「少年よ大志を抱け」とクラーク博士が札幌農業学校を開いたのは明治九年(1876)のことです。 ところがそれよりも早く、京都市内に西洋風の牧場があったのです。 一面白いダッチ・クローバーに覆われた牧場に、羊や牛がのんびりと草を食む光景が広がっていたのです。 舞台は明治五年(1872)。 当時の知事は勧業政策の一つとして、日本のさきがけとなる京都牧畜場を作りました。 場所は荒神橋を渡った鴨川の東岸、吉田下阿達町から聖護院河原町の旧練兵場敷地です。 もとは聖護院領で、聖護院の森が広がっていました。 現在では京大病院が広い敷地を持つあたりです 。 米国から羊や牛を買い入れて、ドイツ人ションソンやアメリカ人農牧師ウィードを招聘し、近代的牧畜の振興をはかりました。 牛乳の効能を宣伝しながら、搾りたての牛乳を一合五銭で販売し、バター、練乳、粉乳の製造を手がけました。 また、羊の毛を刈り取って、希望者に販売もしていました。 ちなみにこの時、牧畜場から京都市内・五条通り以南の牛乳配達人を命じられたのが松原栄太郎。 のちに御所御用達の「京の牛乳」として知られた松原牛乳の発祥でした。  やがて、牛や豚の飼育が進み始めると、明治九年には京都府船井郡須知村蒲生野に分場を開設しました。 クラーク博士の札幌農学校と時を同じくして、ウィード教授による京都府農牧学校が誕生したのです。 北の大地ばかりではない、ここ京都の「黒ぼく(農耕に適した腐植土質の土地)の大地」にも、大志を抱いた青年が各地から集まってきたのです。 授業はアメリカの教科書、農具を用いて、すべて英語で行われたそうです。 しかし、ウィード教授の任期満了と共に、この農牧学校はわずか三年で、明治十二年廃校となり、続いて市内、鴨川東岸の牧畜場も明治十三年(1880)民間に引き下げられてしまいました。 当時の関係者は、同志社英学校を創設した新島襄を介し、札幌より帰米したクラーク博士に依頼してウィード教授の後任を求め存続を図ろうとしたものの、実現はしなかったようです。 京都府農牧学校は、駒場農学校(現・東京大学農学部)、札幌農学校(現・北海道大学農学部)とともに、日本三大農業教育発祥の地であっただけに、もしその後存在していれば、大学にもなりえた学校でした。 その跡を示す記念碑はいま、京都府須知高校正門前手前、左側の小さな池畔に「黒ぼくの大地を拓いた人々」という碑文が刻まれて建っています。 鴨川の東岸では、京大東南アジア研究センターの前庭に「明治天皇行幸所牧畜場跡」(明治十年二月一日)の碑があります。 かつて「おらんだ・げんげ」と呼ばれて、この一帯に白い花を咲かせたダッチ・クローバーは、わが国で初めて輸入され、植えられたものです。 荒神橋から丸太町橋あたり、鴨川東岸河原でクローバーを探してみてください。 もし見つかったら、それは明治の香りを伝える「おらんだ・げんげ」の子孫かもしれません。 石屋のないしょ話でした・・・。

三本足の鳥居

三本足の鳥居

皆さんは「三本足の鳥居」をご存知でしょうか? 今月は「蚕ノ社」にある三本足の鳥居についてお話します。  「蚕ノ社」は、京福電鉄嵐山線(嵐電)にある駅名で、この付近一帯を指します。 駅から歩いて5分ほどの住宅街の中に、ひっそりと鎮座する神社があり、正しくは「木嶋坐天照御霊神社このしまにますあまてるみたまじんじゃ」といいます。 しかし、一般的には「蚕ノ社」として知られています。 本殿東側に蚕養神社があって、蚕を祀っていることから「蚕ノ社」と言われるようになったそうです。 創建は古く、『続日本紀』によると七世紀頃で、この地を本拠地とした渡来人の秦氏が養蚕と織物の神を祀ったことにはじまる。 秦氏は、灌漑や養蚕、酒造りなどの技術に優れ、この地を開拓し、養蚕技術を広めたといわれています。  この神社には、世にも奇妙な三本足の鳥居「三柱鳥居」があります。 三柱鳥居は鳥居を三つ組み合わせてあり、三方のどこから見ても鳥居の形が正面に見え、真上から見ると三角形が見える不思議な形をしています。  鳥居の下は「元糺の池」という小さな池になっています。 この池は清らかな湧き水で「神の池」と言われていましたが、数年前から湧き出ていないそうです。 池の中央、鳥居の真下にはこんもりと石が積み上げられていて、その上に御幣が建つ。 「神座」と言われ、宇宙の中心を表し、三方より拝むことができるようになっています。 三柱の特異な形には諸説あり、まず、秦氏はシルクロードを通じて絹織物の交易を行っていたため、古代オリエントと通じていた。 古代オリエントで広まっていた景教(ネストリウス派キリスト教)の影響を受けていた秦氏は、三本の鳥居でキリスト教の三位一体を表したのではないかという説があります。 また秦氏は、鳥居の三方がそれぞれ秦氏に関わりが深い稲荷山、松尾山、双が丘の三方向にある遥拝所に向かうようにつくったのだという説もあります。 なぜ三方向に面するようにしたかは、冬至の日、稲荷山から昇る朝日と松尾山に落ちる夕日をこの二面から拝することができ、もう一面からは双が丘を正面に拝することができるようにするためです。 いずれの説が本当なのかは神社でも詳しくはわからないのだそうです。 巨木が繁茂する薄暗い森のひんやりとした空気の中で、三柱鳥居は何やら不気味な気配を漂わせています。 石屋のないしょ話でした・・・。

ゴトビ

ゴトビ

「今日はゴトビだから道が混んでる」など、交通渋滞の理由に使われることが多い「ゴトビ」。皆さんはこの言葉をご存知でしょうか? 今月は「ゴトビ」についてお話します。  ゴトビは漢字で書くと「五十日」です。 「五十払いごとばらい」とも言います。 毎月五と十のつくつく日の支払いのことです。 毎月五日・十日・十五日・二十日・二十五日・三十日と、五と十のつく日を集金日とする関西の商習慣から「ゴトビ」や「ゴトバライ」と呼ばれています。 しかし、そのゴトバライのルーツは京都洛北の赤山禅院にあったのです。  赤山禅院は比叡山登山口に近い、修学院離宮の北にある比叡山ただ一つの山外塔頭です。 千日回峰行の行者さんにゆかりが深い。 また、京都御所から東北の方角にある鬼門として、赤山の拝殿屋根の赤猿が御所の東北隅にある「猿ヶ辻」に置かれた木彫りの猿と互いに向き合っていると伝えられています。 本殿に掲げられた「皇城表鬼門」の文字には、そうした意味が込められています。 その赤山禅院からゴトバライの風習が始まったとは、どういうわけでしょう? 赤山禅院といえば「へちま加持」によるぜんそく封じや無病息災で知られるお寺です。 しかしまた、懸寄せの神様でもあるのです。 お寺が神様というのは奇妙ですが、ここには実際に鳥居がありご神体を祀っていて、禅院にして神社の造りなのである。 懸寄せとは、すなわち集金に御利益があるということです。 毎月五日が一年のうちでめったに訪れない申の日に重なった時、赤山禅院にお詣りすると吉運に恵まれるという言い伝えがあります。 そのことから、江戸時代には毎月五日を集金日とする習慣が生まれ、商人たちはこのお寺に五日講詣りをしてから集金に出かけるようになったのです。 ここから「ゴトビ」ゴトバライ」の風習が始まった、と赤山禅院に伝わっているそうです。  石屋のないしょ話でした・・・。

露払い

露払い

明けまして おめでとうございます。 今年もgood-stoneをよろしくお願い致します。 2014年1回目の《石屋のないしょ話》は、「露払い」のルーツについてお話します。  大相撲で横綱が土俵入りするときには、必ず先導役の力士が「露払い」として先に立ち、後ろには太刀を掲げた「太刀持ち」を従えて入ってきます。 これは江戸寛政期の谷風、小野川という横綱が、土俵入りを初めて行ったとき以来の習慣なのだそうです。 そもそも、昔から貴人の儀式には先導役の「露払い」と従者の「太刀持ち」を従えるのが慣わしだったそうで、横綱土俵入りの威厳を高めるためにこれを見習ったものだと伝えられています。 しかし、今現在「露払い」といえば、大相撲ファンならずとも大方の人は、この先導役の力士を思い浮かべるのではないでしょうか? ところが「露払い」のルーツは相撲ではなく、なんと蹴鞠にあるのだそうです。  京都では、新春一月四日に下鴨神社で行われる蹴鞠始に始まって、二月十一日には上賀茂神社・四月十四日と七月七日には蹴鞠の神様を祀る白峰神宮、六月には藤森神社、八月の旧暦七夕には平野神社などと、蹴鞠の晴会が目白押しです。 そればかりか、白峰神宮は蹴鞠をルーツに今やサッカーの神様としてすっかりおなじみです。「露払い」を辞書で引くと①蹴鞠の最初。 鞠庭でまず鞠をけって、懸の樹の露を払い落とすこと。 また、その人とあります。 続いて②貴人に先導して道を開くこと。 またその役。 そして③でようやく、相撲の土俵入りの時の露払いの意味が出てきました。 蹴鞠における鞠庭とは、サッカーでいうピッチ、競技場のことです。 しかし、サッカーと違うのは、約十五メートル四方のピッチの内側四隅に「懸りの木」と呼ばれる松・桜・柳・楓が植えられていることです。 これらの木に神様が降り立つとされ、四季の木々に囲まれた中で鞠を蹴るのです。 蹴鞠は七世紀には大陸から日本に伝わり、飛鳥や奈良の地でも蹴られていました。 しかし懸かりの木が植えられるようになったのは、まぎれもなく平安の都においてであるそうです。 蹴鞠のピッチに春夏秋冬という宇宙を一同にこめようとする美意識はいかにも京都であり、日本人独特の感性として培われてきたものです。 ちなみに現在の懸りの木は、蹴鞠のために特設されたものや背の低い木が多いですが、古い絵を見ると羽振りの良い堂々とした木々が描かれています。 さて、朝一番の試合ともなれば、懸りの木々にはたっぷりと夜露が降りています。 木の枝に蹴った鞠がふれるたび、ザザーッと露を浴びてしまうことは想像に難くないですよね? つまり、露払いのルーツは蹴鞠開始のひと蹴りなのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

銀閣寺

銀閣寺

室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建物が、東山の月待山麓に建つ銀閣寺です。観光で訪れたことのある方も多いと思います。 今月は銀閣寺についてお話します。 正式名称は「慈照寺」であり、「銀閣」というのは寺院の中のひとつ、観音殿のことです。 室町幕府八代将軍足利義政が「鹿苑寺」(金閣寺)を模して一四八二(文明一四)年から東山山荘、つまり慈照寺の造営をはじめました。  鹿苑寺を造った足利義満は、義政の祖父に当たります。 祖父が造った鹿苑寺には金箔が貼られ、文字通り金色に輝いていました。 それに倣ったのだから、義政も慈照寺に銀箔を貼ることを考えていても不思議ではありません。 しかし、慈照寺は銀色に輝いていません。 禅宗様式のひっそりとしたたたずまいです。 理由は諸説あります。 銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政が厳しくて中止したという説や、造園中に義政が亡くなったため中止したという説・いやそもそも初めから貼るつもりなどなかったという説などです。 義政は父義教の死、兄義勝の急死にによって、わずか八歳で将軍職に就くことになりましたが、政治の主導権を握れず、次第に政権への興味を失っていきます。 そして将軍職を息子の義尚に譲ってからは、もっぱら邸宅や御所の造営、茶の湯、書画などに夢中になったのです。 当時は応仁の乱がおさまった直後だったため、京都はまだ混乱と疲弊のなかにあり、幕府には邸宅などをつくる経済的余力は全くありませんでした。 それでも義政は庶民に税金や労役を強引に課して東山山荘の造営をはじめたのです。 しかし、義政は観音殿の完成を見ずして一四九○(延徳二)年に中風のため亡くなりました。 それゆえ、義政がはじめから銀箔を貼るつもりだったかどうかはわからないのです。庭園には、白砂を台形に盛り上げた「向月台」という真っ白な砂山と「銀紗灘」という白砂を敷き詰めた一角があり、ここに月光が反射すると観音殿は銀色に輝くようになっていることから、義政はこの向月台と銀紗灘を使って銀箔を演出したのではないか、とも言われています。 しかし、このような形になったのは江戸時代後期のこととされ、義正の時代にはなかったという説もあることから、銀閣寺に銀箔が貼られていない理由は、やはり謎のままなのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

東洋のハリウッド

東洋のハリウッド

京都市の西部・太秦とその付近には、明治末期から大小さまざまな映画撮影所が並び立ち「東洋のハリウッド」と言われて大活況を呈していました。 今月は京都で映画撮影所が発展した理由についてお話します。  太秦に近い並が丘の地には、日本キネマ・東洋現像所・蚕の社にJO現像所、御室にマキノ撮影所、太秦には日活・大映・松竹・阪妻プロ・千恵蔵プロなどの撮影所があり、さかんに映画製作が行われていました。 太秦は、古代・朝鮮半島より渡ってきた豪族・秦氏が本拠地とし、織物業や酒造りなどを発展させたと言われています。 その太秦が、なぜ映画の中心地に成り得たのでしょうか?  日本に初めて映画の技術がもたらされたのは、一八九七(明治三○)年のことです。 この年、シネマトグラフを日本に持ち帰ったのが、京都在住の稲畑勝太郎でした。 稲畑は京都モスリン紡績会社の監査役として、最先端の染色技術を学ぶためにフランスに留学しました。 当時、京都では殖産興業に力を入れ、とくに織物業の育成に必要な技術を習得させるために、留学生の派遣に熱心でした。 帰国後、稲畑は西陣の地に稲畑染料店を開業しますが、それと同時に、リヨン大学の同級生だったリュミエール兄弟がつくったシネマトグラフの映写機と興行権を譲り受け、日本に紹介したのです。 その後、稲畑は友人の横田永之助に映画の興行権を譲り、横田は「横田商会」を立ち上げて全国で巡業をはじめました。 やがて、空前の映画ブームが日露戦争によってもたらされます。 戦意高揚のため、従軍カメラマンの実写フィルムが上映されだし、京都では次々に常設映画館がつくられていきました。 横田は後に「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三とともに、チャンバラ劇の映画製作をはじめ、一九一○(明治四三)年に映画撮影所を今の二条城近くにつくりました。  それから太秦近辺に、続々と撮影所がつくられていくのですが、太秦が撮影所建設地に選ばれたのは、この付近は秦氏が開発した織物業が盛んな地で、時代劇に必要な着物や衣装・小道具・カツラなどの生産拠点があったことが大きいと伝えられています。 さらに、太秦の近くには嵯峨野・保津峡などの自然が残り、歴史的寺社や風光明媚な場所が多かったので、時代劇撮影に適していたこともあります。 さらに、関東大震災で東京の撮影所が被災したため、東京から撮影所が次々に移ってきたこともあり、大正時代末には太秦は「東洋のハリウッド」となったのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

京の名水

京の名水

京都は名水の都です。 昔から伏流水が湧き出る泉が多く、「京都七名水」「京都名水百選」などが選ばれています。 これらの名水がもたらした京都の地場産業が、酒造り、茶、染色業で、現在の京都の重要な産業になっています。今月は京都の名水についてお話します。  まず、京都の酒造りと言えば伏見で、神戸の灘と並ぶ名酒の産地です。 伏見にも「七名水」がありますが、とくに有名なのが「御香宮神社」の境内に湧き出る「御香水」という霊水です。 伏見の酒造りに欠かせない超軟水で、灘の辛口(男酒)に対し、伏見の甘口(女酒)と言われています。 この神社は、平安時代に御香水が湧き出たことから創建されたと伝えられていますので、歴史が古い湧き水で現在も枯れることなく湧き出ています。 伏見の他に、右京区にある松尾大社の亀の井の水も、酒造りに最適な名水とされています。 秋の酒造祈願祭には、全国各地から集まった酒造業者が、この亀の井の名水を持ち帰るそうです。 お酒もさることながら、京の名水がもたらしたのが、茶道とお茶産業です。 宇治茶は京都の代表的産業ですが、宇治の水の清らかさも有名で、名水が湧き出る泉が多く、「宇治七名水」が選ばれています。 とくに宇治上神社の桐原水井戸から湧き出る名水には定評があります。 室町時代に茶道を発展させた能阿弥は、お茶の七名水として、御手洗井、常盤井、醒ヶ井、水薬師の井、大通寺の井、中川井、芹根井を選んだと言われています。 茶産業の他に、名水を使った京都の産業には、漬物作り、豆腐作りも有名です。 梨木神社の染井の名水を使って、千枚漬けやかぶ漬けなどの漬物がさかんに作られ、上賀茂神社では境内に湧き出る名水で、社家の人たちがすぐきを作って特産物としました。 西洞院川沿いには、染色業や製紙業が江戸時代から栄えました。 吉岡憲法が開発した「憲法染め」や、宮崎禅斎が創始した「友禅染」は、水がきれいな川がある京都ならではの名産です。 現在でも「名水百選」が選定されることからもわかるように、京の名水は清浄を保ち続けているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

お砂踏法要

お砂踏法要

早いもので、もう9月です。 皆さんは素敵な夏休みを過ごされましたか? 京都へ旅行に来られた方もいらっしゃるんでしょうね。 今月は、21日~3日に今熊観音寺で行われるお砂踏法要おすなふみほうようについてお話します。  千日詣というのは、時別な日にその神社に参詣すれば千日分の功徳があるとされ、愛宕神社(7月31日~8月1日)や清水寺(8月10日)が有名で、また仁和寺の裏山には「御室八十八ヶ所」巡りのコースがあり、四国に行かずとも約3キロの巡拝でその功徳を頂けるとされています。 今熊野観音寺では、四国八十八ヶ所の霊場の砂を踏むだけで同じ御利益があるとされています。 4月頃、当寺の僧侶と有志が四国巡礼を行い、すべての霊場の砂を頂いてきます。 それを9月の法要にあわせ、お砂場道場の各本尊の画軸の下に敷くつめます。 参詣者は、その道場内の八十八ヶ所を巡ることによって、四国八十八ヶ所を巡ったこととなり、同じ功徳が頂けるのです。  四国八十八ヶ所の霊場巡りとなると色々大変ですが、お砂踏法要ならもう少し気軽にお詣りできるのではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

坂本龍馬

坂本龍馬

明治維新の立役者・坂本龍馬のお墓は、龍馬の生まれ故郷の高知県にあると思っている人も多いかもしれませんが、実は京都にあります。 東山の麓・高台寺脇にある「維新の道」を登りきった所に京都霊山護国神社があり、霊山の中腹に土佐藩の同志・中岡慎太郎のお墓と並んで建てられています。 余談ですが、弊社が加入している日本石材産業協会京都支部も、坂本龍馬にゆかりのある地に石碑を寄贈しています。 今月は、なぜ土佐出身の龍馬のお墓が京都にあるのかお話します。  京都の霊山護国神社にお墓があるのは、この神社が明治天皇により新国家建設のために奮闘し、維新を前に倒れた兵士たちの御霊を祀るために神社を創建せよとの詔が発せられたからです。 いわば、日本初の天皇による招魂社です。 龍馬と中岡慎太郎のほか、木戸孝允・久坂玄瑞・吉村寅太郎・武市半平太など一三○○名を超える幕末勤皇の兵士たちの霊が祀られています。 明治以降は、日清日露戦争・太平洋戦争などの戦没者を合わせ約七万三○○○柱が奉祀されました。 霊山護国神社は、東京に招魂社として靖国神社が創建されても、国費で祭祀・管理が行われてきました。 しかし終戦後は国費祭祀ができなくなり、人々からも忘れられ、すっかり荒廃してしまいました。 明治一○○年に当たる一九六八(昭和四三)年、維新の志士たちのお墓が荒廃しているのを憂えた松下幸之助氏が、関西財界人に協力を求めて霊山顕彰会を設立しました。 霊山護国神社の復興と歴史的風土の保全と維持、日本の伝統精神の継承と振興を目指そうとしたのです。 そして神社の前に幕末維新ミュージアム・霊山歴史館を設立し、激動の幕末と明治維新の史料収集と展示、研究を行うようになりました。 歴史館内には、坂本龍馬にまつわる史料が収められ、龍馬を斬ったとされる刀も残されています。 つまり、龍馬のお墓が荒れ果てるのを忍びなく思った松下幸之助氏が、龍馬のお墓の前に、お墓を守るための施設を設け、顕彰会を作り、今も保全に努めているというわけです。 現在、龍馬の命日である十一月十五日には、毎年お墓の前で慰霊祭が盛大に催されています。 龍馬のお墓の脇には龍馬と中岡慎太郎の像が並び、その像の前からは京都市街が一望できます。 京都を見続けているこの二人は、今の京都ひいては日本に何を思うのでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

三条河原

三条河原

東海道五十三次の起点であった三条大橋がかかる三条河原こそ、京都の処刑場として、血なまぐさい匂いが絶えることがなかった場所です。 死体をさらしたり捨てたりする所、つまり死者の怨霊や恨みつらみが集うスポットだったのです。 戦国時代、とくに織田信長と豊臣秀吉の時代は、鼻そぎの刑をはじめ、見せしめのための残忍な刑罰が行われました。 一五九四(文禄三)年、天下の大盗賊・石川五右衛門の釜茹での刑もここで行われました。 当時の記録が公卿の山科言経の日記に克明に記されています。 それによると、五右衛門が処刑された日、五右衛門の他に十一人ものスリが釜茹でにされたとあります。 そのうちの一人はまだ子供だったというから当時の刑がいかに厳しかったのかがわかります。 また、一五九五(文禄四)年には、豊臣秀吉の甥で養子となった秀次が、秀吉に謀反の疑いをかけられ、切腹を命じられて自刃し首を三条河原にさらされました。 それだけでなく、秀次の正室・側室・侍女・子供まであわせて三十九名もが無実でありながら三条河原で処刑されています。 処刑は秀次の首塚の前で五時間かけて行われ、その惨さに人々は涙し、秀吉の残忍さに恐れをなしたといいます。 一六○○(慶長五)年、関が原の戦いで破れた石田光成も、六条河原で斬首されたのち、この三条河原に首をさらされています。 幕末の動乱期になると、三条河原はいっそう血なまぐさくなり、尊王派浪士の手によってこの河原で斬首された者は数しれません。 新撰組局長・近藤勇も江戸の刑場で斬首刑にされ、首は送られて三条河原にさらされました。 もちろん、今では処刑場の面影はどこにもありません。 恋人たちの憩いのスポットとなり、この時期には納涼床が設けられ大賑わいしています。 しかし、ここ三条河原の石は、流された多くの血と涙を吸い込んでいるのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

一文橋

一文橋

月日が流れるのは早いもので、もう6月です。 今月は京都府向日市と京都府長岡京市の境目を流れる小畑川かかる橋で、西国街道が小畑川を渡る地点にかけられている「一文橋いちもんばし」についてお話します。  西国街道は山崎街道とも言い、京都と大宰府を結ぶ山陽道のことで、江戸時代には西国街道と称しました。 小畑川は、西京区の追ノ坂から流れ出て長岡京市を南北に流れ、大山崎あたりで桂川に合流します。 大雨が降ると、洪水が出る暴れ川で、室町時代にはすでにたびたび洪水を出して住民を困らせていたと伝えられています。 一文橋も洪水の度に流され、流されるとまた新しい橋を作ることになり、莫大な費用が幕府の負担になっていました。 そこで、室町時代には、橋のたもとに橋守を置き、通行人から通行料として一文ずつ取って、橋の架け替えの費用に当てたのです。 そこから「一文橋」の名前がついたと言われています。  だが、通行料を惜しんで払わずに渡ろうとする者は、その場で斬り殺されたそうです。 その犠牲者の人魂が夜な夜な飛び交い、「橋を渡してくれ」と叫ぶようになり、地元の人々を脅かしたそうです。 しかし、橋守のなかには、貧しい者が通行料を払えずに渡ろうとするのを黙って見過ごしてくれる者もいたそうです。 そんな心優しい橋守の一人に半兵衛という者がいました。 一説には「知らぬ顔の半兵衛」という言葉は、この橋守の名前から生まれたという話もあります。 現在も一文橋は小畑川にかかり、橋のたもとの欄干には一文銭が象られた石碑が建っています。 全国で初めてお金を徴収した有料道路の発祥の地です。 石屋のないしょ話でした・・・。

小野小町

小野小町

世界三大美女といえば、皆さんご存知の通りクレオパトラ・楊貴妃・小野小町ですよね。  今月は絶世の美女といわれた小野小町の晩年についてお話します。  叡山電鉄で鞍馬寺や貴船神社に向かう途中の市原駅の近くに。補陀洛寺ふだらくじがあります。 通称・小町寺。 小野小町が晩年を暮らし、終焉の地となったお寺です。 補陀洛寺とは珍しい名ですが、「補陀洛」とはインドにある観音様が住むと言われている山のことです。 九四五(天慶八)年、天台宗座主・延昌によって創建されました。 小野小町は平安時代の歌人で、仁明天皇の更衣として仕え、天皇の崩御とともに宮仕えをやめて余生を送りました。 言わずと知れた日本を代表する美女です。 「百夜通い」をすれば小町への恋が実ると言われ、小町に恋焦がれた深草少将が、毎夜小町のもとに通うが、九十九夜まで通いながら願いが叶わず死んでしまったという逸話が残っています。  宮廷で華やかな暮らしを送った小町だったが、晩年は零落して陸奥国まで放浪し、そのためか、全国には青森から九州まであちこちに小町ゆかりの地が伝わります。 代表的なのが、小町の住居があったとされる京都山科の随心院で、ここには小町地蔵・小町化粧井戸などが残されています。  補陀洛寺には、絶世の美女・小野小町の痩せ衰えた老婆の像が祀られています。 お寺に安置されている老婆像は、あばらの浮き出た哀れな姿で、これがあの小町とは思えないほどです。 補陀洛寺の寺伝によると、小町は晩年、流浪の果てに九○○(昌泰三)年、八十歳でこの地にたどり着いて没したという。 そのときの辞世の句が残されています。  われ死なば 焼くな埋むな野にさらせ やせたる犬の 腹をこやせや  宮仕えまでした歌人らしからぬ句である。 補陀洛寺の住職によると、この歌の通り、小町の遺骸はこの地で野ざらしにされていたそうです。 道端に捨てられていた小町の髑髏の目の穴からススキが生えていて、風が吹いてススキがなびくたびに髑髏から「ああ痛い」と叫び声が聞こえたとか・・・。 後にここに立ち寄った恵心僧都が哀れに思い、ススキを抜いて供養してやると、小町はやっと成仏できたということです。 このお寺には、小町供養塔と深草少将の供養塔が並んで残されています。 晩年、哀れだった小町にとっては、それだけが救いであったにちがいないでしょう。 石屋のないしょ話でした・・・。

松尾祭

松尾祭

京都市内の中心を東西に貫く四条通りの東端に八坂神社があり、西の端には松尾大社が建っています。 今月は26日に松尾大社で行われる「松尾祭」についてお話します。  松尾大社の創建は、大宝元年(七○一)に秦忌寸都理が松尾山大杉谷の磐座の神霊を勧請して、麓に社殿を建立したことに始まるといい、祭神の大山咋神は上賀茂神社祭神の加茂別雷命の父親にあたります。 渡来系の秦氏は機織や陶工の技術を日本にもたらした氏族として知られていますが、酒の造り方も教えたところから、とくに中世以降、松尾大社は「酒の神」として全国の酒醸造関係者の信仰が篤いです。 境内裏手の「亀の井」の水を醸造時に入れるとお酒が腐らないとの言い伝えもあって、神輿庫横には、全国の酒醸家から奉納された酒樽が積み上げられています。 社殿や神輿に葵を飾ることから「西の葵祭」とも呼ばれる「松尾祭」は、豊作や氏子の安全を祈願して平安時代に始まりました。 神幸祭の一番の見せ場は「船渡御」です。 摂社末社の朱色も鮮やかな六基の神輿と唐櫃が松尾大社を午前十一時頃出発し、物集女街道を五キロほど練り歩いて二時間後に桂離宮近くの桂川右岸に到着、そこから一基ずつ和船に乗せて川を渡るのです。 神輿の重さは一トン以上だそうです。 「ほいっと ほいっと」という担ぎ手の勇壮な掛け声が響きます。  石屋のないしょ話でした・・・。

京都の「へそ」

京都の「へそ」

日本全国には、様々な「へそ」と呼ばれる場所があります。日本の「へそ」で知られている兵庫県西脇市・全人口の重心となる岐阜県郡上市・北海道の中心は富良野市・・・今月は京都の「へそ」についてお話します。  京都の「へそ」は、三条通と四条通の間にある六角堂境内にあります。 六角堂は正式名称は頂法寺といい、西国第一八番札所でもあります。 天台宗のお寺で、本堂の形が六角形であることから「六角さん」と呼ばれ親しまれてきました。 このお寺の境内の参道に、直径五○センチほどの平べったい石が安置されています。 本堂の礎石と言われ、この石が置かれている地点が京の都の中心点であり、「へそ石」と言われています。 この石も六角形をしており、真ん中がくぼんでいて、まさしく「へそ」に似ています。 六角堂の創建は古く、興味深い謂れが伝えられ、それは聖徳太子の時代にまで遡ります。 聖徳太子が現在の大阪に四天王寺を造営するため、建築材を求めてこの地を訪れたとき、清らかな池があったので、沐浴しようと持っていた如意輪観音像を池のほとりに立てかけました。 沐浴後、帰ろうとしてこの像を持とうとしましかが、とても重くて持つことができませんでした。 これは、仏がここで人々の救済に努めよと指示しているのだと悟った聖徳太子は、ここに六角形の堂を建立したのです。 もう一つ伝わる謂れがあります。 平安京を造営する際、すでに建っていた六角堂が道路にかかることになりました。 そのため桓武天皇はお堂を壊すのが忍びなく、苦慮していたところ、一晩でお堂が自ら北に少し動いて道路を明け渡したというのです。 確かに、現在の「へそ石」は、本堂の前から少しずれた位置にあります。境内には六角堂のほか、聖徳太子が沐浴したという池が残されています。 頂法寺の本坊はこの池の端に建てられたため、「池坊」と言い、華道の家元・池坊の発祥の地でもあります。 また、遣隋使として活躍した小野妹子が晩年はこの六角堂に隠居し、聖徳太子の霊を慰めてここに花を供えていたのが華道の始まりとも言われています。 六角堂は、京都の「へそ」であるだけではなく、池坊華道の「へそ地」でもあるのです。 ただし、「へそ石」の地点は京都市内の中心点ですが、京都府全体の「へそ」は南丹市の日吉町だと言われています。  石屋のないしょ話でした・・・。  

牛祭

牛祭

今月は、京都市右京区の広隆寺境内にある大避神社に伝わるお祭りについて、お話しします。 広隆寺は秦河勝が聖徳太子から授かった仏像を本尊に、622年に建立されました。 京都でも最後の古寺で、平安遷都のときに現在地の太秦に移り、真言宗別格本山です。祖師堂には弘法大師ほかをお祀りしています。牛祭は、この祖師堂を中心に、かつては陰暦9月12日、今日では10月12日です。 白装束に異形の面をつけた4人の赤鬼・青鬼(四天王)が矛を持って現れ、次いでやはり白装束に異形の面をつけた摩多羅神が御幣を捧げ、牛に乗って現れます。 この五神は、広隆寺周辺を一巡して祖師堂にもどり、円陣を組んで国家安寧・五穀豊穣・悪病退散を祈る祭文をユーモラスに読み上げます。このとき、参集者から悪口・野次が飛び、五神もやり返します。祭文を読み終わると、かつては参拝の群衆が厄除け・盗難除けに効験があるといわれた摩多羅神と四天王の面を奪い合いました。 今宮神社のやすらい祭、由岐神社の鞍馬の火祭とともに京都三大奇祭とされ、京都市登録無形民俗文化財に指定されていますが、現在は長期にわたり開催中止となっています。   ご参考までに・・・。

京都府で石材コーティングをお考えの方へ!効果と注意点を解説

京都府で石材コーティングをお考えの方へ!効果と注意点を解説

京都府で石材コーティングを検討している方へ、石材のコーティングにはさまざまなメリットがあります。まず、石材は風雨や紫外線による劣化に弱く、長期間にわたって美しさを保つためには適切な保護が必要です。コーティングを施すことで、石材表面に保護層が形成され、汚れや水分の浸透を防ぐことが可能となります。   これにより、石材の耐久性が向上し、美しい外観を長く維持できるでしょう。しかしながら、石材コーティングを行う際には、いくつかの注意点があります。まず、使用するコーティング剤が石材の種類に適しているかどうかを確認することが重要です。石材によっては、特定のコーティング剤が逆効果をもたらす場合もあります。   また、コーティングの施工方法や環境によっては、効果が十分に発揮されないことも考えられます。そのため、信頼できる業者に依頼するか、正しい知識を持った上でのDIYが求められます。石材コーティングは慎重に検討する価値がある方法です。     石材コーティングとは? 石材コーティングは、天然石やタイルなどの石材表面に保護層を形成するための技術です。石材は、美観や耐久性の観点から住宅や公共施設、庭園などで幅広く使用されていますが、その特性上、風化や汚れ、劣化に対して脆弱です。特に京都府のような四季がはっきりしており、湿気の多い気候では、石材の劣化が進みやすく、適切なメンテナンスが欠かせません。そのため、石材コーティングは石材を長持ちさせ、見た目を美しく保つための重要な手段として注目されています。   石材コーティングには、さまざまな種類がありますが、主に撥水性や耐汚性、紫外線カット機能などが求められます。撥水性を持つコーティングは、水分が石材に浸透するのを防ぎ、凍結や腐食から守ります。また、耐汚性のあるコーティングは、石材表面に汚れが付きにくくし、日常の清掃を容易にする効果があります。さらに、紫外線カット機能があるコーティングは、日光による色あせや劣化を抑える役割を果たします。   京都府においては、歴史的な建造物や庭園の維持管理が特に重視されており、石材コーティングへの需要が高まっています。京都の伝統的な建築様式や庭園文化を守るためには、石材の劣化を防ぐことが欠かせません。そのため、コーティング技術は地域の気候条件や建材の特性に適したものが選ばれることが一般的です。例えば、湿度の高い京都では、撥水性の高いコーティング剤が選ばれることが多いです。   また、石材コーティングは、新築の建物や庭園だけでなく、既存の建造物や石材のリフォームにも適用されます。長年の使用により、石材の表面が劣化してしまった場合でも、適切なコーティングを施すことで、見た目を美しく復元し、耐久性を高めることが可能です。これにより、コストパフォーマンスも向上し、長期的な視点でのメンテナンスコストの削減が期待できます。   ただし、石材コーティングにはいくつかの注意点もあります。まず、すべての石材がコーティングに適しているわけではなく、石材の種類や用途に応じたコーティング剤を選ぶことが重要です。また、施工の際には、石材表面の汚れや古いコーティングをしっかりと除去しなければ、新しいコーティングが効果を発揮しないことがあります。これらを踏まえた上で、専門知識を持った業者に依頼することが、石材コーティングの成功の鍵となります。   京都府での石材コーティングは、伝統的な建築物や庭園を未来へと受け継ぐために欠かせないメンテナンス技術です。効果的なコーティングを施すことで、石材が本来持つ美しさを長期間保ち、次世代に伝えることができます。     石材コーティングのメリット 石材コーティングは、建築やインテリアで使用される石材の耐久性を高め、美しさを長く保つための重要な手段です。まず、石材コーティングの大きなメリットとして、石材の耐久性を向上させる効果が挙げられます。石材は自然素材であるため、時間が経つにつれて風化や劣化が進みやすくなりますが、コーティングを施すことで、これらの影響を軽減することが可能です。例えば、紫外線や風雨による色あせや表面の劣化を防ぐことができるため、屋外に設置された石材でも長期間にわたって美しい状態を保てます。   また、コーティングによって石材表面に保護層が形成されることで、美観の維持が容易になります。石材の表面は、汚れや水分が染み込みやすい性質がありますが、コーティングを施すことでこれらの侵入を防ぎ、日常の清掃が格段に楽になります。特に、飲み物や油などの液体が石材にこぼれた場合でも、コーティングが施されていればシミになるリスクを大幅に軽減できます。このように、美観を保つことができるだけでなく、清掃の手間が減るという点でも大きなメリットがあると言えます。   さらに、石材コーティングには防汚効果と防水効果があります。防汚効果により、ホコリや汚れが石材の表面に付着しにくくなり、また付着した汚れも簡単に取り除くことができます。これにより、石材が持つ本来の美しさを維持することができます。防水効果については、石材内部への水分の浸透を防ぐことができるため、湿気や水分による劣化やカビの発生を防止できます。この効果は、特に水回りや屋外の石材において重要です。石材が水分を吸収しないことで、凍結による破損のリスクも軽減されるため、寒冷地でも安心して使用することが可能です。   これらのメリットを考えると、石材コーティングは石材を長期間にわたって良好な状態で維持するための有効な手段と言えます。ただし、コーティング材の選択や施工方法によっては、効果が十分に発揮されない場合があるため、適切な知識を持って行うことが重要です。     京都府内で選ばれる石材コーティングの種類 シリコーン系コーティングは、石材表面に防水性を与えるために使用されることが多いです。このタイプのコーティング材は水を弾く性質があり、石材の内部への水分の侵入を防ぐ効果があります。また、耐久性にも優れており、外部環境にさらされることが多い石材にも適しています。一方で、シリコーン系は石材の通気性を若干低下させるため、石材が呼吸する必要がある場合には注意が必要です。   フッ素系コーティングは、耐油性と耐汚染性に優れたコーティング材として知られています。特に汚れや油分が付きやすい場所に使用されることが多く、キッチンや外壁などに適しています。フッ素系コーティングは石材の美観を長期間保つ効果がありますが、他のコーティング材と比べてコストが高めであることがデメリットとされています。   京都で人気のあるコーティング材は、主にシリコーン系とフッ素系です。これらのコーティング材は、京都の気候に適していることが理由です。京都は四季がはっきりとしており、特に梅雨時期や冬季の湿度が高く、石材が水分を吸収しやすい環境にあります。そのため、防水性や耐汚染性が求められることが多く、シリコーン系やフッ素系のコーティング材が選ばれる傾向があります。   京都の気候に合ったコーティング材を選ぶためには、まず石材が設置される場所の環境を考慮することが重要です。例えば、屋外に設置される石材には、紫外線や雨風に耐えることができるシリコーン系やアクリル系が適しています。一方で、油分が飛び散る可能性のある場所にはフッ素系コーティングが効果的です。正しいコーティング材を選ぶことで、石材の美しさと耐久性を長期間にわたって維持することができます。     自分でできる石材コーティングの方法 石材コーティングを自分で行う場合、適切な手順と道具が必要です。まず最初に、石材表面の汚れや埃をしっかりと除去することが重要です。清掃には中性洗剤と柔らかいブラシを使用し、表面を傷つけないように注意します。清掃後は石材を十分に乾燥させてから次の工程に進むことが大切です。   次に、コーティング剤の選定です。石材の種類によって適したコーティング剤が異なるため、事前に石材の特性を確認し、それに合ったコーティング剤を選びます。一般的に使用されるのは、シリコン系やフッ素系のコーティング剤です。これらは水や油の浸透を防ぎ、石材の保護に効果的です。   コーティング作業を始める前に、手袋やマスクを着用し、安全に配慮します。コーティング剤を石材表面に均一に塗布するためには、ローラーや刷毛が適しています。塗布後はコーティング剤が完全に乾燥するまで待ち、必要に応じて複数回重ね塗りを行います。重ね塗りをすることで、保護効果が高まり、石材の耐久性がさらに向上します。   自己施工のメリットとしては、業者に依頼する費用を抑えられる点があります。また、自分のペースで作業を進められるため、時間的な融通が利くことも利点です。一方で、デメリットとしては、専門的な知識や技術が不足していると、コーティングの効果が不十分になる可能性がある点が挙げられます。さらに、作業中のミスによって石材を損傷させるリスクもあるため、DIYに挑戦する際には慎重な計画と準備が求められます。     京都府で石材コーティングを依頼する際の注意点 京都府で石材コーティングを依頼する際には、いくつかの重要なポイントに注意が必要です。まず、契約時には、施工内容と使用するコーティング剤の詳細を明確に確認することが大切です。具体的には、どの種類の石材に適しているのか、耐久性やメンテナンスの頻度についてしっかりと説明を受け、納得した上で契約を進めることが求められます。また、見積もりについても詳細な内訳を確認し、不明な点はその場で質問して解消することが重要です。価格だけでなく、使用する材料や作業工程にも注意を払うことで、後々のトラブルを防ぐことができます。   施工後の保証とアフターサービスについても確認しておくことが欠かせません。コーティングは長期間の保護効果を期待するものですが、施工後に何らかの不具合が生じた場合の対応を明確にしておくことで、安心してサービスを受けられます。例えば、施工後に剥がれや変色が見られた場合の対応方法や、保証期間中のメンテナンスの有無について、具体的な取り決めを契約書に記載してもらうことが望ましいです。   さらに、トラブルを避けるためのアドバイスとして、口コミや評判を確認し、信頼性の高い業者を選ぶことが推奨されます。業者の選定は慎重に行い、できる限り複数の業者から見積もりを取り比較することで、適切な価格とサービスを選ぶことが可能になります。また、過去の施工事例や実績を確認し、業者の技術力や信頼性を判断することも大切です。これらの注意点を押さえることで、満足のいく石材コーティングを実現し、長期間にわたって石材の美しさを保つことができるでしょう。     石材コーティング後のメンテナンス方法 石材コーティング後のメンテナンスは、コーティングの効果を長持ちさせ、石材の美しさを保つために非常に重要です。コーティングは石材を保護するために施されますが、メンテナンスを怠ると、その効果が薄れてしまう可能性があります。まず、コーティング後の石材は定期的に清掃することが基本です。汚れが蓄積すると、コーティングの表面にダメージを与える原因となり、保護効果が低下します。清掃の際には、適切な洗剤を選び、石材にダメージを与えないよう注意することが求められます。   定期的なメンテナンスの重要性も見逃せません。コーティングは長期間にわたり効果を発揮しますが、経年劣化や環境の影響によって、その性能が徐々に低下することがあります。そのため、年に一度程度の再コーティングや専門業者による点検を行うことで、石材の保護状態を確認し、必要に応じてメンテナンスを行うことが推奨されます。特に、屋外に設置された石材は風雨や紫外線の影響を受けやすいため、早めの対応が大切です。   メンテナンス時の注意点として、コーティングの種類に応じた適切な手入れを行うことが重要です。例えば、強酸性の洗剤や研磨剤を使用すると、コーティングを傷つける恐れがあります。また、清掃やメンテナンスの際には、柔らかい布やスポンジを使用し、石材に負担をかけないよう心掛けることが必要です。これらのポイントを守ることで、石材コーティングの効果を最大限に引き出し、石材を長期間美しく保つことができます。     まとめ 京都府での石材コーティングは、美しい石材を長く保つための重要な手段です。特に京都府のような湿気の多い地域では、石材の劣化を防ぎ、見た目の美しさを維持するためにコーティングが欠かせません。コーティングを行うことで、石材の耐久性が向上し、日々のメンテナンスも容易になります。   選び方には慎重を期すべきであり、石材の種類や用途に応じた適切なコーティングを選ぶことが大切です。また、施工後のメンテナンスも怠らず、定期的にチェックを行うことで、コーティングの効果を最大限に引き出すことができます。信頼できる業者選びも重要であり、しっかりとした調査と比較を行い、納得のいくコーティングを選んでください。石材コーティングは、投資として考えることで、その価値を実感できるでしょう。正しい知識と適切な選択が、美しい石材を未来へと引き継ぐ鍵となります。     京都府について 京都府は、日本の関西地方に位置し、歴史と文化が深く根付いた地域として広く知られています。かつての日本の首都であり、長い歴史を持つ京都市は特に有名で、数多くの神社や寺院、伝統的な建築物が点在しています。例えば、清水寺や金閣寺などの世界遺産は、日本を代表する観光スポットとして国内外から多くの訪問者を集めています。   京都府は、その豊かな自然環境も特徴の一つです。北部には日本海に面したエリアがあり、美しい海岸線や豊かな山々が広がっています。この地域では、自然を活かしたアクティビティや観光が楽しめるだけでなく、農業や漁業も盛んです。特に、冬の間に訪れると、積雪のある美しい風景を見ることができ、四季折々の自然美を楽しむことができます。   また、京都府は伝統工芸や食文化も豊かで、京友禅や西陣織といった歴史的な技術が今も受け継がれています。これらの工芸品は、手間暇をかけて作られ、その技術と美しさが高く評価されています。さらに、京都府の食文化は、繊細で美しい京料理が特徴的で、地元の食材を活かした料理が多くの人々に愛されています。   京都府は、歴史や文化、自然が調和した地域であり、日本の伝統を感じながら、現代的な生活も楽しめる場所です。訪れるたびに新たな発見があり、深い魅力を持つ地域として、多くの人々に愛され続けています。     石材の基礎知識 石材は、建築やインテリア、造園などに広く使用される自然素材で、その歴史は古代にまで遡ります。石材は、耐久性が高く、独特の風合いや質感を持つことから、長く愛され続けています。例えば、花崗岩や大理石は、建物の外壁や床材、カウンタートップなどに使用されることが多く、その美しい模様と堅牢な性質が評価されています。   石材には、火成岩、堆積岩、変成岩など、さまざまな種類があり、それぞれの石材は異なる特徴を持っています。火成岩の一例である花崗岩は、硬度が高く、耐久性が非常に優れているため、建築材料として広く使用されています。一方で、大理石は変成岩の一種であり、その美しい模様と柔らかさから、彫刻や室内装飾に適しています。石材の選択には、使用目的や場所に応じた考慮が必要であり、適切なメンテナンスを行うことで、その美しさと機能性を長く保つことが可能です。   石材の魅力は、その自然が生み出す独特の模様や質感にあります。人工的に作られた素材では再現できない、自然の力が作り出した美しさが、石材の大きな特徴です。また、石材は時間とともに変化することがあり、その変化が風合いを増し、経年変化を楽しむことができるのも石材の魅力の一つです。適切に選ばれ、丁寧に扱われた石材は、建物や空間に永続的な価値と美しさを提供します。   石材を使用する際には、その特性を理解し、用途に合った選択をすることが重要です。また、石材は定期的なメンテナンスが必要で、適切に管理することでその耐久性と美しさを保つことができます。石材は、古くから現代に至るまで、多くの建築物や装飾に使用され続けており、その魅力はこれからも変わることなく人々を惹きつけるでしょう。     会社概要 会社名・・・有限会社北尾石材 所在地・・・〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町67 電話番号・・・075-781-9523     近隣エリア 京都, 京都府, 京都市, 南丹市, 亀岡市, 長岡京市, 向日市, 久御山町, 宇治市     対応地域 綾部市,宇治市,乙訓郡大山崎町,亀岡市,久世郡久御山町,宮津市,京丹後市,京田辺市,京都市右京区,京都市下京区,京都市左京区,京都市山科区,京都市上京区,京都市西京区,京都市中京区,京都市東山区,京都市南区,京都市伏見区,京都市北区,向日市,城陽市,船井郡京丹波町,相楽郡笠置町,相楽郡精華町,相楽郡南山城村,相楽郡和束町,長岡京市,綴喜郡井手町,綴喜郡宇治田原町,南丹市,八幡市,舞鶴市,福知山市,木津川市,与謝郡伊根町,与謝郡与謝野町

京都で石材コーティングの施工を考えている方々へ

京都で石材コーティングの施工を考えている方々へ

石材は、その美しさや耐久性から多くの建築物や住宅に採用されていますが、自然素材であるため、長期間にわたってその品質を保つためには適切なメンテナンスが必要です。特に京都のような気候条件が厳しい地域では、石材に対する保護が欠かせません。石材コーティングは、表面を保護し、風化や汚れから石材を守るための重要な手段です。   石材の種類や用途によって、最適なコーティング方法は異なります。コーティングの選択を誤ると、石材本来の美しさや耐久性を損なう可能性があります。そのため、石材の特性を理解し、専門的な知識を持つ業者に相談することが重要です。また、適切なコーティングを施すことで、メンテナンスの手間を大幅に減らし、長期的なコスト削減にも繋がります。石材の保護を考える際は、コーティングの重要性とその効果を十分に理解することが求められます。     はじめに 京都の美しい景観や伝統的な建築物に見られる石材は、その独特の風合いや耐久性から、多くの人々に愛されてきました。石材は自然の産物であり、時間とともに風化や汚れが進むことは避けられません。そのため、石材を長持ちさせ、美しさを保つためには適切なメンテナンスが欠かせません。そこで注目されるのが石材コーティングです。   石材コーティングは、石材表面に保護膜を形成することで、風雨や紫外線からのダメージを軽減し、汚れや水分の浸透を防ぐ効果があります。これにより、石材の劣化を抑え、美観を長期間維持することが可能になります。また、石材はその素材により吸水性や耐久性が異なるため、適切なコーティング剤を選ぶことが重要です。専門的な知識を持つ業者に依頼することで、石材の種類や使用環境に応じた最適なコーティングを施すことができるでしょう。   さらに、石材コーティングは美観を保つだけでなく、メンテナンスの頻度を減らす効果も期待できます。京都のような気候変動が激しい地域では、石材は雨や湿気による劣化が進みやすく、適切なコーティングを施すことで、これらの要因によるダメージを防ぐことができます。これにより、長期的なメンテナンスコストの削減にも繋がります。   石材コーティングのもう一つのメリットは、安全性の向上です。特に玄関や階段など、歩行者が多く通る場所では、石材が滑りやすくなることがあります。コーティングを施すことで、滑り止め効果が期待でき、事故のリスクを低減することができます。これは家庭内での安全性を高めるだけでなく、商業施設や公共施設などでも重要な要素となります。   このように、石材コーティングには多くのメリットがあり、石材を長持ちさせるための重要な手段となります。ただし、適切なコーティング剤の選択や施工方法を誤ると、逆に石材を傷めてしまうこともあります。そのため、石材の特性や使用環境を十分に理解し、信頼できる業者に相談することが大切です。   石材は、京都の伝統的な建築に欠かせない素材であり、その価値を守るためにも、適切なコーティングを検討することが求められます。石材コーティングの重要性を理解し、美しい石材を長く楽しむための一歩を踏み出してみてはいかがでしょうか。     石材コーティングの種類 石材コーティングには、使用する環境や目的に応じて様々な種類があります。まず、防水性を重視したコーティングがあります。石材は自然素材であり、多孔質なため水分を吸収しやすい特徴があります。このため、特に外部に使用される石材では雨や湿気によるダメージを防ぐために防水コーティングが重要です。このタイプのコーティングを施すことで、石材の内部に水が浸透するのを防ぎ、凍結によるひび割れや風化を防止します。   次に、防汚性能に特化したコーティングがあります。屋内外問わず、石材は汚れやすく、特に油汚れや酸性の汚れがつくと、シミが残りやすくなります。この防汚コーティングは、石材表面に保護膜を形成し、汚れが付着しにくくなるため、日常の清掃が容易になるとともに、石材の美しさを長期間保つことができます。特に、キッチンや玄関、バスルームなどの汚れがつきやすい場所に使用される石材に適しています。   さらに、耐久性を向上させるためのコーティングもあります。石材は長期間使用されることを前提に選ばれる素材ですが、自然の風雨や紫外線、摩擦などによって徐々に劣化することがあります。耐久性コーティングを施すことで、これらの外的要因から石材を保護し、耐久性を高めることができます。特に、高頻度で使用される場所や公共の場など、石材が強い摩擦や衝撃を受けやすい環境では、このタイプのコーティングが効果的です。   また、石材コーティングには光沢を持たせるタイプや、自然なマット仕上げを維持するタイプもあります。光沢のあるコーティングは、石材に高級感を与えると同時に、表面を滑らかにすることで汚れが付きにくくなる効果も期待できます。一方、マット仕上げのコーティングは、石材本来の質感や風合いを損なわず、自然な見た目を維持したい場合に適しています。   コーティングの選択は、石材の種類や設置場所の環境条件、そして使用目的に応じて慎重に行う必要があります。石材の特性を理解し、それに合ったコーティングを選ぶことで、石材の美しさと機能性を長期間にわたり維持することが可能となります。専門家のアドバイスを受けながら、適切なコーティング方法を選ぶことが大切です。     石材の種類に応じた適切なコーティング選び 石材コーティングを選ぶ際には、使用される石材の種類に応じた適切な方法を選ぶことが重要です。石材には大理石、花崗岩、砂岩、スレートなど、さまざまな種類があり、それぞれに異なる特性があります。例えば、大理石は柔らかく、酸に弱いという性質を持つため、酸性の洗剤やコーティング剤を使用すると表面が傷つく可能性があります。逆に、花崗岩は非常に硬く、耐久性に優れているため、より強力なコーティングが必要となる場合があります。   まず、大理石などの柔らかい石材には、表面の保護と美しさを維持するために、透過性のあるコーティングが適しています。透過性のコーティング剤は石材の内部に浸透し、内部から保護する役割を果たします。また、表面に光沢を与えることで、石材の自然な美しさを引き立てる効果もあります。これにより、大理石のような柔らかい石材でも、風化や汚れから効果的に守ることができます。   一方、花崗岩のような硬い石材には、表面に強力なバリアを形成するコーティングが適しています。硬い石材は一般的に耐久性が高いため、汚れや傷に強い特徴がありますが、それでも長期間使用する場合には、コーティングによる追加の保護が必要です。表面をシーリングするタイプのコーティングは、花崗岩の耐久性をさらに高め、表面の傷や汚れの付着を防ぎます。また、光沢のある仕上げを選ぶことで、石材の見た目を向上させることも可能です。   砂岩やスレートなどの石材は、その独特の風合いが魅力ですが、比較的吸水性が高いため、特に水や汚れに対する保護が重要です。これらの石材には、吸水性を抑えるためのコーティングが必要です。防水効果のあるコーティング剤を使用することで、石材が水を吸収しにくくなり、風化やカビの発生を防ぐことができます。また、表面に膜を張るタイプのコーティングを選ぶことで、耐摩耗性を向上させ、長期間にわたり石材の風合いを保つことができます。   石材の種類に応じた適切なコーティングを選ぶことは、その美しさと耐久性を長く保つために欠かせないステップです。石材の特性を理解し、それに応じたコーティングを選択することで、長期的なメンテナンスの手間を減らし、石材の価値を最大限に引き出すことができます。     石材コーティングの施工事例 石材コーティングは、石材の美観と耐久性を長期間にわたって維持するために重要な役割を果たします。特に京都のような地域では、四季折々の気候変動が激しく、石材が直接外気にさらされることで、風化や汚れが蓄積しやすくなります。石材コーティングは、このような外的要因から石材を保護し、建物全体の美観を保つために欠かせない施工法です。   京都市内のある住宅では、玄関周辺に使用されていた天然石にコーティングを施すことで、石材の表面を滑らかに保ち、汚れや雨水の浸入を防ぐことができました。この住宅では、年中降り注ぐ雨や冬季の雪解け水による水分の影響を受けやすい石材が使用されていましたが、コーティングを施すことで、その影響を最小限に抑えることができました。また、石材本来の色合いを損なうことなく、深みのある輝きを持続させることができたという点でも、施主から高い評価を得ています。   さらに、京都のある寺院では、参道に敷き詰められた石材の劣化を防ぐために、定期的にコーティングが施されています。参拝者の多い寺院では、石材が常に摩耗や汚れにさらされるため、定期的なメンテナンスが不可欠です。ここで使用されたコーティング剤は、耐摩耗性に優れ、石材の表面を保護しながらも、参道を歩く人々に違和感を与えない自然な仕上がりとなっています。さらに、このコーティングにより、石材の表面に染み込んだ汚れを簡単に取り除くことが可能になり、清掃の手間を大幅に軽減する効果も確認されています。   また、京都の歴史的建造物の保護にも、石材コーティングが活用されています。伝統的な石材を使用した建物では、風雨による劣化が深刻な問題となりますが、コーティングを施すことで、石材がもつ独特の質感や風合いを保ちながら、外部からのダメージを軽減することができます。このような建造物では、見た目の美しさとともに、建物全体の保存状態を良好に保つために、コーティングは不可欠な存在となっています。   このように、京都における石材コーティングの施工事例は、その土地ならではの気候や環境に適した方法で行われており、石材の美観と耐久性を守るための重要な手段となっています。石材の特性に応じた適切なコーティングを選ぶことで、長期的に建物や構造物の価値を保つことができます。     石材コーティングの費用相場と注意点 石材コーティングを考える際には、費用やその内容について事前に理解しておくことが大切です。一般的に、石材コーティングの費用は、石材の種類や施工面積、使用するコーティング剤の種類、施工場所の状況などによって異なります。例えば、天然石や大理石のコーティングは、高度な技術と専門的な材料を必要とするため、費用が高くなることがあります。費用の目安としては、数万円から数十万円に及ぶことがあり、具体的な見積もりは個別に依頼する必要があります。   見積もりを依頼する際の注意点として、まず第一に施工範囲と使用するコーティング剤の種類を明確にしておくことが挙げられます。同じ石材でも、使われる場所や用途によって最適なコーティングが異なるため、業者に詳細をしっかりと伝え、自分の要望に合った提案を受けることが重要です。また、複数の業者から見積もりを取り、費用と施工内容を比較検討することで、適切な選択が可能になります。安価な見積もりが提示された場合でも、品質やアフターサービスが劣ることがないか、しっかりと確認することが求められます。   石材コーティングの費用を考える際には、メンテナンスの重要性も理解しておく必要があります。コーティングを施した石材でも、定期的なメンテナンスが行われなければ、効果を十分に発揮できないことがあります。例えば、コーティングの劣化を防ぐためには、定期的に専門業者による点検や再施工が必要になる場合があります。これにより、石材の美しさと耐久性を長期間維持することができます。また、メンテナンスを怠ると、石材の劣化が進み、結果として修繕費用がかさむことになるため、初期段階での適切なケアが経済的な面でも有益です。   石材コーティングは一度施工すればそれで終わりというものではなく、長期的な視点でコストと効果を考えることが必要です。費用だけでなく、メンテナンス計画を含めた全体的なコストパフォーマンスを重視することで、満足のいく結果を得ることができるでしょう。     まとめ 京都で石材コーティングを検討する際には、まず石材の種類や用途に応じた最適なコーティング方法を選ぶことが重要です。石材は自然素材であり、その性質を保つためには適切な保護が必要です。コーティングを施すことで、石材の美しさや耐久性を長く維持することができますが、そのためには専門的な知識と技術が求められます。   業者選びに際しては、実績や技術力を確認し、自分のニーズに合ったサービスを提供してくれる業者を選ぶことが大切です。また、見積もりを依頼する際には、費用だけでなく、使用するコーティング剤や施工内容をしっかりと確認し、長期的な視点でのメンテナンス計画も考慮することが必要です。最適な業者とコーティング方法を選ぶことで、石材の美しさを保ちながら、安心して長期間使用することができるでしょう。     京都について 京都は、日本の歴史と文化が深く根付いた都市で、かつては日本の首都として長い間栄えてきました。日本の伝統的な建築様式や庭園、美術が多く残されており、国内外からの観光客にとっても魅力的な場所です。京都には、世界遺産に登録されている寺院や神社が数多く存在し、例えば、清水寺や金閣寺などが有名です。これらの場所では、季節ごとに異なる景色が楽しめるため、春の桜や秋の紅葉の時期には特に多くの人々が訪れます。   また、京都は茶道や花道、和食など日本の伝統文化が発展した地でもあります。茶道の精神や美学は、京都の数々の茶室で今もなお受け継がれており、茶の湯の体験ができる場所も多くあります。和食においては、京料理と呼ばれる繊細で美しい料理が特徴的で、四季折々の食材を活かした料理が提供されます。   さらに、京都は職人技が光る工芸品の産地でもあり、京友禅や西陣織など、日本を代表する伝統工芸が今もなお受け継がれています。これらの工芸品は、技術と美意識の結晶として国内外で高く評価されています。   京都の街並みは、古都ならではの風情が残されており、特に祇園や嵐山といったエリアは、伝統的な町家や美しい自然景観が広がっています。このように、京都は歴史と文化が調和した都市であり、訪れる人々に日本の豊かな伝統と美しさを体感させてくれる場所です。     石材の基礎知識 石材は、建築やインテリアなどさまざまな用途で使用される天然の素材です。その中でも代表的なものには、花崗岩、大理石、石灰岩、砂岩などがあります。石材は古代から使われてきた材料であり、その耐久性と美しさから、現在でも多くの建物やモニュメントに使用されています。例えば、石材を用いた建築物は、その自然な風合いと時間を経るごとに増す風格が特徴です。   花崗岩は、耐久性が高く、屋外での使用に適しているため、道路や建物の外壁、庭石として広く使用されます。硬くて磨き上げることで美しい光沢を持つため、キッチンのカウンタートップや床材としても人気があります。一方、大理石はその優雅な模様と柔らかさが特徴で、室内の装飾や彫刻などに多く用いられています。ただし、酸に弱いため、日常のメンテナンスが必要です。   石材を選ぶ際には、その特性や用途に応じた選択が重要です。例えば、外部に使用する場合は、耐候性や耐久性が求められるため、硬い石材が適しています。逆に、インテリアとしての使用には、見た目の美しさや加工のしやすさが重視されます。また、石材はそれぞれ異なる吸水性を持つため、用途に応じて防水処理が必要な場合もあります。   石材のメンテナンスもまた重要なポイントです。定期的な掃除や、必要に応じたコーティングを施すことで、石材の美しさと耐久性を長く保つことができます。特に屋外で使用される石材は、風雨にさらされるため、適切なメンテナンスが石材の寿命を左右します。   石材は、その自然な美しさと豊かな表情で、空間に独特の風合いをもたらします。用途や環境に応じて最適な石材を選び、適切なメンテナンスを行うことで、長くその魅力を楽しむことができるでしょう。     会社概要 会社名・・・有限会社北尾石材 所在地・・・〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町67 電話番号・・・075-781-9523     近隣エリア 京都, 京都府, 京都市, 南丹市, 亀岡市, 長岡京市, 向日市, 久御山町, 宇治市     対応地域 綾部市,宇治市,乙訓郡大山崎町,亀岡市,久世郡久御山町,宮津市,京丹後市,京田辺市,京都市右京区,京都市下京区,京都市左京区,京都市山科区,京都市上京区,京都市西京区,京都市中京区,京都市東山区,京都市南区,京都市伏見区,京都市北区,向日市,城陽市,船井郡京丹波町,相楽郡笠置町,相楽郡精華町,相楽郡南山城村,相楽郡和束町,長岡京市,綴喜郡井手町,綴喜郡宇治田原町,南丹市,八幡市,舞鶴市,福知山市,木津川市,与謝郡伊根町,与謝郡与謝野町

五大力尊仁王会

五大力尊仁王会

まだまだ寒い日が続きますが、皆さん風邪などひいてませんか? くれぐれも気をつけて下さい。 今月は2月23日に醍醐寺で行われる『五大力尊仁王会』についてお話します。  ニュースなどでご覧になったことはありませんか?餅を持ち上げる時間の長さを競う五大力尊仁王会の餅上げ力奉納です。 男性は150kg・女性は90kgの餅を持ち上げなければなりません。ぐっと歯を食いしばり、渾身の力をこめて木の台に乗った巨大な紅白の鏡餅を持ち上げます。 あまりの重さに台さえも動かせない人、勢い余って尻餅をついてしまう人、持ち上げて腰を落とし曲げた膝に餅を乗せて懸命に耐える人・・・。 そんな参加者(挑戦者?)を周りで見守る観客は応援します。 醍醐寺は聖宝理源大師が貞観十六年(八七四)小堂を建立したのに始まり、そののち醍醐・朱雀・村上各天皇の篤い帰依をうけました。 醍醐天皇の勅願により、延喜七年(九○九)に薬師堂を建立、五大堂も落成しています。 「五大力さん」と呼ばれ親しまれている五大力尊仁王会は、醍醐寺開創より約千百年不動明王など五大明王に国家安泰・無病息災を祈願する法要で、本堂で五大力菩薩図像が開帳され、この日だけに授与される五大力尊御影(有料)は盗難や災難除けのお守りとなります。 正午から行われる奉納餅上げは、五大明王に力を奉納すると御利益があるとして、戦後まもなく始まり、今ではすっかり京都に春を告げる行事となっています。 力自慢の方は、ぜひ挑戦してみて下さい。  石屋のないしょ話でした・・・。

御利益

御利益

仏事Q&Aで「御利益」とは「おかげ」を知ることであるとお話しましたが、やはり様々な御利益をかかげている神社・寺院にお参りしたくなりますよね? いくつかご案内します。 まず、蹴鞠の神様を祀る末社を持つ白峯神宮(京都市上京区今出川通堀川東)は、サッカーの神様として中学・高校のサッカー選手がお参りにやってきます。 この神宮の祭神は崇徳天皇で、百人一首にある「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあわんとぞ思ふ」の和歌から、恋愛成就の神様としても祈願されています。 また、清水寺(京都市東山区清水)の境内にある地主神社には、恋占いの石があります。 離れた二つの石の一方から目を閉じてもう片方の石にたどり着ければ恋愛が成就するといわれており、若い人たちの人気を集めています。 最近、パワースポットの神社として多くの人たちがお参りに訪れる下鴨神社(京都市左京区下鴨)の摂社の相生社に「連理の賢木」という木があり、縁結びや夫婦和合の御利益があるとされています。 JR京都駅の西、油小路通塩小路下ルに鎮座する道祖神社(京都市下京区)は、祭神の「さえの神」がいつの間にか「さいの神」→「幸いの神」となり、幸せを授けるとして良縁祈願の神社になっています。 ここでは良縁のお守りとして「土鈴のお守り」を授与しています。 嵯峨に鎮座されている野宮神社は「源氏物語」の「賢木」の巻で、源氏の君と六条御息所が出逢ったという記述から縁結びの御利益があるとされ、美しい錦織のお守りを授与しています。 少し変わった御利益の寺院に、千本通上立売上ルにある石像寺(京都市上京区)があります。 釘抜き地蔵を祀っているが、釘抜きが「苦を抜く」として痛み止めの御利益があるとしています。 御利益を受けた人は、お礼に釘抜きを奉納するそうです。 安井金比羅宮(京都市東山区東大路松原上ル)は、悪縁を切り良縁を結ぶ御利益で有名です。 悪縁を切る時は祈願札をいっぱい貼った半円形の「塚の穴」を潜り抜け、逆に良縁を得たい時には塚の裏側の穴から手前へ潜り抜けます。 貴船神社(京都市左京区鞍馬貴船町)の本殿から奥宮に行く途中の「結社」は磐長姫命を祀り、古くから良縁を結ぶ女神として信仰されています。 亀岡市千歳町の出雲大神宮(元出雲)も良縁祈願の人々が多く訪れることで有名です。 お参りに行かれる方は、「おかげ」が最大の御利益であることを念頭において御祈願して下さい。   石屋のないしょ話でした・・・。

京野菜

京野菜

京都には「京野菜」と呼ばれる伝統野菜とブランド野菜が多くあります。 聖護院大根・賀茂なす・堀川ごぼう・伏見とうがらし・壬生菜・鹿ケ谷かぼちゃ・・・など、他所では見られない京都独特の野菜が40種類以上あります。 どれも独特の形や品質を誇り、京料理に欠かせないものばかりです。 しかし、なぜ京都では独自の野菜づくりが行われてきたのでしょうか?  京都では、平安京の昔から野菜が作られ始めました。 京都は周囲を山に囲まれた盆地であるため、夏が暑く、冬は底冷えがする寒冷な気候になり、野菜の栽培に適していました。 また、東・西・北方の山から花崗岩の風化した砂質土壌と粘土が堆積した土壌も野菜を育成させるのに好都合でした。 さらに、朝廷人や公家などが多かった京都では、高級な食材が求められました。 他所では、しだいに外来野菜が導入されるようになっていきましたが、京都は都が海から遠いため外来野菜が入らず、野菜栽培に力を入れたことと、朝廷や神社の神饌もの、寺院の精進料理などに用いられることが多いため、独自の京野菜が生み出されたといわれています。  聖護院大根は、一般の大根より丸型で、愛宕郡聖護院の農家が育成しました。 聖護院かぶも愛宕郡聖護院の農家が享保年間に近江から持ち帰った種子を改良し、千枚漬けの材料としました。 丸型で、大きなものだと5キロにもなるそうです。 堀川ごぼうは、豊臣秀吉がつくった邸・聚楽第の堀で農民が作り始めたものです。 九条ねぎは、伏見稲荷大社が建立された711年、稲荷大社への神饌として栽培されたのが始まりで、九条地区で作られるようになりました。 鹿ケ谷かぼちゃは、文化年間に粟田口の農家が津軽から持ち帰って愛宕郡鹿ケ谷の農家に分けたのが始まりで、ひょうたん型の独特の形です。 このように、京野菜生産が京都で発展したのは、地理・気候・土壌などの条件がそろっていたことと、天皇や神社仏閣に献上するという役割があったためです。 石屋のないしょ話でした・・・。

西院さい?

西院さい?

暑い夏が過ぎ、朝晩めっきり冷え込む季節になりました。 皆さん風邪などひかないように気を付けて下さい。 今月は「西院」の読み方についてお話します。    「西院」とは、京都市右京区にある地名で、天神川に接するあたりを指します。 ユニークなのは、読み方が二通りあることで、阪急電鉄の駅名は「さいいん」と読み、京福電鉄嵐山線の駅名は「さい」と読ませています。 昔は「さい」と言ったそうですが、今は「さいいん」と言う人のほうが多いそうです。 この地名の由来には諸説あります。平安時代、このあたりには淳和じゅんな天皇の離宮である「淳和院」がありました。 この院が皇居の西の方角にあったことから「西院」と呼ばれるようになり、その一帯の地名も「西院」となったという説。 また、西院の中央を走る現在の佐井通さいどおりは、かつては道祖大路さいおおじと呼ばれ、佐比川さいがわが流れていたことから「さい」と呼ばれるようになったという説もあります。 さらには、次のようなおどろおどろしい説もあります。 西院のある場所は、平安時代には洛外で西の果てでした。 魔界との西の境目で、三途の川の河原、つまり「賽の河原」があったらしいのです。 「賽」とは、親より先に死んだ子供たちが、親不孝の罰として河原に積まなければならない石のことです。 何度積み上げても鬼がそれを崩しに来るので、永遠に石を積み上げ続けなければならないという悲しい謂れがあります。 西院の地こそ、この「賽の河原」と考えられていたようです。 それを示す石碑が実際に残っています。 阪急西院駅の近くにある高山寺には、「西院之河原 旧跡」と記された石碑が建っていて、それには「さいのかわら」とふり仮名がしてあります。 現在は、京都と大阪を結ぶ阪急電鉄の駅があり、大阪方面への出入り口として賑わう繁華街となっている西院ですが、かつては死んだ子供たちが永遠に石を積み上げる悲しい河原だったのかもしれません。 石屋のないしょ話でした・・・。

蝦夷のアテルイ

蝦夷のアテルイ

一年中多くの観光客が訪れる、京都を代表する名刹・清水寺は、東山三十六峰のひとつ音羽山の中腹に広大な寺域を持っています。 その清水寺の境内に、なぜか古代東北・蝦夷の主将アテルイと、副将モレの慰霊碑がひっそりと建っています。 皆さんはご存知でしたか? 今月は清水寺と蝦夷にどんな関係があったのかについてお話します。    アテルイは、平安時代はじめ、東北地方を本拠とした蝦夷の主将です。 七八九(延暦八)年、東北に侵攻した朝廷の大軍をわずかな兵力で撃退した東北の英雄です。 続く坂上田村麻呂との戦いでは、敗れて副将のモレと共に投降しました。 十三年にもわたる戦いで数万に及ぶ朝廷の大軍を翻弄した主将は、古代ではアテルイしかいないと評されています。 坂上田村麻呂はアテルイの武勇を認めて朝廷に恩赦を願い出ますが許されず、アテルイ・モレは河内国で処刑されました。 処刑地は現在の大阪府枚方市牧野付近と言われ、ここにアテルイの墓と言われる首塚はありますが、他にも墓とされる胴塚があるなど、長い間、蝦夷の英雄の墓所も祀る寺社も定まっていませんでした。  そのため、岩手県の地元有志が一九九四年に両将の鎮魂のため、清水寺の境内にアテルイとモレの慰霊碑を建て、「北天の雄」と明記したのです。 清水寺は、実は坂上田村麻呂と深い因縁があります。 この寺の開基については、草創をどの時点に置くかで諸説ありますが、寺伝によると奈良時代末の七七八(宝亀九)年、延鎮上人によるといわれています。 延鎮がまだ修行中の身だった頃、夢のお告げで音羽山麓の滝のほとりに草庵を結び、行叡居士に命じられて観音像を彫って祀ったのがはじまりといわれています。  その後、坂上田村麻呂が妻の安産のため鹿を狩りに来て延鎮に出会い、殺生を戒められて改心し、妻とともに観音に帰依して仏堂を寄進し、ご本尊に十一面千手観音像を安置しました。 坂上田村麻呂と延鎮は協力して本堂を広げて発展に努めました。 これにより、清水寺は延鎮上人を開山、坂上田村麻呂を本願としています。 東北の蝦夷平定に向かった坂上田村麻呂は、この観音に祈願し、観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の加護を得てアテルイに勝つことができたといわれています。 田村麻呂がアテルイを勇敢な将と称えて、その後助命嘆願したのは先に述べた通りです。 このような縁から、遠き蝦夷の主将の慰霊碑が、京都の清水寺に建つことになったのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

丑の刻参り

丑の刻参り

草木も眠る丑の刻、白い着物をまとって頭には鉄輪を逆さにしてかぶり、顔に朱をさし松明を口にくわえた女が一人、山深い貴船の奥宮にあらわれる。 暗闇の中、ただひたすら藁人形に五寸釘を打ちつけ、呪詛の言葉がこだまする・・・。 皆さんもご存知の貴船神社に伝わる「丑の刻参り」です。 丑の刻参りは日本に古くから伝わる呪詛で、丑の刻つまり午前一時から三時頃に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を五寸釘で打ち付ければ、相手を呪い殺すことができるといわれています。 白装束を身にまとい、頭には鉄輪を逆さにしていただき、顔には朱を、身体には丹を塗り、松明を口にくわえるといういでたちにしなければなりません。 貴船神社の丑の刻参りは、謡曲「鉄輪」の話で広く知られるようになりました。 謡曲は、夫に捨てられた妻が貴船神社に発願して丑の刻参りをし、夫を奪った女を呪い殺そうとする話です。 妻は毎夜、貴船神社の杉の木に藁人形を打ちつけて呪詛しました。 体調が思わしくないのを不審に思った夫は、陰陽師・安部晴明に相談します。 晴明はすぐさま妻が丑の刻参りをしていることを見破りました。 満願の夜に妻が亡霊のように現れ、夫を連れ去ろうとしましたが、晴明に阻止されてできず、狂気にかられた妻は傍にあった井戸に身を投げてしまいました。 人々は、嫉妬に狂ったとはいえ、夫が恋しいあまりの所業であったことを思い、妻を哀れんで井戸の傍に祠を建て、鉄輪社として霊を祀りました。 この鉄輪社の祠と、妻が身を投げた井戸は、今も下京区堺町通り松原に残されています。 貴船神社は鞍馬山の麓、貴船川に沿って建てられた神社で、もともと水を祀る社として、全国に四五○社ある貴船神社の総本社です。 平安遷都後、京の都の水の神様として朝廷からも厚い崇敬を集めました。 古来、晴れを願うときは白馬が、雨を願うときは黒馬が神社に奉納されましたが、実際の馬に変わって板に描いた馬が奉納されるようになり、これが絵馬の発祥になったといわれています。 丑の年・丑の月の丑の日の丑の刻に貴船明神が貴船山に降臨したことから、丑の刻に参拝して願いをかけると叶うと言われ、もとは心願成就の方法だったのが、いつの間にか背筋の寒くなるような呪詛の方法として広く知られるようになったのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

楊貴妃のひげ

楊貴妃のひげ

皆さんご存知の通り、楊貴妃といえば中国唐代・第六代玄宗皇帝の妃で、クレオパトラ・小野小町と共に世界三大美女の一人として知られています。 しかし、あまりの美しさから玄宗皇帝が寵愛しすぎたため、安史の乱を引き起こし殺害されました。 今月はその楊貴妃が京都のお寺に祀られていることについてお話します。    東山三十六峰の一つ月輪山の麓、東福寺の東側に佇む泉湧寺せんにゅうじに、楊貴妃観音像が祀られています。 泉湧寺は一二一八(建保六)年、月輪大師俊じょうの開山で大伽藍の造営をはじめ、一二に六(嘉禄二)年に完成させました。 その時、境内の一角から清水が湧き出たことから泉湧寺と名を付けたのです。 戒律を基本にして天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場として栄えました。 朝廷の新任が厚く、後鳥羽上皇・順徳上皇・後高倉院など歴代天皇・法皇が深く帰依され、御陵が置かれたので「御寺みてら」とも呼ばれるお寺です。 この泉湧寺に楊貴妃観音があり、しかもその観音像には口ひげがあるのです。 なぜ楊貴妃が京都のお寺に祀られているのか、この口ひげは何を表しているのか・・・? 楊貴妃を安史の乱で亡くした玄宗皇帝は、深く悲しみ、等身大の坐像で観音菩薩像を彫らせました。 その観音像は生けるが如く楊貴妃にそっくりだったといわれています。 一二五五(建長七)年、俊じょうの弟子の湛海律師が唐に渡ったとき、羅漢像などとともにこの像を託され、泉湧寺に安置したと伝えられています。 色鮮やかな彩色は衰えず、まるで楊貴妃が蘇ったようだと言われ、伏し目がちでふっくらした頬から口元にはこのうえなく気品があふれています。 口元に注目すると、唇の上下に口ひげが描かれているように見えます。 お寺の方曰く、参拝客の質問で一番多いのがこの口ひげについてだそうです。 実は、この口ひげのように見えるものは、慈悲を表す口の動きを表現したものだそうで、決して口ひげではありません。 この観音様は楊貴妃がモデルであるだけに、美人祈願・良縁祈願・結婚祈願などにご利益があると言われ、楊貴妃にあやかろうという女性に人気があるそうです。 石屋のないしょ話でした・・・。

白紙の手紙

白紙の手紙

最近メールばかりで、手紙を書くことがなくなった方も多いのではないでしょうか? 今月は手紙のお作法についてお話します。  短い手紙に白紙の便箋が添えられていることがあります。 差出人がうっかり余分に入れたのかと誤解する人もありそうですが、そうではありません。 手紙が便箋一枚で終わった時には、白紙の便箋を添えるのがお作法なのです。  このようなお作法ができた理由をめぐってはいくつかの説があります。 一つは、手紙は本来、便箋二枚以上使って書くものだからという説です。 一枚で用件を書き終えても「本来なら二枚書かなければならないのですが」というお詫びの意味を込めて、白紙の一枚を添えるというものです。  もう一つは、白紙自体に意味があるとする説です。 かつて文面に相手の名を書くとき、最初に一字空けるのがマナーとされました。 一字空けることで、相手に対する敬意を表したのです。 そこから、文末には「謹空」と書き、以下を空白にして相手に出す習慣が生まれました。 謹空とは「恐れ多いので空白にします」という意味です。 これが、白紙の便箋を一枚添えるように変化したという説です。  紙の大きさを理由にする説もあります。 便箋は、いわゆるB5と呼ばれるサイズであり、書道でよく用いられる半紙のサイズはB4です。 半紙は一般に紙の大きさの基本とされ、便箋はその半分しかありません。 そこで、半分の紙を一枚入れるのは失礼にあたると考えられるようになり、白紙を一枚追加して半紙一枚に相当させたという説もあります。 こんなお作法に囚われることを思うと、ますますメールの方が楽チンと思われる方もいらっしゃるでしょうが、手書きには手書きの良さがあります。 メールでは伝わらない何かが伝わることでしょう。 石屋のないしょ話でした・・・。

二つの二条城

二つの二条城

二条城は世界遺産にも登録されている、観光客の絶えない京都の代表的なお城の一つです。 中京区の二条通堀川通にあり、四○○メートル四方の広大な平城です。 今月はその二条城がもう一つ存在したことについてお話します。  現存する二条城は、一六○二(慶長七)年、関が原の戦いに勝利した徳川家康により、上洛時の宿泊所として着工されたものです。 翌一六○三(慶長八)年三月には落成し、征夷大将軍に任ぜられた家康はさっそく二条城に入城し、以後、三代将軍家光までは将軍の居城として使われました。 その後、徳川将軍が二条城に入城することはなく、幕末までの歴史の舞台から姿を消してしまいましたが、一八六七(慶応三)年、大政奉還が行われました。 奇しくも徳川家の日の出と日の入りの舞台となったのです。  もう一つの二条城は、織田信長が室町小路と勘解由小路かでのこうじが交わるあたりの二条坊に、将軍足利義昭のために築城しています。 信長は天下取りのために足利義昭を擁立して上洛しましたが、一五六九(永禄一二)年、三好三人衆に義昭が襲撃されたため、二重の堀や三重の天守のある城郭を防備のために造営しました。 現存する家康の二条城に負けず劣らず広大で豪壮なお城だったそうです。 ところが、義昭と信長の関係は悪化しました。 一五七三(元亀四)年、義昭は信長に対して挙兵しましたが、二条城は信長軍に包囲されて一戦も交えずに落城し、義昭は追放され室町幕府は滅びたのです。 この際に、御殿などが兵士によって破壊され、天守や門は解体されて安土に運ばれ安土城に転用されたといわれています。   二条城の残骸は土中に埋もれることになり、一九七五(昭和五○)年、京都市中を南北に走る地下鉄烏丸線の工事の際、土中から二条城の石垣・堀の跡・石仏・五輪塔などが発掘され、信長が建てた二条城が確かに存在したことが実証されました。 地下鉄烏丸線に乗ると、ちょうど丸太町通りを通過するあたりに、信長の二条城が建っていたことになります。 現在は平安女学院の敷地の一角で、「旧二条城跡」と記された石碑が建つのみとなっています。 石屋のないしょ話でした・・・。

山紫水明

山紫水明

京都の町は「山紫水明」といわれますが、その由来をご存知ですか? 今月は「山紫水明」についてお話します。  『大言海』によると、山紫水明は「紫は山の翠色に夕日が映えて紫色に見える意」とあり、山水の景色が美しいことをいいます。 『大辞林』では、「山は紫にかすみ、川は澄み切っていること。 景色の美しいこと」とあります。 京都の町は三方を山が囲み、町中を流れる鴨川は大都市の中を流れる川としては例外的によく澄んでいます。 特に夕日に映える東山を背景にした鴨川の風景は、古くから多くの人々に愛されて、和歌にも詠みこまれ「山紫水明」と表現されました。  この京都の美しい景色の「山紫水明」を有名にしたのは、儒教者の頼山陽らいさんよう(一七八○~一八三二)である。 頼山陽は丸太町橋近くの鴨川のほとり(現在の上京区丸太町通り三本木上がる)に居を構え、自分の書斎から鴨川を隔てて東山を望む景色が美しいことから、この書斎を「山紫水明処」と名付けました。 この書斎は現在も鴨川のほとりに、藁葺き屋根もそのままに保存され、頼山陽の子孫が管理しています。  頼山陽は、幕末の儒教者で広島藩に仕えていましたが、二十一歳の時に脱藩して閉居させられました。 三十二歳の時、京都に出て文人や学者と交わり、名を広めました。 その後、この「山紫水明」で『日本外史』著しましたが、この書が尊皇攘夷に大きな影響を与え、木戸孝允や伊藤博文もこの書を読んで感銘を受けたといわれています。 石屋のないしょ話でした・・・。

桃の節句

桃の節句

三月三日は、皆さんご存知のひな祭りです。 ひな祭りについてはvol.67でお話しましたので、今月はひな祭りの別名「桃の節句」についてお話します。  三月三日が近づくと、お花屋さんやスーパーの店頭に桃の蕾をつけた枝が並んでいるのを見かけますが、三月は桃の花の季節にはまだ早く、時に雪も降ることのある寒さです。 つまり、昔の暦と今の暦にズレがあるためで、昔のひな祭りは旧暦の三月、つまり現在の四月に行われていました。 ですから、昔の桃の節句のときは、ちゃんと桃の花が咲いていたのです。 でも、桃の花が咲く季節に行われるから「桃の節句」という別名がついたわけではありません。  ひな祭りの起源は、古代中国の“みそぎ”にあるのですが、その中国では、桃は古くから魔を払う神聖な植物と考えられていました。 三月三日に摘んだ花びらをお酒につけた「桃花酒」を飲むjと、若さと健康を保てるという言い伝えもあります。 また、理想郷のことを「桃源郷」というのも、かつて桃が神木と考えられていたためです。 要するに、桃は非常におめでたい植物なのです。 日本でも「日本書紀」に、イザナギがヨモツシコメに追われた際、桃の実を投げて難を逃れたという記述があります。 こうしたことに加え、ひな祭りがちょうど桃の花の咲く時期に行われることもあって、しだいに桃は女の子を守ってくれる植物となったわけです。 石屋のないしょ話でした・・・。

西陣織

西陣織

西陣織といえば、京都の代表的な伝統産業です。東は堀川通り、西は千本通りに、南は中立売通りあたりから北は船岡山の麓あたりにはさまれた一画を「西陣」と呼び、古くから高級絹織物の生産地として繁栄してきました。今月は「西陣」についてお話します。  「西陣」の名は、一四六七(応仁元)年~七七(文明九)子年の一○年間にわたって繰り広げられた応仁の乱に由来します。 応仁の乱は、八代将軍足利義政の時代に、室町幕府管領の細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍が戦った内乱で、山名宗全の邸に西軍の陣が置かれたので、その地が「西陣」と呼ばれるようになったのです。 しかし、京都の織物産業は西陣の誕生よりも古く、平安時代以前、渡来系豪族の秦氏が織物職人の集団を組織し、織物業を営んだときに始まっていました。 平安時代には宮廷に織部司が置かれ、織手たちに高級織物を織らせていました。 鎌倉時代になると、織手たちは宮廷から独立して西陣付近に住み、織物町を作りました。 だが、応仁の乱が京を焼け野原にしたため、織手たちは現在の大阪の堺に一時避難しました。 応仁の乱の後、織手たちは西陣跡に戻り、織物業を復活させました。 これが、西陣織の始まりとされています。 以後、西陣織は豊臣秀吉の庇護を受けて繁栄し、江戸時代のはじめには最盛期を迎えました。 この頃から、西陣織は全国でも最高級の織物として名を馳せました。  しかし、江戸中期以降は二度の大火に見舞われ、西陣の大半が焼失。 幕府の贅沢禁止令や他産地の追い上げで衰退を余儀なくされたのです。 衰退した西陣を再び興したのは、明治になって都が東京に移ってからのことでした。 都が移ったため、京都府は東京に負けない活気を京都に取り戻そうと、様々な分野で海外技術を取り入れました。 西陣織にも高い海外技術を取り入れるため、技術研修生を何人もフランスのリヨンに送り込みました。 現在は、着物の需要の減少や、職人の高齢化などで生産者も減ってきていますが、西陣織工業組合や、西陣の若者たちが次世代に技術を引き継いでいくよう努力されています。 石屋のないしょ話でした・・・。

京都の大仏

京都の大仏

古刹・名刹で知られる都市と言えば、京都・奈良・鎌倉ですが、古都の奈良と鎌倉にはあるのに京都にはないものがあります。 皆さんおわかりですか? それは、大仏です。 しかし、実は京都にも大仏はあったのです。 それも、大仏が二体もです。 今月はかつて京都にあった大仏についてお話します。  まず、一つめは東福寺の大仏です。、 東福寺は九条道家によって創建されました。 道家は、東福寺に奈良の大仏に負けない大きな大仏を建立しようと思い、着工を始め、一二四三(寛元元)年に完成させました。 この年の六月十三日には、北条泰時が造営した鎌倉の大仏の開眼供養が行われています。 奇しくも同じ年に京都と鎌倉に大仏が建立されたのです。 東福寺の大仏は高さ約七メートルで、奈良の大仏は約十五メートル、鎌倉の大仏は約十三・三五メートルですから、東福寺の大仏は少し小ぶりだったようです。 残念なことに東福寺の大仏は一八八一(明治十四)年の火災で焼失してしまいましたが、大仏の左手だけは残り、現在は厨子の中に納められています。 その左手は約二メートルもの高さだそうです。  二つめの京都の大仏は、東山区にある方広寺の大仏です。 一五八六(天正十四)年、豊臣秀吉が奈良の大仏に負けじと、大仏と大仏殿の造営を始めました。 そして九年後の一五九五(文禄四)年、大仏が完成して大仏殿に納められました。 大仏の高さは十九メートルあったそうなので、奈良の大仏・鎌倉の大仏をはるかに上回る大きさです。 秀吉はこの大仏造営に異常なほどの執念を燃やしたと言われています。 天下を統一し、関白となったその権勢を、大仏建立によって天下に示したかったのでしょう。 しかし、秀吉が躍起になって造営した大仏は、開眼供養もしないうちに、翌年に起きた地震によって倒壊、さらにその二年後の一五九八(慶長三)年、秀吉は大仏開眼供養を待たずにこの世を去ってしまいました。   その後、秀吉の遺志を継いだ子の秀頼が大仏を再建しましたが、一六○二(慶長七)年に失火によって消失しました。 一六○八年には大仏再建が始まり、徳川家康の尽力もあり一六十二年に完成しました。 しかしその後の地震・落雷・火災によって倒壊と再建を繰り返しましたが、一九七三(昭和四八)年の火災によって消失してからは再建されず、現在は遺構が残されているのみとなっています。 石屋のないしょ話でした・・・。

干支

干支

発祥は四千年前の中国・殷の時代(紀元前十六~前十一世紀)とされています。 本来、干支は月日を数えるために生まれました。 十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十の要素で、一ヶ月を三等分した十日を一サイクルとして日を数えるように考案されたものです。 同様に十二支の子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥も十二ヶ月の呼び名であったと言われています。 十干十二支は、それぞれが組み合わされて年月日や時刻・方位などを表すのに用いられるようになりました。 また、陰陽五行説と結びつき、占いなどにも使われました。 日本書紀によると、暦法が採用されたのは推古天皇朝の六○四年で、百済の僧が伝えたとされています。 以降、干支は年月日を表すのに重要なものとなり、歴史的事件の呼称としても用いられるようになります。 例えば、大友皇子と大海人皇子との皇位継承争いを「壬申の乱」と呼びますが、干支によりこの出来事が六七二年に起こったことがわかります。 その後、干支が本格的に庶民の暮らしに浸透するのは江戸時代に入ってからになります。 それまで特権階級のものだった版暦が印刷技術の発展により、庶民の間にも広まったからです。 当時の暦は本になっていて、季節を表す二十四節気や特定の日の吉凶を示す暦注などが事細かに書かれており、各地で出版され大流行したそうです。 東洋には「輪廻の思想」というものがあります。 太陽は朝に昇って夕方に沈み、月の満ち欠けも繰り返す。 悪い日もあれば良い日もある。 私たちの周りのものは、ほとんどが循環し、蘇りを繰り返しているという考え方です。 干支もまた、十(十干)と十二(十二支)の最小公倍数である六十ごとに繰り返しています。 六十一年目には自分の産まれた年の干支になり、暦が還ったという意味で「還暦」となります。 数え年で六十一歳(満六十歳)を祝う風習は現在も続いており、赤い頭巾にちゃんちゃんこを身につけるのは、もう一度赤子に戻って産まれ直すという意味合いがあります。  石屋のないしょ話でした・・・。

右が左京区?

右が左京区?

今年も早いもので、もう12月です。 何となく気ぜわしくなりますが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか? 京都に観光に来られた方で、京都市の地図を広げた時、「なぜ地図の右側が左京区?」と疑問を持たれた方もおられたかと思います。 今月はなぜ右に左京区・左に右京区なのかについてお話します。 実は、この疑問を解く鍵は平安京の造営に関係しているのです。 古代中国には「天子は南面す」というしきたりがありました。 これは、国の君主である天子は南に向かって政治を執ることとされていました。 長安が首都であったときも、洛陽が首都になったときも、天子がいる宮殿は南に向かって建てられました。 そこで、平安京もそれにならって大内裏を南に向けて建てられたのです。 つまり、天皇のいる御所から南に向かって右側が右京、左側が左京とされました。 天皇は南面して高み御座に座っていたので、左側が東になります。 そのため、地図上では右側にありながら「左京区」、左側にあっても「右京区」と呼ばれるのです。  この「天子は南面す」というしきたりの名残は、現在の京都にも存在します。 京都御所のもっとも重要な建物である紫宸殿は、南向きに建てられています。 紫宸殿の中央内部には、現在も高御座という御座が置かれ、この高御座を使って明治天皇から大正・昭和天皇の即位礼が行われました。 南向きの紫宸殿の前には白砂を敷き詰めた「南庭」と呼ばれる庭が広がっています。 平安時代の左京は、都の東側で洛中を指していましたが、京都市の行政区としての左京区は、鴨川左岸の洛外地域に変わっています。 現在はその後の市町村合併により、さらに東外縁部の愛宕郡のほうまで含め、寂光院で有名な大原や、鞍馬寺で知られる鞍馬などの山間部までを取り込む大きな地域となりました。 左京区には京都大学・京都府立大学・京都国立近代美術館・京都市美術館など、大学や文化施設も多く、銀閣寺・平安神宮・南禅寺・哲学の道・下鴨神社・修学院離宮など名所史跡は数多くあります。  いっぽう、右京区は平安時代には農村地帯でしたが、現在は南部が住宅地として発展し、西北部は山間部となっています。 嵐山・嵯峨野・保津峡・高尾など自然に恵まれた名所が広がります。 石屋のないしょ話でした・・・。

江の墓

江の墓

新聞に載っていた記事によると、今年の紅葉は例年になく綺麗に色付くのだそうですが、皆さんはどこに紅葉狩りにお出かけしますか? 今月は、京都の紅葉狩りスポットの一つ真如堂のお隣にある、金戒光明寺にある「江」のお墓についてお話します。 浅井長政と、織田信長の妹・お市の間に三女として産まれ、政略的な三度の結婚や近親者の討ち死になど、時代の波に翻弄される生涯を送った江ですが、徳川二代将軍秀忠の正室となり七人の子供をもうけた後も、次男・家光の乳母で家光を将軍を継がせたい春日局と、三男の忠長を将軍に就けたい自らの思いの対立に悩まされました。二人の確執は現代の小説などの題材にしばしば取り上げられるほど有名ですが、その人物像を伝える資料は以外にも少ないのだそうです。 江戸城で没した江の墓は、東京の芝にある増上寺の徳川家墓所にあり、発掘調査で遺骨も確認されています。 一方、徳川家と縁の深い浄土宗の大本山である金戒光明寺には、春日局が江の菩提を弔うために建てたという供養塔があり、江の遺髪が納められていると伝わっています。 世継ぎ争いの敵であった江の墓を建てたのは一種のパフォーマンスとも考えられますが、後日作り上げられたイメージの外側に、二人の本当の深い関係があったのかもしれません。 金戒光明寺の 江のお墓にお参りすることがあれば、石段を三重塔まで登ってみて下さい。 小高い丘で見晴らしが良く、幕末に京都守護職の本陣がこのお寺に置かれた理由に頷くことでしょう。 今も広大な墓地から京都市街の眺望が楽しめます。 石屋のないしょ話でした・・・。

血天井

血天井

朝晩めっきり冷え込んできました。 皆さん急激な温度差に風邪などひかれてませんか?今月は、一年中多くの観光客が訪れる三十三間堂の東向かいにある、養源院というお寺についてお話します。 養源院は、一五九四(文禄三)年に、豊臣秀吉の側室淀君が父の浅井長政の菩提を弔うために秀吉に願って建立されました。一六一九(元和五)年に一度焼失していますが、二年後、淀君の妹で徳川秀忠の妻の崇源院(今、大河ドラマで主人公の江)が秀忠に懇願し、京都桃山の伏見城の遺構を移して再建しました。そんなお寺に、なんと人の血痕が手形や体の形のまま残っている「血天井」があります。天井に不気味な血痕がはっきりと残り、見た人は思わず背筋を凍らせるでしょう。いったいなぜお寺に血天井があるのでしょうか? この血天井は、伏見城攻防戦で徳川家康の家臣である鳥居元忠以下一◯◯◯名余の武士たちが、石田三成軍に攻められて敗れ、最後に自刃した廊下の板敷きを天井にしたものなのです。 豊臣秀吉は五大老と五奉行を任命し、我が子秀頼の将来を託しましたが、秀吉亡き後、武闘派と文治派が対立しだしました。  そこで天下を狙う徳川家康は、伏見城で五大老を無視して独断で政権を執り始めました。 石田三成ら文治派はこの態度に怒り、一触即発の緊張状態となりました。 家康は戦を起こして一気に天下を取りたいのですが、それには大義名分が必要でした。 そこで家康はあえて伏見城を留守にし、上杉討伐に会津へ向かうことにしたのです。 伏見城を留守にすれば、その間に石田三成が必ずや伏見城を取り返そうと攻撃してくると睨んだのです。 伏見城の留守を預かるのは家康側近の鳥居元忠以下一◯◯◯名の武士たちです。 彼らは戦の口実を作るための囮となったのです。 元忠も覚悟の上であり、会津に向かう家康と最後の別れを惜しみ、涙を流したと伝えられています。 一六◯◯(慶長五)年、家康が会津に向かうと、予想通り三成軍が猛攻撃を仕掛けてきました。 捨て身の元忠らは必死で奮戦しますが、一二日間の戦の末、元忠軍は敗れました。 元忠も自刃し果てたのです。 彼らの遺骸は葬られずに一ヶ月あまりも放置され、そのため死体の跡や血痕が廊下の板に生々しく染み付きました。 崇源院は、養源院の再建にあたり、この血痕が残る廊下の板を貰い受け、討ち死にした武士たちを弔う意味で天井板にはめ込んで残したのです。 現在も養源院には多くの観光客が血天井を見に訪れます。 手形・胴体・引っかき傷など生々しい痕が浮かび上がる天井からは、討ち死にした兵士たちの呻き声が聞こえてくるような気がしませんか? 石屋のないしょ話でした・・・。

先斗町

先斗町

まだまだ厳しい残暑が続きますが、皆さん体調は崩されていませんか? 今月は、京都に来られた観光客がなかなか読めない「先斗町ぽんとちょう」についてお話します。  先斗町は、京都の市中を流れる鴨川と木屋町通の間に細長く続く石畳の通りで、飲み屋さんや料理屋さんが軒を並べています。狭い通りをはさんで、東側のお店は鴨川に面しているため、夏になると鴨川の川べりに床を張り出してお酒や食事を楽しむ、京都の夏の風物詩「納涼床」がはじまります。明治期より先斗町歌舞練場では、舞妓さんや芸妓さんによる「鴨川をどり」が初演され、花街として賑わってきました。「先斗町」も読み方が難しい京都の地名の一つです。 先斗と書いて、なぜ「ぽんと」と読むのでしょうか? これには、いくつかの説があります。織田信長の時代、この地にはポルトガル人が南蛮寺を建てて多く住んでいましたが、彼らがこの地を「ポント」と読んでいたようです。ポルトガル語で「PONTぽんと」は「先」という意味があります。 では、なぜポルトガル人たちは、この地を「先(ポント)」と呼んだのでしょうか? この地は、もともと鴨川の中州で、そこに堤防を築くために埋め立てた場所でした。 そこに家が建ち始めましたが、すべて河原に面した片側のみの先端に建ったことから、ポルトガル語で「先にある町」という意味で、「ポント」と呼んだと言われています。 また、この一帯は鴨川と高瀬川に挟まれた堤のような地であるため、「堤」から「鼓つづみ」を連想し、鼓が「ポン」と鳴ることから「ぽんと」になったと言われています。  川と川に挟まれた地を、皮と皮に挟まれたと解釈して「鼓」を連想したのでしょうか?  今では南蛮寺のあった西洋の香りはなくなって、京の風情が満喫できる花街となり、観光客に人気のエリアとなっています。 石屋のないしょ話でした・・・。

室町時代のトイレ

室町時代のトイレ

東福寺は、東山三十六峰の一つ、月輪山麓に位置し、京都駅の東南にある臨済宗の寺院です。 紅葉の名所として名高く、「通天橋」という橋から眺める庭の紅葉は目を見張る美しさです。 鎌倉時代半ばの一二三六(嘉禎二)年、当時の権力者・九条道家により創建されました。 今月は東福寺の重要文化財についてお話します。  ところで、この東福寺には通天橋の紅葉の他に、もう一つ日本最古の貴重な文化財があるのをご存知でしょうか?  それは、なんと全国唯一の室町時代のトイレです。 山門を入ってすぐ左側にある切妻造りの禅宗様式の建築物で、外観からはトイレとは思えないつくりです。 これは、東福寺で修行した禅僧たちのトイレで「東司とうす」と呼ばれました。 「東司」は禅堂の東側にあるトイレのことを言い、西側にある場合は「西浄せいちん」と呼びました。 室町時代の禅寺では、トイレで用を足すことも修行の一つで、厳しい作法が定められていたと言われています。  東司の中に入ると、中央に広間があり、左右に陶器製の三六個の壺が楡二列に計七二個並び、その奥に手洗い所があります。 仕切りはいっさい無く、僧侶達は一○○人くらいが生前と並んで、丸見えのなかで用を足したのです。 そこから、この東司を通称「百雪隠」とも言います。 建築内部に、当時の様子を描いた絵と説明書きが展示されています。 その説明によると、トイレの厳格な作法とは次のようなものです。 まず、着ている法衣を脱いで丁寧にたたみ、黄色の土団子と水桶を持って厠に上がります。 厠の前でわらじに履き替え、両足で台を踏み、うずくまって用を足します。 この時、決して周りを汚したり、笑ったり、歌ったり、唾を吐いたりしてはいけません。 用が済んだら、紙かヘラで拭き、右手で水を散らさないように流して壺を洗います。 手洗い所に戻ったら、手を三度洗います。 ついで、灰で三度、サイカチ(植物の葉)で一度洗い、その後改めて水や湯で手を洗います。 いかに清潔さに神経をつかっていたかがよくわかります。 清潔にすることは、功徳を積む修行の一つであったそうです。 禅の精神を見習い、私達もトイレは清潔に使うことを心掛けましょう。  石屋のないしょ話でした・・・。

東寺・西寺

東寺・西寺

7月に入る前から猛暑日が続く今日この頃ですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?節電しなくてはいけませんが、我慢して熱中症にならないように気をつけてください。ところで、かつては新幹線で京都駅に着く前に見事な五重塔が見え、京都人は「京都に帰ってきた」と実感したと言います。残念ながら京都駅が改装されてからは見えなくなりましたが、まさに東寺は京都のシンボルなのです。しかし、西寺が見当たらないのはどうしてでしょうか? 今月は東寺があるのになぜか西寺が存在しない理由についてお話します。 実は、昔は西寺も存在したのです。 桓武天皇は、平安京の入り口に羅城門をつくり、その左右に国家鎮護の官寺として東寺と西寺を建立しました。 現在の東寺は、ほぼ平安京の時代のままだと言われていますが、広大な境内には豪壮な金堂・講堂・南大門などが並び建っています。 西寺も東寺とまったく同じ規模でつくられ、五重塔も東寺と左右対称に天空に向けそびえ立っていたのです。 八二三(弘仁一四)年、嵯峨天皇は東寺の管理を空海(弘法大師)に、西寺の管理を守敏に委ねました。 東寺は唐で密教を学んで帰国した空海のもと、日本で初めての真言密教の寺院となり発展を遂げ、民衆の信仰を集めました。 いっぽう、西寺は守敏のもと官寺として鎮護国家にあたり、創建当初こそ栄えましたが、九九◯(西暦元)年、落雷によって焼失しました。 その後再建されましたが、次第に衰退の途を辿りました。 一ニ三三(天福元)年に再び焼失し、廃寺となり以後再興されることはありませんでした。 なぜ、東寺が栄えて西寺は衰退してしまったのでしぃうか? 当時の空海は真言密教を開き、全国の土木事業や灌漑に尽力し、書にも優れた英雄でした。 民衆の弘法大師信仰は現在に至るまで根強かったのです。 空海は東寺の修築を行った時、天皇や公家の庇護を仰いで木材を懸命に集め、修復に全力を注ぎました。 平安時代以後も歴代天皇や権力者達は空海への厚い信仰心から、東寺が廃れないようにと復興に尽力したのです。 とくに、南北朝時代の後醍醐天皇は東寺復興に力を注ぎ、足利尊氏は東寺を本陣としたほどです。 いっぽう、西寺は守敏に任されましたが、平安朝の官寺のまま推移していきます。 官寺なので経費は官庫で賄われましたが、平安朝の半ばには国家財政は破綻していました。 そのため、国分寺や官寺の多くは九世紀後半には廃絶し、西寺もその運命を辿ることになったのです。現在、西寺のあった場所は公園となり、西寺跡の石碑がひっそりと佇んでいるだけです。 石屋のないしょ話でした・・・。

車折神社

車折神社

例年よりも早く梅雨入りし、すっきりとしないお天気が続きます。 ところで皆さんは「車折神社」と書いて何と読むかご存知ですか? 正解は「くるまざきじんじゃ」です。 車折神社といえば、芸能人がお詣りに行くので有名な神社です。 芸能の神様である「芸能神社」が境内にあって、有名人の名前も随所に見られる玉垣がどんどん境内に延びています。 そのことと車折は何か繋がりがあるのでしょうか? 今月は「車折神社」についてお話します。 そもそも車折神社の名前の由来は・・・後嵯峨天皇(一二四二~四六)が大堰川へ行幸する際、神社の前にある石のそばを通りかかると、急に車の轅ながえ(牛に引かせる二本の長柄)が折れました。 天皇はここに清原頼業が祀られていることを知り、非礼を詫びて「車折大明神」の神号と正一位の位を贈りました。 こうして「車折神社」の名がついたと言われています。 この神社は、もともと清原頼業すなわち経書と法律の大学者であった人を子孫が祀った「宝寿院」というお寺だったのです。 古くは「車折神社」でなく「車前神社」や「車裂神社」の漢字が使われていたそうです。 それが「車析神社」に統一され、さらに現在の「車折神社」と書かれるようになったのは江戸時代末期からとのことです。 後嵯峨天皇の命名からすれば「車前」や「車裂」はその意味をよく表しています。 「車折」にいたる漢字の変遷がおぼろげながらも見えてきます。 「車前」や「車裂」は意味通りではありますが、神社名としてふさわわしくなかったのかもしれません。 ところで、このややこしい神社名のきっかけとなった後嵯峨天皇の前で神威を表し、車の轅を折ったとされる石ですが、拝殿に向かって右手前、石垣と木々に囲われ、注連がはられて祀られています。 石屋のないしょ話でした・・・。

恋占いの石

恋占いの石

今月は、地主神社の本殿前にある「恋占いの石」と呼ばれる一対の石についてお話します。10メートルほど離れて置かれてある「恋占いの石」を、目を閉じて一方の石からもう一方の石へ無事に辿り着けば恋愛が成就するといわれています。 その際、一度で辿り着ければ恋の成就も早く、人にアドバイスを受けながら辿り着いた時は、人の助けを借りて恋が成就するのだそうです。  地主神社は大変人気の高い神社で、若者や海外からの参拝者も多く、この石で恋を占うことが地主神社参拝の大きな目的の一つとなっています。 江戸時代の文献にも、「老若男女、終日嬉々としてたわむる」の記述が残っています。 最近の研究(ホースト博士・米国・原子物理学)では、縄文時代の遺物とされ、人のご縁を永く見つめてきた歴史ある石です。 境内に参拝者もおおいですが、ぜひ一度恋の成就を願ってチャレンジされてみてはいかがでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

鬼門

鬼門

今月は、京都御所にいる金網の中に入れられた猿についてお話します。京都御所の北東角の地点は「猿が辻」と呼ばれ、ここだけ築地塀がへこんでおり、築地塀の上には金網に閉じ込められた猿の像が御幣を持って鎮座しています。同様に、比叡山の麓に位置する赤山禅院という寺の屋根の上にも、金網の中に御幣を持った猿の像が鎮座していますが、なぜ猿の像が屋根や塀の上に置かれているのでしょうか? 平安京は古代中国の陰陽道の考え方により、都を「鬼門」から守るように作られていました。 「鬼門」とは、北東の方位を指し、鬼や悪霊が出入りする丑と寅の間の方角で「表鬼門」と言って忌み嫌われました。 対する南西の方角は未と申の間の方角で「裏鬼門」と言われ、こちらも同様に忌み嫌われました。 京都御所の猿が辻は、平安京の北東の方角にあり、陰陽道によると鬼や悪霊が出入りする「表鬼門」に位置します。 そしてこの北東の方角を延長してラインを辿っていくと、ちょうど赤山禅院と比叡山延暦寺が位置するのです。 つまり、赤山禅院・比叡山延暦寺も平安京の鬼門を守る寺として造営されたと考えられます。 平安京の北東の鬼門に当たる御所の猿が辻に猿の像を安置し、またさらに北東に進んだ位置にある赤山禅院にも屋根の上に猿の像を置いて、平安京の表鬼門を守らせています。 赤山禅院の猿と御所の猿は向かい合う位置にあり、互いに鳴き交わして京を守っていると言われています。 では、なぜ鬼門を守る像に猿が用いられているのでしょうか? 昔から猿は「難が去る」「勝る」に通じると言われ、魔除けや鬼退治・必勝のご利益があると信仰されてきました。   お稲荷さんがキツネとされるように、猿も昔から神の使いとされてきたのです。 比叡山延暦寺の守護神は日吉大社で、その神の使いが猿なのです。 それにしても、御所の猿も赤山禅院の猿も金網の中に閉じ込められているのは不思議です。 猿が辻にある立て札によると、実はこの神猿は神様の使いであるのに夜になると抜け出しては外を通る人にいたずらを繰り返していたため、金網の中に閉じ込められたとあります。 なんとも破天荒な神様の使いです。 石屋のないしょ話でした・・・。

深泥池

深泥池

皆さんは京都で一番の魔界スポットと言われている「深泥池みどろがいけ」をご存知でしょうか?今月は、「深泥池」についてお話しします。 洛北の上賀茂付近で、地下鉄の北山駅から十分ほど歩くと、鞍馬街道に向かって湿地帯が広がります。 その中心が深泥池で、周囲は約一・五キロ、面積は約九ヘクタールで、真ん中に浮島が浮かんでいます。 池というより、水草や様々な水生植物が所せましと生い茂り、昼間でも鬱蒼とした底なし沼といった雰囲気が漂っています。 周囲は緑深い小高い丘に囲まれ、一人で池の周囲を歩くには、どこか不気味で心もとない雰囲気です。  古来、この池の北方にある貴船の奥に棲む鬼がこの池を出入り口にしていたと伝えられ、あやかしもの達が行き交う異界でした。 たしかに、御伽草子にも貴船の奥には鬼が棲むという伝承があり、地下水脈がこの池と貴船の間でつながっているとも考えられ、伝承が生まれるのも頷けます。 有名な怪談として、この池の近くでタクシーが女性客を乗せると、いつの間にか姿が消えている女の幽霊が出るという話があります。 ここは、タクシー怪談発祥の地でもあるのです。 また、自殺した水死体が浮かぶ例や、池沿いの道のカーブを曲がりきれない自動車の衝突事故や池に突っ込む事故も起きています。 もちろん、この池のせいで事故が起こるわけではないのでしょうが、心霊現象に見舞われたのが原因ではないかという噂があるのも事実です。  このように、日本有数の心霊スポットになってはいますが、実はこの池の水生植物が国の天然記念物に指定されているほど、貴重な池なのです。 氷期からの生き残りとされる生物や、エビ・カメ・クモ・トンボ・カモなどの様々な種類の生物が共存し、日本で初めてミズクモが発見されたこともあり、学術的にも極めて重要な池に指定されているのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

祗園

祗園

「祗園」という地名は、実は全国にたくさんありますが、京都の祗園は日本一の花街で知られ、「祗園」といえば京都の祗園を思い浮かべる方がほとんどでしょう。 今月は、「祗園」についてお話しします。 京都の祗園は八坂神社の門前町として、鴨川から東大路通り、八坂神社までの一帯に栄えました。 八坂神社は江戸時代までは「祗園社」と呼ばれ、「祗園さん」の名で親しまれていたので、この門前町の名も「祗園」という名がついたといわれています。 一八六八(慶応四)年の神仏分離令によって、祗園社と呼ばれていたのが「八坂神社」と改められました。 現在は京都有数の花街で、茶屋・料亭などが軒を並べています。 格子戸の続く家並みは京都の風情を醸し出し、重要伝統的建造物群保存地区に選ばれています。 では、なぜ八坂神社を「祗園社」といったのでしょうか? 八坂神社の創建については、六五六年、高句麗から来た遣い伊利之使主いりしおみが、新羅の牛頭山ごずさんに祀られているスサノオノミコトを京都南部の八坂郷に祀ったのが始まりという説や、八七六(貞観十八)年、僧の円如えんにょが牛頭天王を祀ったのが始まりという説など、いくつかあります。 牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神で、文字通り頭が牛の異形の神です。 日本ではスサノオノミコトと同神とされ、仏教・神道・道教・陰陽道などの神格を習合し、やがて強大な神威を誇るようになり、疫病除けの神として多くの信仰を集めました。 つまり、祇園精舎の守護神の牛頭天王は、八坂神社の祭神であるスサノオノミコトのことなので、八坂神社が「祗園社」と呼ばれ、その門前町も「祗園」と呼ばれるようになったのです。 祇園精舎とは、悟りを開いたお釈迦様が説法を行なった場所のことであり、お釈迦様はここに多く留まって弟子たちと共に修行されたのです。 日本一の花街の名は、実はお釈迦様が弟子たちを集めて行なった仏道修行の場であったのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

「上ル」「下ル」

「上ル」「下ル」

皆さんは、京都の住所表示を見て、「上あがル」「下さがル」「東入いル」「西入いル」を不思議に思われたことはないでしょうか? 京都人以外の方にはなんとも不思議な表示ですが、京都人にはとてもわかりやすいのです。 現在の京都は、古くは平安京、新しくは豊臣秀吉の都市改革依頼の街路を踏襲しています。 そのため、東西南北の通りが縦横に碁盤の目を形成しているので、京都の街路は整然としています。 東西南北の通りは直角に交差しているので、ある地点を表示するとき、縦横の通りの交差点をどちらに行くのかという表示さえすれば、容易に辿り着くことができるのです。 そこで、 「上あがル」「下さがル」「東入いル」「西入い ル」とさえ言えば用が足りることになります。 ここで使われる「上ル」は北へ行くこと、「下ル」は南へ行くことですが、これは平安京の内裏が北の方角にあったことから、「上ル」と言えば北へ行くこと、「下ル」と言えば南へ行くことを指したと言われています。 他には、京都の地形が「北高南低」であるためという説もあります。  「上ル」の表示は東西の通りに使われ、東西のどちらに向かえばいいのかを示しています。 例えば、あるお店の住所表示が「中京区三条通烏丸西入ル」だとすると、これは、三条通と烏丸通の交差点を烏丸を横切って西へ行くことを表わしています。 本来ならこの後に「○○町○○番地」などと続きますが、案内状や紹介文の表示は「三条通烏丸西入ル」までが多く、これで十分事足りるのです。 京都市役所の住所の場合、「中京区寺町通御池上ル上本能寺前町」となります。 これは、寺町通と御池通の交差点を、御池通を横切って北へ行き、そこの上本能寺前町に市役所があることを表わしています。 これらの住所表示は東西・南北の交差点を基本にして考えます。 まず、建物が面している通りが南北の通りならその通り名を表示し、近くを横切る東西の通り名を後に続けます。 この時、後のほうの「通り」の字は略すのが原則です。 これさえわかっていれば、目的地に辿り着けます。 とは言っても、これは京都独特の表示なので、観光客の方たちにはわかりにくいでしょうね・・・。 石屋のないしょ話でした・・・。

上洛

上洛

地方から東京に向かう意味で「上京」という言葉が使われますが、同じように京都に向かうときに使われるのが「上洛」です。 しかし、なぜ京都に行くことに「洛」という文字が使われるのでしょうか? 今月は、その理由についてお話します。  その謎を解くためには、平安京の造営まで遡る必要があります。 平安京は南北五・二キロ、東西四・七キロの壮大な計画都市で、中国の都城制に倣ったものでした。 二つの「京」よりなり、南北に貫く幅八五メートルの朱雀大路を中心軸にして、東側に左京、西側に右京が作られました。 その町並みは唐の長安と洛陽をモデルとしました。 当時、唐の首都・長安は東洋と西洋文化が混合し、一○○万の人口を誇る大都市であり、洛陽は副都でしたが、長安に劣らない華やかな都でした。 この大都市長安・洛陽を真似て平安京を作ったとき、左右両京にニックネームがつけられました。 左京を「洛陽城」、右京を「長安城」と称したのです。 平安京は前途洋々のスタートを切ったものの、平安時代も中期となると、しだいに平安京そのものの解体が始まりました。 とくに右京の衰退は甚だしかったのです。 右京は地形的に低地で沼や湿地が多く、住居地には適していませんでした。 そのため、平安京建設当初から開発にかなり手間取り、早くから住宅や道路が荒廃し農村化していったのです。 それに比べて左京は発展を遂げ、二条以北は高官の貴族達の邸宅が建ち並びました。 このことは、長安をモデルにした都の衰退と、洛陽を模範にした都の繁栄を意味し、京都の別称は洛陽とも言われるようになったのです。 そのため、平安京は「洛都」「京洛」などと言われ、「洛」は「京中」を意味する言葉として定着したのです。 そして、後に将軍が京都に上ることを「上洛」または「入洛」と言うようになったのです。 こうして平安京は、東側の左京中心の細長い都市型に繁栄していったのです。 室町時代になると、応仁の乱により京都そのものが荒廃し、再び繁栄を取り戻すまでには織田信長の上洛を待たねばなりませんでした。 石屋のないしょ話でした・・・。

龍安寺の石庭

龍安寺の石庭

皆さんは「龍安寺の石庭」をご覧になったことはありますか? 今月は、この石庭にある十五の石についてお話します。  ご存知の方も多いでしょうが、京都市の北西・衣笠山の麓に建つ龍安寺は、白砂の石庭が有名です。 室町幕府の管領で応仁の乱の東軍総大将であった細川勝元が一四五○(宝徳二)年に創建した禅寺です。 この周辺は金閣寺・等持院・仁和寺が立ち並び、年中観光客でにぎわっていますが、とくに龍安寺の石庭は、その造形の意味・作庭者・作庭年も定かでなく、謎に満ちていることから、多くの人を魅了しています。 境内の北側に方丈(本堂)があり、方丈南側の土塀に囲まれた一角に枯山水の石庭があります。 庭といっても幅二二メートル・奥行き一○メートルほどのさほど広くない長方形の敷地に白砂を敷き詰め、十五個の石が一見無造作に置かれています。 砂と石の他には何もありません。 だが、この何もない空間が、日本人独特の研ぎ澄まされた感性を表わし、宇宙を表現しているといわれています。 日本庭園といえば池の存在が不可欠ですが、ここにはありません。 代わりに、白砂につけられた波紋の模様があり、これで水の流れを表現しているといわれています。 また、中国の庭園様式を模して作られ、中国の山海を表わしているともいわれています。 白砂は大海を、十五の石は島や山を表わすというのです。 ほかにも、点在する石は北斗七星を表わし、白砂は宇宙そのものを表現しているという説などもありますが、そもそも作者が不明であり、造形の意図するところは謎のままなのです。 さらに不思議なのが、十五個の石の配置です。 十五個の石は、庭をどの位置から眺めても必ず一個は他の石に隠れて見えなくなるように配置されているのです。 つまり、どこから眺めても、一度に十五個すべての石を見ることはできないのです。 なぜ、作者はこのような手の込んだ趣向を凝らしたのでしょうか? 古代中国の思想では、十五は十五夜(満月)に結びつき、完全を意味します。 また「物事は完成した時点から崩壊がはじまる」という思想があり、完全数の十五に一つ足りない十四個の石が見えるように仕掛けを作ったのではないかという説もあります。 これらの謎を抱えた石庭を前にしたら、静かに座って眺めてください。 そして作者の意図を読み取ってみてはいかがでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。  

賀茂川or鴨川

賀茂川or鴨川

四季折々の風景が愛でられてきたのが、市中を流れる鴨川です。 平安京の昔から、千二百年以上も京都の歴史を見つめてきた川です。 今月は、そんな鴨川の不思議についてお話します。  実は、「鴨川」と「賀茂川」の二つの名前が混在しているのです。 鴨川を上流へ進むと、出町柳という場所で二方向から流れてくる川が合流しています。 北に向かって右側の川が「高野川」、左側が「賀茂川」で、この合流点にかかる大きな橋の名前は「賀茂大橋」です。 ときには「加茂大橋」「加茂川」と表記される場合もあります。 つまり、出町柳の合流点より上流が「賀茂(加茂)川」で、下流が「鴨川」なのです。 一九六五(昭和四十)年、河川法によってすべてを「鴨川」で統一しているのですが、現地では、上賀茂神社・下鴨神社など「賀茂」「鴨」の名前が使われ続けています。 昔、この流域一帯は、古代に大和から移ってきた豪族賀茂氏の勢力地でした。 上賀茂神社と下鴨神社は賀茂氏の氏神にあたります。 上賀茂神社の正式名称は「賀茂別雷神社かもわけいかづちじんじゃ」、下鴨神社の正式名称は「賀茂御祖神社かもみおやじんじゃ」で、もともとは合わせて「賀茂社」と総称されていました。 かつては下鴨神社も下賀茂神社と書かれていたようで、事実、中世の文献には下賀茂神社と記述されています。 全国には賀茂社の末社が約千社ありますが、それら末社の名前も「賀茂」「加茂」「鴨」と様々な通称が使われていたそうです。 それがいつの間にかそのまま定着したため、様々な漢字による「かも」の表記が生まれてしまったのです。 京都でも、神社名にならって、上流の上賀茂神社の近くは「賀茂川」または「加茂川」、下流の下鴨神社近くは鴨川と表記するようになったようです。  石屋のないしょ話でした・・・。

Not観光地

Not観光地

どんなに京都の夏が暑くても、観光地にはたくさんの人々が訪れています。 観光都市・京都としては嬉しいことですが、なかには、マナーを守れていない人もいます。 今月は、観光地でありながら、観光地でない、お寺についてお話します。  京都の有名なお寺は、いつも修学旅行生や観光客でいっぱいです。 たくさんの人に京都のお寺を見ていただくのは嬉しいことですが、京都人にとって、お寺はやはり信仰の対象なのです。 本来、お寺を見るということは、仏様の教えを例え一端でも理解することだと思います。 お寺は、決して俗に言う観光のために存在しているのではありません。 それに、有名寺院にもそこの壇信徒(檀家)がいるわけですし、その人たちにとってお寺に行くということは、お詣りそのものなのです。 しかし、いつでも観光客ばかりで落ち着いてお詣りもできず、寂しい思いをされている人も多くいます。。 京都は観光で生活していると言われることを、京都人は快く思っていません。 例え門前でお土産物を販売されているお家でも、どんなお客でもいいからたくさんの人に来てもらえればそれでいいと思っているわけではないでしょう。 京都のお寺が俗っぽい観光地と同じ扱いをされることに眉をひそめている人もいるのです。 京都人は、京都を知っていただくために京都に来て欲しいのです。 決して観光客を拒否しようなどとは思っていません。 京都には京都のルールがあるという、そんなプライドを持ち続けないと、どんどん京都がダメになってしまうことを京都人は知っているのです。 そんなところを指して、京都人は冷たいと非難されるかもしれませんが、東京ディズニーランドでお弁当が食べられないのも、そこにポリシーがあり、ルールがあるからなのではないでしょうか? そんなところに、京都とディズニーランドには、まったく異質でありながら、どこか相通じるものを感じます。 一度、雨の日など人が少なそうな時に京都のお寺に出かけてみて下さい。 京都らしい風情が必ず見つかると思います。 そして、京都人の心の拠り所としてのお寺の存在がよくおわかりいただけると思います。 石屋のないしょ話でした・・・。

石材研磨の重要性とメリット

石材研磨の重要性とメリット

石材研磨は、石材の美しさと耐久性を保つために欠かせないプロセスです。石材は時間の経過とともに表面が摩耗し、光沢や滑らかさが失われていきますが、研磨を行うことで本来の輝きを取り戻すことができます。   特に大理石や花崗岩(深成岩の一種。粗い粒で、粒のそろった岩石。)などの天然石材は、その美しい模様や色合いが研磨によって際立ち、インテリアやエクステリアの価値を高める要素となります。また、石材研磨は表面の細かい傷や汚れを取り除くことで、耐久性を向上させる効果もあります。   これにより、石材は長期間にわたりその美しさと機能性を維持することができます。さらに、研磨された石材はメンテナンスが容易になり、日常の手入れも簡単に行えるようになります。専門的な技術と適切な研磨手法を用いることで、石材の寿命を延ばし、その価値を最大限に引き出すことが可能です。     石材研磨の重要性とメリット 石材研磨とは、石材の表面を削り、平滑にし、輝きを取り戻すための作業です。天然石材はその美しさと耐久性から多くの建築物や装飾品に利用されていますが、時間の経過とともに表面が摩耗し、傷がついたり、光沢が失われたりします。これにより、石材の見た目が劣化し、清潔さや美観を損なう可能性があります。石材研磨は、こうした摩耗や汚れを除去し、石材の元々の美しさと質感を復元するために行われる重要なプロセスです。   石材研磨が必要とされる理由は、まず第一に、石材の美しさを維持するためです。例えば、大理石や花崗岩は、その独特の模様や光沢が魅力ですが、使用や経年により光沢が失われると、全体の印象が大きく変わってしまいます。研磨を行うことで、石材は新品のような光沢を取り戻し、空間全体の印象を大きく向上させます。さらに、研磨された石材は表面の細かな凹凸が整うため、汚れがつきにくく、清掃も容易になります。これにより、日常のメンテナンスが簡単になるという実用的なメリットもあります。   石材研磨の効果とメリットは、見た目の美しさだけでなく、石材の耐久性や機能性にも影響を与えます。研磨された石材は表面が滑らかになるため、摩耗や劣化の進行が遅くなり、石材の寿命が延びることが期待できます。また、研磨によって石材の表面が平滑になることで、滑りにくさが向上し、安全性も高まります。このように、石材研磨は見た目の美しさを保つだけでなく、長期的に石材の価値を維持し、さらには向上させるための重要な手段です。専門的な技術を持つ業者による研磨は、石材を最大限に活かすための効果的な方法といえます。     石材研磨のプロセス 石材研磨は、石材の表面を滑らかにし、美しさを引き出すための重要な作業です。その基本的な流れは、まず表面の洗浄から始まります。洗浄は、研磨の前に行われるもので、石材の表面に付着した汚れや異物を取り除く目的があります。この段階での徹底した洗浄が、後の研磨作業の効果を左右するため、非常に重要です。次に、粗い研磨からスタートします。粗研磨は、石材の表面の大きな凹凸や傷を取り除くために行われ、ダイヤモンドパッドなどの研磨材を用いて行われます。この作業により、石材の表面が滑らかになると同時に、次の段階での細かい研磨がしやすくなります。   粗研磨が終わった後は、中研磨と呼ばれる段階に進みます。この段階では、より細かいダイヤモンドパッドや砥石を使用し、表面をさらに滑らかに整えます。中研磨は、石材の模様や色合いを際立たせる重要な工程であり、最終的な仕上がりの質に大きく影響します。中研磨の次は、細研磨と呼ばれる仕上げの段階に移ります。この段階では、非常に細かい研磨材を使用し、石材の表面を鏡面のように輝かせます。細研磨によって、石材の美しさが最大限に引き出され、その結果、光沢のある美しい仕上がりが得られます。   研磨に使用される道具や機械は、石材の種類や状態に応じて選ばれます。ダイヤモンドパッドや砥石のほか、研磨機やポリッシャーなどの専用機械が使われることが一般的です。これらの道具は、研磨作業の効率を高め、均一で高品質な仕上がりを実現するために欠かせないものです。各段階での道具の選択や使用方法は、職人の経験と技術に大きく依存します。研磨は専門的な技術が求められる作業であり、適切な道具とプロセスを経ることで、石材の持つ本来の美しさが引き出されます。     石材の種類と研磨方法 石材の研磨方法は、石材の種類に応じて異なる技術とアプローチが必要です。大理石は、その柔らかさと美しい光沢が特徴ですが、その反面、傷つきやすく繊細な取り扱いが求められます。大理石の研磨には、まず表面の汚れや傷を丁寧に除去し、次に粗めの研磨パッドを使用して表面を平滑に整えます。その後、徐々に細かい目のパッドに切り替えながら磨きをかけていくことで、光沢が蘇り、滑らかな仕上がりになります。最終的に、専用の研磨剤やシーラー(仕上げ塗料を塗る際に、その塗料を吸いこまないようにする下塗り用の塗料)を使用して表面を保護し、長期間の美しさを保つことができます。   花崗岩は、大理石に比べて硬度が高く、耐久性があるため、より強力な研磨が必要です。花崗岩の研磨では、ダイヤモンドパッドやダイヤモンドブレードを用いて、粗研磨から細研磨まで段階的に進めます。このプロセスでは、まず粗いパッドで表面の不均一を削り取り、その後、細かいパッドで徐々に磨きをかけ、最終的に光沢を出します。花崗岩の硬さを考慮し、適切な圧力と研磨速度を調整することが重要です。仕上げには、花崗岩専用の研磨剤やコーティング剤を使用して、耐久性と美観をさらに高めます。   その他の石材には、石灰岩や砂岩、スレートなどがあり、それぞれに適した研磨方法が存在します。石灰岩や砂岩は比較的柔らかく、細かい傷がつきやすいため、低速での研磨が推奨されます。また、これらの石材は吸水性が高いため、研磨中に水分を多く含むことで熱を抑え、石材の変質を防ぐことが必要です。スレートは非常に硬い石材であり、強力な研磨が必要ですが、その分割れやすい特徴も持っているため、研磨時には細心の注意が求められます。スレートの表面を均一に磨き上げることで、特有の美しい質感と色合いが際立ち、空間全体の雰囲気を格上げすることが可能です。石材の種類に応じた適切な研磨方法を選択することで、石材の本来の美しさと機能を最大限に引き出すことができます。     石材研磨の価格と費用の目安 石材研磨の価格は、石材の種類や状態、施工面積、作業の難易度によって大きく変動します。一般的に、石材の研磨には一定の費用がかかりますが、その相場は一平方メートルあたり数千円から数万円程度となっています。例えば、大理石や花崗岩などの高級石材は研磨の難易度が高く、細かな作業が必要なため、費用が高くなる傾向にあります。さらに、傷や汚れが深刻な場合や表面の劣化が進んでいる場合には、追加の処置が必要となり、これが価格に反映されることがあります。   費用を抑えるためには、まず研磨が必要な範囲を正確に把握し、不要な作業を避けることが重要です。定期的なメンテナンスを行うことで、石材の劣化を防ぎ、将来的な研磨費用を軽減することもできます。また、複数の業者から見積もりを取り、サービス内容や価格を比較検討することで、適正な価格で高品質なサービスを受けることが可能です。業者選びに際しては、過去の施工実績や口コミ、専門的な知識を持つかどうかを確認することが大切です。経験豊富な業者は、石材の特性を理解し、最適な研磨方法を提案してくれるでしょう。   さらに、契約前には見積もりに含まれる具体的な作業内容を確認し、不明瞭な点がないかをしっかりと確認することが必要です。追加料金が発生する可能性についても事前に確認し、トラブルを未然に防ぐことが求められます。長期的なメンテナンス契約を提案する業者もありますが、これについても慎重に検討し、必要性を見極めることが大切です。石材研磨は、美観と耐久性を保つために欠かせない作業ですが、費用を抑えつつ満足のいく結果を得るためには、事前の情報収集と業者選びが鍵となります。     自宅でできる石材研磨の簡単な方法 自宅での石材研磨は、専門的な技術が求められる作業ですが、基本的な道具と手順を守ることで、ある程度の仕上がりを実現できます。まず必要な道具として、ダイヤモンドパッド、研磨機、研磨用パウダー、水バケツ、柔らかい布などが挙げられます。これらを用意したら、作業する石材をきれいに清掃し、汚れやホコリを取り除くことが重要です。   研磨の手順としては、まずダイヤモンドパッドを使用して石材表面を研磨します。研磨機がある場合は、それにダイヤモンドパッドを取り付け、低速で均一に石材を磨いていきます。ダイヤモンドパッドの粒度は段階的に細かくしていくことが推奨されます。最初は粗めのパッドで表面の大きな傷や凹凸を削り、その後、より細かいパッドで仕上げていきます。最後に研磨用パウダーを使用し、布で磨き上げることで、石材本来の光沢を引き出すことができます。   ただし、自宅での石材研磨には注意点とリスクも存在します。まず、適切な道具を使用しなければ、逆に石材を傷つけてしまう可能性があります。また、研磨機を扱う際には、手元の安定性を保ち、均一に圧力をかけることが難しいため、ムラが生じやすくなります。さらに、研磨作業中は粉塵が発生するため、換気の良い場所で作業を行い、防塵マスクを着用するなど、健康面にも十分な配慮が必要です。研磨後の石材は、滑りやすくなることもあるため、特に床材の研磨を行う際には、仕上げに滑り止め処理を施すことが推奨されます。自宅での研磨はコストを抑える方法ですが、適切な知識と技術を持って行うことが求められます。     石材研磨のプロに依頼するメリット 石材研磨をプロに依頼することで得られるメリットは多岐にわたります。まず、プロの技術は、研磨の仕上がりに顕著に表れます。石材は硬度や構造が異なるため、それぞれに最適な研磨方法が求められます。プロは豊富な経験と知識を持ち、石材の特性に応じた研磨技術を駆使することで、均一で美しい仕上がりを実現します。また、研磨の際に使用する機材や研磨剤も専門的なものを使用するため、一般的なDIYでは達成できない高い品質が保証されます。   次に、プロに依頼することで得られる長持ちする仕上がりも大きなメリットです。プロの研磨は、石材の表面を適切な手法で磨き上げるため、汚れや傷が付きにくくなることが特徴です。また、表面の平滑性が向上することで、日常のメンテナンスが容易になり、長期間にわたり美しい状態を保つことができます。これにより、石材の耐用年数が延びるとともに、その価値も維持されます。   さらに、石材研磨をプロに任せることで、安全性と効率の向上が図れます。研磨作業は適切な技術を持たない者が行うと、石材を傷つけてしまったり、研磨が不均一になったりするリスクがあります。また、研磨機材の取り扱いには注意が必要であり、誤った使用方法は事故につながる可能性があります。プロは研磨の手順を熟知しているため、効率的に作業を進めることができるだけでなく、安全に作業を完了することができます。研磨作業がスムーズに進むことで、時間とコストの節約にもつながり、総合的に見て依頼する価値は非常に高いと言えます。     まとめ 石材業界は常に進化し続けており、新しい技術やトレンドが次々と登場しています。研磨技術においても、その進化は顕著です。例えば、近年ではナノテクノロジーを活用した研磨剤や、環境に配慮したエコフレンドリーな研磨手法が注目されています。これらの技術は、より精密で美しい仕上がりを実現しつつ、作業効率の向上や環境負荷の軽減を目指しています。   また、研磨作業における自動化やAI技術の導入も進んでおり、今後はさらに高度な技術が普及することが予想されます。こうした革新は、石材の美しさと耐久性をさらに引き出し、消費者にとっても大きなメリットとなるでしょう。今後の石材研磨の展望としては、これらの技術革新を背景に、より高品質な石材研磨が一般化していくことが期待されています。     会社概要 会社名・・・有限会社北尾石材 所在地・・・〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町67 電話番号・・・075-781-9523

石材の接着剤の選び方

石材の接着剤の選び方

石材を扱う際、適切な接着剤を選ぶことは、その耐久性や美観を保つ上で非常に重要です。石材は多様な種類があり、それぞれの特性に合った接着剤を選ばなければ、接着がうまくいかないことがあります。たとえば、天然石は吸水性が低いため、強力な接着力を持つエポキシ系接着剤が適しています。   一方、人工石材やタイルには、柔軟性があり温度変化に強いシリコン系接着剤が推奨されることが多いです。さらに、屋外での使用を考える場合は、耐候性(全天候に耐性があること)や防水性が求められるため、専用の接着剤を選ぶことが必要です。また、石材同士を接着する場合は、その接合部分に応じた硬化時間や作業性を考慮することも重要です。   このように、石材の特性や使用環境に合わせた接着剤の選定は、長期間にわたり美しさと機能性を維持するための鍵となります。選び方を誤ると、接着が不十分になり、後々修繕が必要になる可能性があるため、慎重に選ぶことが大切です。     はじめに 石材の接着剤を選ぶ際には、その特性や用途に応じた適切な製品を選ぶことが重要です。石材は非常に堅牢でありながら、素材ごとに吸水性や膨張率などの特性が異なります。このため、使用する接着剤が石材の特性に適しているかどうかが、仕上がりや長期的な耐久性に大きく影響します。   天然石には、硬化後に強度を発揮し、吸水率の低いエポキシ系の接着剤が適しています。このタイプの接着剤は、屋内外を問わず高い耐候性を持ち、長期間にわたって石材をしっかりと接着する能力があります。人工石材やタイルには、柔軟性があり温度変化に強いシリコン系接着剤が適しています。これは特に温度や湿度の変化が大きい場所で効果を発揮し、接着面が割れたり剥がれたりするリスクを軽減します。   一般的な用途として、石材の接着は建築やリフォームにおいて重要な役割を果たします。例えば、床や壁のタイル貼り、大理石のカウンタートップ(主に調理作業を行うための台の上面)の設置、屋外の石材敷設など、多岐にわたります。用途に応じた接着剤の選定は、施工後の仕上がりや耐久性に直結します。特に屋外で使用する場合、耐候性や防水性に優れた接着剤を選ぶことが求められます。また、石材同士の接着だけでなく、異なる素材との接着も考慮する必要があります。例えば、金属やコンクリートとの接合には、それぞれの素材に適した接着剤を使用することで、接合部の強度と耐久性を確保できます。   適切な接着剤を選ぶことで、石材の美しさと機能性を長期間にわたって維持することができますが、選択を誤ると、施工後に剥がれや割れが発生するリスクがあります。このようなトラブルを避けるためには、石材の特性を理解し、使用環境に合わせた接着剤を選ぶことが大切です。     石材の種類別接着剤の選び方 石材の接着剤を選ぶ際には、石材の種類ごとに適切な接着剤を選定することが重要です。まず、天然石用の接着剤について考えます。天然石はその特性上、吸水性が低く、硬度が高いことが一般的です。したがって、接着力が強く、長期間安定した接着を維持できるエポキシ系接着剤が推奨されます。このタイプの接着剤は、石材同士の強力な結合が求められる場面や、高温や湿度の変化が予想される環境でも優れた性能を発揮します。また、天然石の表面に対する影響を最小限に抑えるために、黄変しにくい製品を選ぶことも大切です。   次に、人工石材用の接着剤について考えます。人工石材は、製造過程で均質な性質を持つよう設計されており、吸水性や強度が天然石と異なる場合があります。そのため、シリコン系接着剤が多く使用されます。このタイプの接着剤は、弾力性があり、温度変化や振動に対する適応力が高いため、人工石材が使用される場所でも効果的です。特に、屋内外問わず、柔軟性が求められる接着箇所で重宝されます。ただし、人工石材の種類によっては、特定の成分に反応してしまう場合もあるため、事前にテストを行うことが推奨されます。   最後に、大理石や御影石、タイルなどの個別の石材についてです。大理石は、酸に弱いため、酸性の接着剤を避ける必要があります。また、大理石は比較的柔らかいため、柔軟性のある接着剤を選ぶことが重要です。御影石は非常に硬く吸水性が低いため、強力なエポキシ系接着剤が適していますが、その重さを支えるために接着剤の強度が必要となります。タイルは、屋内外で使用されることが多く、耐水性や耐候性が求められるため、シリコン系やアクリル系接着剤が適しています。   このように、石材の種類や使用環境に応じて、適切な接着剤を選定することが、長期的に石材を美しく保つための重要なポイントとなります。     接着剤のタイプ別ガイド 接着剤を選ぶ際には、使用する材料や目的に応じて適切なタイプを選定することが重要です。まず、エポキシ系接着剤について説明します。エポキシ系接着剤は、強力な接着力と優れた耐久性を持つため、特に重い石材や高い耐久性が求められる場所での使用に適しています。二液性が一般的で、混合後に硬化が始まるため、作業時間に余裕がある点が特徴です。また、耐熱性や耐薬品性にも優れているため、屋外や過酷な環境下でもその性能を発揮します。しかし、硬化後は非常に硬くなるため、弾力性が求められる箇所には適していません。   次に、シリコン系接着剤についてです。シリコン系接着剤は、柔軟性と耐水性に優れているため、屋外での使用や水回りでの接着に適しています。また、耐紫外線性も高いため、日光に長時間さらされる場所でも劣化しにくいという利点があります。シリコン系接着剤は一液性が多く、簡単に使用できることから、DIYにもよく利用されています。ただし、接着力自体はエポキシ系に比べて劣るため、軽量な石材や弾力性が求められる箇所での使用が推奨されます。   瞬間接着剤と高強度接着剤の比較です。瞬間接着剤は、その名の通り瞬時に接着が完了するため、時間がない場合や小さな石材を固定する際に非常に便利です。しかし、硬化が非常に速いため、位置を調整する時間がないことがデメリットとなります。一方、高強度接着剤は、エポキシ系やポリウレタン系のものが多く、特に大型の石材や高い接着力が求められる箇所で使用されます。硬化には時間がかかるものの、その分、位置の調整が可能であり、接着後の強度も非常に高いという特徴があります。使用する石材や環境に応じて、これらの接着剤を適切に使い分けることで、より長期間にわたり石材を美しく保つことができます。     用途別のおすすめ接着剤リスト 石材の接着剤を選ぶ際には、使用場所や条件に応じた適切な選定が必要です。まず、屋内で使用する場合と屋外で使用する場合では、求められる特性が異なります。屋内で使用する接着剤は、温度や湿度の変化が少ない環境での使用を前提としており、通常の強度や耐久性が求められます。一般的にはエポキシ系接着剤がよく使用されており、硬化後に高い接着力と耐久性を発揮します。また、屋内の装飾やアクセサリーなどには、見た目の美しさを損なわない透明な接着剤が選ばれることが多いです。   一方、屋外で使用する接着剤は、紫外線や雨風にさらされるため、耐候性や防水性が重視されます。シリコン系接着剤は、柔軟性があり、温度変化に強いため、屋外での使用に適しています。また、モルタルやセメント系の接着剤も、屋外の施工において強度を保ちながら長期間の耐久性を発揮します。これらの接着剤は、特に建物の外壁や庭石の固定などに使用されることが多く、その強力な接着力と耐久性が特徴です。   次に、防水性が必要な場合、例えば浴室やキッチン周りなどで使用する石材には、防水性の高い接着剤が不可欠です。防水エポキシ系接着剤やシリコン系接着剤が適しており、これらは水分に強く、接着面に水が浸入することを防ぎます。防水性が求められる場所では、接着剤自体の防水性能だけでなく、接着後の密閉性も重要であり、施工時には隙間ができないようにしっかりと圧着することが必要です。   また、強度が特に重視される場合、例えば重い石材や構造的な要素を接着する場合には、高強度エポキシ系接着剤が選ばれることが多いです。これらの接着剤は、硬化後に非常に強固な接着層を形成し、石材同士を強力に結びつけるため、長期間にわたり安定した強度を維持します。ただし、施工時には硬化時間や作業環境に注意が必要で、特に大きな石材を扱う際には、接着剤の性能を最大限に引き出すために、適切な施工手順を守ることが求められます。用途に応じた接着剤の選び方をしっかりと理解し、最適な製品を選ぶことで、石材の美しさと耐久性を長く保つことができます。     DIYでの石材接着の手順とコツ 石材をDIYで接着する際には、正しい手順とコツを理解することが重要です。まず、接着前の準備として、石材の表面をしっかりと清掃します。石材の表面に付着した汚れやホコリ、油分は接着剤の効果を低下させる可能性があるため、専用のクリーナーやアルコールを使用して、丁寧に拭き取りましょう。また、接着面が滑らかすぎると接着剤がうまく密着しないことがあるため、必要に応じて軽くサンドペーパーをかけることで、表面に適度な凹凸をつけて接着剤が食いつきやすくします。   次に、接着剤の塗布に移ります。接着剤は均等に塗布することが求められますが、厚すぎると接着剤が硬化する際に不均一な仕上がりになりやすくなります。薄く均一に広げるためには、専用のスプレッダーやヘラを使って、均一な厚さで塗布します。特に広い面積を接着する際は、隅々までしっかりと接着剤が行き渡るように注意が必要です。また、接着面を合わせる際には、少しずらしてから所定の位置にスライドさせると、気泡が入りにくくなります。石材を圧着する際には、適度な圧力をかけることが大切です。均等な圧力をかけることで、接着剤が均一に広がり、強い接着力を発揮します。圧着が不十分だと、接着剤の効果が十分に発揮されず、接着が不完全になる可能性があります。   最後に、接着後のケアとメンテナンスも忘れずに行います。接着剤が完全に硬化するまで、石材を動かさないようにし、湿度や温度が適切な環境で保管します。特に屋外で使用する場合は、直射日光や雨風を避けるように注意します。また、定期的なメンテナンスとして、接着部分に異常がないか確認することも重要です。特に気温の変化が激しい場所や、頻繁に水に触れる場所では、接着剤が劣化しやすくなるため、定期的に状態をチェックし、必要に応じて再接着や補修を行うことで、石材の美しさと耐久性を長く保つことができます。     まとめ 石材の接着剤を選ぶ際には、石材の種類や用途、使用環境に応じた適切な製品を選ぶことが重要です。天然石や人工石、屋内外での使用など、さまざまな条件に応じて接着剤の特性が求められるため、選定時にはこれらの要素を慎重に考慮する必要があります。   また、使用する際の注意点として、接着面の清掃や適切な塗布量の確保、均等な圧着が求められます。これらの手順を守ることで、接着効果が最大限に発揮され、石材同士がしっかりと結びつきます。   さらに、接着後のケアとメンテナンスも、石材の接着剤が長期間効果を保つためには欠かせません。定期的なチェックや必要に応じた補修を行うことで、石材の美しさや耐久性が維持されるため、これらの工夫を怠らないようにしましょう。適切な接着剤の選び方と正しい使用方法を実践することで、石材の接着がより長持ちし、安心して利用できる環境が整えられます。     会社概要 会社名・・・有限会社北尾石材 所在地・・・〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町67 電話番号・・・075-781-9523

石材彫刻の魅力と特徴

石材彫刻の魅力と特徴

石材彫刻は、古代から現代に至るまで、さまざまな形で人々の生活に深く関わってきました。その魅力は、石材が持つ自然な美しさと耐久性にあります。石材は、何千年もの間、風雨に耐え続け、その中で独自の風合いを育んできました。   特に彫刻においては、石材の硬さと重量が、作り手の技巧を引き立て、結果として精緻で力強い作品を生み出します。また、石材は種類が豊富で、それぞれに異なる質感や色彩を持つため、彫刻作品に多様な表現が可能です。さらに、石材は自然素材であり、その質感や風合いは人工物にはない独特の温かみを持っています。石材彫刻は、こうした自然素材の特性を最大限に生かし、永続的な価値を持つ作品を作り上げることができるのです。     はじめに 石材彫刻は、古代から人々の暮らしと深く結びついてきた芸術形式です。その歴史は紀元前数千年にさかのぼり、古代エジプトやメソポタミア文明など、初期の文明の発展と共に進化してきました。石材はその堅固さと永続性から、宗教的儀式や記念碑、神殿の建設において重要な役割を果たしてきました。古代エジプトでは、石材彫刻がファラオの墓を飾り、死後の世界での存在を象徴する手段として用いられました。また、古代ギリシャやローマでも、石材彫刻は神々や英雄の姿を形作り、彼らの偉業を後世に伝える手段として重宝されました。これらの作品は、当時の技術力の高さや美的感覚の豊かさを示すとともに、文化的背景を色濃く反映したものとして、現代においても高く評価されています。   石材彫刻の魅力は、その美しさと耐久性にあります。石材は自然が生み出した素材であり、その質感や色彩は人工物にはない独特の風合いを持っています。例えば、大理石はそのなめらかな質感と白さから、古代から彫刻材として愛用されてきました。また、御影石や花崗岩(読み方は、かこうがん。自然界に存在する鉱物の一つで、主に石英、長石、黒雲母などから成る粗粒の火成岩)は、その硬さと耐久性から、屋外での使用に適しています。これらの石材は、時間の経過とともに自然な風化を見せ、その姿は長い年月を経ても変わることがありません。石材の持つ重量感と質感は、彫刻作品に圧倒的な存在感を与え、その場の雰囲気を引き締めます。また、石材は自然の力によって生成されたものであり、その中には地球の歴史が刻まれています。このような自然素材で作られた彫刻作品は、その素材自体が持つ魅力を最大限に引き出すことができるのです。   石材には多くの種類があり、それぞれが異なる特性を持っています。大理石はその白さと緻密な質感から、古代ギリシャの彫刻やルネサンス期の作品に多く使用されました。一方で、御影石や花崗岩は、その硬度と耐久性から建築材料としても広く利用されており、特に日本では墓石や石仏などに多く見られます。また、石灰岩や砂岩は、その加工のしやすさから、彫刻だけでなく建築装飾にも使用されることが多いです。これらの石材は、それぞれが持つ特性に応じて選ばれ、その用途や表現方法も異なります。石材の選択は、作品の耐久性や美しさを左右する重要な要素であり、彫刻家にとっては非常に大切な過程となります。石材彫刻の世界では、素材そのものが持つ力を最大限に生かし、時代を超えて愛される作品を生み出すことが求められているのです。     石材彫刻の用途と選び方 石材彫刻は、さまざまな用途に応じて異なる役割を果たすことができます。代表的な用途の一つが墓石です。墓石としての石材彫刻は、故人を偲ぶための重要な役割を担います。墓石には、石材の耐久性や風化に強い特性が求められます。主に御影石や大理石などが使用されることが多く、これらの石材は高い耐久性を持ち、長期間にわたり美しい状態を保つことができます。また、墓石の彫刻は、故人の名前や戒名、メッセージを刻むための重要な要素であり、その精度や仕上がりが墓石全体の印象を大きく左右します。   次に、記念碑やモニュメントにおいても石材彫刻は重要な役割を果たします。これらの構造物は、歴史的な出来事や人物を記念するために設置されることが多く、その意義を強調するために石材が使用されます。石材は、その重厚感と永続性から、記念碑やモニュメントの厳粛さや威厳を引き立てるのに最適です。記念碑では、特に彫刻が施された部分が注目されるため、彫刻の技術やデザインが非常に重要になります。石材の選定においては、設置場所の環境条件やメンテナンスのしやすさも考慮する必要があります。   また、ガーデンデザインやインテリアにおいても石材彫刻は広く利用されています。庭園や屋外空間に設置された石材彫刻は、その空間に自然なアクセントを加え、全体の雰囲気を豊かにします。たとえば、庭の中心に置かれた石材の彫刻は、視覚的な焦点として機能し、訪れる人々に印象深い景観を提供します。また、インテリアにおいても、石材彫刻はその質感や色合いが空間に独自の温かみと高級感をもたらします。インテリア用の石材は、特に大理石やトラバーチン(温泉、鉱泉、あるいは地下水中より生じた石灰質化学沈殿岩)などが人気で、これらの石材は滑らかで美しい仕上がりが特徴です。   石材を選ぶ際には、その用途に応じたポイントを押さえることが大切です。まず、耐久性が必要な墓石や記念碑には、硬くて風化に強い御影石が適しています。一方で、インテリアやガーデンデザインに使用する場合は、デザイン性や色合いが重要となり、大理石や砂岩などの柔らかく加工しやすい石材が選ばれることが多いです。さらに、石材の表面仕上げも用途に応じて選ぶことが求められます。滑らかな仕上げが求められる場所にはポリッシュ仕上げが、自然な風合いを生かしたい場所にはサンドブラスト仕上げが適しています。選定の際には、設置場所の環境やメンテナンスの手間も考慮することが、長く美しさを保つために重要です。石材彫刻は用途に応じて最適な石材を選び、その特性を最大限に生かすことで、長く愛される作品を作り上げることができます。     石材彫刻の加工技術 石材彫刻の加工技術には、伝統的な手彫り技術から最新の機械彫刻技術まで、多岐にわたる方法があります。まず、伝統的な手彫り技術について説明します。手彫りは、職人が石を一つ一つ削り出すことで、細かなディテールや独自の表現を生み出す技術です。この手法は、古代から続くものであり、現在もその価値は高く評価されています。石材に対する深い理解と長年の経験が求められるため、手彫りによって作られた作品は、唯一無二の存在感を持ちます。また、手彫りの工程は時間を要しますが、その過程で生まれる微細な表現や質感は、機械では再現できない独特の魅力を持っています。   次に、最新の機械彫刻技術について説明します。現代の石材彫刻では、コンピュータ制御された機械が導入され、効率的かつ正確な彫刻が可能となっています。この技術は、従来の手彫りでは難しかった複雑なデザインや、短時間での大量生産に対応しています。機械彫刻は、正確さとスピードが求められるプロジェクトにおいて特に有効です。また、機械彫刻により、細部まで均一な仕上がりが得られるため、複数の作品で統一感を持たせることができます。   レーザー彫刻は、さらに精密な加工を可能にする技術です。レーザーを使用することで、極細の線や複雑な模様を石材に刻むことができます。レーザー彫刻は、非常に高い温度で石材の表面を焼き付けるため、微細なデザインでも鮮明に表現されます。また、レーザーの照射時間や強度を調整することで、さまざまな深さやテクスチャを作り出すことができ、幅広い表現が可能です。レーザー彫刻は、特に小型の装飾品や文字彫刻に適しており、その精度と速度は他の技術にはない特長です。   回転彫刻とソフトウェアの活用も、現代の石材彫刻において重要な役割を果たしています。回転彫刻では、石材を回転させながらカッターで削り出すことで、立体的な彫刻が可能となります。この技術は、複雑な形状を持つ彫刻や、曲線を多用したデザインに適しています。さらに、専用のソフトウェアを使用することで、彫刻デザインのシミュレーションやカッティングパスの最適化が行われ、より正確かつ効率的な加工が可能です。ソフトウェアの進化により、職人のアイデアをそのまま形にすることが容易になり、創造性豊かな作品が生まれています。   これらの技術を組み合わせることで、石材彫刻の可能性はさらに広がっています。それぞれの技術には独自の強みがあり、目的やデザインに応じて最適な方法が選ばれます。伝統と革新が融合することで、現代の石材彫刻は多様な表現を実現しています。     石材彫刻のメンテナンスとケア 石材彫刻は、その美しさを長く保つために定期的なメンテナンスが必要です。石材は自然の素材であり、風雨や日光、湿気などの外的要因にさらされることで劣化する可能性があります。そのため、まず日常的なメンテナンスとして、彫刻表面に付着した埃や汚れを柔らかい布やブラシで取り除くことが重要です。この際、石材の表面を傷つけないように、硬いブラシや研磨剤の使用は避け、柔らかい布やスポンジを使って丁寧に拭き取ることが推奨されます。   次に、石材に適したクリーニング方法についてです。石材の種類によっては、酸性の洗剤や強力な化学薬品が表面を傷める可能性があるため、使用するクリーニング剤は慎重に選ぶ必要があります。石材専用の中性洗剤を使用することで、素材を保護しながら汚れを効果的に除去することができます。また、洗剤を使用した後は、必ず水でしっかりと洗い流し、乾いた布で拭き取ることが重要です。特に彫刻の細部に洗剤が残らないように注意が必要です。湿気が残ると、石材が水分を吸収してしまい、シミやカビの原因となる可能性があります。   万が一、石材彫刻に傷やひび割れが生じた場合、早急に修復することが求められます。修復が必要な場合には、専門的な技術が求められることが多く、自分で行うのではなく、専門の業者に依頼することが推奨されます。修復の際には、石材の種類や損傷の程度に応じた適切な修復方法が選ばれます。例えば、小さな傷やひび割れであれば、専用の充填材や接着剤を用いて修復することが可能ですが、大きな損傷や広範囲にわたるひび割れの場合は、部分的な再加工や補修が必要になることもあります。また、修復後のメンテナンスも重要であり、修復箇所が再び劣化しないように定期的な点検を行うことが大切です。   このように、石材彫刻を長持ちさせるためには、定期的なメンテナンスと適切なクリーニングが不可欠です。そして、万が一損傷が生じた際には、早期に修復を行うことで、その美しさを長く保つことができます。石材彫刻は時間とともに風合いが増す一方で、適切なケアを施すことで、さらにその魅力を引き出すことができるのです。     まとめ 石材彫刻は、古くから人々の生活や文化に深く根付いており、その美しさと耐久性が多くの場面で求められています。彫刻の依頼を考える際には、石材の選び方や加工技術の違いを理解することが重要です。石材の種類や用途に応じて適切な選択をすることで、長く愛される作品を手に入れることができます。   さらに、信頼できる業者の選定や見積もり時の注意点を押さえることで、後悔のない選択が可能です。彫刻後のメンテナンスやケアも重要で、適切な手入れを行うことで、石材の美しさを長く保つことができます。石材彫刻は、単なる装飾ではなく、歴史や文化を継承する重要な役割を担っています。   依頼者は、自身の要望や用途に応じた彫刻をしっかりと選び、長期的に満足できる作品を手に入れることが大切です。彫刻を依頼する際には、これまでの実績や事例を参考にすることで、より具体的なイメージを持つことができるでしょう。     会社概要 会社名・・・有限会社北尾石材 所在地・・・〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町67 電話番号・・・075-781-9523

石材補修パテの選び方とおすすめ商品

石材補修パテの選び方とおすすめ商品

石材の美しさと耐久性を保つためには、定期的なメンテナンスと補修が欠かせません。その中でも特に重要なのが、石材補修パテの選び方と使用方法です。石材補修パテは、ひび割れや欠けなどの損傷を補修し、石材の元の美しさを取り戻すために使用されます。 エポキシ系パテはその中でも優れた性能を持ち、高い接着力と耐久性を誇ります。エポキシ系パテの特徴や選び方、実際の使用方法について詳しく解説していきます。エポキシ系パテの正しい使い方を知ることで、石材の寿命を延ばし、美しさを長く保つことができます。専門的な知識を持つことで、石材補修をより効果的に行うことが可能です。 石材補修パテとは 石材補修パテとは、石材のひび割れや欠けなどの損傷を補修するための材料です。石材はその美しさと耐久性から建築や装飾に広く使用されていますが、時間の経過や環境の影響で損傷することがあります。そんなときに役立つのが石材補修パテです。 石材補修パテの中でも、エポキシ系パテは特に優れた性能を持っています。エポキシ系パテは、主成分であるエポキシ樹脂と硬化剤を混合することで硬化し、高い接着力と耐久性を発揮します。硬化後は非常に硬く、長期間にわたり補修効果を維持できます。 エポキシ系パテの使い方は比較的簡単ですが、いくつかのポイントに注意する必要があります。まず、補修する石材の表面をしっかりと清掃し、汚れや油分を取り除きます。次に、エポキシ樹脂と硬化剤を適切な割合で混合し、均一な状態になるまで練り合わせます。このとき、混合が不十分だと硬化不良の原因となるため、丁寧に行うことが重要です。 混合したパテを損傷部分に塗り込んでいきますが、細かな部分にはヘラやスパチュラなどの工具を使用すると良いでしょう。パテを塗布した後は、形を整えながらしっかりと押し込み、空気を抜くようにします。硬化が始まる前に余分なパテを取り除き、表面を平滑に仕上げることが必要です。硬化時間は製品によって異なります。 補修が完了した後は、補修部分をサンドペーパーなどで研磨し、石材と一体化するように仕上げます。エポキシ系パテは着色が可能な製品も多く、補修箇所を周囲の石材の色に合わせることで、補修跡が目立たなくなります。 石材補修パテの選び方も重要です。エポキシ系パテにはさまざまな種類があり、使用する環境や目的に応じて適切な製品を選ぶことが求められます。例えば、屋外で使用する場合は、紫外線や温度変化に強い製品を選ぶことが推奨されます。また、細かい装飾が施された石材を補修する際には、硬化後の加工がしやすい柔軟性のあるパテが適しています。 以上のように、石材補修パテは石材の損傷を補修し、美しさと耐久性を取り戻すために欠かせない材料です。エポキシ系パテを正しく選び、適切に使用することで、石材の寿命を延ばし、その美しさを長く保つことができます。 石材補修パテの種類 石材補修パテは、さまざまな種類があり、それぞれに特徴と用途があります。石材の種類や補修箇所の状況に応じて最適なパテを選ぶことが重要です。 エポキシ系パテは、エポキシ樹脂と硬化剤を混合して使用します。このタイプのパテは、硬化後に非常に強力な接着力を持ち、石材のひび割れや欠けをしっかりと補修できます。エポキシ系パテにはさまざまなバリエーションがあり、具体的な用途に応じて選ぶことができます。例えば、速乾性のものは短時間で硬化するため、緊急の補修に適しています。一方、作業時間を長く確保したい場合には、硬化時間が比較的長いタイプを選ぶと良いでしょう。また、エポキシ系パテには着色タイプがあり、補修後の見た目にこだわる場合には、周囲の石材の色に合わせたパテを選ぶことが可能です。 エポキシ系パテの選び方としては、まず補修する石材の種類と損傷の程度を考慮します。硬度の高い石材には強力な接着力を持つパテが必要です。また、外部環境にさらされる場所では、耐候性や防水性に優れた製品を選ぶことが求められます。さらに、細かい作業が必要な場合には、硬化後の加工が容易な柔軟性のあるパテを選ぶと良いでしょう。 使用する際の注意点として、エポキシ系パテは混合する際に正確な割合を守ることが重要です。混合不良が起きると、硬化不良や接着力の低下を招く可能性があります。使用前には必ず製品の取扱説明書をよく読み、指示通りに作業を進めることが大切です。 エポキシ系パテは多用途であり、石材補修だけでなく、木材や金属の補修にも使用できることがあります。しかし、専門的な用途にはそれぞれの材質に適したパテを選ぶことが必要です。石材補修に特化したエポキシ系パテを使用することで、最適な補修効果を得ることができます。 石材補修パテの種類を理解し、適切な製品を選ぶことで、石材の美しさと耐久性を保つことができます。特にエポキシ系パテは、その高い性能から多くの現場で重宝されています。補修作業を行う際には、事前に十分な情報を収集し、適切な製品を選定することが成功の鍵となります。 石材補修パテの選び方 石材補修パテは、屋内外を問わず幅広い場所で使用されますが、それぞれの環境に適したパテを選ぶことが重要です。屋外で使用する場合、紫外線や雨風にさらされるため、耐候性や防水性に優れたエポキシ系パテを選ぶと良いでしょう。これにより、補修後も長期間にわたって効果を維持することができます。また、温度変化に強いパテを選ぶことで、季節による収縮や膨張にも対応できます。屋内で使用する場合、美観を重視して、仕上がりがきれいで目立ちにくいパテを選ぶことが大切です。 また、補修する石材の種類に応じて適切なパテを選ぶことも重要です。これにより、石材の自然な動きに対応でき、補修箇所が再度ひび割れることを防ぎます。次に、色や仕上がりの選び方について説明します。石材補修パテは、補修箇所が目立たないようにするために、石材の色に合わせた製品を選ぶことが重要です。多くのエポキシ系パテは、着色が可能であり、補修箇所を周囲の石材の色に合わせることができます。着色可能なパテを使用することで、補修後の見た目が自然になり、元の石材の美しさを保つことができます。 また、仕上がりの質感も考慮する必要があります。石材の表面が滑らかであれば、パテも同様に滑らかに仕上げる必要があります。逆に、石材の表面がざらついている場合は、パテも同じ質感に仕上げることで、補修箇所が目立ちにくくなります。仕上がりの質感を統一するためには、パテを塗布した後、硬化前に表面を整える作業が重要です。専用の工具を使って表面を均一に仕上げることで、自然な見た目を実現できます。 石材補修パテを選ぶ際には、使用場所や補修箇所の条件を考慮し、適切な製品を選定することが重要です。エポキシ系パテはその高い性能から多くの場面で使用されますが、具体的な用途や条件に合わせて最適な製品を選ぶことで、補修効果を最大限に引き出すことができます。 石材補修パテの使い方 まず、補修する石材の表面をしっかりと清掃することが重要です。石材の表面には、汚れやほこり、油分などが付着している場合があります。これらを取り除かないと、パテの接着力が低下し、補修効果が得られません。清掃には、中性洗剤を使用して水で洗い流し、乾いた布で拭き取る方法が効果的です。特に、油分が残らないように注意します。 次に、エポキシ系パテを準備します。エポキシ系パテは、エポキシ樹脂と硬化剤の2つの成分を混合して使用します。混合する際は、製品の取扱説明書に従って、指定された割合で正確に混合します。混合が不十分だと硬化不良の原因となるため、均一になるまでしっかりと混ぜることが重要です。混合には、使い捨ての容器やヘラを使用すると便利です。 パテが均一に混合されたら、補修箇所に塗布します。塗布する際は、ヘラやスパチュラなどの工具を使用し、パテを損傷部分にしっかりと押し込むようにします。このとき、空気が入らないように注意しながら、パテを均等に広げます。パテを塗布した後、表面を平滑に整えるためにヘラを使って形を整えます。余分なパテは硬化前に取り除き、補修箇所が石材の表面と同じ高さになるように仕上げます。 エポキシ系パテは、硬化時間が製品によって異なりますが、通常24時間程度で完全に硬化します。硬化時間中は、補修箇所に触れたり、水分がかからないように注意します。硬化が完了したら、補修箇所をサンドペーパーなどで研磨し、石材の表面と一体化するように仕上げます。この工程で、補修跡が目立たなくなり、石材の美観を保つことができます。 補修後のメンテナンスも重要です。補修箇所が再度損傷しないように、定期的に点検し、必要に応じて再補修を行います。また、補修箇所を保護するために、適切なコーティング剤を塗布することも有効です。これにより、補修箇所の耐久性が向上し、長期間にわたって効果を維持することができます。 おすすめの石材補修パテ商品 石材補修パテの選び方には、さまざまな要素が関わっています。高品質なエポキシ系パテを選ぶことで、石材の補修効果を最大限に引き出すことができます。ここでは、おすすめの石材補修パテを紹介します。 エポキシ系パテは、接着力と耐久性に優れ、石材のひび割れや欠けの補修に最適です。硬化後は非常に硬く、石材の一部として長期間にわたりその効果を発揮します。エポキシ系パテには、速乾性のものや透明タイプ、着色可能なものなど、用途に応じて選べるバリエーションが豊富です。 まずおすすめするのは、速乾性のエポキシ系パテです。短時間で硬化するため、急ぎの補修作業に適しています。例えば、突発的な損傷に対応する際や、短期間で仕上げる必要があるプロジェクトで重宝します。また、速乾性でありながら高い接着力を持つため、補修箇所が再び損傷するリスクを低減します。 次に紹介するのは、透明タイプのエポキシ系パテです。透明タイプは、補修箇所が目立たないように仕上げることができ、石材の美観を損ねずに補修を行えます。特に、白色や淡色の石材に使用する際には、透明タイプが適しています。硬化後の透明度が高く、補修箇所が自然に見えるため、美しい仕上がりが期待できます。 さらに、着色可能なエポキシ系パテもおすすめです。補修箇所を周囲の石材の色に合わせて調整できるため、目立たない補修が可能です。特に、装飾性の高い石材やカラフルな石材に使用する場合には、色を合わせることで一体感のある仕上がりが得られます。着色可能なパテを使用する際には、専用の着色剤を使い、色ムラがないように丁寧に混合することが重要です。 エポキシ系パテの中には、特殊な機能を持つものもあります。例えば、紫外線や化学薬品に対して高い耐性を持つ製品は、過酷な環境下でも使用でき、長期間にわたり効果を維持します。これらの製品は、屋外や工業用途において特に有効です。また、防カビ性を持つパテは、湿気の多い場所や水回りでの使用に適しています。カビの発生を防ぐことで、補修箇所の清潔さを保つことができます。 おすすめの石材補修パテを選ぶ際には、使用環境や補修箇所の条件に合わせて適切な製品を選ぶことが大切です。速乾性、透明性、着色可能性、特殊機能など、各製品の特徴を理解し、補修の目的に最も適したパテを選定することで、補修効果を最大限に引き出すことができます。専門的な知識を持って選び、正しく使用することで、石材の美しさと耐久性を長く保つことができるでしょう。 まとめ 石材補修パテを選び、適切に使用することは、石材の美しさと耐久性を保つために非常に重要です。エポキシ系パテはその高い接着力と耐久性から多くの場面で使用され、特に損傷の修復に優れた性能を発揮します。使用する際には、補修する石材の種類や損傷の程度、使用環境に応じた製品を選ぶことが求められます。また、パテの色や仕上がりも重要な要素であり、周囲の石材と自然に調和するように選定することが大切です。補修作業においては、表面の清掃、エポキシ樹脂と硬化剤の正確な混合、適切な塗布と整形、そして硬化後の研磨が必要です。 これらの手順を丁寧に行うことで、補修箇所は石材の一部として自然に仕上がります。補修後のメンテナンスも忘れずに行い、定期的な点検と再補修を行うことで、石材の美観と機能を長く維持することが可能です。専門的な知識を持って正しく使用することで、石材補修パテは石材の価値を高め、その寿命を延ばすための強力なツールとなります。石材補修の際には、これらのポイントを押さえて、効果的な補修を実現しましょう。   会社概要 会社名・・・有限会社北尾石材 所在地・・・〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町67 電話番号・・・075-781-9523

お食い初め

お食い初め

お食い初めは、赤ちゃんに初めてご飯を食べさせるお祝いの儀式です。「歯固め」「箸初め」、あるいは生まれてからの日数にちなんで「百日」ともいいます。 お食い初めをいつ行うかは、厳密には決まっていません。生後100日目にする地方もあれば、生後120日という地方もあります。また、女の子なら110日目、男の子なら120日目という地方もあります。 お食い初めは、子供が丈夫な歯を持ち、なんでも食べて健康に育ってほしいという親の願いが込められた儀式です。さらには、食べるに困らない身でいてほしいという願いも含まれています。 お食い初めでは、赤ちゃん用の祝い膳が用意されます。正式には一の膳、二の膳がつき、一の膳にはお赤飯の上に小さなおにぎりを2.3個乗せ、鯛など尾頭付きの焼き魚、煮物、すまし汁、香の物、さらには梅干しと、氏神の境内で拾った小石を置きます。この小石には赤ちゃんの名前を書き、あとで氏神に納めます。これには、丈夫な歯が生えますようにという願いが込められます。二の膳には、紅白の餅が添えられます。 一の膳、二の膳とも、赤ちゃんのためにお茶碗、お汁椀、お箸など新しい食器を用意します。ただし、最近では略式化され、食事内容も赤ちゃんの好みに合わせたものになることが多いようです。 赤ちゃんに祝い膳を食べさせるのは「養い親」の役目で、親族の中の年長者や祖父母が務めますが、家族だけのとき、両親の一方が食べさせます。もちろん、この時期の赤ちゃんは授乳中で固形物は食べられないので、実際にはご飯を一粒口に入れるか、食べる真似をするだけとなります。 ご参考までに・・・。

外壁に最適な石材の選び方とおすすめデザイン

外壁に最適な石材の選び方とおすすめデザイン

外壁に石材を使用することは、建物の美観と耐久性を高めるための優れた選択です。石材は自然の素材であり、独特の風合いや色合いを持っているため、建物に高級感と自然美を与えます。また、石材は非常に頑丈で、耐久性が高く、気候や環境の変化に強い特徴があります。これにより、長期間にわたり美しい外観を維持することができます。 さらに、石材はメンテナンスが比較的容易であり、定期的な掃除や簡単な手入れでその美しさを保つことができます。耐火性や防音効果も高く、住環境の安全性と快適性を向上させる要素となります。エコフレンドリーな素材であり、環境への負荷が少ない点も見逃せません。 デザインの面でも、石材は多様なスタイルに対応可能です。モダンな建物からクラシックな建築様式まで、様々なデザインに調和します。これにより、個々の建物の特性やオーナーの好みに合わせた外壁デザインが実現できます。石材の豊富な種類とカラーバリエーションも、デザインの幅を広げる要因です。 このように、外壁に石材を使用することで、建物の価値を高め、長期間にわたり美しく機能的な外観を維持することができます。 石材の種類と特徴 外壁に使用される石材には大きく分けて天然石と人造石があります。天然石は自然の地層から採掘された石であり、その独特の模様や質感が魅力です。一方、人造石は人工的に製造された石材で、均一な品質と多様なデザインが特徴です。 まず、天然石について説明します。天然石の代表的な種類には花崗岩、大理石、砂岩、スレートがあります。花崗岩は硬くて耐久性が高く、外壁材として非常に人気があります。その硬さと耐候性から、風雨にさらされる外壁でも長期間にわたり美しい状態を保つことができます。また、花崗岩は多様な色や模様があり、建物のデザインに合わせやすい点も魅力です。 大理石は、美しい模様と光沢が特徴で、高級感を演出する石材として知られています。ただし、花崗岩に比べて柔らかく、傷がつきやすい点には注意が必要です。大理石は主に内装に使用されることが多いですが、適切な処理を施せば外壁材としても利用できます。 砂岩は、比較的柔らかく加工しやすい石材で、自然な風合いを持っています。そのため、伝統的な建築や自然との調和を求めるデザインに適しています。砂岩は多孔質であるため、防水処理を施すことで外壁材としての耐久性を向上させることができます。 スレートは薄く剥がれやすい性質を持つ石材で、その独特の質感と耐久性から屋根材や外壁材として利用されます。スレートは耐火性にも優れており、防音効果も高い点が特徴です。色合いはグレーや黒が一般的で、シンプルでモダンなデザインに適しています。 次に、人造石について説明します。人造石は、セメントや樹脂を主成分とし、天然石の模様や質感を再現した石材です。均一な品質を保つことができ、デザインの自由度が高い点が魅力です。また、人造石は軽量で施工が容易なため、外壁材として広く利用されています。 人造石の一例として、コンクリートブロックに顔料を加えて天然石のような見た目に仕上げたものがあります。これにより、天然石の美しさを手軽に楽しむことができます。さらに、人造石は防水性や耐候性に優れており、メンテナンスも比較的簡単です。 天然石と人造石の選択は、建物のデザインや予算、求める性能によって異なります。天然石はその独特の風合いや高級感を求める場合に適していますが、人造石は均一な品質と多様なデザイン、施工のしやすさを求める場合に適しています。どちらの石材もそれぞれの特性を理解し、適切に選ぶことで、美しく機能的な外壁を実現することができます。 外壁に最適な石材の選び方 外壁に使用する石材を選ぶ際には、耐久性とメンテナンスのしやすさ、気候と環境に適した石材の選定、予算に応じた石材選びのポイントを考慮することが重要です。これらの要素を総合的に判断することで、長期的に満足できる外壁を実現することができます。 まず、耐久性とメンテナンスのしやすさについて考えてみましょう。外壁は常に風雨や紫外線にさらされるため、耐久性の高い石材を選ぶことが求められます。花崗岩やスレートなどの天然石材は、非常に硬く耐久性が高いため、外壁材として最適です。これらの石材は耐候性にも優れており、長期間にわたり美しい外観を保つことができます。メンテナンスのしやすさも重要なポイントです。例えば、花崗岩は汚れが付きにくく、定期的な掃除だけで美しさを維持できます。一方で、大理石は比較的柔らかく傷がつきやすいため、使用する場合はその点に留意し、適切なメンテナンスを行う必要があります。 次に、気候と環境に適した石材の選定についてです。石材はその特性によって適した環境が異なります。例えば、寒冷地では凍結や融解によるダメージを受けにくい石材が適しています。スレートや花崗岩は、寒冷地でも耐久性を発揮するため、これらの地域での使用に適しています。一方、湿度の高い地域では、防水性の高い石材を選ぶことが重要です。砂岩は多孔質であるため、防水処理を施すことで湿度の影響を受けにくくなります。さらに、都市部では排気ガスや酸性雨の影響を受けることがあるため、これらに耐性のある石材を選ぶことが望ましいです。 最後に、予算に応じた石材選びのポイントについてです。石材の価格は種類や品質によって大きく異なります。一般的に、花崗岩や大理石は高価ですが、その分耐久性や美観に優れています。予算に余裕がある場合は、これらの高級石材を選ぶことで長期的なメリットを享受できます。一方で、人造石は比較的低価格で、均一な品質と多様なデザインが特徴です。予算が限られている場合でも、人造石を選ぶことでコストを抑えながらも高品質な外壁を実現することが可能です。 石材外壁のデザイン例 石材外壁は、その美しさと耐久性から多くの建物で採用されています。デザインの選択肢も豊富で、モダンスタイルからクラシックスタイル、自然風景を取り入れたデザインまで、さまざまなスタイルがあります。ここでは、各スタイルの特徴とカラーバリエーション、組み合わせ例について説明します。 まず、モダンスタイルの石材外壁についてです。モダンスタイルは、シンプルで洗練されたデザインが特徴です。直線的なラインとクリーンな表面を持つ石材がよく使われ、花崗岩やスレートなどの硬質で均一な石材が好まれます。色はグレーやブラック、ホワイトなどのモノトーンが多く、建物全体に統一感を与えます。ガラスや金属などの異素材と組み合わせることで、さらに現代的な印象を強調することができます。 次に、クラシックスタイルの石材外壁です。クラシックスタイルは、伝統的でエレガントなデザインが魅力です。大理石や砂岩などの柔らかく自然な模様を持つ石材がよく使われます。これらの石材は、彫刻や装飾を施すことが容易で、建物に豊かな表情を加えることができます。色はベージュやクリーム色、淡いピンクなどが多く、温かみのある雰囲気を演出します。また、アーチや柱、バルコニーなどのクラシックな建築要素と組み合わせることで、さらに優雅な印象を与えます。 自然風景を取り入れたデザインも人気です。自然風景を意識したデザインは、石材の持つ自然な風合いを活かし、周囲の景観と調和させることがポイントです。例えば、砂岩やスレートの粗い質感を活かしたデザインは、山間部や森林地域の建物に適しています。色はブラウンやグリーン、グレーなどの自然色を選び、植物や木材と組み合わせることで、自然と一体化した建物を実現します。庭やテラスと連続性を持たせることで、内外の空間が一体となったデザインが完成します。 カラーバリエーションと組み合わせ例についても触れてみましょう。石材外壁のカラーバリエーションは非常に豊富で、建物のデザインに合わせて自由に選ぶことができます。例えば、モダンスタイルでは、ブラックやグレーの石材をベースに、ホワイトやシルバーのアクセントを加えることで、シックでスタイリッシュな外観を作り出せます。一方、クラシックスタイルでは、ベージュやクリーム色の石材にゴールドやブラウンのアクセントを加えることで、豪華で落ち着いた雰囲気を演出できます。 石材外壁の費用感 石材外壁の導入を検討する際には、初期費用とランニングコストをしっかりと理解することが重要です。 初期費用には、石材の購入費用、施工費用、その他の関連費用が含まれます。石材の種類や品質によって価格は大きく異なりますが、一般的に天然石は高価であり、人工石は比較的安価です。例えば、花崗岩や大理石などの高級天然石は、平米あたりの費用が高くなる傾向があります。一方、人造石やコンクリート製の石材は、コストを抑えながらも美しい外観を実現できるため、予算に限りがある場合に適しています。 施工費用も無視できない要素です。石材の施工には専門的な技術が必要であり、経験豊富な職人による作業が求められます。このため、施工費用は石材の種類や施工の難易度によって変動します。特に、複雑なデザインや高所での施工が必要な場合は、費用が高くなることがあります。また、施工期間が長くなるほど、人件費も増加します。 ランニングコストも考慮する必要があります。石材外壁は耐久性が高く、長期間にわたり美しい外観を維持できますが、定期的なメンテナンスが必要です。例えば、汚れや苔の除去、ひび割れの修復などが挙げられます。これらのメンテナンス作業は、長期的に見れば比較的低コストで済むことが多いですが、定期的なチェックと適切な対応が求められます。 コスト削減のアイデアとしては、まず材料の選択に工夫を凝らすことが考えられます。例えば、石材の一部を安価な人造石に置き換えることで、全体の費用を抑えることができます。また、施工業者の選定も重要です。複数の業者から見積もりを取り、比較検討することで、適正な価格で高品質な施工を受けることが可能です。さらに、施工時期をオフシーズンに設定することで、割引を受けられる場合もあります。 補助金や助成金の利用方法についても触れておきます。地域によっては、エコ建材の使用や省エネ改修に対する補助金や助成金が用意されていることがあります。これらの制度を利用することで、初期費用の一部を補助金で賄うことができます。具体的な申請手続きや条件については、各自治体のホームページや窓口で確認することが必要です。また、エコ建材を使用することで、長期的にはエネルギーコストの削減にも繋がり、トータルでのコストパフォーマンスが向上します。 このように、石材外壁の導入にかかる費用は、初期費用、ランニングコスト、そしてコスト削減の工夫によって大きく変わります。適切な計画と情報収集を行うことで、予算内で美しく耐久性のある外壁を実現することができます。 まとめ 外壁に最適な石材を選ぶことは、美しさと機能性を兼ね備えた建物を実現するために欠かせない要素です。石材にはさまざまな種類があり、それぞれに異なる特性や魅力があります。耐久性やメンテナンスのしやすさ、気候や環境に適した選定が重要です。例えば、花崗岩やスレートは非常に耐久性が高く、外壁材として最適です。一方、大理石や砂岩は美しい模様と質感が魅力であり、特定のデザインスタイルに適しています。 また、デザインの面でも、モダンスタイルやクラシックスタイル、自然風景を取り入れたデザインなど、幅広い選択肢があります。建物の個性や周囲の環境に合わせたデザインを選ぶことで、一層魅力的な外観を作り出すことができます。カラーバリエーションも豊富で、建物全体の統一感やアクセントをつけることが可能です。 コスト面でも、初期費用とランニングコストをしっかりと把握し、適切な予算計画を立てることが重要です。人造石材を利用することで、費用を抑えながらも高品質な外壁を実現することができます。さらに、補助金や助成金の活用も検討することで、経済的負担を軽減することが可能です。 石材外壁は、その美しさと耐久性から多くの建物で採用されています。適切な石材を選び、デザインやコスト面での計画をしっかりと立てることで、長期間にわたり美しく機能的な外壁を保つことができます。この知識を活用して、理想の外壁を実現し、建物の価値を高めることを目指しましょう。   会社概要 会社名・・・有限会社北尾石材 所在地・・・〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町67 電話番号・・・075-781-9523

石材運搬車の選び方とおすすめポイント!初心者でも安心のガイド

石材運搬車の選び方とおすすめポイント!初心者でも安心のガイド

石材を運搬するための車両は、業務の効率化や安全性を向上させるために欠かせないツールです。しかし、石材運搬車の選び方には多くの要素が絡んでくるため、初めて購入を検討する方にとっては少々難解に感じられるかもしれません。 石材運搬車は、運搬する石材のサイズや重量、使用する環境や頻度に応じて、適切な種類を選ぶことが重要です。例えば、狭い場所での操作が必要な場合は、小型で機動性の高いモデルが適しています。一方、大量の石材を運搬する場合には、積載量の大きな車両が求められます。また、操作の簡便さやメンテナンスの容易さも考慮に入れる必要があります。運搬車の選定には、耐久性や安全機能、さらにはコストパフォーマンスも重要な要素となります。 これらのポイントを総合的に判断することで、自分に最適な石材運搬車を見つけることができるでしょう。専門知識を踏まえて、石材運搬車の選び方や使用方法について詳しく解説していきます。 石材運搬車の基本知識 石材運搬車の基本知識を理解するためには、まず石材運搬車とは何かを明確にすることが重要です。石材運搬車とは、石材や建築資材を効率的に運搬するために設計された特殊な車両です。これらの車両は、石材の重量やサイズに応じて、安全かつ効率的に運搬できるように設計されています。石材運搬車を使用することで、人力での運搬に比べて作業の効率が格段に向上し、労力や時間を大幅に節約できます。また、石材運搬中の事故や損傷を防ぐための安全機能も充実しているため、業務の安全性も確保されます。 石材運搬車が必要とされる理由は多岐にわたります。まず、石材は非常に重く、大きなサイズのものも多いため、人力での運搬は困難です。また、石材を安全かつ効率的に移動させるためには、専用の運搬車が必要です。これにより、石材の損傷や作業員の怪我を防ぐことができます。さらに、大規模な建築現場や石材加工場では、短時間で大量の石材を運搬する必要があるため、石材運搬車は欠かせない存在です。 石材運搬車の種類は多岐にわたり、それぞれの用途や環境に応じて選ぶことが重要です。一般的には、小型のクローラ運搬車、大型のトラック型運搬車、そして特殊な作業用の自走式運搬車などがあります。小型のクローラ運搬車は、狭い場所や不整地での運搬に適しており、機動性が高いのが特徴です。一方、大型のトラック型運搬車は、大量の石材を一度に運搬できるため、広い建築現場や工場での使用に適しています。また、特殊な作業用の自走式運搬車は、特定の作業に特化した機能を持ち、例えば高所への運搬や、特定の環境での使用に対応しています。 石材運搬車の主要機能と特徴についても理解しておくことが重要です。まず、積載能力は運搬車の選定において最も重要な要素の一つです。運搬車の積載能力は、運ぶ石材の重量とサイズに応じて選ぶ必要があります。また、運搬車の操作性も重要なポイントです。運搬車が簡単に操作できることは、作業の効率を高めるだけでなく、作業員の安全性を確保するためにも重要です。さらに、運搬車の耐久性やメンテナンス性も考慮する必要があります。運搬車は、過酷な環境で使用されることが多いため、耐久性が高く、簡単にメンテナンスできることが求められます。安全機能も重要で、例えば、石材が落下しないようにするための固定機能や、作業中の転倒を防ぐための安定性などが含まれます。 これらの要素を総合的に考慮することで、自分のニーズに最適な石材運搬車を選ぶことができます。石材運搬車の基本知識をしっかりと理解し、自分の作業環境や使用目的に合った運搬車を選定することが、効率的で安全な石材運搬を実現するための第一歩です。 石材運搬車の選び方のポイント 石材運搬車を選ぶ際には、使用目的に応じた選定が最も重要です。石材運搬車は、運搬する石材の種類や量、使用する環境に応じて最適なモデルを選ぶ必要があります。例えば、狭い場所での作業や不整地での運搬には、小回りが利くクローラ運搬車が適しています。一方、広い工場や建設現場で大量の石材を効率的に運搬する場合は、大型のトラック型運搬車が最適です。このように、使用目的に応じて最適な運搬車を選ぶことで、作業効率が大幅に向上し、安全性も確保されます。 運搬能力とサイズも、石材運搬車を選ぶ際の重要なポイントです。運搬する石材の重量やサイズに応じて、適切な積載能力を持つ運搬車を選定することが必要です。積載能力が不足していると、一度に運搬できる石材の量が限られ、作業効率が低下します。逆に、過剰な積載能力を持つ運搬車を選んでしまうと、無駄なコストがかかる可能性があります。また、運搬車のサイズも作業環境に合わせて選ぶ必要があります。狭い場所や入り組んだ場所での作業には、小型で機動性の高いモデルが適しています。 操作のしやすさも、石材運搬車を選ぶ際に考慮すべき重要な要素です。操作が簡単で直感的な運搬車は、作業員の負担を軽減し、作業効率を向上させます。特に、初めて運搬車を使用する場合や多くの作業員が利用する場合には、操作性の良さが重要です。また、操作が複雑な運搬車は、誤操作による事故のリスクも高まるため、安全性の観点からも操作のしやすさは重要な要素です。 耐久性とメンテナンス性も、石材運搬車を選ぶ際に重視すべきポイントです。運搬車は過酷な環境で使用されることが多く、高い耐久性が求められます。耐久性が高い運搬車は、長期間にわたって安定した性能を発揮し、メンテナンスの手間も少なくて済みます。また、定期的なメンテナンスが必要な部分についても、簡単にアクセスできる構造であることが望ましいです。メンテナンスが容易な運搬車は、故障のリスクを低減し、長期間にわたって安全に使用することができます。 安全機能も、石材運搬車を選ぶ際に欠かせない要素です。運搬中の石材が落下しないようにするための固定機能や、作業中の転倒を防ぐための安定性など、安全機能が充実している運搬車を選ぶことで、作業の安全性を確保できます。さらに、運搬車自体の安定性やブレーキ性能なども重要なポイントです。特に、重い石材を運搬する場合には、安全機能が充実していることが求められます。 石材運搬車の使用方法 石材運搬車の使用方法を理解することは、効率的かつ安全に作業を進めるために非常に重要です。初心者向けの操作ガイドとして、まずは基本的な操作方法から始めます。石材運搬車の操作は、通常の車両と似ていますが、特有の機能や注意点がいくつかあります。運搬車のエンジンを始動し、ブレーキとアクセルの位置を確認します。初めて操作する場合は、必ず取扱説明書を読んで基本的な操作方法を把握してください。また、運搬車の各部位の点検も怠らず行いましょう。特に、タイヤやクローラの状態、ブレーキの効き具合、積載台の固定状態などを確認することが重要です。 効率的な運搬方法については、まず運搬する石材の配置が重要です。石材を均等に積載し、重心が中央に来るように配置することで、運搬車のバランスを保ちます。運搬中に石材が動かないように、しっかりと固定することも必要です。運搬経路を事前に確認し、障害物や狭い場所がないかをチェックします。運搬車がスムーズに移動できるように、経路上の障害物を取り除いておくことが理想的です。また、運搬中は急な加速や急ブレーキを避け、ゆっくりとした速度で運転することで、安全かつ効率的に作業を進めることができます。 注意すべきポイントとしては、まず運搬車の過負荷運転を避けることが挙げられます。運搬車の積載能力を超える石材を運搬すると、故障や事故の原因となります。また、運搬中の安全確認も怠らずに行いましょう。特に、人や他の機械が近くに存在する場合は、十分な注意が必要です。運搬車の操作中は、常に周囲の状況を確認し、視界を確保することが重要です。運搬車の転倒を防ぐために、傾斜地や不整地での運転は特に慎重に行ってください。運搬車のバランスを崩さないように、ゆっくりとした速度で進行し、急な方向転換や坂道での急ブレーキを避けることが重要です。 さらに、運搬車の定期的なメンテナンスも忘れずに行いましょう。メンテナンスを怠ると、運搬車の性能が低下し、故障の原因となることがあります。特に、タイヤやクローラの摩耗状態、ブレーキの効き具合、エンジンオイルや冷却水の状態などを定期的にチェックすることが必要です。運搬車の使用後には、必ず清掃を行い、次の使用に備えておくことも重要です。 石材運搬車を購入する際のチェックリスト 石材運搬車を購入する際には、事前に確認すべき事項をしっかりと押さえておくことが重要です。まず、運搬車の使用目的を明確にしましょう。運搬する石材の種類や量、使用する環境によって、必要な機能や性能が異なります。また、運搬車の積載能力やサイズも確認する必要があります。自分の作業環境に適したサイズや積載能力を持つ運搬車を選ぶことで、効率的に作業を進めることができます。加えて、操作のしやすさも重要です。操作が簡単で直感的な運搬車は、作業員の負担を軽減し、安全性を高めることができます。 購入前には、運搬車の耐久性とメンテナンス性も確認しましょう。運搬車は過酷な環境で使用されることが多いため、高い耐久性が求められます。また、メンテナンスが容易な運搬車を選ぶことで、故障のリスクを低減し、長期間にわたって安定した性能を維持することができます。さらに、安全機能も重要な確認事項です。石材が落下しないようにするための固定機能や、運搬中の転倒を防ぐための安定性など、安全機能が充実している運搬車を選ぶことが大切です。 購入先の選び方も重要なポイントです。信頼できる販売店を選ぶことで、品質の高い運搬車を購入することができます。販売店の評判や実績を確認し、過去の顧客からの評価やレビューを参考にすることが有効です。また、販売店が提供するアフターサポートの充実度も確認しましょう。故障時の対応や定期的なメンテナンスサービスなど、購入後のサポート体制が整っている販売店を選ぶことで、安心して運搬車を使用することができます。 購入後のサポート体制も、運搬車を長期間にわたって使用するためには欠かせない要素です。購入後のサポート体制が充実しているかどうかを確認することが重要です。例えば、定期的な点検やメンテナンスサービスを提供している販売店や、故障時の迅速な対応が可能な販売店を選ぶことで、運搬車の故障や不具合に対する不安を軽減することができます。また、運搬車の使用方法に関するトレーニングやサポートを提供している販売店を選ぶことも有効です。これにより、初めて運搬車を使用する場合でも、安心して操作を学ぶことができます。 これらのポイントを総合的に考慮することで、石材運搬車の購入において最適な選択をすることができます。使用目的に応じた機能や性能、耐久性やメンテナンス性、安全機能、そして購入先の選び方や購入後のサポート体制をしっかりと確認し、自分のニーズに合った運搬車を選定することが大切です。安全で効率的な作業を実現するために、慎重に検討し、最適な運搬車を見つけてください。 まとめ 石材運搬車の選び方と使用方法についての知識を深めることは、作業の効率化と安全性の向上に直結します。 まず、運搬車を選ぶ際には、自分の使用目的に合った機種を選定することが重要です。適切な積載能力とサイズ、操作のしやすさ、耐久性とメンテナンス性、安全機能を考慮することで、自分に最適な運搬車を見つけることができます。また、購入前には信頼できる販売店を選び、アフターサポート体制が充実しているかを確認することが重要です。 運搬車の操作方法についても、基本的な操作手順や効率的な運搬方法、注意点を理解することで、安全に作業を進めることができます。特に初心者は、運搬車の操作に慣れるまで慎重に作業を行い、運搬経路の確認や石材の固定方法に注意を払いましょう。また、運搬車の定期的なメンテナンスを怠らず、長期間にわたって安定した性能を維持することが大切です。 以上のポイントを押さえることで、石材運搬車を効果的に活用し、作業効率を高めることができます。運搬車の選定や操作に関する知識を深め、安全で効率的な作業を実現するための準備を整えてください。これにより、石材の運搬作業がスムーズに進み、全体の作業効率が向上します。   会社概要 会社名・・・有限会社北尾石材 所在地・・・〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町67 電話番号・・・075-781-9523

石材コーティングの魅力と選び方のガイド

石材コーティングの魅力と選び方のガイド

石材コーティングは、天然石の美しさと耐久性を維持するために欠かせない技術です。特に屋内外で使用される石材は、日常の摩耗や汚れ、水分の浸透などによって劣化しやすいため、適切なコーティングが重要です。石材コーティングにはいくつかの種類があります。それぞれのコーティングは、使用する場所や求める効果によって適切なものを選ぶ必要があります。 石材コーティングを選ぶ際には、施工場所の特性を考慮することが重要です。例えば、屋外のテラスや庭では耐水性と耐候性が求められるため、油性やエポキシコーティングが適しています。一方、キッチンやバスルームのような屋内では、見た目の美しさと共に、手入れのしやすさも重視されるため、水性コーティングが選ばれることが多いです。 正しいコーティングを選び、適切に施工することで、石材の美しさと機能性を長期間保つことができます。専門的な知識を活かし、最適な選択をすることで、石材の魅力を最大限に引き出しましょう。   石材コーティングとは? 石材コーティングとは、石材の表面に保護膜を形成することで、石材を長持ちさせるための技術です。天然石材はその美しさと耐久性から多くの建築や装飾に利用されますが、日常的な使用による摩耗や汚れ、水分の浸透、紫外線などの影響で劣化することがあります。このような劣化を防ぐために、石材コーティングが重要です。 石材コーティングには、主に水性コーティング、油性コーティング、エポキシコーティング、ポリウレタンコーティングなどがあります。それぞれのコーティング剤には特徴があり、使用する環境や求める効果によって適切なものを選ぶことが求められます。 石材コーティングの基本は、石材の表面を清潔にし、必要に応じて下地処理を行った後、コーティング剤を均一に塗布することです。これにより、石材の表面に保護膜が形成され、汚れや水分の侵入を防ぎます。また、コーティングによって石材の色合いが鮮やかに保たれ、見た目の美しさも維持されます。 コーティングのメリットとしては、石材の耐久性が向上することが挙げられます。特に屋外に使用される石材は、雨や紫外線の影響を受けやすいため、適切なコーティングを施すことで、これらの環境要因から石材を保護することができます。また、コーティングにより、石材表面の掃除が容易になり、メンテナンスの手間が減少するという利点もあります。 一方で、コーティングにはデメリットも存在します。まず、コーティング剤の選択を誤ると、石材の本来の質感や色合いを損ねる可能性があります。特に、光沢のある仕上げを求める場合には、コーティング剤の特性をよく理解した上で選ぶ必要があります。また、コーティングは定期的なメンテナンスが必要であり、一度施したコーティングを完全に取り除くことは難しいため、慎重な施工が求められます。   石材コーティングの種類 石材コーティングにはいくつかの種類があり、それぞれの特性と用途に応じて適切な選択が求められます。代表的なものとして水性コーティング、油性コーティング、エポキシコーティング、ポリウレタンコーティングがあります。 水性コーティングは、環境に優しい選択肢として知られています。このタイプのコーティングは水を基剤としているため、揮発性有機化合物の排出が少なく、施工時の臭いも抑えられます。さらに、乾燥が速く、比較的簡単に施工できることから、家庭や商業施設など幅広い場所で利用されています。水性コーティングは、石材の自然な質感を保ちながら表面を保護する効果があり、特に室内での使用に適しています。 油性コーティングは、石材の耐久性を高めるために用いられることが多いです。このタイプのコーティングは、石材の表面に強力な保護膜を形成し、水や油汚れ、紫外線から石材を守ります。特に屋外で使用される石材に対しては、油性コーティングが適しています。耐候性が高く、長期間にわたって石材の美しさと機能を維持することができます。ただし、施工時には揮発性有機化合物の排出があるため、換気に注意が必要です。 エポキシコーティングは、硬度と耐久性に優れた選択肢です。エポキシ樹脂を基材とするこのコーティングは、非常に強力な保護層を形成し、重い荷重や機械的な摩耗に対して高い耐性を示します。そのため、商業施設や工場など、高い耐久性が求められる場所での使用に適しています。エポキシコーティングは、化学薬品にも耐性があり、清掃が容易であるため、衛生的な環境を保つことができます。 ポリウレタンコーティングは、柔軟性と耐久性のバランスが取れたコーティングです。このタイプのコーティングは、石材の表面にしなやかな保護膜を形成し、微細なひび割れや傷から石材を守ります。また、耐摩耗性にも優れているため、床材やカウンタートップなど、頻繁に使用される場所に適しています。ポリウレタンコーティングは、石材の美しさを引き立てながら保護することができ、長期間にわたってその効果を発揮します。   石材コーティングの選び方 石材コーティングの選び方には、使用場所、耐久性、メンテナンス、環境への影響など多くの要因を考慮する必要があります。適切なコーティング剤を選ぶことで、石材の美しさと機能を長期間維持できます。 まず、使用場所に応じたコーティング剤の選び方について説明します。屋内と屋外では求められる性能が異なるため、それぞれに適したコーティング剤を選ぶことが重要です。屋外で使用される石材は、紫外線や雨風などの自然環境にさらされるため、耐候性の高い油性コーティングやエポキシコーティングが適しています。一方、屋内では水性コーティングやポリウレタンコーティングが適しています。これらのコーティング剤は、臭いが少なく乾燥が早いため、家庭内での使用に便利です。 次に、耐久性とメンテナンスの比較を行います。耐久性が高いコーティング剤は、長期間にわたり石材を保護するため、メンテナンスの頻度が少なく済みます。エポキシコーティングはその耐久性の高さで知られており、商業施設や工場など高負荷のかかる場所に最適です。また、油性コーティングも耐久性が高く、特に屋外での使用に適しています。一方で、水性コーティングやポリウレタンコーティングは、耐久性では若干劣るものの、メンテナンスが容易で、定期的な再施工が簡単に行えます。 環境への影響を考慮した選択も重要です。最近では、環境に優しいコーティング剤の需要が高まっています。水性コーティングは揮発性有機化合物の排出が少なく、環境負荷が低いため、エコロジカルな選択肢として注目されています。また、ポリウレタンコーティングも環境に配慮された製品が多くあります。これらのコーティング剤を選ぶことで、石材を保護しながら環境への負荷を軽減することが可能です。 石材コーティングを選ぶ際には、使用場所の特性、耐久性とメンテナンスのバランス、そして環境への影響を総合的に考慮することが重要です。適切なコーティング剤を選び、正しく施工することで、石材の美しさと機能を最大限に引き出すことができます。専門的な知識と慎重な判断をもって、最適な石材コーティングを選びましょう。   石材コーティングの施工手順 石材コーティングの施工手順は、前準備、コーティングの塗布、乾燥と仕上げのポイントの三つの段階で構成されます。これらの手順を正確に行うことで、石材の美しさと耐久性を最大限に引き出すことができます。 まず、前準備として石材の掃除と下地処理を行います。石材の表面に汚れやほこりが付着していると、コーティング剤の密着が悪くなり、効果が減少します。そのため、石材表面を中性洗剤と水でしっかりと洗浄し、乾燥させます。必要に応じて、石材の表面を研磨して平滑にし、古いコーティングやシミを取り除くことも重要です。この段階での下地処理がコーティングの品質に大きく影響するため、丁寧に行うことが求められます。 次に、コーティングの塗布方法について説明します。コーティング剤は均一に塗布することが重要です。まず、適量のコーティング剤をローラーやブラシ、スプレーなどの適切な工具を使って塗布します。塗布する際には、薄く均一に広げるように注意し、ムラができないようにします。特に角や縁の部分は見落とされやすいため、細心の注意を払って塗布します。場合によっては、複数回にわたり重ね塗りを行うことで、より効果的な保護層を形成できます。 最後に、乾燥と仕上げのポイントについて解説します。コーティング剤が完全に乾燥するまでの時間は、種類や環境条件によって異なりますが、通常は数時間から数日かかります。この間、石材に触れたり、汚れや水分が付着しないように注意が必要です。また、乾燥が不十分な状態で使用を開始すると、コーティングの効果が十分に発揮されないことがあります。乾燥が完了したら、石材の表面を軽く磨いて仕上げます。これにより、コーティング剤の光沢が増し、石材の美しさが引き立ちます。   石材コーティングの効果的なメンテナンス 石材コーティングの効果を最大限に引き出し、長期間にわたって石材を美しく保つためには、定期的なメンテナンスが欠かせません。適切なクリーニング方法、コーティングの再施工のタイミング、そしてトラブルシューティングについて詳しく解説します。 まず、定期的なクリーニング方法についてです。石材の表面は日常の使用によって汚れが蓄積しやすくなります。特に屋外に使用される石材は、雨風や紫外線の影響で汚れや劣化が進みやすいため、定期的に掃除を行うことが重要です。クリーニングには中性洗剤と柔らかいブラシを使用し、優しく擦ることで石材の表面を傷つけないように注意します。また、洗剤を使用する際には、水で十分にすすぎ、残留物が残らないようにすることが大切です。さらに、汚れがひどい場合や石材の種類に応じて、専門的なクリーニング剤を使用することも検討してください。 次に、コーティングの再施工のタイミングについてです。石材コーティングは長期間にわたり効果を発揮しますが、使用環境や負荷によっては定期的に再施工が必要となります。一般的には、屋内の石材は2〜3年、屋外の石材は1〜2年ごとに再施工を行うことが推奨されています。再施工の際には、既存のコーティング層をしっかりと除去し、新たなコーティング剤を均一に塗布することで、再び石材の表面を保護することができます。 最後に、トラブルシューティングについて説明します。石材コーティングには、シミや剥がれなどのトラブルが発生することがあります。シミが発生した場合は、早急にクリーニングを行うことが重要です。中性洗剤とぬるま湯でシミを拭き取り、必要に応じて専用のシミ取り剤を使用します。剥がれが生じた場合は、剥がれた部分を丁寧に取り除き、新たなコーティング剤を塗布して修復します。この際、剥がれた部分だけでなく、その周囲も含めて広範囲にコーティングを行うことで、均一な仕上がりを実現できます。 石材コーティングの効果的なメンテナンスを行うことで、石材の美しさと耐久性を長期間にわたり保つことが可能です。定期的なクリーニングと適切な再施工、そしてトラブル発生時の迅速な対応を心掛けることで、石材の魅力を最大限に引き出すことができます。   まとめ 石材コーティングは、天然石の美しさと耐久性を維持するための重要なプロセスです。適切なコーティング剤を選び、正しい施工手順を踏むことで、石材の魅力を長期間にわたり保つことができます。水性、油性、エポキシ、ポリウレタンなどのコーティング剤にはそれぞれ特性があり、使用環境や目的に応じた選択が求められます。 施工の際には、事前の掃除や下地処理を丁寧に行い、均一に塗布することが重要です。乾燥と仕上げの段階でも細心の注意を払い、石材表面を美しく保つためのメンテナンスが必要です。定期的なクリーニングと適切な再施工を行うことで、コーティングの効果を最大限に発揮させることができます。また、シミや剥がれといったトラブルに対しても迅速に対応し、石材を守ることが求められます。 石材コーティングは専門的な知識と技術を要しますが、適切に行うことで、石材の持つ本来の美しさと機能を長く楽しむことができます。環境に配慮した選択をすることで、持続可能な保護も実現可能です。これから石材コーティングを考えている方は、ぜひ今回のガイドを参考に、最適な方法を選び、美しい石材を長く保ってください。専門的な知識を活かし、丁寧にケアを行うことで、石材の魅力を最大限に引き出しましょう。   会社概要 会社名・・・有限会社北尾石材 所在地・・・〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町67 電話番号・・・075-781-9523

石材 建築で選ばれる理由とは?種類・価格・施工事例を徹底解説

石材 建築で選ばれる理由とは?種類・価格・施工事例を徹底解説

石材は古代から現代に至るまで、建築において欠かせない素材として広く使用されてきました。その独特の美しさや耐久性が、建物に重厚感と長寿命をもたらします。自然の石材は一つとして同じ模様や色合いがないため、建築物に唯一無二の個性を与えることができます。さらに、石材は断熱性や耐火性に優れており、機能性の面でも高い評価を得ています。   建築に用いられる石材には、大理石や花崗岩、石灰石など様々な種類があり、それぞれに異なる特徴と用途があります。選択する石材によって、外壁や内装、庭園のデザインが大きく変わるため、適切な石材を選ぶことが重要です。また、石材の価格は採石地や加工方法、輸送費などによって異なりますが、その価値を最大限に引き出すためには、正しいメンテナンスが不可欠です。石材建築は初期コストが高いものの、長期的にはその耐久性と美しさが大きな価値を提供する選択肢となります。     建築用石材とは?その特徴と魅力 建築用石材は、古代から現代まで多くの建築物に使用されてきた重要な素材です。石材の使用は、その美しさと耐久性から歴史的に評価され続けてきました。古代エジプトのピラミッドやギリシャのパルテノン神殿など、歴史的な建造物には、石材が多く使用されています。これらの建築物は何千年も経過してもその姿を保ち続けており、石材の持つ長寿命と耐候性が証明されています。石材は単なる建築材料としてだけでなく、文化的なシンボルとしても機能しており、時代を超えてその価値が継承されてきました。   現代においても石材は、住宅や商業施設、公共建築物など幅広い用途で使用されています。特に、外壁や床材、カウンタートップなど、耐久性が求められる部分に使用されることが多いです。現代の建築技術の進歩により、石材の加工や施工がより精密に行えるようになり、多様なデザインや仕上げが可能になりました。これにより、石材は伝統的な用途に加えて、モダンな建築デザインにも取り入れられ、その利用範囲が広がっています。   石材が選ばれる理由の一つは、その自然な美しさです。天然石材は一つ一つ異なる色合いや模様を持ち、建築物に個性と独自性を与えます。また、石材は自然素材であるため、環境に優しい点も魅力の一つです。再生可能な資源として、持続可能な建築材料としての価値が高まっています。   さらに、石材はその高い耐久性から長期的なコストパフォーマンスが良いとされています。一度施工すれば、メンテナンスが少なくても長期間使用できるため、初期投資が高くても、長期的にはコストを抑えることができます。また、石材は耐火性や断熱性にも優れており、住宅や商業施設の安全性や快適性を向上させる効果があります。     建築で使われる代表的な石材の種類 建築において使用される石材には、多くの種類がありますが、その中でも特に代表的なのが大理石、花崗岩、石灰石です。それぞれの石材は独自の特性を持ち、用途に応じて選ばれています。   大理石は、石材の中でも特に美しい光沢を持つことで知られています。カルシウムを主成分とし、独特の模様や色合いが特徴です。大理石は主に内装に使用されることが多く、特に高級感が求められる場所で選ばれることが多いです。床材や壁材、カウンタートップなどに使用され、豪華で洗練された空間を演出します。ただし、大理石は比較的柔らかく、酸に弱いため、キッチンや浴室などの水回りでの使用には注意が必要です。   花崗岩は、火成岩の一種であり、非常に硬く耐久性に優れた石材です。そのため、外壁や床材、キッチンカウンターなど、耐久性が求められる部分に広く使用されています。花崗岩は豊富なカラーバリエーションを持ち、どのような建築スタイルにも適合することができます。また、耐火性や耐久性に優れているため、長期間にわたって美しさを保つことができ、メンテナンスも容易です。   石灰石は、建築用石材として非常に古くから使用されてきました。主成分はカルシウムで、比較的柔らかく加工しやすい特徴があります。そのため、彫刻や装飾的な用途にも適しています。石灰石は吸水性が高く、外壁として使用する際には適切な防水処理が必要です。しかし、その柔らかな色合いと自然な風合いは、内装においても温かみのある空間を演出します。   外壁や内装での石材の使用例としては、花崗岩の外壁がその耐久性からよく採用されます。また、石灰石は内部のアクセントウォールや床材として使われ、その柔らかな質感が落ち着いた雰囲気を作り出します。大理石は内装全体に豪華さをもたらし、特にエントランスやバスルームなどでの使用が効果的です。   石材を選ぶ際には、用途やデザインのコンセプトに応じて、適切な素材を選ぶことが重要です。耐久性やメンテナンスのしやすさも考慮することで、長期間にわたり美しさを保つことができます。石材は自然の中で長い時間をかけて形成されたものであり、その一つ一つが異なる表情を持つことから、選び方次第で唯一無二の空間を作り上げることができる素材です。     石材選びのポイントと価格の目安 石材を選ぶ際には、その品質を見極めることが非常に重要です。石材の品質は、見た目の美しさや耐久性に直結し、選び方次第で建築物の完成度が大きく左右されます。品質を見極めるためには、まず石材の表面をしっかりと確認することが必要です。均一な色合いや模様が見られる石材は、品質が高いとされています。また、傷やひび割れが少ないことも重要なポイントです。特に大理石や石灰石などの柔らかい石材では、これらの欠陥が建物の美観や耐久性に影響を及ぼす可能性があるため、注意が必要です。   石材の密度や硬度も、品質を評価する際の重要な要素です。密度が高い石材は、耐久性や耐水性に優れており、長期間にわたって使用することができます。硬度が高い石材は、外部環境や摩耗に対して強く、外壁や床材として適しています。ただし、硬度が高い石材は加工が難しい場合もあるため、用途に応じた選択が求められます。   次に、石材の価格について考えると、その構成要素は多岐にわたります。石材の価格は、主に採石地、加工方法、輸送費、そして供給の安定性によって決まります。例えば、希少価値の高い石材や遠隔地からの輸入石材は、価格が高くなる傾向にあります。また、石材の加工が複雑であるほど、コストも増加します。たとえば、大理石のように精密なカットや研磨が求められる場合、その分だけ費用がかかります。   しかし、価格が高い石材が必ずしもコストパフォーマンスが良いとは限りません。選定の際には、石材の耐久性やメンテナンスの容易さを考慮することが重要です。長期的な視点で見た場合、初期費用が高くても、メンテナンスコストが低く、耐久性が高い石材を選ぶことが、最終的にはコストパフォーマンスの高い選択となることが多いです。   石材選びでは、見た目だけでなく、用途に応じた性能やコストバランスも考慮する必要があります。例えば、外壁に使用する場合は、耐久性や耐候性が重要視されますが、内装に使用する場合は、美観や触感が重視されます。また、石材のメンテナンスにかかる手間やコストも、選択時に検討する価値があります。全体のコストパフォーマンスを考慮し、適切な石材を選ぶことで、長期間にわたって満足のいく建築物を完成させることができます。     石材を使用した建築事例とその効果 石材は、古代から現代に至るまで、数多くの建築物に使用され、その美しさと機能性が高く評価されています。国内外の有名な建築物には、石材が使われているものが多く、その独特の風合いや高級感が建物全体に重厚な印象を与えています。例えば、ギリシャのパルテノン神殿やエジプトのピラミッドは、石材を使用した建築物の代表例として挙げられます。これらの建物は何千年もの間、その壮大さを保ち続けており、石材の持つ耐久性と永続的な美しさが示されています。   日本国内でも、古くから石材が使用されてきました。京都の清水寺や奈良の東大寺など、歴史的建造物には石材が多く使われています。これらの建物は、時代を超えてその美しさを保ち続けており、石材の持つ風化しにくい特性やメンテナンスの容易さが評価されています。現代においても、石材は高級住宅や公共施設などで使用されており、その存在感とデザイン性が建築物の魅力を引き立てています。   また、石材を使ったリフォームや新築事例も多く存在します。例えば、外壁に花崗岩を使用したリフォームでは、建物全体に高級感をもたらし、耐久性が向上することで長期間にわたって美しさを保つことができます。内装においては、大理石を使用したフローリングやカウンタートップが人気で、空間全体を豪華で洗練された印象に変えることができます。さらに、石材を使ったバスルームやキッチンのリフォームは、耐水性や耐久性が高いだけでなく、自然素材ならではの温かみや落ち着きが感じられる空間を作り出します。   新築の場合でも、石材の使用はますます広がっています。外壁やエントランスに石材を取り入れることで、建物の価値が向上し、居住者にとっても誇りとなる住まいが実現します。また、石材を使った庭園や外構デザインも人気で、自然の美しさをそのまま活かしつつ、建物全体と調和した空間を作り上げることができます。特に、日本庭園においては、石材の配置や種類によって、伝統的な美しさを強調することが可能です。     石材のメンテナンスと長持ちさせるコツ 石材を使用した建築物は、その美しさと耐久性から長く愛されますが、長期間にわたってその美しさを保つためには、適切なメンテナンスが欠かせません。石材は自然素材であり、環境の影響を受けやすいため、定期的なメンテナンスを行うことで、劣化を防ぎ、長持ちさせることができます。   まず、石材の定期メンテナンス方法についてです。石材は外部に露出している場合、雨風や紫外線による影響を受けやすく、表面に汚れや苔が付着することがあります。定期的に表面を清掃し、専用のクリーナーを使用して汚れを除去することが重要です。特に、大理石や石灰石などの柔らかい石材は、酸性の洗剤に弱いため、中性洗剤を使用することが推奨されます。また、外壁や床材に使用されている石材は、定期的に水洗いを行うことで、汚れの蓄積を防ぐことができます。メンテナンスの頻度は、石材の種類や設置場所によって異なりますが、少なくとも年に一度は点検と清掃を行うことが望ましいです。   次に、石材の耐久性を保つための注意点です。石材は自然素材であるため、気温や湿度の変化に対して敏感です。特に、冬季には凍結によるひび割れが発生しやすく、これが石材の劣化を引き起こす原因となります。そのため、寒冷地では、防水処理や表面のコーティングを行うことで、凍結によるダメージを防ぐことができます。また、石材の接合部分や目地に水が浸入しないよう、適切なシーリング材を使用して定期的に補修することが大切です。   さらに、石材の表面に施されるコーティングやシーリングも、耐久性を高めるための有効な手段です。これらの処理を施すことで、石材の表面が保護され、汚れや水分の浸透を防ぐことができます。ただし、コーティングは時間の経過とともに効果が薄れるため、定期的に再施工する必要があります。石材の種類によって適したコーティング材が異なるため、専門家に相談して適切な処置を行うことが推奨されます。   石材の取り扱いにも注意が必要です。硬度の高い花崗岩であっても、強い衝撃や重圧が加わるとひび割れが生じることがあります。そのため、石材の上に重い物を直接置かない、鋭利な物で擦らないなど、日常的な取り扱いに配慮することで、石材の美しさと耐久性を長期間保つことが可能です。適切なメンテナンスと注意を払うことで、石材の魅力を永く楽しむことができるでしょう。     まとめ 石材は、その美しさと耐久性から古代から現代まで多くの建築物に使用され続けています。石材を選ぶ際には、その種類や特性、価格だけでなく、メンテナンスのしやすさや耐久性を考慮することが重要です。適切な石材を選び、適切なメンテナンスを行うことで、石材の持つ魅力を最大限に引き出し、長くその美しさを保つことができます。   また、石材は建物に独特の個性と重厚感をもたらし、その価値を高める素材です。長期的な視点で見た時、その選択が建物全体の品質と価値を左右することを理解し、慎重に検討することが求められます。石材を用いた建築は、自然素材ならではの温かみと力強さを兼ね備えた空間を創り出し、世代を超えて受け継がれる価値を持つでしょう。     会社概要 会社名・・・有限会社北尾石材 所在地・・・〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町67 電話番号・・・075-781-9523

花火大会

花火大会

日本の夏を代表する行事といえば、やはり花火大会でしょう。夜空を彩る打ち上げ花火や仕掛け花火が目を楽しませてくれます。 夏の風物詩となった花火大会ですが、もともとの始まりは悪疫除けでした。1732(享保17)年、江戸で享保の大飢饉が起こりました。この翌年、時の将軍・徳川吉宗は両国橋の近くで水神祭を開いて死者の霊を慰め、厄を祓おうとしました。その際、献上花火が打ち上げられたのが、花火大会の由来とされています。これが現在まで続く隅田川花火大会の始まりです。 その後、毎年この時期になると死者の霊を弔い、水難を祓うために「川開き」が行われ、あわせて花火も打ち上げられるようになったのです。この風習は現在まで続き、川開きには花火を上げるのが一般的となっています。 江戸の花火屋として有名なのが「鍵屋」でした。さらに鍵屋から暖簾分けした「玉屋」が二大花火屋として、江戸の夏の夜を華麗に彩っていました。 といっても、当時の花火は手で持った筒から火が飛び出すといった「手筒花火」と呼ばれる小さなもので、色も炎そのものの色という、いたってシンプルなものでした。 それでも江戸っ子たちは大いに満足していたようです。見物客は、この二つの花火屋が上げる花火のうち、気に入った花火を上げたほうの名前を声高らかに叫んだといいます。現在でも花火見物で聞かれる「かぎやー」「たまやー」という掛け声は、ここに由来しています。 江戸後期に入ると大仕掛けのものが登場するようになり、明治には色とりどりの花火が打ち上げられるようになりました。 最近では音楽やドローンで演出され、さらに日本の花火は進化しているように思います。   ご参考までに・・・。

大泥棒・石川五右衛門

大泥棒・石川五右衛門

洛東の名刹・南禅寺の壮大な三門に上がると「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金・・・」と、つい見得を切りたくなります。それほどに有名なこのセリフは、天下の大泥棒・石川五右衛門のものです。 しかし、その南禅寺の三門は応仁元年(1467)までに消失しており、復興されたのは江戸時代になってからの寛永五年(1628)なので、石川五右衛門(1557〜1594)が生きた時代には形をとどめていなかったはずです。石川五右衛門が、この三門を棲み家としていたとか、「絶景かな、絶景かな」の名セリフも、すべては歌舞伎のために初代並木五瓶が書き下ろしたフィクションなのです。 石川五右衛門は、一説には三好氏の臣・石川明石の子、あるいは遠州浜松に生まれ、のちに河内国石川群の医家・山内古底の家に寓したと伝えられています。太閤秀吉の活躍と同時代に悪名を轟かせたのが運の尽き・・・というべきか。 秀吉は、前田玄以に命じて五右衛門一味を捕らえ「釜茹での刑」という刑罰史にも残るほどの残忍な処刑を実行しました。 文禄三年(1594)のことです。三条大橋南の河原に大きな釜が据えられ、その中には湯がぐつぐつと煮えたぎっていました。そこに五右衛門ら、悪党総勢十人と、五右衛門の幼い子一人が入れられました。五右衛門は我が子を救おうと、釜の中に仁王立ちになって子供を両手で高く抱え上げていましたが、群衆が取り囲む中、最後には力尽き果てて親子もろとも釜の底に沈んだそうです。昔の風呂釜のスタイル「五右衛門風呂」とは、このときの釜の形に似ているところから名付けられたものです。 五右衛門は捕らえられ、刑場に引かれていく途中、下京区寺町四条下ルにあった大雲院の前を通りかかり、同寺の高僧・貞安上人に諭されて感泣したといいます。それが縁で、今も大雲院(現在は円山公園内、祇園閣とともにある)に五右衛門のお墓があります。墓には院号のある戒名が刻まれていますが、これは罪人では異例のことだそうです。 石川五右衛門の墓石のかけらを懐に入れておくと、盗癖が治るとの言い伝えがあります。盗癖に苦しみ、それを試す人がいるのか、五右衛門の墓石にはあちこち削り取られた跡があるそうです。   ご参考までに・・・。  

千灯供養

千灯供養

毎日暑い日が続きますが、皆さん夏バテなど大丈夫でしょうか?今月は二十三・二十四日に化野念仏寺で行なわれる「千灯供養」についてお話します。  嵯峨小倉山麓の化野あだしのの地は、東山の鳥辺野・船岡山の蓮台野とともに、古くから葬送の地として知られていました。 化野の「あだし(徒し・空し)」という言葉には、空しい・儚いという意味があります。 また「化」の字は、「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化ることや、極楽浄土へ往生する願いなどを意図しているといわれています。  化野念仏寺の創建は、弘法大師空海が弘仁年間(八一○~二四)に五智山如来寺をひらいて風葬により野晒しとなっていた遺骸を集めて葬ったのがはじまりとされ、鎌倉時代初期に法然が念仏道場としてより現在にいたる浄土宗のお寺です。 このお寺に入ると、境内にひしめくように立つ八千体もの石仏・石塔に驚かれるでしょう。 これらはかつて、この地に葬られた人々のお墓でしたが、長い年月の果てに無縁仏として散乱していたものを、明治の中頃に地元の人たちによってこのお寺に集められたのです。 賽の河原の模して「西院さいの河原」とよばれています。 「千灯供養」は二十三・二十四日の二日間、この西院の河原で無数のロウソクが灯され、供養されます。 ロウソクが少し秋めいてきた風に吹かれてゆらめき、石仏がその中に浮かび上がる・・・そんな幻想的な風景の中に静かに祈る人々の後姿があるのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

尼講

尼講

皆さんは、「尼講あまこう」という言葉をご存知でしょうか? 京都では「あまこう」のことを「あまこ」と言います。 今月は「尼講あまこ」についてお話します。  本来、「尼講」はお寺における檀家の婦人部のようなものですが、京都で言うところの「あまこ」は他所とは違い、宗旨に関係なく町内ごとにあります。 町内でご不幸があった場合、依頼があればそのお家に赴き、お葬式やお逮夜(本来初七日などの前夜)毎に、そのご仏前で御詠歌をあげるのです。 御詠歌というのは、霊場めぐりの時に唱える巡礼歌の一つで、京都では平安時代に成立したといわれる日本最古の観世音菩薩の霊場・西国三十三番のものが特に有名です。  昔の京都では、必ずこの御詠歌集が家庭にあり、姑や母親から代々受け継がれていたのです。 ある本に、京都には各町内に尼講という趣味の集団があると書かれていましたが、決して「あまこ」は趣味の集団ではありません。 仏様のお教えに導かれた心優しい人達の集まりなのです。 人々のお役に立つ為に、日頃から熱心に御詠歌の稽古を続けられているのです。 この三十三番までの(本当は番外さんというのが他にもあります)御詠歌は、御導師という先行して唄う人に続いて「ちち、ははの~」と皆が後について唱詠します。 すべてを唄い終えるまでは結構時間がかかりますので、二十四番目の中山寺まであげると休憩することに決まっています。 これらの霊場は殆どが山の中にあり、辿り着くまで坂道や石段を登らなくてはいけない難所ばかりであるため、このあたりで休憩するのです。 休憩の時には、ご不幸ごとのあったお家の方がお茶とお饅頭を用意して「あまこ」さんの方々に喉を潤してもらいます。 この休憩の前に、今夜は何人来て頂いているか、その人数を数えるのは子供の役目です。  普段は人を家にあげない京都人も、この時だけは夜遅くまでご町内の人がおられても、決してほうきを立てるようなことはしません。 ご近所の人々にこうして一緒に故人を偲んでもらえることを、本当に心強く感じるのです。 そして次の日、「夜前はおおきに有難うございました」と挨拶することから、ご近所との交流がまた一段と深まっていくのです。 「あまこ」は町内の連体を強める役割も持っているのです。 本当の町内のお付き合いは、ただ回覧板を回すだけではありません。 “遠くの親戚より近くの他人”というのは、こういうことなのではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

県祭

県祭

今月は五日に県神社で行なわれる「県祭あがたまつり」についてお話します。  五日から始まったお祭りは、深夜だというのに毎年十万人以上の人手で熱気にあふれています。 「暗闇祭」と別称される県祭は、日付がかわった六日にこのお祭りのクライマックスの「梵天渡御」を迎えます。 梵天とは御幣のことで、約千六百枚の白い奉書紙を球状に束ねて長さ約2、4メートルの丸竹につけ、直径1メートルほどの「梵天御輿」がつくられます。 五日の午後十一時頃から法被姿の担ぎ手が掛け声をかけながら、灯かりをおとした街道を練り歩き、途中御輿をぐるぐる回す勇壮な「ぶん回し」に見物客からは大きな歓声があがります。 後に配られる梵天の奉書は魔除けになるとされています。 石屋のないしょ話でした・・・。

川床

川床

今年は寒い日が続いて例年よりも桜を楽しむことができました。 桜が散ったと思ったら、鴨川では京都の夏の風物詩「川床」が見え始めました。 今月は「川床」についてお話します。  納涼床の起源は、江戸時代に遠来の客を迎えた裕福な商人たちが、少しでも蒸し暑さをやわらげて接したいと考えて、京都の中心を流れる鴨川の中州や浅瀬に床机をおいて川を渡る風にあたりながらもてなしたことに由来します。 寛文年間(一六六一~七三)に鴨川両側に石積みの護岸が築かれ、茶店や屋台がその上で商売をはじめ、また近くの花街祗園や先斗町の繁栄にしたがって川床も発展したといわれています。 現在は鴨川西岸の二条から五条にかけて、京都鴨川納涼床同組合に加盟する飲食店の約九十軒が櫓を組んで座敷をのせた床を、鴨川西岸の河川敷を流れる「禊川」に張り出しています。 この禊川は、昭和十年(一九三五)の鴨川の洪水後に作られた全長二キロほどの水路です。 鴨川の川床は五月一日から九月三十日までで、五月中は「皐月の床」、六月から八月中を「本床」、九月中を「後涼み」と呼びます。 現在では、暑さをしのぐというより京都らしさを味わうという意味で、地元の人はもとより観光客に人気があります。 石屋のないしょ話でした・・・。

吉野太夫花供養

吉野太夫花供養

やっと桜も咲いてきました。 皆さんはどこにお花見に行きますか? 今月は18日に常照寺で行なわれる「吉野太夫花供養」についてお話します。  赤い着物に華やかな内掛を着て、「心」の字のように帯を結び、「立兵庫たてひょうご」に結った髪に鼈甲の櫛と八本の笄、花かんざしを挿した太夫が、禿かむろ二人と傘持ちを従えて三枚歯の黒塗りの高下駄を履き「内八文字」と呼ばれる独特の足さばきで道中するその優美な姿に、見物客からは溜め息のような歓声があがります。 島原の名妓二代目吉野太夫(一六○六~四三)ゆかりの常照寺では、毎年四月の第三日曜日に吉野太夫を偲ぶ「花供養」が行なわれます。 太夫は、公家の遊女として、正五位を授けられていました。 和歌・唄・踊り・茶・聞香、また囲碁や双六・貝合わせなど諸芸が巧みで容姿端麗、人品も優れた最上の妓女でした。 吉野太夫は禿の頃から容色に優れ、教養が高く、諸芸にも天分を発揮していたといわれています。 熱心な法華経の信者であった吉野太夫は、常照寺の日乾上人に帰依をして、山門を寄進するほどでした。 これが朱色も鮮やかな「吉野門」として常照寺に残されています。 そして和歌や茶の湯に造詣の深い教養人の京都の豪商佐野(灰屋)紹益に身請けされます。 この結婚は周囲に反対され、勘当された紹益と貧しい生活を送った後、本阿弥光悦のとりなしで佐野屋に戻りましたが、吉野は寛永二十年に亡くなりました。  花供養では、常照寺近くの源光庵から太夫道中を披露した後、太夫の墓前で舞を捧げ、境内では野点も行なわれます。 石屋のないしょ話でした・・・。

春の人形展

春の人形展

バレンタインデーが終わったと思ったら、もうお雛様の季節です。 今月は雛の節句に近い三月一日から、あでやかな衣装をまとった雛人形や、愛らしい御所人形が披露される宝鏡寺の「春の人形展」についてお話します。 宝鏡寺は、尼五山の第一位であった景愛寺けいあいじの子院福尼寺ふくにじに、応安年間(一三六八~七五)、光巌天皇の皇女で景愛寺六世の華林宮恵巌かりんのみやえごん禅尼が御所に祀られていた聖観世音菩薩を安置し、寺名をかえて宝鏡寺としたことにはじまると言われています。 寛永二十一年(一六四四)に後水尾天皇皇女久巌里昌くごんりしょう禅尼が入寺すると紫衣がゆるされ、以降、皇女が住持となって入寺して尼門跡としての寺格を誇り、古い地名にちなんで「百々御所」と呼ばれています。 また、天皇から季節ごとにおくられた人形を多数所蔵し、いつしか「人形寺」と呼称されるようになりました。 人形展は、昭和三十二年(一九五七)からはじまり、平成十九年(二○○七)の春で開催百回をむかえています。 歴代皇女ゆかりの人形を三月一日から四月三日までと、秋は十一月一日から三十日の春秋に一般公開し、ふだんは拝観を謝絶している宝鏡寺を訪れるいい機械となっています。 島原の太夫による舞の奉納も行なわれます。 また、十月十四日には人形供養が営まれ、全国から納められた古い人形が供養されます。 石屋のないしょ話でした・・・。

二九

二九

年が明けたと思ったら、早いものでもう二月です。 今月は二月九日に山科区小山行なわれる「二九にのこう」についてお話します。 鎌倉時代の正和二年(一三一三)二月九日、牛尾観音(法厳寺)を参拝していた村人を襲った大蛇が、地元の武士によって退治されました。 その後、祟りを畏れた村人が大蛇の霊を弔うためにワラで編んだ大蛇を山科川(音羽川)の近くに祀ったのが「二九」のはじまりだといわれています。  音羽川の麓、山科川のほとりに位置する小山中島町では、以降七百年にわたって、地元の人によって毎年二月九日に約三百束のワラで長さ約十メートル、胴回り約三十センチの大蛇が新しく作られ、竹にわたして松の木にさし渡されます。 目には橙をもちい、青竹で作った口に酒を注ぎこんで五穀豊穣・家内安全を祈ります。 石屋のないしょ話でした・・・。

左義長

左義長

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2010年1回目の《石屋のないしょ話》は、「左義長さぎちょう」についてお話します。 小正月には、門松やしめ縄などの正月飾りを焼く「左義長」という祭礼が行なわれます。 地方によっては、「どんど焼き」や「さいと焼き」などと呼ばれています。 この祭礼の由来は、平安時代の宮中で行なわれた火祭りだとされています。 青竹を三脚のように立てて、陰陽師が謡い囃しながら扇子や短冊を焼いて邪気を祓う儀式です。 青竹は、馬に乗って木製の毬を打つ「打毬」という遊戯に使われる「毬杖ぎっちょう」で、これが「左義長」という名前の由来だという説もあります。 民間では、豊作を祈願して正月飾りを焼きました。 別名の「さいと焼き」を「道祖土焼き」と書くように、宮中の行事が道祖神信仰と結びついたと考えられています。 年の始めに大きな火を焚いて、人々が大声で囃したてるなどして大きな音をたてて、村に悪霊や邪気を寄せ付けないようにしたのです。 一月十四日の夜または十五日の朝に火をつけ、松の内に飾っていた門松やしめ縄、年始に書いた書き初めなどを焼きます。 この時の燃え方や燃える音、煙の流れる方向などで、その年の豊作物の豊凶が占われたりもしました。 また、その火で焼いた餅を食べると、その年は病気をしないと言われたり、焼いた書き初めが天高く舞い上がると字が上手になるという言い伝えもあります。 このように、門松やしめ縄を燃やすのは、焼くことで正月に迎えた歳神を炎と一緒に空へと見送るという意味も込められています。 石屋のないしょ話でした・・・。

お十夜

お十夜

今月の五日~十五日は、真如堂で「十日十夜別時念仏会」が行なわれます。 今月は、お十夜についてお話します。 お十夜とは、浄土宗の寺院で陰暦の十月五日から十四日まで十日十夜におよび行なわれる念仏法要のことです。 真如堂(真正極楽寺)がその起源で、今は十一月五日から始まり、十五日が結願の日です。 足利幕府に仕えた武将、平(伊勢)貞国は永享九年(一四三七)真如堂に参籠し、出家を志しました。 しかし、夢枕にあらわれた僧が三日の猶予を求めました。 そして三日三晩たつと使者が来て、貞国が家督を継ぐことを知らせてきました。 霊夢に感謝した貞国は、その後七日七晩の参籠を行ないました。 このことがお十夜のはじまりで、真如堂が根本道場となったのです。 五日から毎晩「鉦講中」の約二十人が、念仏が唱えられるなか大鉦を叩き鳴らします。 期間中、おおぜいの浄土宗徒が訪れますが、もっとも蝟集するのが結願の十五日です。 この日は朝から念仏と鉦の音が本堂に響き、円仁の作という「うなずきの弥陀」とよばれる本尊の阿弥陀如来像が開帳されます。 このうなずきとは「女人を救いたまえ」と祈願したところ、如来は三度うなずいたという話からの名です。 この阿弥陀像の手に「縁の綱」が結ばれて本堂から外に出されます。 この綱を持つ信徒たちと縁が結ばれるわけです。 さらに、午後二時ごろ貫主や僧侶や講中の人たち、稚児が境内を一周する「お練り」があって、結願法要となります。 参詣者には中風除けの「十夜粥」が授与されます。 石屋のないしょ話でした・・・。

大根だき

大根だき

日に日に、寒さが厳しくなってきました。 皆さん風邪などひいてませんか? 今月は、七日に千本釈迦堂で行なわれる「大根だき」についてお話します。 境内では、直径1メートルもの大鍋に油揚げとともに炊かれた大根が、美味しそうな匂いを漂わせています。 京都人はこれを「大根とお揚げさんのたいたん」といい、家庭のおばんざいとしても定番です。 十二月の寒風にさらされる境内でふるまわれるこの大根には、無病息災・中風除けのご利益があります。 大根だきは、七百五十年ほど前の鎌倉時代前期に千本釈迦堂(大報恩寺)の住持慈禅がお釈迦様が悟りをひらいたとされる十二月八日の成道会の法要で、丸大根に「ハク」というお釈迦様の名前を表わす梵字を一字書いて、その大根を参拝者にふるまったのが始まりといわれ、江戸時代中期に行事として定着したのだそうです。  炊かれる丸大根は聖護院一帯で作られていたため聖護院大根と呼ばれるものが使われていましたが、最近は淀で作られている同種の淀大根がふるまわれているそうです。 梵字が書かれた大根は、祈祷の後に輪切りにされて大鍋で炊かれます。 授与が始まる午前九時には多くの参拝者が門前に並んで順番を待っています。 翌八日も行なわれ、二日間で大根約五千本、一万五千食が授与されます。 ちなみに、授与は有料です。 石屋のないしょ話でした・・・。

ずいき祭

ずいき祭

今月の一日~五日は、北野天満宮で「ずいき祭」が行なわれます。 今月は、「ずいき祭」についてお話します。 京都の秋祭の先陣を切る「ずいき祭」は、室町時代、北野天満宮の神人が自ら収穫した作物を飾って神前に供え、五穀豊穣に感謝したのが始まりだと伝えられています。 「ずいき」とは、瑞饋・芋茎と漢字で書き、里芋の茎のことです。 このずいきで神輿の唐破風入母屋造の屋根を葺き、瓔珞(神輿の四方に屋根から垂らした飾り)にはキンセンカの花・赤茄子や唐辛子などをあしらい、穀物や蔬菜・湯葉・麩など乾物で周りを覆います。 この華やかな「ずいき神輿」は、四日の還幸祭まで御旅所に安置されます。 毎年趣向を変えて設える欄間や扉の細かい彫刻も、すべて蔬菜を材料にしています。 かつては、八月四日の北野祭のときにずいき祭の神幸祭も行なわれていましたが、応仁の乱で中断、氏子町の力でようやく明治八年(一八七五)になって復活しました。 一日は、三基の鳳輦に御霊を遷す神事が行なわれたのち、獅子を先頭に猿田彦神(天孫降臨のさい道案内をした神)が乗った導山や梅鉾・松鉾などが出て、約百五十人の行列が西ノ京御輿岡の御旅所まで練り歩きます。 到着後、着御祭が営まれ、氏子町の女の子が「八乙女田舞」を奉納します。 なお、四日の還幸祭は「おいでまつり」とも呼ばれ、菅原道真が乗っているとされる牛にひかれた御羽車が新たに加わり、天満宮創設を思い返す祭となっています。 石屋のないしょ話でした・・・。

通り唄

通り唄

皆さんは♪丸・竹・夷・二・押・御池・姉・三・六角・蛸・錦~という唄を聴いたことがありますか? 今月は、通り唄についてお話します。 これは、京都の東西(横)の通り名を覚えやすくするためのもので、通りの名前の頭だけを取り出して北から南へ順に唄ったものです。 京都では昔から社会勉強をさせるために子供を使いにやることが多く、買い物はもちろんのこと、祝い事のまんじゅうを配ったり、お中元・お歳暮も子供が先様に届けることがよくありました。 でも、この唄を知っていれば、大丈夫、まずは迷子になるということはありませんでした。 ご存知のとおり、京都の町は平安京の名残りをとどめ、東西と南北の通りが碁盤の目のように整然とならんでいます。(途中で曲がっているところもありますが・・・) そして、それぞれの通りにはすべて名前がついていて、この東西の通りと南北の通りが交差する辻(角)から東の方に入ることを“東入ル”、西に入ることを“西入ル”と言い、他所の人にはちょっと馴染みにくいかもしれませんが、それぞれの辻から北へ行くことを“上ルあがる”、南へ行くことを“下ルさがる”と言います。 ですから、寺町三条下ルは寺町六角上ルと同じところになるのです。 おわかりになりますか?  この“通り唄”がいつ頃から唄われるようになったのかはわかりませんが、主だった通りが碁盤の目になっている京都ならではの唄だといえるでしょう。 そして、それは手まり唄とか、子守唄といったものではなく、ただの符牒のようなもので、親から子へ、番頭さんから丁稚さんへと教えられてきたのです。 これも京都の教育の一つだと思います。 京都は昔から商業の町と言われていますが、こんな唄や遊びの中にも、ちゃんと教えやしつけが含まれていたのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

六道まいり

六道まいり

まだ梅雨明けもしないうちに、もう八月になりました。 今月は、八月七日~十日に六道珍皇寺で行なわれる「六道まいり」についてお話します。 六道珍皇寺の境内には、小野篁おののたかむら(八○二~五二)という昼は宮中に仕え、夜は冥界に出入りして閻魔大王のもとに通ったといわれた人物で、冥界の出入り口となった「冥土通いの井戸」があります。 六道とは、衆生(人間)が善意の業によって赴く地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六つの迷界のことです。 六道珍皇寺のあたりは、平安時代のころに野辺送りをした鳥野辺の地に近いことから、六道へいく辻にあたるとして「六道の辻」と呼ばれました。 そのため、古くからお盆に戻ってくる先祖(お精霊さん)は、六道珍皇寺を通ると信じられてきたのです。  「六道まいり」は、そのお精霊さんを迎えるお盆前の行事です。 まず、境内で精霊が乗るという高野槇を求め、薄い板の水塔婆に先祖など故人の名前を書いてもらいます。 そして十万億土の冥土まで響くという「迎鐘むかえがね」を引くように叩いて、先祖をこの世に呼び寄せます。 そのあと水塔婆を線香で清め、石地蔵が並ぶ「賽の河原」に納め、槇で水をかけて水回向します。 この水塔婆は、五山の送り火の翌日(八月十七日)に供養されます。 「六道まいり」は、七日の午前六時から十日の午後十一時まで行なわれますが、お寺のまわりは順番待ちの行列で囲まれ、迎鐘の音がとぎれることはありません。 石屋のないしょ話でした・・・。

七夕

七夕

七月七日は七夕の日です。 皆さんも子供の頃、七夕飾りを作り、夜空を見上げて天の川を探した記憶があるのではないでしょうか? 今月は「七夕」についてお話します。 七夕は、牽牛星(彦星)と織女星(織姫星)を祭る行事で、笹に願いを書いた短冊を飾ります。 結婚生活の中でお互いの仕事をおろそかにした牽牛星と織女星が天の川の両岸に引き離され、一年に一度、七月七日だけカササギの橋渡しのおかげで会うことができるという話は有名です。  中国では、機織の上手な織女にあやかって、この日に裁縫や詩歌など手習い事の上達を願う「乞巧奠きっこうでん」という習慣がありました。 この風習は奈良時代に日本に伝わりましたが、宮中でのみ行なわれ、民間には浸透しませんでした。 石屋のないしょ話でした・・・。

竹伐り会式

竹伐り会式

六月二十日は鞍馬寺で「竹伐り会式」が行なわれます。 今月は「竹伐り会式」についてお話します。 「竹伐り会式」とは、黒い法衣に白袈裟を弁慶かぶりにした僧兵が二手にわかれ、大蛇にみたてた大竹を山刀で伐るという豪壮な会式です。 日に日に緑が濃くなっていく鞍馬山中腹に建つ鞍馬寺で、この日「竹伐り会式」が行なわれます。 もともとは、蓮の花が咲く旧暦七月に行なわれていたので、「蓮華会」とも呼ばれています。 この儀式の由来は、今から千百年前の寛平年間(八八九~九八)にさかのぼります。 鞍馬寺で修行中の僧峯延に一匹の大蛇が襲いかかりました。峯延が真言を唱えて退治しましたが、すぐに別の大蛇が現れました。 これも退治しようとすると、大蛇は鞍馬の御香水を護ることを誓って命乞いをしたので、峯延に許されたといわれています。 この話から、厄災を断ち切り、水の恵みに感謝する「竹伐り会式」がはじまったと伝えられています。 江戸時代中頃から、東の近江座・西の丹波座にわかれて竹を伐る早さを競い、勝った地方が豊作となる吉凶行事となりました。 ほら貝を合図に、僧兵に扮した地元の人が登場し、まず本殿前で試し伐りの「竹ならし」で直径十センチの大竹が四本、長さ約五メートルに切りそろえられます。 「竹ならし」に続いて雅楽と舞が演じられます。 そして「勝負伐り」になり、かけ声とともに青竹をあっという間に一節ずつ伐りおとして勝負が競われます。 石屋のないしょ話でした・・・。

端午の節句

端午の節句

五月五日は子供の日です。 今月は「端午の節句」についてお話します。 男の子の節句である「端午の節句」は、五節句のひとつです。 「端」は「初め」、「午」は「午の日」を意味し、本来は「五月初めの午の日」ということでしたが、「午」が「五」に通じるため、五が重なるこの日を「端午の節句」と呼ぶようになりました。 現在は「子供の日」として国民の祝日になっていますが、慣例で男の子の節句として祝う風習が残っています。 鯉のぼりや武者人形を飾り、柏餅やちまきを食べ、菖蒲湯につかるなどして祝うのが一般的です。  もともとこの日には宮中をはじめ、広く民間でも、香りの強い菖蒲や蓬で邪気を祓うという中国から入ってきた風習がありました。 鎌倉時代になると武家では「菖蒲」を「尚武(武芸を重んじること)」とかけて武具を飾るようになり、いつしか端午は男の子の節句として定着したのです。 現在のように鯉のぼりや武者人形を飾るようになったのは、江戸時代に入ってからとされます。 端午の節句に鯉のぼりを立てるのは日本だけの習慣ですが、由来は中国の「登竜門」の故事にあります。 黄河にある竜門という急流を登った鯉が竜になったという話から、鯉は出世魚とされました。 この故事にあやかり、我が子の立身出世を願って鯉のぼりを立てるようになったのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

都をどり

都をどり

桜がちらほら咲いてきました。 皆さんは、「都をどり」をご覧になったことがありますか? 今月は一日から三十日に祇園甲部歌舞伎練場で催される「都をどり」についてお話します。 「都をどりはヨーイヤサァー」の掛け声で、花うちわを手にした芸妓・舞妓が花道から舞台に登場すると、会場である歌舞練場は歓声と共に春の華やいだ雰囲気に包まれます。 「都をどり」は、明治五年に第一回京都博覧会の「附博覧」として企画されました。 前年京都で開いた日本初の博覧会がいまひとつ盛り上がりに欠けたため、翌年に万策を尽くして開催することを決定、博覧会の集客をうながすために、京舞井上流三代目井上八千代さんに相談したところ、八千代さんは伊勢古市の亀の子踊に着想を得て、「都をどり」を創作しました。 踊り子三十二名・地方十一名・囃し方十名が七組七日交代で三月十三日から五月いっぱいまで出演したといいます。 これが評判を呼び、以後戦争中の休演をはさんで春に開催され、平成二十年の公演で百三十六回を数えます。  他の花街の踊りは「都をどり」と同じく明治五年にはじめられた先斗町の「鴨川をどり」、宮川町では、昭和二十五年から「京おどり」、上七軒では昭和二十七年から「北野をどり」、そして同年祇園東が「祇園をどり」が、それぞれの花街の特徴をみせながらあでやかに披露されます。 石屋のないしょ話でした・・・。

修二会

修二会

「お水とり」が過ぎると、寒さもやわらぎ、春がやってくると感じます。今月は、お水とりが行なわれる奈良の東大寺二月堂で行なわれる「修二会しゅにえ」についてお話します。 毎年お正月に、罪や穢れを仏に懺悔し、五穀豊穣などを祈願する仏教法会を「修正会しゅしょうえ」といいます。 そして、旧暦二月に行なわれる、同じく悔過を中心とした法会が「修二会」です。 特に有名なのが奈良の東大寺二月堂で行なわれる修二会です。 そもそも修二会は、七五三(天平勝宝四)年に、二月堂の開祖である実忠上人が、菩薩聖衆の悔過行法したことにならって始めたとされています。  二月堂の修二会は、三月一日から十四日にわたり、さまざまな行事が行なわれます。 なかでも、十四日間通して行なわれるのが「お松明」です。 三月十二日にひときわ大きな籠松明が修行僧によって回廊へと担ぎ運ばれ、災厄が祓われるという火の粉を浴びようと待ち構えている参拝者の上で、大きく振り回されます。 翌三月十三日の未明からは、主要行事である『お水とり』が始まります。 二月堂の下にある閼伽井あかいから、本尊である十一面観音に供える「お香水」と呼ばれる水が汲み上げられます。 この香水の水源は、若狭国(福井県)の音無川で、この水を飲むと病気が治癒すると伝えられています。 かつては春の始まりだった旧暦の二月一日から行なわれていたことから、お水とりは春迎えの行事となっています。 石屋のないしょ話でした・・・。

事八日

事八日

まだまだ厳しい寒さが続きますが、年が明けたと思ったらもう二月です。今月は、「事八日・針供養」についてお話します。 旧暦の二月八日は、新たに物事に着手するという意味から「事始め」、十二月八日は物事を終えるという意味から「事納め」といわれ、この二つを称して「事八日」と呼びます。 逆に、十二月八日を事始め・二月八日を事納めとする地方もあります。 もともと事始めは、二月八日に農家がその年の農作業を始めること、または十二月八日に正月の準備を始めることを意味していました。 同じく事納めは、十二月八日にその年の農事を終えること、または二月八日にすべての正月の行事を終えることを意味していました。 二月八日を事始めとし、十二月八日を事納めとする場合は農事に関するもの、十二月八日を事始めとし、二月八日を事納めとする場合は正月の神事に関するものが多いようです。  事八日には、江戸時代から続くと言われる「針供養」が全国各地で行なわれます。 折れた針を豆腐やこんにゃくに刺して川に流したり、神社に納めたりするもので、裁縫の上達を願う行事です。 色白の美人になる、まめに働けるようになど、由来には諸説あります。 この日は、一日、針に触れないようにします。 とくに東日本では、この日に妖怪や厄神が家を訪れるという伝承が多いのも特徴です。 江戸の町では、それらを追い払うまじないとして、目籠をくくりつけた竹竿が町中に立ち並びました。 また「御事汁」という味噌汁を魔よけのために食べる習慣もありました。 現在でも、事八日には目籠やニンニクなどを庭先に置くという風習が残っている地域もあります。 石屋のないしょ話でした・・・。

小正月

小正月

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2009年1回目の《石屋のないしょ話》は、「小正月」についてお話します。 一月一日を「大正月」というのに対し、旧暦の一月十五日を「小正月」といいます。 本来は小正月までを松の内と呼び、この期間中は玄関などに門松を飾っていました。 地方によっては、松の内の間に忙しく働いた女性を休ませ、男性が料理を作って労を労うという習慣もあり、「女正月」とも呼ばれます。 奈良時代まで、日本の暦は月の満ち欠けを基準とする太陰暦で、十五日の満月から次の満月までを一ヶ月としていました。 中国から太陰太陽暦が採用されると、朝廷では一月一日を年始とするようになりましたが、農村では旧暦がそのまま残ったのです。 明治に入り太陽暦が採用されても、とくに農業にかかわる正月行事が、大正月ではなく小正月に行なわれるのも、そのためです。 大正月は歳神に供え物をし、迎え入れるという神聖な行事が中心ですが、小正月には農業や家庭など、より人々の生活に密着した豊作や開運祈願に関する行事が多いのが特徴です。 大正月の門松に対して小正月には、柳の枝などに小さく丸めた餅や団子をたくさんつけた「繭玉」や「餅花」、木を削って花のようにした「削り花」を飾ります。 これらも同じように豊作の願いが込められたものです。 地域によっては、いまでも小正月の朝に小豆粥を食べ、一家の健康を祈ったり、その年の農作物の豊凶を占う粥占という習俗が残っています。 ほかにも鳥追い、なまはげなど、小正月には豊作を願ったり占ったりする行事がたくさんあります。 石屋のないしょ話でした・・・

一条戻橋

一条戻橋

皆さんは「一条戻橋」をご存知でしょうか? 一条戻橋は、堀川通りの一条にかかっている小さな橋のことです。 今月は、「一条戻橋」についてお話します。  その昔、その橋に愛宕山の鬼が出没し人々を悩ませておりましたが、ある日、源頼光の四天王の一人渡辺綱という武士がその鬼の腕を切り落としたという伝説があり、この話は“戻橋”という演題で歌舞伎にもなっています。 京都では有名なところですが、婚礼儀式の時には決してこの橋を渡ってはいけないと言い伝えられています。 これは、この橋の名称である“戻り橋”という名にこだわり、嫁ぎ先から嫁が戻ってこないように言い出されたことで、今でもそこを通らず、わざわざ遠回りをするのです。 このような場所は、一条戻橋だけでなく、ほかにもみられます。 このようにお話しますと、京都人はつまらぬことにこだわると思われるかもしれませんが、ここに京都人の事を行う儀式作法の考え方の原点というべきものがあるのです。 些細なことにこだわりながら、一つの儀式を大切にしてきたのです。  婚礼という人生の一大儀式を軽く考えず、重たく考える発想から、道順という些細なことに神経を遣い、まわりの者がいろいろと智慧を出し合いながら、時には一方通行の道路を警察署に書類を提出し、逆方向に通らせてもらうといったことまでしてきたのです(現在は警察でこういったことが許可されるのかはわかりませんが、昔は儀式だからと粋な計らいがされたようです)。 儀式に対する思い入れ、これこそ京都なのです。 京都の結納用品の専門店やデパートの婚礼用品の売り場でも、「婚礼用品は商品の性格上、返品はお受けできませんので何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます」といった返品お断りの小さな看板を見かけることがあります。 返品された商品を、わからなければよいといって他のお客様に販売するような感性を、京都人は持ち合わせていないのです。 この一条戻橋には、戦争中、出征兵士を見送るのに、わざわざこの橋まで行って、必ず戻ってきてほしいと願ったという悲しい話も残っています。 現在では、京都を訪れた人がこの橋を渡れば、川にコインを投げ入れなくてももう一度必ず京都に来ることができると言われているそうです。  石屋のないしょ話でした・・・。

亥子祭

亥子祭

11月1日に、護王神社で「亥子祭」が行なわれます。 今月は「亥子祭」についてお話します。 旧暦10月の亥の日には、農作物の豊作を田の神に感謝する収穫祭が行なわれます。 これは「亥の子」といって、西日本を中心に見られる行事で、関東では旧暦の10月10日に行われる「十日夜とおかんや」という収穫祭と一緒になっているところもあります。 「亥の子」は、もともと平安時代の宮中行事で、亥の日の亥の刻に大豆などでつくった餅を食べると病気をしないという中国の風習を取り入れたものでした。 天皇をはじめ、宮中の役人が亥の日亥の刻に餅を食べて万病を払ったといわれています。 また、多産である亥(猪)にあやかって、子孫繁栄もあわせて祈願されました。 多産の神は豊穣の神にも通じるとされたため、農村では田の神に感謝する収穫祭となりました。 商家でも多産を商売繁盛ととらえ、同様に亥の子を祝いました。 普通は10月の最初の亥の日に祝われましたが、江戸時代には最初の亥の日は武士、第二の亥の日は農民、第三の亥の日は商人が祝う日とされました。 亥の子の日には「亥の子突き」という子供の行事があります。 子供達が歌を歌いながらワラや石で地面を叩きながら、一軒一軒を訪ねて歩き、褒美に亥の子餅をもらいます。 地面を叩くのは、大地の神を呼び起こすためなどと言われています。 石屋のないしょ話でした・・・。

恵比須講

恵比須講

朝晩は涼しくなり、秋の足音が聞こえてきました。 今月は「恵比須講」についてお話します。 「恵比須講」は、商売繁盛の神様である恵比須様にお供え物をするお祭りです。 もともとは商売繁盛を祈願して恵比須神を祀っていた商家が、旧暦の十月二十日に恵比須様にお供え物をし、客人を呼んでもてなした祭礼に由来します。  十月は「神無月」と呼ばれますが、これはこの月に日本中の神々が出雲大社に集まるため、他の地には神がいなくなるということからつけられました。 ただし、その留守を預かる留守神という神もいて、恵比寿様もその一人です。 商家で十月に恵比寿様にお供え物をしたのは、留守を預かる恵比寿様を慰めようというところから始まったと言われています。    この日は、床の間に恵比寿様の掛け軸を掛けて、膳とお神酒をお供えします。 膳には、恵比寿様が手にしている鯛の尾頭つきが欠かせません。 恵比寿様はもともと豊漁の神でした。 海岸にはいろいろなものが流れ着きますが、見慣れないものは「夷」と呼ばれます。 昔はそうした漂着物は「寄り神」として祀られ、夷は大漁と航海の無事をもたらす神として、漁師たちの信仰を集めていたとされます。 恵比須講では、商人などが日頃の商売の駆け引きで客を騙した罪を祓うという意味から、神社に詣でたり、罪滅ぼしのために大安売りが行なわれたりします。 商店では、縁起物として笹の飾り物や熊手といった商売繁盛・開運を願うものが並びます。  石屋のないしょ話でした・・・。

お布施

お布施

京都に住んでおられる方なら、「おぅーほぅー」と言いながらまわられる修行僧の声を聞いたことがあると思います。 今月は「生活の中にあるお布施」についてお話します。 一般的に、京都人は自主的でない押し付けの寄付というものが嫌いなようです。 災害の寄付はおろか、自分のお寺や神社から集めにこられるのもあまり好きでなく、隣りが五百円したからうちも五百円にしておこうというくらいに思っている方が多いようです(すべての方がそうだとは言いませんが・・・)。 金額を決められて強要されると、特に抵抗があります。 ところが、生活の中には“お布施”の心が昔からちゃんとあるのです。 ・・・というのは、京都にはお寺がたくさんあり、禅寺の雲水さん(修行僧)が「おぅーほぅー」と言ってまわって来られるのを子供もお金を握りしめて待ち、お布施をするのです。  私たちの耳には「おぅーほぅー」と聞こえますが、本当は「法ー法ー」と言われ、仏様の法(教え)を説き歩いておられるのです。 雲水さんのこの声が遠くから聞こえてくれば、「おぅーさん来はった」と家の人に知らせてお金をもらい、子供が門口でお布施をする光景は今日でもよく見られます。 お布施をしますと、雲水さんは深々とお辞儀をされ拝んでくださるのですが、これはその家に災難が起こらないようにといったことではなく、「これからも一所懸命、修行に励みます」という意味で拝まれるのです。    衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 佛道無上誓願成  このお布施、昔はお米や食物だったのですが、今ではほとんどがお金になったそうです。 京都人はこういうことを率先して行なってきたのです。 布施の心とは、決して自分の利益のためにするものではなく、お仏壇を拝んだり、お供えをする行動と同じ佛事作法の一つなのです。 佛様を、佛様の教えを、お坊様を、ご先祖様を大切に思う心が、京都人の生活の中にしっかりと根付いているのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

大向う

大向う

刺身にワサビが付き物のように、歌舞伎にないと物足りないのが「大向う」と呼ばれる客席からの掛け声です。 皆さんも「成田屋!」などの掛け声を耳にしたことがあると思います。 今月は「大向う」についてお話します。 基本的に、舞台への声掛けは誰がやってもかまいません。 しかし、芝居の空気を壊さないのが原則で、生半可に声を上げるには勇気がいります。 かといって声が少ないと寂しいので、芝居好きで掛け声の“うまい人”が会を作り、公演中、誰かが客席にいるようにしているのです。  実は、こうした会は劇場公認で、会員になると客席上段に無料で入れる通行許可証がもらえるのです。 ただ、会に入るには、まず劇場に通い、声を掛け続けなければなりません。 その中で、“筋がいい”と認められた人だけが会員から勧誘される、スカウト制を採っているそうです。 うまい掛け声とはどんなものなのか・・・勇敢な主人公には大きく勇ましく、美しい女形へはきれいな声で掛けます。 また、役者の声や三味線・拍子木のチョンなど、直前に響いた音と同じ音程で声を出すと、より空気に合い、舞台と調和し、舞台と客席の一体感が増し、芝居の味がぐっと引き立つのです。 “間”も難しく、台詞にかぶるのは厳禁なので、役者の息遣いに耳を澄ませることが大切です。 しかも芝居は生き物で、演じ方は役者や日によって違ってくるので、声の掛け方は千変万化です。 特に掛け声は、東京がキッパリ目、上方は柔らかさが特徴です。 これは、芝居が東京は力強さ、上方は柔らかみのある芸を代々特徴としてきたのと同じで、東京は「成田屋」の場合「た屋っ」と聞こえるほど短くかけますが、上方は「まつしまやあー」と優しい音になります。   掛け声も立派な『伝統芸』として、客席で伝承されているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

土用丑の日

土用丑の日

皆さんもご存知の通り、『土用の丑の日』といえば鰻です。 今月は「土用」についてお話します。 自然や人事など万物の事象を木・火・土・金・水の五行になぞらえて解釈する陰陽五行説。 その中で春は木・夏は火・秋は金・冬は水にあてはめられ、土は各季節の終わりの十八日間にあてはめられました。 つまり、「土用」というのは、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前の十八日間ということになります。 ただし現在では、とくに立夏前の十八日間をさして土用と呼ぶことが多いようです。 そもそも、かつては「土旺」と書かれていました。 「旺」は「盛ん」の意味なので、つまり夏の土用は一年でもっとも暑さが厳しい時期というわけです。    土用の丑の日には、夏バテ防止のため鰻の蒲焼を食べる習慣があります。 これは、江戸時代中期に、平賀源内が鰻屋から夏場の売り上げ不振を相談された際に思いついたとされています。 これが民間で広く信じられていた「丑の日に“う”のつくものを食べると夏バテしない」という伝承t相まって、土用丑の鰻は現在まで続く夏の風物詩となりました。 土用の間は土の気が盛んになるため、穴を掘るといった土を犯すことがタブーとされました。 埋葬もこれに含まれるため、夏の土用の死人は腐乱が進んで大変だったそうです。 ほかにも、日差しの強い土用に衣類や調度に風を通す「土用干し」や、家中を掃除する「土用掃き」など、さまざまな風習があります。 石屋のないしょ話でした・・・。

衣替え

衣替え

日中は汗ばむような陽気の日も多くなり、すっかりコートやセーターは要らなくなりました。 今月は「衣替え」についてお話します。 季節に応じて服を変える衣替えは、もともとは平安時代に物忌みの日に行なう祓えの行事として宮中で始まった「更衣」に由来します。 この時代には、旧暦で四月一日と十月一日にそれぞれ夏装束と冬装束に替えていました。  「更衣」という言葉はその後、天皇の衣替えを司る女官や、天皇の寝所に侍した女御に次ぐ者の名としても使われるようになりました。 このため民間では「更衣」ではなく「衣替」として広まったといわれています。 江戸時代には衣替えの回数は年二回から四回に増やされました。 四月一日からは「袷あわせ」という裏地つきの着物・五月五日からは「帷子かたびら」という裏地なしの着物・九月一日からは再び「袷」・九月九日からは表布と裏布の間に綿を入れた「綿入れ」に衣を替えたわけです。 旧暦四月一日の衣替えを「綿抜き」と呼びますが、これは綿入れから綿を抜く日だったためです。 ここから「四月朔日」と書いて「わたぬき」と読ませたと言われています。 明治に入ってからは夏服に替えるのは六月一日・冬服に替えるのは十月一日からとなりました。 現在でも、学生の制服などはこの日に衣替えが行なわれるほか、和装の場合、七~八月は絽・紗・麻・などの「うすもの」を、六~九月は裏地のついていない「単衣ひとえ」を、十~五月は裏のついた「袷」を着用します。 石屋のないしょ話でした・・・。

八十八夜

八十八夜

『夏も近づく八十八夜~♪』という歌は、皆さんもお聞きになったことがあると思います。 今月は「八十八夜」についてお話します。 「八十八夜」は雑節の一つで、ちょうど「立春」から八十八日目の日のことです。 夏の始まりを意味する「立夏」まであとわずかですが、この頃は昼夜の温度差が激しいこともあって、「晩霜ばんそう」と呼ばれる霜がおりることがあります。 「忘れ霜」や「八十八夜の別れ霜」という表現はここからきています。 この霜は農作物に大きな被害を与えるため、農家に注意するようにという意味でもうけられた雑節が「八十八夜」です。   また、「夏も近づく八十八夜~」と歌われるように、この時期にはその年最初の茶摘みが始まります。 とくに八十八夜の日に摘んだ茶の葉は、栄養価が高く、極上の味わいとされています。 この日以降、霜がおりることはまれになるため、農家では稲の種まきを始める時期とされました。 また、「米」という字が「八」と「十」と「八」に分けられることからも、農家では非常に大切にされる日です。 この日は、「種まき粥」と呼ばれる粥を田の神に供えたり、野山で釜飯を炊いて同じように田の神に供えたり、豊作を占う水口といった風習が残っています。 これらも五穀豊穣を願っての行事とされています。 石屋のないしょ話でした・・・。

やすらい祭

やすらい祭

四月八日に行われる「やすらい祭」は、京都市北区紫野の今宮神社境内にある疫えやみ神社のお祭です。 今月は「やすらい祭」についてお話します。 起源は古く、『百練抄』には「久寿二年(1155)四月、京中の児女風流を備へ、鼓笛を調べて紫野に参る。 世にこれを夜須礼やすらいという」とあります。  現在の練り行列は、先立・鉾・督殿(リーダー)・小鬼(少年二人)・大鬼(赤毛と黒毛のシャグマをかぶった各二人)・花傘・音頭取り・囃子方の総勢数十人が時代衣装をまとって練り、要所で踊り歌います。 歌に「花や咲きたる、やすらえ、花やー」と囃子言葉が入り、やすらい祭の根底には田遊び・田楽がとどめられています。  徳川五代将軍綱吉の母桂昌院は京都西陣の町人の生まれで、今宮神社の氏子であったので、鶴の一声で八坂神社の氏子地域を今宮神社に変更させたり、疫神社を修復・復興したそうです。  練り衆は上賀茂・西賀茂・雲林院・上野の四集落から出ていましたが、今は上野だけとなり、今宮神社と境内の疫神社および行き帰りの町中で踊ります。 人々は花傘に入ると厄を逃れると言われているので、競って傘の下へと集まります。 太秦の牛祭・鞍馬の火祭とともに、京都三大奇祭の一つです。 石屋のないしょ話でした・・・。

雛祭り

雛祭り

三月三日は、皆さんご存知の雛祭りです。 今月は「雛祭り」についてお話します。 三月三日の雛祭りは上巳じょうしの節句と呼ばれ、一月七日(人日)・五月五日(端午)・七月七日(七夕)・九月九日(重陽)と合わせて五節句の一つに数えられる節句です。 かつて旧暦の三月三日に行われていた頃は、ちょうど桃の咲く季節だったことから「桃の節句」とも呼ばれます。 そもそも旧暦の三月は、その年の農事を始める直前にあたり、上巳の節句は禊みそぎの意味がありました。 古代中国では、上巳の日に水辺で香草を身体に塗り、穢れを祓って身を清めるという風習がありました。 これが日本に伝わり、上巳の日に紙で作った人形で身体を撫でて身の穢れを移し、それを川に流して身を清めるという禊の行事となったのです。 これに、平安時代に公家の女子の間で広まった雛遊びというままごとのような人形遊びが結びついて雛飾りに変化したとされています。    現在のように、三月三日に雛人形を飾り、女の子の成長を願うという風習が定着したのは、江戸時代になってからのことです。 ちなみに・・・当初、雛人形は紙や粘土で作られていましたが、嫁入り道具でもあった雛人形は、しだいに良縁を願って飾られるようになり、徐々に華美になっていきました。 元禄時代にはすでに段飾りが登場し、雛人形が豪華になると流し雛の風習はなくなっていき、現在のような飾り雛が定着するようになりました。 ただし、地方によっては現在でも「流し雛」を行うところもあります。 これは人形を流して穢れも流すという、昔ながらの風習の名残と考えられます。 石屋のないしょ話でした・・・。  

「ガッテンだ!」の語源は京都?

「ガッテンだ!」の語源は京都?

「がってんだ!」は、漢字で書くと「合点だ」です。威勢がいいので、イキのいい江戸ことばだと思っておられた方も多いのではないでしょうか? ところが、元をたどれば京都に語源があるのです。 「合点」は、もともと和歌・連歌・俳諧の用語です。なので、和歌・連歌の発達とともに、平安から鎌倉時代にすでに使われていたようです。 つまり、歌を判者が批評するとき、良いと思われる歌の右上に鉤点をつけました。鉤とは、先の曲がった金属製のもので、その形を記しました。今でいうところのチェックです。評する判者がもう1人いる場合は、右上に続いて左上に鉤点をつけるのが慣わしでした。その点が「合点」であり、点をつけることを「合点する」といったそうです。 そこから、名前が書き並べられた回覧文書などが回ってくると「承知しました」「同意します」と言う意味で鉤型の合点チェックをするようになったのです。また「確かに目を通しました」「了解です」という意味でも、合点チェックは行われました。 藤原定家の日記『名月記』の建久3年(1192)3月7日の項に「不可及合点(合点に及ぶべからず)」と記されています。 ではなぜ、江戸ことばだと思われるようになったのでしょうか? この言葉は江戸時代に入ってからもよく使われており、「合点した」とか「合点が参りませぬ」などと、狂言をはじめとする江戸期の作品にしばしば登場するそうです。 ちなみに「早合点」という言葉は「合点」からの派生語で、現在では早とちりなど、よくない意味で使われていますが、本来は文字通り「すばやい合点」で、「すばやく承知する」という意味だったそうです。   ご参考までに・・・。

日本初の水力発電所

日本初の水力発電所

  我が国最初の水力発電所は、京都市東山区粟田口に現存する蹴上発電所です。 第一期琵琶湖疏水建設の付帯事業として、明治23(1890)年1月に起工し、翌24年11月に発電を開始しました。琵琶湖疏水は、滋賀県大津市三保ヶ崎の取水口から山科を経て、蹴上で市内に通じる運河です。明治初期における京都近代化政策の最大の基幹事業として、京都府第3代知事北垣国道が計画し、工部大学校(東京)卒業直後の田辺朔郎が設計と工事を担当しました。     運河や水力の利用状況を調べるために、明治21年10月、田辺朔郎は北垣知事の命を受けてアメリカに渡りました。そこでコロラド州アスペンの水力発電を視察し、翌年帰国して蹴上発電所の建設に着手しました。 この発電所は、蹴上付近で高度差が生じた運河の間を、インクラインで舟を上下させるのに必要な電力を供給するためのものでした。 京都の電気事業は、すでに明治20年に京都電灯会社が設立され、外国製機会を使用した火力発電により同22年には営業を開始していましたが、送電時間が短いうえに料金が高く、普及しませんでした。そこで、3年後に蹴上発電所の水力発電所の水力電気に切り替え、電灯料値下げに成功してから普及することとなったのです。 また、明治28年2月には京都電気鉄道会社により、我が国初の市電が塩小路高倉・伏見下油掛町間に開通した際、この発電所の電力が利用されています。 その後、電力需要の増大に伴い、第2次疏水工事と並行して明治45年に第2期発電所が増設されました。 現在は、第1期発電所の姿は失われていますが、第2期発電所の赤煉瓦造りの建物は京都大学が研究施設として利用し、発電所は関西電力が保有しています。   ご参考までに・・・。

京菓子が和菓子として有名な理由

京菓子が和菓子として有名な理由

わが国最初の菓子は、平安時代初期に京都でつくられた中国伝来の唐菓子で、今も神饌菓子として伝えられています。鎌倉時代から室町時代になると、禅とともに伝えられた点心は、本来の肉・野菜などの蒸し物から甘い蒸し菓子(羊羹・饅頭の原型)となり、饅頭や団子などに広がっていきました。また、桃山時代以降は茶の湯とともに製菓技術が発展し、繊細巧緻を極めた干し菓子や有職故実に基づく鑑賞用菓子などがつくられるようになり、京菓子の原型が形づくられていきました。 やがて、鑑賞用菓子は茶道の影響を受けて京都で洗練され、四季の移ろいや、古典にちなんだ菓子が次々と生み出されて、上菓子(献上菓子)や御用菓子と呼ばれるようになりました。さらに、江戸時代中期に貴重な輸入品の白砂糖を用いるようになると、幕府公認の京都の上菓子株仲間だけが白砂糖を使う菓子製造が認められました。 こうして、京都で作られた菓子は大変好まれて特産品となり、京菓子の名は江戸時代中期には一般に知られるようになり、江戸にも「京菓子所」と称する店が現れました。これらの中から桜餅・大福・金つば・煎餅などの雑菓子も登場するようになりました。 京菓子が発展した理由には、材料となる近江の米、丹波小豆や寒天などに恵まれたことや、砂糖が京都へ直輸入されたこと、良質の水があったことなどがあげられます。 そして何よりも長い間、京都に都が置かれ、政治や文化の中心地となったことから、宮中や公家の四季の行事・神社や寺院の儀式・茶道の作法などと関係しながら発展したことが考えられます。 古くから京都には、たとえば餅菓子の川端家のように、宮中や公家などに出入りした御用菓子司が存在し、今も有職に基づいた菓子をつくり、伝統を守っているのです。 ご参考までに・・・。

初午

初午

旧暦二月の最初の午の日は「初午」といい、稲荷神社の祭礼が行われます。 今月は「初午」についてお話します。 七一一(和堂四)年の初午の日に、稲荷神社の本社である伏見稲荷の祭神が、馬に乗って伊奈利いなり山に降臨したとされることから、祭りが行われるようになりました。 そもそも稲荷とは、五穀を司る神様の総称で「稲生りいねなり」に由来すると言われます。 その主祭神である宇迦之御魂神うかのみたまのかみは、食物の神または農耕の神として知られています。 農村ではこの時期、春の耕作に際して、田の神を山から迎えるという風習がありました。 稲荷神が稲作の神様だということもあり、この風習と稲荷神社の祭礼が合わさり、農村では初午の日に神様に供え物をし、豊作を祈ったのです。 この稲荷祭りでは、お神酒や赤飯と一緒に油揚げをお供えするところが多いのですが、それは油揚げがキツネの好物だからです。  稲荷神社では、狛犬の代わりにキツネの像が置かれているのをよく見かけます。 これは、キツネが田の神である稲荷神の使いであるという俗信に由来するものです。 キツネそのものが、稲荷神であるかのように言われることもありますが、これは誤解です。 石屋のないしょ話でした・・・。

七草粥

七草粥

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2008年1回目の《石屋のないしょ話》は、お正月明けに食べる「七草粥」についてお話します。 年末年始の暴飲暴食で疲れた胃腸を休ませるのにぴったりなのが、1月7日の朝に食べる「七草粥」です。 お粥に入れる七草は時代や地方によって異なりますが、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・スズナ・スズシロ・ホトケノザが一般的です。 これらは薬効の高いものが多いため、野菜が不足しがちな冬に滋養をつけるために食べられていたと言われています。 1月7日は「人日の節句じんじつのせっく」とも呼ばれます。 この日に七草粥を食べる習慣が広く定着したのは江戸時代のことですが、平安時代に書かれた『枕草子』に、すでに記述が見られます。 「正月一日は」で始まる章に「七日、雪間の若菜摘み、青やかにて・・・」とあるように、宮中では古くから七種の野草を摘んで羹あつものにして食べていました。 冬でも芽を出す野草の強い生命力にあやかって、邪気や万病を祓おうとしたようです。 また、神にこれを捧げて、五穀豊穣を祈るという意味もありました。 もともと日本では1月15日に米・アワ・キビ・ヒエ・ミノ・ゴマ・アズキという七種の穀物の粥を食べる習慣がありました。 この習慣と、中国の「七種菜羹ななしゅさいのかん」という、やはり七種の野草を羹にして7日に食べ、無病息災を願うという習慣と結びついて生まれたとされています。 石屋のないしょ話でした・・・。

すす払い

すす払い

近年では、大掃除といえば大晦日前の行事ですが、かつてはすす払い」といって、十二月十三日に行われていました。 今月は、「すす払い」についてお話します。 「すす払い」は、お正月の歳神を迎えるにあたり、一年分の家の汚れを落とし、その年の厄を祓うためにします。 戦前までは、この日には仕事を休んで一日がかりで大掃除が行われていました。 十二月十三日に「すす払い」が行われるようになったのは、江戸城の煤払いが毎年この日だったため、庶民もこれにならったからだと言われています。   ただしお正月までにまだ日があるので、近年はこの日は神棚や仏壇などを掃除するにとどめ、家中の大掃除は暮れが近づいてきてから行うようになりました。 また、この日は「正月事始め」といって、正月準備を始める日とされ、門松用の松を野山に採りに行く「松迎え※1」なども行われます。  寺社では、現代でも毎年この日を「すす払い」の日としています。 手拭いなどで頭・顔を覆った修行僧らが、昔ながらの「すす梵天※2」や笹の束などを使って仏像や堂内の汚れを払ったり、お堂の畳を叩いてホコリを追い出したりする光景が見られます。 ※1 松迎え・・・山村で門松や正月用の様々な木を切り出しに行くこと。 松に限らず、榊や椎・ゆずり葉・裏白など正月飾りに用いる草木を採りに行く。 ※2 すす梵天・・・竹竿の先に藁をくくりつけたすす払い用の道具。 使用後も捨てずに注連縄をはって祀っておき、左義長のときに燃やす。 石屋のないしょ話でした・・・。

七五三

七五三

11月になると、かわいい晴れ着姿で七五三参りに向かう子供さん達を多く見かけます。 今月は、七五三についてお話します。 七五三とは、男の子が三歳と五歳のとき、女の子は三歳と七歳のとき、11月15日に神社に参拝して、我が子の無事な成長を感謝し祝う行事です。 地方によっては七・五・三歳のとき男女を問わずに祝います。 幼児の成長に応じて行われる祝いの行事としては、鎌倉時代に三歳の男子・女子の髪置に儀式がありました。 幼児は生まれてから頭髪を伸ばさずに剃っていたのを、三歳になると伸ばしはじめました。 髪置親を頼んで垂らした髪に米の粉を塗って白髪に見立て、女子は綿帽子をかぶりました。 長寿と幸せな一生を願ったものと見られています。 この髪置が江戸時代に11月15日におこなわれるようになりました。   さらにさかのぼれば、平安時代には三歳あるいは五歳の男子・女子に初めて袴を着せる袴着の儀式がありましたが、江戸時代には五歳の男子に限って碁盤の上で裃を着せる形になりました。 勝負の舞台となる碁盤の上で祝ったのは、強い男子になることを願ったからです。 室町時代からは男子・女子が九歳になったとき帯解の祝いを行いました。 のちに男子は五歳から九歳の間、女子は七歳のときに11月吉日を選んで行われましたが、やがて15日に定着しました。 これまでつけていた子供の付け紐を解きはずして、初めて帯をしめるお祝いです。 この日は盛装して氏神さまにお参りしました。 このように、個々の年祝いであった行事が「七五三」として11月15日の行事にまとまるのは、江戸末期から明治時代のようで、東京を中心とする関東地域においてです。 同時に子の髪や袴・帯を調える家庭内の行事から離れて、晴れ着を着て盛装し、神社に参詣する行事となりました。 七五三に付き物の千歳飴は、元禄・宝永ごろ江戸浅草の飴売り七兵衛が初め「千年飴」、ついで「寿命糖」「千歳飴」の名で江戸市中を売り歩いていたのが始まりといわれています。 一般には、ただ「長袋」とよばれて変哲のないものだったが、紙袋に「寿」の文字や鶴亀・松竹梅を色鮮やかに描いたものに変えたことから、細く長く長寿を願う七五三の祝い物となりました。 袋の中には年の数だけの紅白の棒飴を収め、神社から帰って親しい人に配ります。 それはともかく、このように色々な意味が込められた左と右、何が正しくて何が誤りだと結論づけることはできませんが、こんなところにも何か京都的なものを感じますし、私達がふだん何気なく見ているものの中にも、京都は存在しているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

右が左

右が左

昔から、京都ではいつも御所というものを目の当たりに見ることができたためでしょうか?町中においても御所がいつも中心にあり、私達の生活の中にしっとりと溶け込んでいるのです。 ですから、御所を主体にした左と右に・・・すなわち、左が右であることに、京都人は何の疑問も持っていないのです。 今月は、京都では右が左についてお話します。 京都では、現在の地名においても、御所に向かって右が左京区・左が右京区となっています。 つまり、御所の方からご覧になって左右を決められたものですので、向かって“右が左”で“左が右”ということになったのです。 そのために、京都ではお雛様をお飾りするときも、男雛を左側(向かって右側)に置きますし、左大臣・右大臣も、また桜も橘も、他所の地方とは反対に並べるのです。 結納飾りの尉と姥の高砂人形も、これまた同じことが言えます。 (ただし、高砂人形は姥が手にするほうきによって、あえて尉を右、すなわち向かって左にする場合もあります。) このことは、物事が京の都から他所に伝わっていく過程において、いかに誤りが起こり得たかという一つの証拠ともいえるでしょう。  左と右、この左右論とも言うべきものは、他にも色々とあります。 しめ縄の巻き方も地域によりその巻き方が異なりますし、帯の巻き方にも京都式と関東式があり、京都では左巻きと言われていますが実際には右に巻いていくのです。 金銀の水引のかかった金封を頭に思い浮かべてください。 向かって右に金色・左に銀色がくるように結んであります。 一説によると、これは神話に登場する伊弉諾いざなぎと伊弉再いざなみに由来し、この二神が出会われ仲睦まじく結ばれた姿を水引の結びで表現しているのだと言われています。 向かって右が陽で男性を表現した金色・向かって左が陰で女性を表現した銀色。これら金封の水引については不思議と全国的に統一されていますが、本当は逆に結ぶべきだという説を唱える学者さんもおられますので、一層話がややこしくなっています。 それはともかく、このように色々な意味が込められた左と右、何が正しくて何が誤りだと結論づけることはできませんが、こんなところにも何か京都的なものを感じますし、私達がふだん何気なく見ているものの中にも、京都は存在しているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

放生会

放生会

9月15日は『放生会ほうじょうえ』の日です。 京都では、三宅八幡宮や本能寺で行われます。 ふだんの殺生・肉食を戒め、慈悲を実践するために、捕らえられている虫・魚・獣まどの生き物を池や野に解き放つ仏教の行事です。 中国から経典とともに伝えられました。 今月は『放生会ほうじょうえ』についてお話します。 放生は、676年(天武五)に初めて畿内に命じられ、放生会は720年(養老四)に初めて宇佐八幡宮で行われました。 859年(貞観一)に宇佐八幡宮を山城(京都府)に勧請した岩清水八幡宮では、863年に放生会を行ない、948年(天暦二)には勅祭とされて、国家的行事として盛大に行われました。  五代将軍徳川綱吉は「生類憐みの令」を発令して殺生を禁じましたが、さらに放生も盛んに行っていました。 その際、放つ場所を限定し、金魚は藤沢遊行の池、鶏は芝神明宮と道明寺の境内、トビ・カラスは三宅島、タカは磐城小名浜・上総九十九里などと厳密に定め、御徒目付ら役人に運送させました。 カラスは、役人が戻るより先に、三宅島から江戸に舞い戻っていたそうです。 岩清水八幡宮の放生会(岩清水祭)は、葵祭・春日祭とともに三大勅祭とされ、陰暦8月15日に行われていましたが、現在は9月に行われています。 石屋のないしょ話でした・・・。

愛宕さん

愛宕さん

京都は、放火は別として火事が大変少ないところであることをご存知でしょうか? 今月は、京都ならどこでも見かける“愛宕さんのお札”についてお話します。 京都の町家は、隣とくっついていることもあり、火事についての意識が高く、火を出してはいけないということに、昔から非常に神経を使ってきました。 念には念を入れて火の始末をするという、京都人の「しつこさ」で、京都の町を火から守ってきたのです。  それぞれの住人の責任感の強さがそうさせてきたのでしょうが、京都人はこれを「愛宕さん(愛宕神社)のおかげ」というのです。 ここに京都の一種独特の言葉使いがあり、奥床しさがあるのです。 「愛宕さんのお札」 京都の家庭にはもちろん、近代的なビルの中でも、このお札を見かけます。 毎年7月31日から8月1日にかけて、愛宕さんで千日詣というものがあり、この日にお詣りすれば千日分のご利益があるとされています。 この日はご町内単位でお詣りされるところもあり、毎年大変なにぎわいをみせています。  しかし、だからといって、お詣りした人だけがこのお札を貼っているわけではありません。 例え、愛宕さんがどこにあるかを知らない人でも、京都ではこのお札は知っているものなのです。 愛宕さんには誠に失礼なことですが、普段は気にもとめていませんし、ゆっくりながめることもなければ、お札に手を合わせることもありません。 いわば、このお札は京都人にとって空気と同じような存在なのです。 これほど自然にさりげなく、京都の人々の暮らしの中に溶け込んでいるお札というものも、他にはないように思います。 「火の要慎・火の要慎・・・」 石屋のないしょ話でした・・・。

和紙と風呂敷

和紙と風呂敷

白い和紙で包むことはその品物自体を清める意味があり、風呂敷で包むことは大切な品物ですということを表現しているのです。 そして、和紙にも風呂敷にも、その包み方にはお作法があります。  重ね合わせた時に、向かって右が必ず上にくるように包むのです。 人に着物を着せていると考えれば、たやすくお解かりいただけると思います。 その左右を逆にして着物を着せる時はどういった時か・・・この後は、もうご説明する必要はないでしょう。 ですから、これを一つ間違えますと、お祝いの品でもご不幸ごとの品になってしまうのです。 お店でお買い物をし、包装紙をセロハンテープで止めていただく時にも、必ず向かって右が上にこなければいけません。 この“右上”という考え方は、和紙や風呂敷だけではなく、目録・金封・敷紙・片木へぎ・三方・戸棚・襖・障子もみんな同じなのです。 一度、お家の中のものをゆっくり見回して見て下さい。   京都のこの包み込みの発想は、ただの包み方の作法だけではなく、自分を優しく温かく包み込んで下さいということも意味しています。 ですから、風呂敷を進物にするといったことは京都ではよくあることで、花嫁様の挨拶まわりの手土産にも風呂敷が最もよく用いられます。 風呂敷に包んで風呂敷を持参するのです。 もの言わぬものにものを言わせる・・・といったことを好む京都人が、品物を和紙や風呂敷に包むことで贈る心や意味合いを表現してきたのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

お参りの手順

お参りの手順

神社にお参りするというと、多くの人が初詣を思い浮かべるのではないでしょうか? また、お宮参りや七五三などのお祝い事・合格祈願や、旅先でその地の有名な神社を訪れるといったこともあるかと思います。 しかし、正しい手順でお参りできているでしょうか? 今月は知っているようで知らないお参りの手順についてお話します。 日常生活では、ひんぱんに神社を訪れる人は少ないかもしれませんが、日本人なら、神社にお参りするときの正しい手順を心得ておきたいものです。 おおまかにいうと、まずは「浄め」、つぎに「参拝」となります。 浄めは、神社の境内の手水舎で行います。 手水舎の手水鉢の前に来たら軽く一礼し、右手で柄杓を取って水をすくい、その水を左手にかけて洗い浄めます。 そのあと、左手で柄杓を取り、同じ要領で右手を浄めます。 次に右手で柄杓を取り、左の手のひらに水を注ぎ、その水で口をすすぎます。 使った柄杓は、そのまま元の位置に戻してはいけません。 いったん垂直に立てて、残りの水で柄の部分を浄めてから、元の位置に戻して一礼します。   こうして身を浄め、本殿へと向かうわけですが、参道を進むとき、その中央を歩いてはいけません。 参道の中央は神様の通る道だからです。 本殿まで進んだら参拝です。 本殿の前に立ち、軽く一礼します。 このあと、賽銭箱に賽銭を入れ、鈴を鳴らして拝礼をします。 拝礼の作法は「二拝二拍手一拝」が基本です。 つまり、二度おじぎをして、二度手をならしたのち、両手を合わせてお祈りをして、もう一度おじぎをします。 このうち拍手は、まず胸の前で両の手のひらを合わせ、右手をわずかに下にずらしながら、両手を肩幅の広さにまで広げ、両てのひらを打ちます。 本殿から立ち去る前に、本殿に軽く一礼して参拝は終了です。 おみくじを引いたり破魔矢を買ったりするのは、参拝が終わってからです。  石屋のないしょ話でした・・・。

敷居のタブー

敷居のタブー

最近は洋室ばかりで和室がない家も多いため、和室での作法を知らずに育った方もいらっしゃるかもしれませんが、「敷居や畳の縁をふんではいけない」という言葉は耳にされたことがあると思います。 今月は敷居や畳の縁を踏むのがなぜタブーになったかをお話します。 かつての子供たちは「戸や障子などの敷居や畳の縁を踏むのは、親の顔を踏むようなものだ」と教えられ、和室を歩く時はうっかり踏まないように注意したものです。 こんなしきたりが生まれた理由は「境界」という概念で考えれば説明がつきます。 敷居は、部屋と部屋を区分けする境界の役割を果たしています。 なた、畳は「立って半畳、寝て一畳」といわれるように、一人の人間が暮らすための最小限の空間とされています。 そこから、畳の縁は一人一人に必要な空間を区分けする境界とも考えられます。 このような「境界」を重視する考え方は、日本だけのものではなく、世界に共通するもので、例えば二十世紀初めのフランスの民族学者A・フォン・ヘネップは『通過儀礼』の中で境界について、あちら側でもこちら側でもない、あいまいで不安定な場と記している。 そこから様々なタブーが設けられ、また通過する時には儀礼が必要と考えられるようになったといいます。  我が国の身近な例では、橋のたもとや村はずれなどにお地蔵様が祀られているのも境界への恐れの表れといえるでしょう。 お地蔵様を祀ることで、境界が持つ危うさから逃れようとしたのです。 そういう境界に対する認識から、敷居や畳の縁も境界の一種と考えられるようになり、「踏んではいけない」というタブーが生まれたのです。 そのタブーを破ることは、家の秩序や格式を破壊することにもつながりかねません。 そこで、親の顔を持ち出して子供達に守らせようとしたのです。 また昔は、畳の縁に家紋を刺繍する家もあったそうです。 家紋を踏んではいけないという意味でも、畳の縁を踏むことをタブーにしたのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

残し方の美学

残し方の美学

お客としておもてなしの料理を出して頂いた時、皆さんは全部食べてしまいますか? 京都では、そのお料理を全部きれいに食べてしまわず、ほんの少しだけ残すのがお作法なのです。 今月は京都の残し方の美学についてお話します。 もし、全部たいらげてしまったら、もてなして下さった先様が「少し量が足りなかったかな」と余計な神経を使われるかもしれません。 少し残すというのは、そのための気配りなのです。 このお作法にはお客の方にとっても結構便利なこともあるのです。 万が一、自分の嫌いなものが出てきた時には、このお作法がありますので随分と助かります。 家庭料理なら残すと失礼になりますが、京都では必ずといっていいほど、仕出し屋さんのものが出されますので、嫌いなものは遠慮なく、そして作法どおりに残せるのです。 もし、寿司桶の片隅のバランに隠れて遠慮がちにお寿司が一つ残っているのをご覧になったら、これが京都だと感じて下さい。  っこのお作法は、あくまでもお家でお料理を頂戴した時のことで、料亭などに行った時にはこんなことは致しません。 全部たいらげてもよく、残してもよいのです。 気心の知れた親戚等の集まりの時に料亭などで料理を残しますと、必ずといっていいほど“折”が出てきます。 残したものを折りに詰めて持ち帰るのは板前さんに対する気配りであり、これも一つのお作法なのです。 残り物を折り詰めにして持ち帰るなんてあまり美しくないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。 ところが、京都のご婦人方は皆さんどこで覚えられたのか解りませんがよく心得られたもので、その手際の良さと折に詰められた料理の美しさは、お膳とは別に最初から折り詰めが注文してあったかのように見えるほどです。   折り詰めにして持ち帰ることにも、京都の伝統というべき理由があります。 その昔、西陣地域では料理に出された時におつゆが出ると、つゆだけを飲んで具は持って帰る風習がありました。 食料の貧しかった時代に、訪問した先でこれだけのおもてなしをして頂いたという感謝の気持ちを家で待つ家族に知らせる役目があったのです。 こんなところから、儀式ごとには欠かせない手土産としての折り詰めが全国的に用いられるようになったのでしょう。 一つの風習・作法というものが、人々の絆をいかに高めていくかが、こんなことからもおわかりいただけると思います。 石屋のないしょ話でした・・・。

清水の舞台

清水の舞台

全国的に有名な「清水の舞台」。 今まで清水寺に参拝されたことがない人でも、大変な決意で物事をする時の覚悟のほどを“清水の舞台から飛び降りる”気持ちと表現することはご存知だと思います。 今月は、「清水の舞台」のいわれについてお話します。  多くの修学旅行生が清水寺を参拝するのも、清水の舞台の高さを確かめにきているのかもしれません。 しかし、この「清水の舞台」のいわれについては様々な説があり、そのいずれの説もつまるところはご本尊である観音様のお守りいただき、そのお陰で死なないのだという、いわゆる観音信仰から発生したものなのです。 「宇治拾遺物語」の話を紹介しますと、ある若者が、ある日運悪く大勢の人間と斬り合いになり、清水の舞台に追い詰められ、もうどうしようもない、殺されるだけだと思い、すべてを観音様に預けて飛び降りたところ、不思議なことに死なずに助かったそうです。 こういった話がいくつもあるとのことですが、どれをとってもそこには京都人の信仰の深さがうかがわれます。 平成になってからも飛び降りた人が一人あったとのことですが、この人も信仰が篤かったのか助かられたそうです。 ちなみに清水の歴史が始まってから、六十人以上の人が飛び降りたらしいのですが、今までに亡くなられたのはご年配の一人だけだそうです。  京都では、子供の頃から「観音さんは自分の前にいはって、お地蔵さんは後ろにいはる」と教えられて育った人がたくさんいます。 だからといって、清水寺に行き、一生懸命手を合わせて拝むわけではありません。 宗教というと何か絶対的なものととらえられがちですが、京都の宗教は少し違って、いわゆる生活の一部に信仰があるという感じなのです。 そんな中から生まれたこの「清水の舞台」の喩え。 現在では言葉だけが一人歩きしてしまいましたが、京都人の中に自然と溶け込んだ観音様を尊ぶ心がそこにしっかりと生き続けているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

雪月花

雪月花

「雪月花」は、日本の美しいものの代表と言われてきました。 そして、京都人が殊更この雪や月や花を好むのには深い理由があるのです。 今月は「雪月花」についてお話します。 雪は積もり、月は満月となり、花は咲き誇るように、それぞれそのものの最盛といわれる時がありますが、雪は陽に、月は地球の陰に、花は風によって、その姿を無くしてしまいます。 雪は解け、月は欠け、花は散ってしまうのです。 しかし、やがて季節が巡ることで、再びその美しい姿が必ずよみがえります。 京都人は何度も何度も都を荒らされてきましたが、その度毎に必ず復興してきたその京都の姿と、この雪や月や花を重ね合わせているのです。 雪・月・花に“見”という一文字を付け加えれば、それぞれ雪見・月見・花見となり、それは平安の時代から宮中において催された宴であり、儀式なのです。 これらを愛でて詠まれた歌が、現在も数多く残っています。  雪・・・雪の白さは、混じりけのない純粋で清らかな例えとして賞賛され、またその白さから白髪を連想し、めでたきものと考えられてきました。 それに雪は“五穀の精”とも言われ、雪の多い年は豊作の前兆とも、また五穀(米・麦・粟・豆・黍)を雪汁にひたせば虫が食わないとも言われてきたのです。 雪の都、それはまさに絵にも描き表せないほど美しいものです。  月・・・月は古来より神仏としてあがめられ、人々の月への思いは強く、月を中心として世の全てのものが動いていると信じられていました。 そんなところから、現代でも使用されている暦が生まれたのです。 また“月の都”という言葉があり、これは都の美しいさまを例えて言ったものです。  花・・・花ほど人々の生活の中に密接に関わっているものも珍しく、慶びごとにも悲しみごとにも必ず登場します。 そして、物事を花に例えることが大変多くみられます。 “花の都”という言葉があるように、まさに京都は花そのものでもあるのです。  この雪月花、これらは全て美しくはかないものばかりですが、またいつの日にか、必ずやよみがえるという再生象徴のものでもあるのです。 京都人は、一見弱々しく、はかなく見えるかもしれませんが、内に秘めた凛とした再生への思いを、いつも持ち続けているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

雨降って・・・

雨降って・・・

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2007年一回目の《石屋のないしょ話》は、祝いの日の雨についてお話します。 お祝い事の日に雨が降った場合、「雨降って地固まる」といって験げんの良いことだと言われていますが、本当のところ、これは一種のなぐさめの言葉なのです。  お宮詣りをはじめとして、結納や婚礼の日はもちろんのこと、特に荷出しの日に雨が降れば娘のために今まで支度をしてきた親の気持ちは察するにあまりあります。 どうしても陰気になり、気が滅入ってしまうものです。 人間にはどうすることもできない自然界のこと、誰もが空を見上げながら泣きたくなるのも当然です。 そんな時、相手の気持ちを察して「雨が降るのは地が固まって験がいいですね」と話しかけるのです。 この言葉に当事者の方はどれだけなぐさめ力づけられることか計りしれません。 それだけではなく、地が固まって験が良いだけで終わらさず“降り込む”“入り込む”などといった験の良い言葉をも創り出したのです。 これも生活の知恵であり、京都ひいては日本人の心根の優しさと言えるでしょう。  京都人は、単に迷信や言い伝えにこだわっているわけではありません。 迷信や言い伝えから心の優しさを取り出し、事を行ってきたのです。 だからこそ全国津々浦々にまでこんな言葉が広まったのだと思います。 このように、儀式作法とは、本来、心根の優しいものだったのですが、最近の若い人々に受け入れられないのは何故でしょう。 それは、本当の意味や心が正しく伝わらなかったためではないでしょうか。 ただ、表面上の形ばかりにとらわれて、儀式作法を一人歩きさせた責任を十分に自覚しながら、その反省の上に立ち、本当の意味・心を伝えていかなければと思います。 それが伝承というものだと思いますし、京都の心を残す大切な事柄の一つなのではないでしょうか。  これとよく似たことに、数字の“八”というのがあります。 例えば、八万円の金額をお祝いとして受け取った時、本来“八”という数字は偶数の陰の数であり、あまりお祝いごとにはふさわしくありません。 しかし、頂戴した以上は仕方ありません。 そんな時、「八は末広がり(扇子を逆にした形)」という言葉を使うことで、相手の心をなぐさめてきたのです。 このほかにも、人を思いやる言葉は数多くあると思います。 これらは全て生活の知恵であり、京都人ひいては日本人の心根の優しさと言えるでしょう。 石屋のないしょ話でした・・・。

お火焚

お火焚

皆さんの中には、先月の8日に伏見稲荷大社で行われた火焚祭をご覧になった方もいらっしゃると思います。 今月は、お火焚についてお話します。 お火焚の行事は、京都だけでなく一部の地域にもみられるものですが、その発祥はやはり京都であると思われます。 お火焚の由来には色々な説がありますが、もともと宮中の重要行事である新嘗祭(収穫祭)が民間に広まったものであるといわれています。 稲穂を育てていただいた太陽と大地に感謝し、また来る年の豊作を祈って行う祈祷行事です。  かつては11月になると神社だけでなく、連日、一般家庭や町内・会社でもこの行事を見ることができ、京都の初冬の風物詩でもあったのです。 火を扱いますので一時禁止されたり、自主的に取りやめたりしてその数は少なくなりましたが、今でも広い敷地をお持ちの方は毎年きちんと行われています。 秋にとれた新米を神前にお供えし、願い事を書いた護摩木(火焚串)を焚いて悪霊を追い祓い、家内安全・無病息災・商売繁盛・火難除けを神に祈るのです。 お火焚の終わりに、護摩木を焚いたその残り火でみかんを焼きます。 そのみかんを食べると、来る冬の間、風邪をひかないといわれています。 それに、その年のお米でつくったおこしと、おたまと呼ばれている火焔紋の焼き印が押してある紅白饅頭を神からのおさがりとして頂き食します。 神と共に同じ食物を頂くことで、神の力を授かるのです。  古来より、火の神は太陽の神とも考えられ、世にある不浄なものを消滅させる力があると信じられてきたのです。 こんなところから、京都では神仏のお札はもちろんのこと、お守りや縁起物、それに心のこもった礼状など、ごみとして出すには少し気がひけるものの処分は、火にあげるといって燃やしてしまうといったことが日常的にどのお家でもなされているのです。 京都といえばお寺のイメージが強く、仏教行事ばかりがクローズアップされますが、このお火焚の行事だけでなく、一年をとおして一般の家庭にも神事がきちんと行き続けているのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

敷居の上

敷居の上

皆さんの中には、「しきたり」とか「お作法」という言葉を聞いただけで拒否される方もいらっしゃるかもしれません。 また、虚礼廃止という名のもとに、全てを簡素化しようとする考え方もあるでしょう。 しかし、「しきたり」とか「お作法」というものは、決して虚礼ではありませんし、前近代的なものの考え方でもありません。 人と人とが暮らしていくための潤滑油のような役目があるのです。 今月は、「しきたり」や「お作法」を通じて人とのつながりを大事にすることについてお話します。 「しきたり」や「お作法」は、自分が恥をかかないためにあることは言うまでもありませんが、それ以上に相手の心を思いやる大切さ、相手に無礼・失礼にならないために、また相手に恥をかかせないために存在しているのです。 この儀式のこの時には、このように事を運ぶといった、完成された「しきたり」と「お作法」、それを現代的に勝手な解釈をしてアレンジしてしまっては、かえって話が難しい方向へと発展し、ひいては相手まで混乱させてしまう結果になるのではないでしょうか? 古来より受け継がれてきたその本当の意味と意義を十分に理解し、大事にすることが、人と人とのつながりをより一層強いものに高めていくのです。  しかし、人とのふれあいといっても京都のそれはべったりとしたお付き合いではなく、自分を少し引いたところで相手を立てるところが他所とは異なるのです。 一般的にイメージされるものより、京都の「しきたり」と「お作法」は現代的なものなのです。 ですから、京都には風習・風俗・民族といった言葉がなぜか当てはまらないように思われます。 いくら親しくなっても、他所でみられるような奥座敷まで上がりこむといったものが京都にはありません。 自分の領域をきっちりと守りながらお付き合いしているのです。 『京都人のお付き合いは敷居の上』と言われていますが、まったくそのとおりだと思います。 敷居の中に入れば厚かましくなり、外に出ていると水くさい人になります。 お付き合いはちょうど敷居の上(本当は敷居を踏んではいけないので、例えです)ぐらいの、入るでもなし、出るでもないといったところがよく、これが京都流であり世界に誇る都の感性だと思います。 石屋のないしょ話でした・・・。

一条戻橋

一条戻橋

皆さんは「一条戻橋」をご存知でしょうか? 一条戻橋は、堀川通りの一条にかかっている小さな橋のことです。 今月は、「一条戻橋」についてお話します。  その昔、その橋に愛宕山の鬼が出没し人々を悩ませておりましたが、ある日、源頼光の四天王の一人渡辺綱という武士がその鬼の腕を切り落としたという伝説があり、この話は“戻橋”という演題で歌舞伎にもなっています。 京都では有名なところですが、婚礼儀式の時には決してこの橋を渡ってはいけないと言い伝えられています。 これは、この橋の名称である“戻り橋”という名にこだわり、嫁ぎ先から嫁が戻ってこないように言い出されたことで、今でもそこを通らず、わざわざ遠回りをするのです。 このような場所は、一条戻橋だけでなく、ほかにもみられます。 このようにお話しますと、京都人はつまらぬことにこだわると思われるかもしれませんが、ここに京都人の事を行う儀式作法の考え方の原点というべきものがあるのです。 些細なことにこだわりながら、一つの儀式を大切にしてきたのです。  婚礼という人生の一大儀式を軽く考えず、重たく考える発想から、道順という些細なことに神経を遣い、まわりの者がいろいろと智慧を出し合いながら、時には一方通行の道路を警察署に書類を提出し、逆方向に通らせてもらうといったことまでしてきたのです(現在は警察でこういったことが許可されるのかはわかりませんが、昔は儀式だからと粋な計らいがされたようです)。 儀式に対する思い入れ、これこそ京都なのです。 京都の結納用品の専門店やデパートの婚礼用品の売り場でも、「婚礼用品は商品の性格上、返品はお受けできませんので何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます」といった返品お断りの小さな看板を見かけることがあります。 返品された商品を、わからなければよいといって他のお客様に販売するような感性を、京都人は持ち合わせていないのです。 この一条戻橋には、戦争中、出征兵士を見送るのに、わざわざこの橋まで行って、必ず戻ってきてほしいと願ったという悲しい話も残っています。 現在では、京都を訪れた人がこの橋を渡れば、川にコインを投げ入れなくてももう一度必ず京都に来ることができると言われているそうです。  石屋のないしょ話でした・・・。

京のお茶漬け

京のお茶漬け

皆さんは「京のお茶漬け」をご存知でしょうか? 今月は、「京のお茶漬け」についてお話します。 京都の家を訪問し、帰り際に「そろそろ失礼します」と言うと家人から「お茶漬け一杯ぐらい食べていってください」と言われ、そのとおりに食べて帰ったら「図々しい」などと陰口をたたく京都人を皮肉に表現している「京のお茶漬け」ですが、本当は「私はあなたとまだお話していたい」という意味であり、そう思うほど楽しい時間を過ごせて良かったという親愛の情を表現した言葉なのです。 「失礼します」という言葉に対して「そうですか」と答えるのが普通かもしれませんが、それではあまりにも味気ないと感じられませんか? それに、そう簡単に言ってしまうといかにも早く帰ってほしいと願っていたように受け取られては大変だと、京都人は気を遣いなんとか引きとめようとするのです。 本当に「さようなら」を言うまで、しつこいまでのやりとりでコミュニケーションをはかり、より親密なお付き合いをしてきたのです。 有名なこの「京のお茶漬け」というのは、会話の一つの流れであり、せっかくの和やかな雰囲気を断ち切らないように余韻を持ってお別れするためのもので、お客様を不愉快な気持ちにさせずお帰りいただくための心温まる言葉なのです。 最近は誤解が誤解を生んで、「そろそろ時間ですからお帰り下さい」という時に、京都人が使用する言葉だと解釈されているようです。 いつの間にか言葉が一人歩きしてしまったのでしょう。 よほど無礼な人にはそういう意味で使うことがあるかもしれませんが、実際にはそのような悪意を持って使われることは決してありません。 「お茶漬け一杯・・・」と言う相手は、もうすでにお料理をお出ししているような大切なお客様なのですから。 家人がそう言って本当にお茶漬けを準備されていることもあり、そのお茶漬けを有難く頂いて帰るのがお作法の場合もあるのです。 心にもないことを平気で言う京都人の“いやらしさ”や“いけずなところ”や“二面性”など悪いイメージだけが広まってしまいましたが、この言葉は京都人の奥床しさの代名詞ではないでしょうか? 転居通知というものをご存知だと思いますが、そこには必ず「お近くにお越しの際は是非一度お立ち寄り下さい。」と記されています。 でも、いくらこのように書かれていてもそんなに親しくもない人のお家を、近くに来たからと言って訪問されることはないでしょう。 社交辞令的なものが全ていけないとは思えません。 石屋のないしょ話でした・・・。

お盆と殺生

お盆と殺生

京都人は、ご先祖様に対する思いが強く、今の自分があるのは全てご先祖様のお陰だと考えている人も少なくありません。 そのため、京都では仏事作法というものがしっかりと入り込んでいるのは今までの「石屋のないしょ話」でもお話しましたが、特にお盆の時には枚挙にいとまがないほどの様々な風習や言い伝え・しきたりがあります。 今月は、その一つである「お盆には虫を殺してはいけない」についてお話します。 これは京都では当たり前のことで、そこにお盆の行事の本質があるように思います。  京都人は、子供の頃からお盆には昆虫採集をしてはいけないと言われて育っってきました。 皆さんは“おはぐろとんぼ”という昆虫をごぞんじでしょうか? 黒くて細い上品なとんぼなのですが、このとんぼにご先祖様が姿を変えられてお浄土から我が家に帰ってこられるといわれています。 京都では、このとんぼのことを“お精霊とんぼ”とよんでいます。 他の地方の人からは滑稽に思われるかもしれませんが、この“お精霊とんぼ”に手を合わせることもあるのです。 また、仏様にお水をお供えするとき、その器の中に蓮の葉や樒の葉を浮かべますが、これにも同じような意味があり、暑い夏の日に虫たちが水を飲みに来て過って溺れないよう葉に止まって水が飲めるようにと、殺生をしないために気を配り、こんなことをしているのです。 もちろん、ご先祖様がとんぼに変身するとか虫が溺れないようになど、本気ななって考えているわけではありません。 しかし、そこには京都人の優しい感性というべきものがあるように思います。  今年もまた、ご先祖様に気持ちよくお帰りいただくために、お仏壇を綺麗に整え、提灯を吊るしたり、松明を焚いたり、きゅうりやなすびにお箸で足をつけたり、麻殻ではしご段を作ったりして、ご先祖様をお迎えするのです。 そしてそこに、その家々の独特の風習が生まれ、それが祖母から母へ、母から娘へと受け継がれていくのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

きゅうりと紋

きゅうりと紋

皆さんは、きゅうりの切り口をじっくりご覧になったことがありますか? 今月は、きゅうりの切り口と祇園祭についてお話します。  きゅうりの切り口が祇園さん(八坂神社)の紋にどことなく似ていることから、その紋を食べてしまうのはあまりにももったいないと、京都では祇園祭(八坂神社のお祭り)の間はきゅうりを食べない人が少なくありません。 他の地方の人は祇園祭といえば二・三日ぐらいの間と思っておられるかもしれませんが、祇園祭というのは随分長い期間にわたるお祭りで、およそ一ヶ月ほどあります。 この間、特にきゅうりの美味しい時期に食しないのですから、けっこう大変なことなのです。 京都では、シンボリックな紋というものに対して敬う気持ちが非常に強く、大事にしているのです。 石屋のないしょ話vol.22でもお話しましたが、紋はその家やその人を表すものであり、神聖なものだと考えていますので、あまり軽くは扱わないのです。 京都では、広蓋や袱紗や風呂敷に、しっかりとご自分の家の紋が入っており、そのように代々残して伝えていくものがあるからかもしれません。 そして、それらはただの装飾品ではなく、日常生活の中で、事あるごとに使用するものでもあるのです。 日々の生活の中で培われてきた、紋というものを重たく思い入れる心が、きゅうりを食しないことにつながっているのです。  もともと紋は公家が使っていた輿や牛車につけられていたことが始まりであると伝えられています。 このように、家紋発祥の地である京都には、紋に関するしきたりがあり、儀式作法には必ずといっていいほど登場します。 京都人は、自分の家の紋を知っているのが当たり前であり、またそも紋には男紋と女紋があるのです。 京都は紋=シンボル(象徴)を敬い、大切にする土地なのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

お札

お札

京都では、いたるところにお札が貼ってあります。 お札によるご利益や災難除けの意味があるのはもちろんですが、ちょっと意味合いの違う理由もあるのです。 今月は、お札についてお話します。 京都では、台所はもちろんのこと、仕事場や機械や道具にも一枚のお札を貼ることによって、その場所を、そのものを神聖化し、決して粗末に扱わないようにしているのです。 お札の使い道として、これほどすばらしいアイデアはないと思いますし、これもまた京都の生活の知恵なのです。 お札は機械類を扱われる仕事場で特に多く見ることができます。 織物の機械をはじめ、近代的な外国製の機械などにもお札が貼ってあります。 祇園祭の粽に添えられているお札をご覧になったことがあるでしょうか? そのお札には「蘇民将来之子孫也」と記されています。 それにはこんな謂れがあります。 昔、インドに牛の頭のように角のはえた王様がいました。 名前は牛頭天王といい、大変恐ろしい人物でしたが、ある時お妃を探すため旅に出ました。 ある日、巨旦将来という男に出会いましたが、この男は裕福なのに大変なケチで、牛頭天王をもてなすどころか怒らせてしまいました。 しかし次の日、蘇民将来という男の家に一夜の宿を頼んだところ、その男は大変貧しい暮らしをしているにもかかわらず、真心を込めて牛頭天王をもてなしたのです。 その姿に牛頭天王は大変感動されました。 そしてそのおかげでお妃も見つけることができました。 やがて牛頭天王は再び蘇民将来の家を訪れ、「心のこもったもてなしができるということは、人間として最も大切なことである。 以後は門口に蘇民将来と書いて吊るしておけば、子々孫々まで悪いことは起こらぬ」と言って立ち去りました。   この物語がなぜ京都に伝わったかはわかりませんが、祇園祭のこのお札を門口に吊るすということは、悪疫や災難から逃れるためだけではなく、人に対しての最高のもてなしであると共に、その人に幸福が訪れるようにと祈っているのです。 京都は、もてなす文化が非常に発達したところだと言われています。 それは、蘇民将来のお札が吊るされているからかもしれません。 石屋のないしょ話でした・・・。

風呂敷

風呂敷

風呂敷は生活の知恵から生み出された大変便利なものです。 紙袋などと違い、風呂敷は四角い箱型のものも、丸い形のものも容易く包むことができますし、必要でない時には折りたたむと大変コンパクトになります。 その上、近頃問題になっている過剰包装もなくなるのです。 今月は風呂敷についてお話します。 近年、日常的には使うことが少なくなった風呂敷ですが、最近京都では風呂敷研究会というものをつくり、包み方も含めて再度風呂敷を普及させようと頑張っておられるグループがあります。 この研究会では、会合に出席する時の本や書類などは、必ず風呂敷に包んで持参するという約束ごとがあるそうです。  そもそも風呂敷というのは、字のとおり風呂で使用したことに由来しているのです。 お風呂屋さんで脱いだ衣類を、今はかごやロッカーにいれますが、昔はそれぞれ自分の衣類を布で包んでおいたのです。 それで、他の人のものと間違わないように風呂敷に名前を入れるようになりました。 現代においても風呂敷に名前を入れるのは、その名残りなのです。 また、京都では風呂敷で包んだ品物を人様に渡す時、風呂敷をはずして渡すのがお作法ということになっています。 ところが、京都にはおため(おうつり)というお返しの習慣がありますので、こちらに風呂敷を預からなければそのおためを入れることができません。 そんな時、京都人は「すんまへん。ちょっと風呂敷貸しておくれやす」と言い、言われた方も「そうどすか。えらいすんまへんなあ」と言い、すぐに風呂敷を差し出してそこにおためをいれてもらいます。 京都には、こんな楽しいお付き合いの約束事があるのです。 風呂敷があれば、そこに花が咲くと言われています。 皆さんも今一度風呂敷を見直してみてはいかがでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

お祝い

お祝い

お祝いは、大安・先勝・友引の午前中にお伺いするのがお作法であり、昼から伺うと験が悪いとまで言われていますが、昼から伺ったからといって決して験が悪いわけではありません。 今月は、なぜ午前中にお祝いに伺うのかをお話します。 もともと、結婚式そのものが、ほんの少し前までは夜に行われることが当たり前であったことは、ご年配の方なら皆さんご存知だと思います。 それなのに、なぜお祝いは午前中にと時間までしばるようになったのでしょうか? それは、先様に対する心遣い、気配りからなのです。 午前中にと限っておくことで、お祝いごとのあるお家でも、気兼ねなしにお昼から外出ができ、午前中だけの拘束ですむようにと、こんなしきたりが生まれてきたのです。 特に嫁方では、挙式前には挙式の打ち合わせだけではなく、細々としたものまでたくさん買い揃えなければならないため大変忙しく、時間がいくらでも必要なのです。 そして、そのお買い物も新生活に必要なものですから、やはり大安などの良き日に買い求めたいと思われるのも、これまた人情です。 こんなところからも、京都ではお祝いに伺ってもお部屋にはあがらず、たとえ先様に勧められてもお断りをして、玄関先で失礼するのがお作法であり、当たり前なのです。 この時、先様がこぶ茶とおまんじゅうをお出しになります。 こぶ茶は一口でも飲まなくてはいけませんが、おまんじゅうは頂かないことになっています。 おまんじゅうは最初から別の物がお持ち帰り用としてちゃんと半紙に包んであるのです。 これも時間短縮の一つかもしれません。 しかし、いくら時間短縮をしても、お祝いの品は決して他の地方のように金一封だけというものではありません。 京都の結婚祝は、金銀の水引のかかった金封に、必ず熨斗と寿恵広を添え、片木台にのせます。 そして、広蓋という漆器の盆にのせ、その上から袱紗をかけ、それを定紋入の風呂敷に包んで持参するのです。 他所では考えられないほど丁寧な形です。 これが、京都人の発送なのです。 こうして整えたお祝いの品を持参するのは、必ず午前中に、昼からでは験が悪い、とする京都のこのしきたりは、長い長い経験の中から生まれ、やがて一つの事柄でしばるようになったのです。 そこには、先様に対する気配りがしっかりと息づいているのです。 一見、不合理・不便にみえるものが、その実、大変合理的であり、また非常に便利でもあるのです。 京都のしきたりやお作法は、人々がお互いに暮らしやすくするために考案されたものばかりだと思います。 石屋のないしょ話でした・・・。  

お見送り

お見送り

昔から、他所のお家を訪問する時には訪問する者が気を遣い、辞去する時にはその家の者が気を遣うものだと言われています。 今月は、お客様(訪問客)を見送るときのことについてお話します。 もし、あなたが他所様のお家を訪問して辞去するとき、玄関を出てすぐに門灯を消されたり、そのお家の中から笑い声が聞こえたりしたら、どんな気持ちになるでしょう。 せっかく楽しいひと時を過ごしても、これでは台無しになってしまいます。 訪問して下さったお客様がお帰りになるとき、玄関でお別れをすれば外までは出ないのが普通ですが、京都では外で出てお客様が曲がり角を曲がられるまでお見送りをするのです。 部屋の中でお別れの挨拶をし、玄関でもう一度、そして外で、曲がり角で・・・と、何度もお辞儀をしながらお別れをするのです。 最近では一般家庭では少なくなったかもしれませんが、昔からのしきたりを大切にしているお店などでは見られる光景です。  こんな京都の礼儀作法、これが自然と身につき育った者にとっては、何の疑問も抱かないのですが、他所から来た人には何度も何度もお辞儀を繰り返す京都人を理解してもらえず、こういったところをとらえて京都人はしつこいとか慇懃無礼だと感じるのかもしれません。 しかし、これはせっかくご訪問して下さったお客様に対する礼儀というものであり、楽しかったという余韻を大切に大切にしていることでもあるのです。 そして、またのご訪問をお待ちしていますよという気持ちと心を行為で示しているのです。 「本当に楽しかったです。 ありがとうございました。 またお越しください。」と何度も繰り返して言うよりも、曲がり角まで見送るという京都のこの当たり前が、すべてを表現し物語っているのです。 京都の別れの作法は、再会への序奏でもあると思います。 人との出会い、そして別れ・・・人の一生はその繰り返しかもしれませんが、その時々の人と人との触れ合いを、ただ表面的な形だけにせず、そこにいかに心を込めるかを京都人はずっと以前より考えてきたのではないでしょうか・・・。 石屋のないしょ話でした・・・。

しきたりと作法

しきたりと作法

最近は「しきたり」や「作法」など、小難しいことは敬遠されがちですが、今月は「しきたり」と「さほう」についてお話します。 「しきたり」と「作法」とは、よく似たことで同じものだと思われている方も多いでしょうが、この二つには微妙なニュアンスの違いがあるのです。 「しきたり」とは、こういう時にはこの水引を使用するといったことで、「作法」とは、そのものをどのように表現するかということなのです。  具体的にお話すると、例えば人様にお礼をする場合、赤白の水引のかかったもので熨斗のついたお金包み(金封)に“御礼”と書くというところまでが「しきたり」なのです。 それを“御礼”と書くか“御禮”と書くかといったところから、「作法」の域に入ってくるのです。 “礼”を“禮”と書くと画数が増し、ほんのわずかですがそれを書いてる時間が長くなります。 同様に筆ペンよりは墨をするほうが時間がかかります。 それは、その人が先様のことを意識の中に強くえがいているというこであり、その思いが先様にも通ずるのです。 “御礼”よりも“御禮”、“御仏前”より“御佛前”と書くのが「作法」なのです。 「作法」とは、些細なことにまで神経を配り、先様への思いを表現することなのです。 殊に、結納の儀式はとかく難しいと言われていますが、おさめたりおさめ返したりといった煩雑なことをするからこそ、その間に相手を理解し交流を深めることができるのです。 また、京都ではこの結納の時に家族書と親族書を添えますが、お互いに添えるという「しきたり」が確立していれば、わざわざ相手に確認する必要もありません。 ところが、それが他の地方では、家族書・親族書は重要視しないという言い方をするために、添える人や添えない人があり、かえってどうすればよいのか解らなくなってしまうのです。 先様に対する気配りや、先様を思いやる心を大切にするならば、「しきたり」や「作法」が京都のようにしっかりと確立されているほうが良いと言えるのではないでしょうか?   一見、「しきたり」にしばられ、「作法」が難しく、京都は暮らしにくいと思われるかもしれませんが、数多くの「しきたり」や「作法」があるおかげで、事を潤滑に運んでいける最良の方法が見つかるのです。 これほど楽なことはありません。 言い換えれば、複雑に難しくすることによって、その手順が簡単により解り易いものになるのです。 今後、この京都の「しきたり」や「作法」がどのような形に変化するかは解りませんが、複雑になればなるほど容易くなると思いますし、簡素化されればされるほどその方法に戸惑うことが多くなることでしょう。 石屋のないしょ話でした・・・。

お正月に・・・

お正月に・・・

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2006年一回目の《石屋のないしょ話》は、京都ではお正月にほうきをもってはいけないといわれていることについてお話します。 一般的に、お正月に何かをすると一年中それを続けることになると言われていることから、お正月にほうきを持つと一年中掃除をしなければならないからほうきを持ってはいけないという意味にとらえられていますが、本当はほうきというものが悪いものを掃いてしまう(邪気をはらう)道具と考えられてきたことからそう言われているのです。 しかしお正月には「お正月様」という神様が家に降りてこられているため、本来悪いものなどあるはずがありません。 せっかく、神の「よりしろ」だという意味でしめ縄を張ったり玄関飾りをして神様をお迎えしているのに、ほうきを持つことによってその神様まで掃きだしてしまってはいけないという、そんな理由からお正月にほうきを持ってはいけないと言われてきたのです。  しかし、これは一種の後付の理由であり、実は「女性は日ごろから何かと忙しく動いてきたのだから、お正月ぐらいはゆっくり休んでください」という意味があるのです。 京都人の女性に対する思いやりの表現と言えるでしょう。 姑さんが若いお嫁さんに対して「お正月はほうきを持ってはいけない」と厳しく叱っていたとしても、その本意は「お正月の間ぐらいゆっくりしなさい」ということなのです。 それならその本意をはっきり言えばいいのにと思われるかもしれませんが、これを一つの『しきたり』とすることに大きな意味があるのです。 『しきたり』でなければ、掃除をする人も出てきて、しないでいると何か怠けている感があり、また働くことになります。 例え埃がかぶっていても、決して恥ずかしいことではないという『決まりごと』にしてしまうことで、本当に休むことができるのです。 お正月のおせち料理も、お正月の間は料理をせず休んでいられるようにという同様の配慮があるのです。 ちなみに、お正月の一番最初に汲み上げる『若水』も男性が汲むのがしきたりとなっていますが、これも男性が汲まなければ縁起が悪いというわけではありません。 これらを、京都人の持ってまわったいじわるな表現だと思われる方もあるかもしれませんが、あえていうなら京都人の持ってまわった優しさとでもいえるでしょう。 ささいなことにも二重三重の意味があり、それが京都人の知恵として強く根付いていることで、逆に人間関係を大変楽にしてきたと言えるのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

吉例顔見世

吉例顔見世

京都の年の瀬は、南座の顔見世とともにやってきます。 今年は中村雁治郎改め坂田藤十郎襲名披露もあり、役者名を独特の字体で書かれた「まねき」が南座に上れば、京都の人は年末を実感します。 今月は、吉例顔見世興行についてお話します。 南座といえば顔見世、顔見世といえば南座と、格別の歌舞伎ファンでなくとも年中行事となっているのが京都の顔見世です。 そもそも顔見世とは、向こう一年の新しい役者の顔ぶれを披露するための興行でした。 歌舞伎役者は元禄の時代(一六八八~一七〇三)頃までに、各座と役者が一年ごとに契約を交わす制度となり、その契約更改が年の瀬を前に行われました。 毎年、人々は「今年はどんな千両役者が誕生するのだろう」「どんな大スターが南座に来るのだろう」と噂しながら吉例顔見世の幕が開くのを待ったそうです。 つまり歌舞伎の世界では、顔見世が一年の最初の公演であり、新しい年の幕開けなのです。  ですから、顔見世は京都に限ったことではなく、歌舞伎の世界の慣わしだったのです。 しかし、役者と劇場の一年契約制度が寛保年間(一七四一~一七四三)には崩れたようで、その後も顔見世興行は続いていたものの、江戸では幕末期に姿を消してしまいました。 でも、京都の南座だけは顔見世の伝統が脈々と守られ、それが今日あるというわけなのです。(現在は各地で再び顔見世の名が復活しています) こういう歴史を知れば、「まねき」に名題以上の役者名が上がる意味や、正面屋根上の櫓と天に伸びる二本の梵天、それに劇場前を飾る大提灯も顔見世において新調され、それから一年を通じて使用される意味がわかります。 南座は顔見世において、一足早いお正月を迎えているのです。 とくに神が降りるという梵天は、古法にのっとって精進潔斎をし、昔ながらの美濃紙でつくられています。 他の劇場ではプラスチック製の梵天がまかり通る中で、南座だけの伝統です。 そして「まねき」もまた、南座だけのものです。 「まねき」書きは、一人の職人の手によって五日間で約五十枚の役者名が書き上げられます。 その文字は独特の勘亭流で、観客が隙間なく入りますようにとの願いを込めて、内へ内へと巻き込むような字体です。 字を書く墨は、酒で薄めて使います。 長さ一・八メートル、幅三十二センチの檜の大板に書く時間は、一枚約二十分だそうです。 字の勢いが命なので、筆の動きはかなり早いのですが、書き損じは許されないので、当世ただ一人の「まねき」書きなのだそうです。 石屋のないしょ話でした・・・。

しつけ

しつけ

最近は、公共の場などで他人の迷惑を顧みない行動をする人達が多いように思います。 今月は、京都の「しつけ」についてお話します。 京都では、親が子供を叱る時に「○○さんに怒られるからやめときなさい」という言葉をよく使います。 これは、地方の人には責任転嫁しているように聞こえるらしいのですが、そうではありません。 本当は、人様に迷惑がかかるからいけないという意味で使われる、強い叱りの言葉なのです。 例えば、他のお家で子供が走り回ってる場合、「○○さんが怒られるからやめなさい」と言うのですが、子供が走り回ること自体が悪いと言っているのではなく、走り回ることで人様に迷惑をかけることになるからいけないと、しつけているのです。 親子で買い物に行って、店内で子供が商品を触ろうとした場合でも、「お店の人に怒られるからやめなさい」と叱ります。 子供もこう怒られることで、感覚的にお店に迷惑がかかるのだということを理解するようになるのです。  万が一、子供が触ったことで商品が破損したような場合、子供の対して「誤りなさい」と強く叱る方もおられるでしょうが、京都の親は子供に謝らせる前に、まず親がきちんと謝るのです。その方が人様に対するより深い謝罪だと思っていますし、子供も真剣に謝罪する親の姿を見て、本当に深く反省するようになるのです。 親は親、子供は子供といった考え方ではありませんので、現代的ではないかもしれませんが、これが京都のしつけなのです。  京都の町は、人様の目を意識したり、意識させることで、どういうことが人様の迷惑になり、何が人として恥ずかしいことなのかを自然と覚えられるように子供をしつけてきました。 この言葉は、子育ての一つの知恵ともいえますが、こんなところから、京都の子供達は京都人としての素地をしっかりと身につけていくのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

冥加に悪い

冥加に悪い

最近、「もったいない」という言葉が見直されています。 今月は、京都で使われている「冥加に悪い」という言葉の意味についてお話します。 「もったいない」とちょっとニュアンスは違うのですが、「冥加」というのは神仏のご加護(助け)という意味です。 京都では「そんなことをしたら冥加に悪い」とか「冥加につきる」など、この「冥加」という言葉をよく使います。 「冥加に悪い」とは、物を粗末に扱ってはいけない、そんなことをすると神仏のご加護がうけられない、もっと倹約しなさいという意味で使われます。 主に、大人が子供に対して使う言葉だといえるでしょう。  他府県の人からみれば、京都人のこういうところをケチくさいと思われるかもしれませんが、これはケチなのではなくその根底には例え紙一枚でもそのものが生きていると考えなさいということなのです。 不思議な縁で手に入れた品、そこに冥加という神仏のご加護や恵みがあって、はじめてその人の努力が実り、仕事や勉強ができるようになると考えたのです。 もし仮に、何かが壊れて捨てなければならなくなった時、その捨てる物に感謝の念を持って捨ててこそ、神仏のご加護がうけられるのです。  この、自分が手にした品物に生命を吹きかけ、その物自体が喜びを感じるくらい大事にしなさいという考え方は、使い捨てが当たり前になるつつある今日だからこそ、今一度見直すべきなのではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

送り火

送り火

夏休み・お盆休みを利用して、京都に旅行に来られた際に大文字の送り火をご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか? 今月は「大文字の送り火」についてお話します。  毎年八月十六日、夏の夜空に燃え上がる大文字。 全国的にも有名ですが、これは決して京都の夏の夜の観光イベントではありません。 お盆の最後の行事である、ご先祖様をお浄土にお送りするための仏教行事なのです。 他府県の方は、この大文字の送り火のことを「大文字焼き」などと言われますが、送り火は山焼きではありません。 ご先祖様をお送りするために灯す清らかな「火」なのです。  大文字のことを「五山の送り火」というように、「大」の文字(如意ヶ岳)だけでなく、「妙」「法」(松ヶ崎)・船形(船山)・左大文字(衣笠山)・鳥居形(嵯峨鳥居本)と、西へ西へ次々と点火されるのです。 昔はこの他にも「い」・「一」・「竹に鈴」・「蛇」・「長刀」などがあったと伝えられています。 おそらく、それぞれに仏教的な意味があったのでしょう。  送り火の点火に用いられる護摩木に、姓名・年齢などを書いておさめると厄除けになると言われています。 消し炭を白い奉書紙に巻いて水引をかけ、家に吊るしておくと、盗難除けのお守りになる・煎じて飲めば腹痛が治まるとも言われています。 また、盃に水を入れ、大文字の「大」の字を映して飲むと願い事が叶う・無病息災に暮らせるとも言われています。   石屋のないしょ話でした・・・。

うなぎの寝床

うなぎの寝床

最近は町家がブームになっており、町家を改造した飲食店や、町家をウィークリーマンションやホテルとして貸したりしているところもあるそうです。 今月は一般的な町家のつくりである「うなぎの寝床」についてお話します。 京都の住まいは「うなぎの寝床」と言われているように、間口がせまく奥行きが深くつくられています。 もともと京都は商人の町でしたので、玄関横の格子をはずせばすぐに商売ができるように考案されていました。 それにより、のれん一枚を吊るすことで店と生活の場を区切ることも可能だったのです。 普段このような住居に住んで生活している京都の人には気がつかないことかもしれませんが、このつくりは様々な儀式(結納・結婚・葬儀・年忌など)を行う上で、大変利にかなったものになっているのです。  例えば、結納の日を想定してみると、結納揃えを飾りつける場所・仲人・両親の座る位置・目録を受け取り受書揃えを準備する部屋など、全ての作法が潤滑に運ぶよう考えられているのです。 また、親族が大勢集まる年忌など大広間が必要なときには、襖を取り除き、お仏壇を中心にお坊様を囲んで皆が集まり手を合わせられるよう配慮されているのです。  京都の住居は風通しや採光・トイレの位置が悪いなど、色々な欠点があるように思われていますが、住む者にとってはそのような欠点に気付かないほど住みごこちが良いのです。 その家にとって大事な日(儀式の日)を最優先した家づくり、その先人の知恵の結晶がこの京都の住居を誕生させたのだと思われます。 京都の町家は動線が悪いからこそ他人から家を守ることもできますし、またその反面、他人との交流がしやすいつくりでもあるのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

祇園祭

祇園祭

今月の14~16日は、京都市内の各山鉾町で祇園祭の宵山が行われ、17日には山鉾が巡行します。 今月は京都の三大祭りの一つである祇園祭についてお話します。 祇園祭といえば、今では動く文化財とか動く芸術品と言われ、何となく観光ショー化してしまった部分もありますが、もともとは平安建都後、京の都に大流行した疫病を追い払うために、町衆が寄り集まって知恵を出し合い、自分たちの為に自分たちの力で作り上げた祭り(神事)なのです。 それから千有余年、今なおこの祇園祭に携わっている町衆の心意気というものが感じられ、そこに、この祭りを現代まで受け継ぐことができた大きな要因があるように思います。 数年前の話ですが、山鉾巡行の道である御池通りでは、地下鉄の工事が行われていた為、御池通りは巡行できないのではないかと思われていました。 しかし、前日まで路上にあった全ての物を取り除き、無事に山鉾は通過できたのです。 山鉾を通す為だけに、わざわざ工事の物を取り除くなんてと思われる方もいらっしゃるでしょうが、それほど京都の人々にとって祇園祭は特別なものなのです。 ちなみに、山鉾巡行の順番を決める為に、毎年京都市の市議会議場に紋付姿の鉾町の代表が集まり、くじ取り式が行われます。 そして巡行当日、京都市長が当時の装束に身をかため、そのくじを改める大役(奉行の役)を演じます。  祇園祭ほど長い期間にわたって無駄の限りをつくした祭りはないと言われていますが、その無駄の中から、人々とのふれあいを・心のゆとりを生んできたのです。 山鉾をただ見上げて眺めるだけでなく、こうした鉾町の町衆の思いや、京都の人たちの祇園祭に対する思いに心を合わせてみると、また少し違った思いで山鉾を見ることができるのではないでしょうか・・・? 石屋のないしょ話でした・・・。

おため

おため

皆さんは「おため」「おうつり」という言葉をご存知ですか? 結婚・出産・新築などのお祝いのときに頂いたお祝い金の一割を返礼としてお返しすることをさす言葉なのですが、今月は「おため」「おうつり」についてお話します。 こういった作法は京都だけに限ったものではなく、全国各地にもみられます。 ただし、大阪や滋賀など一部の地域を除いて他府県ではお金を返すという風習はないようです。 例えばご近所からお菓子などを頂いた時、その器に半紙を入れて返されるといったことは、どこの地方でもあると思いますが、その時の半紙(和紙)のことを「おため紙」と言い、「溜め紙」「御為」とも書き表します。 また、この紙のことを「移利紙」とも言い、婚礼時のものに限っては「夫婦紙」「和合紙」「抱き合わせ紙」とも言われています。 今日では、その言葉の混乱を無くすため、一般的に紙のことを「ため紙」、一割を封入するお金を包む紙のことを「うつりの金封」と呼んでいます。    京都では、結婚・出産・新築などのお祝いを頂戴すれば、一帖(二十枚)の半紙と共にお祝い金の一割を金封に封入し、その場でご持参された先様の広蓋や進物盆に入れてお渡しします。 おため紙をお渡しするということは、「当方に祝い事があれば、その折には今お渡しした紙に包んでお祝いしてください」ということを表現しており、「お宅様と当方とは、これから先も縁が切れないよう、お付き合いを続けていきましょう」という思いを半紙一帖に託しているのです。 一割を封入した「うつり」の金封も同じで、「当方の慶び事の縁が、お宅様にもうつりますように」といった意味が込められているのです。   また、祝い金の一割を封入することは、返礼として頂いた「おうつり」の金封の中に千円札が入っていれば、間違いなく先様に一万円のお祝いができたという確認ができるからでもあるのです。 「おため」「おうつり」は、先様の心を気持ちよく頂戴するために考えられたものであり、人と人とのつながりの大事さ、大切さを伝えていくためのものでもあるのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

お箸の作法

お箸の作法

皆さんは外食した際、食べ終わったお箸をどうしていますか? 今月は使い終わったお箸の作法についてお話します。 食べ終わった後のお箸は、お箸紙がある場合必ずお箸紙におさめなくてはいけません。 これは他人を不愉快にさせないための小さな気配りなのです。 どうせ捨てるものなのだからそこまでしなくても、と思われるかもしれませんが、汚れたお箸を他人に見せるというのは決して美しいことではありません。 正式な作法では、お箸をお箸紙におさめてから、使用したことを表すためにお箸紙の端を少しだけ折り曲げておくのです。 昔は使い終わったお箸は必ず折らなければいけないといった作法もありましたが、これはお箸はその人だけのもので、他の人が同じものを使ってはいけないという約束ごとがあったためです。  しかし折るという行為そのものに美しさを見出せなかったことや、折らないことにより、決して使いまわすようなことをされないという相手への信頼を表す意味が生まれ、この作法はだんだん無くなってきたのです。 お箸をお箸紙におさめるのはもちろんのこと、器も元通りにきちんと並べておくぐらいの気配りは心得ておくとよいでしょう。 ちなみに使った爪楊枝もお箸紙の中に入れておくのが作法です。 例え「ごちそうさまでした」と手を合わせなくても、食せた感謝の心だけは持っていたいものです。 石屋のないしょ話でした・・・。

十三詣り

十三詣り

今月の13日は、数え年で13歳のなった子供が嵐山の虚空蔵法輪寺などにお参りする十三詣りの日です。 今月は別名「知恵もらい」とも言われている「十三詣り」についてお話します。  皆さんの中でも十三詣りに行った方は、「渡月橋を渡りきるまでに振り向いたら、もらった知恵を返してしまうから振り向かないように」と注意された覚えがあるのではないでしょうか? この言い伝えは京都では大変有名なものですが、これは伝統や信仰といったものではなく、子供に対するしつけ(作法のはじまり)なのです。 昔は十三詣りに行くと、お寺の境内で十三種のお菓子を買い求め、菩提様にお供えし、それをお下がりとして頂いていたそうです。 そのお菓子を境内を出るまでに全て食べきらないと授かった知恵を返してしまうとも言われていました。 小さな子供はお菓子を頂いてもなかなか食べられなかったり、まっすぐ前を向いて歩かなかったりするものです。 そこで「知恵を返してしまいますよ」ということで、もう十三歳にもなったのだから、世の中の決められた約束事(作法)は守らなければいけないというしつけをしてきたのです。   十三詣りという儀式は、虚空蔵菩薩様の縁日にあたる旧暦の三月十三日に、数え年で十三歳になった子供(現在では男女共)の大人の仲間入りを祝い、心身ともに健康であるようにと祈り願う習わしとして生まれ、今日まで伝わってきたものです。 またこの十三詣りは、もともと皇族の方々の行事だったものが民間に広まったもので、本来は男の子の行事であったともいわれています。 石屋のないしょ話でした・・・。

お朔日のおかず

お朔日のおかず

先月は京都の商家の豆まきについてお話しました。 今月は商家のお朔日おついたち(一日)のおかずについてお話します。  商家にとってお朔日というのは、一般の方の元旦と同じくらいの思い入れがあり、今月もお朔日を迎えられたという喜びと、またこの一ヶ月うまく商売ができるようにと願いを込める大切な日なのです。 この日商家では、豆に働けるようにと豆ごはん・「あらい・め」(仕入れ値と売り値の差が大きく、利益があがること)がでるようにあらめを食べる風習があります。 ちなみにこのあらめを炊いた時に出る黒い煮汁をまく風習もあります。 これはお客様におみえいただく門口に「あらい・め」がでるように、商売繁盛を願ってまくのです。 また、きわの日(月末)のことは「晦つごもり」(十二月三十一日は大晦おおつごもり)と言い、特に忙しい日なので、すぐに食べられるおからを煎る風習があります。 おからは炊くとは言わず煎るというため、「日銭が入る」にかけ、うまく集金できるように験をかつぐのです。 おからを「きらず」というところから、「お金がきれないように」ともいわれています。 このように京都の商家では月初めや月末を大切に考え、食べるものを決める風習があります。 しかし商家にかぎらず、一年を通じて食べる日が決まっているものもたくさんあります。 一月七日には七草粥・一月十五日の小豆粥・二月節分のいわし・六月三十日の水無月・七月土用のうなぎ・八月お盆の精進料理・九月お月見のお芋・十二月八日の針供養のこんにゃく・十二月二十二日冬至のかぼちゃなど、その日に食べる云われがあります。 二月のいわしと六月の水無月については、「石屋のないしょ話」vol.23とvol30でお話していますので、ご覧下さい。  石屋のないしょ話でした・・・。

大福茶

大福茶

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2005年一回目の《石屋のないしょ話》は、お正月に飲まれる大福茶についてお話します。  お正月にお屠蘇をお飲みになる方も多いと思います。 しかし京都では例えお屠蘇を準備されても飲まない方が結構いらっしゃいます。 それはお屠蘇というものが、もともと薬であったために、元日から薬を飲むのは嫌だという発想からきているのです。 「年の初め」「月の初め」「日の初め」である元日に薬を飲むと、一年中薬を飲まなくてはいけないというところに由来しているのです。   「大福茶」とは、煎茶の中に小さな昆布と小梅が入った縁起の良いお茶のことです。 昆布は喜ぶに通じ「子生婦」とも書き、子孫繁栄を願うもので、梅は春に先がけ一番に花を咲かせ実を結ぶものとして尊ばれ、お茶そのものは葉の緑が色を変えぬところから、意思の強さを大地にしっかり足をつけて生き続ける験の良いものとして、この三つを合わせてお祝いするのです。 もともとこれは皇族や公家の飲み物で、今では「大福茶」と書きますが、歴史的には公家の場合は「皇服茶」、一般的には「王服茶」と書かれたそうです。  石屋のないしょ話でした・・・。

節分

節分

年が明けたと思ったら早いものでもう節分です。 節分の豆まきの時に大きな声で「鬼は外、福は内」というのは皆さんもご存知のとおりですが、京都の商家では「福は内、鬼は内」というのはご存知でしょうか? 今月は節分についてお話します。  「福は内、鬼は内」この「オニは内」のオニとは大荷と書き、大きい荷物を意味しています。 大荷を遠ざけていては商売が成り立ちません。 大荷は内に入ってこそ商売繁盛となり、それが商うための第一歩だと考え「大荷は内」と言うのです。 いわば一種のこじつけですが、こんな些細な言葉な中にも商売人の切なる願いが込められているのです。 京都の商家にはこんな言い伝えがたくさんありますが、その一つをお話します。 節分のこの時に二升五合の豆を煎るとか、一升枡二個に五合の豆を準備し神棚にお供えするといったことがあります。 これはいずれも「ますます、はんじよう(枡々半升=益々繁盛)」という意味になります。 そしてその豆を神棚から下ろして自分の数え歳より一つ多くの豆を食べ、それと同じ数の豆を半紙に包みます。 それから豆まきが始まるのですが、一ヶ所でまくのではなく、家中歩き回ってその場を清め、この一年のご加護と無病息災を祈るのです。 豆まきが終わると、先ほど半紙に包んでおいた豆を家族みんなで近くのお地蔵さままでお供えに行き手を合わせるのです。 もともと豆をまくのは魔の目(豆)が悪いものを退治するためだと言われていますが、宮中では豆をまかれず桃の実を投げられたそうです。 桃の実は伊弉諾命いざなぎのみことが黄泉の国で追っ手を追い払うために桃の実を投げて難を逃れたという神話に由来し、古来より邪気を払い、かつ不老長寿の薬とも考えられてきたのです。 京都では、豆まきだけでなく、聞鼻かぐばなという鬼を退散させるため、鰯の頭を柊の枝にさして門口にかかげたり、節分の夜に鰯を食べる風習もあります。  石屋のないしょ話でした・・・。

年越しそば

年越しそば

時が経つのは早いもので、今年ももう終わりです。 大晦日といえば年越しそばです。 今月は年越しそばについてお話します。 大晦日にお正月を迎える準備をしながら食べるそばの味には格別のものがあります。 老舗のそば屋さんの繁盛ぶりも、毎年必ずテレビで報道されています。 このように年越しそばを食べて送る大晦日の風景は、明治・大正の頃も同じだったようです。 年越しそばは江戸中期からの風習であるらしいのですが、この風習が全国に広まったのはずっと後のことだそうです。 江戸後期の桑名地方では、年越しそばを食べるのは毎年恒例だったそうですが、柏崎の方ではその風習はなかったようなのです。 また大阪では、麦飯と赤鰯を食べていたそうです。 年越しそばの由来に次のような説があります。 鎌倉時代に宋の国から博多に来ていた謝国明という貿易商が、年末貧しい人々に「そばがき餅」をふるまったところ、翌年は運が向いてきたというので、毎年「運そば」を食べる習慣ができたというのです。 しかもそばの実は三角形の面でできており、古来から三角形は邪気を払うとされていたので、そばは縁起の良い食べ物と考えられていました。 そこで無病息災を祈って大晦日にそばを食べたというのです。 またある説によると、江戸時代では麺になったそばは「そば切り」と呼ばれたそうです。 これは細く長いので、長寿で身代が長く延びるようにと食べられたというのです。 これらの他にもまだまだ説はありますが、人々は色々な名称をつけ、それぞれの理屈に納得しながら食べ、新年の活力をそばからもらっていたのではないでしょうか・・・? 石屋のないしょ話でした・・・。

喪中はがき

喪中はがき

11月に入り、文房具屋さんや印刷屋さんの店頭に「喪中はがき予約承ります」のポスターが目に付くようになりました。 しかしあまり早くから喪中のはがきが来るのはおかしいのです。 今月は「喪中のはがき」についてお話します。 もともと喪中のはがきというのは「当方は現在喪に服しておりますので、新年のご挨拶をご遠慮させていただきます」という意味なのです。 「当方は喪中ですからお祝いの挨拶をしないで下さい」とお断りをしているのではありませんので、作法上は12月13日の事始め以降に出すべきものなのです。 ところが最近では、10月の初め頃から店頭に喪中はがきの受付のポスターが出始め、「相手様が年賀状を書かれないうちにお出し下さい」などの説明がなされているため、多くの方が誤解をなさっているのです。 以前は「喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮させていただきます」という文章だけだったのですが、最近は「○月○日の○○が死亡しました」と付け加えられるようになり、住所・氏名・電話番号まで書き添えられているのです。 喪中のはがきは○○が死去したという告知をするためのものではありません。 喪中のはがきは先様に対する気配りとして始まった作法ですが、いつのまにか自分の都合を主張するだけのものに変化してしまいました。 今一度、喪中のはがきを心の問題として考え直し、ゆがめられた作法を修正することも必要なことではないでしょうか・・・。 ちなみに、先様が喪中とは知らず年賀状を出してしまった場合には「存じ上げず失礼致しました。お寂しいことと拝察致しますが、どうぞ御身お大切に・・・」と書かれてお出しになれば、形だけでなく心と心の交流ができると思います。 石屋のないしょ話でした・・・。

一見さん

一見さん

京都のお店は「一見いちげんさんおことわり」が多いというイメージを持っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか? 今月は「一見いちげんさんおことわり」についてお話します。  「一見いちげんさんおことわり」とは初めてのお客様だけでのご来店はお断りしますという意味で、主に祇園のオ茶屋さんなどで行われているシステムです。 表面的にはお客様を差別しているようにとらえられるかもしれませんが、本当はお客様により満足して頂きたいという京都商法の原点ともいうべきものなのです。 京都はお馴染みさん・ご贔屓さんといわれる顧客をとても大事にするところで、大切な時間をさいて来て頂いたお客様に楽しいひと時を過ごして頂けるよう最大限の努力をするのです。 そのために一見いちげんさんをお断りしているともいえます。 商売の常道からいえば、不特定多数の人々にご来店頂き、売り上げを上げることが最も大切だと考えられがちですが、そこには本当の意味でのサービスが存在しないと京都の商売人は思っているのです。 京都でいうところの本当のサービスとは価格競争でもなく、うわべだけの美しい言葉や笑顔でもありません。 お客様の好みなどをしっかり把握し、その人に合わせた応対・おもてなしをさせて頂くのが最高のサービスなのです。 つまり、お客様のお好みのお部屋を用意し、掛け軸や花を選び、そのお客様が本当にご満足して頂けるように心くばりをするのです。 一見のお客様を粗末にするということではなく、一見さんにはおもてなしをするデータがないのです。  京都の商売は一過性のものを好みません。例え細々であっても長く続けていくことが一番大切なのです。 お客様とのお付き合いを長く続けていくことに神経を使い、そのお客様のご要望にお応えしていきたいと願っているのです。 サービスがマニュアル化されすぎた近頃ではこういったサービスの心と知恵を的確に把握することが大切なのではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

中秋の名月

中秋の名月

最近は朝夕と涼しくなり、秋の気配を感じている方も多いのではないでしょうか? 今月は中秋の名月にちなんでお話します。  皆さんは「月々に月見る月は多けれど、月見る月はこの月の月」という歌をご存知でしょうか? この歌は、もともと中秋の名月(陰暦の八月十五日)に宮中で女官たちによって唄われたもので、歌の作者は不詳ですが、昔は芋に箸で穴を開け、その穴から月を覗いてこの歌を詠まれるしきたりがあったそうです。   京都ではこの月の宴のことを芋名月ともいい、芋をお月様にお供えしたり、その芋を食べたりする風習がありました。 また陰暦の九月十三日の宴は豆名月と呼ばれ、豆をお供えしたり食べたりしたそうです。 お月見といえば必ずススキの穂が登場しますが、お月見にススキを生けるのはススキを稲穂に見立てて、やがて来る今秋の米の豊作を祈る収穫の予祝(前祝)のためであるともいわれています。 初日の出を含めてお日様(太陽)を拝むという風習は全国的にありますが、お月様を拝むというのは、おそらく京都だけではないかと思います。 京都の人たちは月に対する思い入れが強く、古来より月を神佛とも思ってきたのです。 日本では約百年前まで月を中心とした太陰暦を使っていたのは、皆さんご存知のとおりです。 月日という言い方そのものが月が日よりも上位と考えてきた一つの証だとも思います。 陰陽道では、太陽が陽で男性を表し、月が陰で女性を表すといわれています。 女性が月を拝むというのは、自分の身体を労わる一つの信仰だったのかもしれません。  京都では今もまお、平安時代より月の名所といわれた右京区の大覚寺・大沢の池での観月の宴をはじめ、様々な場所で月見の宴が催されています。 皆さんも日常の喧騒からはなれ、ゆっくりと夜空の月を見上げてみてはいかがでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

地蔵盆

地蔵盆

京都に生まれ育った方なら、子供のころ夏休みになると「地蔵盆」を楽しみにしてた方も多いと思います。 今月は「地蔵盆」についてお話します。 京都には「地蔵盆」という仏教行事があり、人々には親しみを込めて「お地蔵さん」と呼ばれています。 むかし大津の三井寺に常照というお坊さまがおられましたが、三十歳の若さで亡くなられ、お坊さまなのに地獄に堕ちられました。 地獄に堕ちて苦しんでおられるお坊さまの前にお地蔵様が姿を現され「お前は小さい時によく私を拝んでくれた。 極楽に行かせることはできないが、もう一度人間界に戻してやるので、世のため人のために役立つ人間になりなさい。」と言われ、お坊さまを生き返らされました。 その日が八月二十四日であり、地蔵盆のいわれとされています。 京都では地蔵尊の縁日にあたるこの日を中心に各町内ごとに行われ、お地蔵さまの顔を絵の具で綺麗にお化粧し、お供え物をあげ、町内の子供の名前を書き入れた提灯を吊り下げてお地蔵さまを祀ります。 そしてお地蔵さまの前で大きな子供も小さな子供も一緒になって遊んだり、大人に混じって車座になり大きな長い数珠をまわしたり、お菓子をもらったり、福引などをして楽しい二日間を過ごします。 大人は子供たちを楽しませるために色々と趣向を凝らします。 子供たちはそんな大人たちの温かい心を子供なりに感じながら、成長し大人となり、またその子供たちへと受け継いでいくのです。  京都の子供たちはいつもお地蔵さまを身近に感じながら、自然に仏さまの教えに慣れ親しんできました。 ところが最近は子供たちの縦わりの絆を深める地域のコミュニケーションの場である「地蔵盆」も衰退しつつあり、お地蔵さまの存在も希薄になってきているように思われるのが残念でなりません。 今一度、「地蔵盆」が仏教行事であることを確認する必要があるのではないでしょうか・・・?  石屋のないしょ話でした・・・。

水無月

水無月

六月三十日は「夏越の祓」でした。 神社の境内に設えられた大きな茅の輪をくぐって無病息災を祈り、水無月を食べた方も多いのではないでしょうか? 今月はこの「水無月」の形についてお話します。  京都では、「夏越の祓」の日に「水無月」を食べると厄払いになると言われています。 水無月とは旧暦六月のことですが、今回お話する「水無月」は六月のお菓子です。 直角二等辺三角形のしんこ餅で、表面には小豆がたっぷりとのっています。 三角形の和菓子も珍しいのですが、この三角の形は氷室から取り出された氷をかたどったものなのです。 『枕草子』の一節に「あてなるもの(上品なもの)。 ・・・けづりひ(削り氷)にあまづら(甘葛)入れて、あたらしきかなまり(金鋺)に入れたる」とあるように、清少納言は今から千年以上も昔にの平安時代に削り氷に甘いシロップをかけたカキ氷のようなものを夏の涼味として味わっていたのです。 その氷は洛北の山中に設けられた朝廷直属の六つの氷室から、天皇の食膳に供するために献上されていました。 冬の間、氷池で氷が製造され、山かげに掘った氷室で大切に貯蔵され、四月から九月の終わりまで吉日を選んでは宮中に運ばれていました。 そして六月一日宮中では、献上された氷を臣下に分け与える「賜氷の節」という節会が行われていました。 これにちなんで氷の形を模した三角形に作られるのが、「水無月」なのです。 氷室は京に都がやってくるはるか昔、大和の時代からあったらしいのですが、京の氷室は平安京の造営とともに都の周辺六ヶ所に設置されました。 五ヶ所は失われてしまいましたが、京都市北区西賀茂氷室町にある栗栖野氷室は現在ただ一つ残っている氷室です。 石屋のないしょ話でした・・・。

家紋

家紋

最近は和のテイストを取り入れたファッションなどが流行っています。 ある有名ブランドのロゴも、日本の家紋が元になっているのだとか・・・。 今月は「家紋」についてお話します。 本来「家紋」というものは、平安時代の公家の牛車や輿が他の人のものと区別できるように目印として文様をつけたものが、その始まりと言われています。 それがやがて武士の世界にも広がり、旗や幕をはじめ、裃かみしもや羽織などの衣服・調度品にも家紋が描かれるようになったのです。 一般庶民が広蓋や袱紗などに紋をつけるようになったのは、明治になってからのことです。  商人の町であった京都で、商う店を代々受け継いでいくことは、自分たちの生活を守るだけでなく人々の生活をも支え、ひいては京の都を形成し守っていくことでもあったのです。 親から家紋をもらうことで、店(家)を継ぐ責任感が同時に芽生えるのです。 むかし京都では、提灯と紋付の服・雑煮椀などで紋を伝えてきました。 今では広蓋・袱紗・風呂敷が代表的なものですが、京都は紋を伝承する方法を持っています。 普段は家紋の入った品を目にふれないところにしまっておき、何か事がある時に取り出し大事に扱うことで、単なる装飾品ではなく、大切なものとして伝承できるのです。  紋には男紋と女紋があり、男紋は家庭紋とも言われ、代々その家に伝わってきたもので、女紋は女性個人のもので、母親の紋を継承したり、お嫁入りの時に新たに定めることもあります。 このお嫁入りの時に作られる紋付(喪服)は、地方によって嫁ぎ先の女紋や男紋を入れたりしますが、京都では必ず花嫁の実家で定めた女紋をつけて嫁いでいきますので、実家に事があれば、その衣服の紋を見ることで「この人はこの家から嫁がれた」ということが一目でわかります。 京都で生まれた家紋は、千二百年の歴史を経て今なお家族や親族の絆を守り、人々との交流を深め、都を支える大事なものとして、生活の中にしっかりと根をおろし生き続けているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

熨斗

熨斗

人様にものを贈る時または頂いた時に目にする「熨斗のし」ですが、皆さんはこの「熨斗」が何のためについているかご存知ですか? 今月は熨斗についてお話します。 本来「熨斗」は鮑貝の肉を長く延ばしたもので、「長く延ばす」ということから延命に通ずると言われ、古来より長生不死の妙薬として珍重されてきました。 大切な進物品やおめでたい儀式には必ずこの熨斗あわびが添えられていますが、「のし」を添えるというのはその品は真新しくて新鮮なものですという表現でもあります。  私たちが日常で目にするのは、扇形をした紙折の中に小さな干しあわびを模したものを差し入れたもので、時代と共にその形は美しく整えられ変化してきましたが、先様の健康と長寿を祈るために用いられていることには昔から変わりはありません。 ところが数年前からお見舞いを贈る時にはこの「のし」をつけると病気が長引くので「のし」をつけないで贈るという風潮があります。 しかし「のし」は長生不死の薬であり、延びるのは病気ではなく命なのです。  本来、先様に元気を出してもらうための薬であった「のし」が、いつの間にかその本質を見失い、間違った理由をつけられ、今では「のし」なしの金封が販売されるようにさえなりました。 作法上では、いかなるお見舞いであっても「のし」をつけるのが正式であり、先様に対する最高の気配りなのです。 進物の金品に「のし」を添えないのは、仏事作法の関する場合だけです。 それは「のし」が「なまぐさいもの」であるからです。 石屋のないしょ話でした・・・。

鍾馗さん

鍾馗さん

日中は暖かい日も増えてきて、春が待ち遠しい今日この頃です。 気候が良くなってくると、散歩に出かけられる方も多いのではないでしょうか? さて、今月は昔ながらの町並みを歩いていると目にする、「鐘馗しょうきさん」についてお話します。 京都の中京や西陣など昔ながらの町並みを歩いていると、町家の屋根瓦の上に瓦人形が置いてあるのをよく見かけます。 この瓦人形は「鐘馗しょうきさん」と呼ばれており、姿や形は様々ですが、二~三十センチ程の高さで、右手に太刀を持ち、前方をにらみつけています。 なぜ屋根の上に「鐘馗さん」を置くようになったのでしょうか? むかしむかし三条のあたりに薬屋さんが大きな家を建てたそうです。 その屋根に大きな鬼瓦を置いたところ、その瓦を見た向かいの家に住む娘さんが、その鬼に睨まれているような気がして毎晩うなされ、ついには病気になって寝込んでしまったそうです。 心配した両親はあれこれ手を尽くしましたが一向に良くならないため、向かいの薬屋さんに鬼瓦を取り外してくれるようにお願いしましたが、大金を払って苦心して取り付けた鬼瓦だから外せないといわれたそうです。 そこで鬼に勝つものは何かと考え、「鐘馗さん」ならということで「鐘馗さん」の形をした瓦を瓦屋さんに作らせたのだそうです。  「鐘馗さん」とは、そのむかし唐の玄宗皇帝が病に伏した時に、夢の中で鬼が楊貴妃の宝物を盗もうとしたところ、そこに出てきてその鬼を退治した伝説の人物です。 寝込んだ娘さんの両親がその物語にならって「鐘馗さん」を鬼瓦に向けて置いたところ、娘さんの病気はすっかり治ったそうです。 これが「鐘馗さん」を屋根の上に置くようになった云われです。 もちろん鬼瓦も魔除けなのですから、「鐘馗さん」はこの鬼瓦に対して二重の防衛として創られたことになります。  しかし現在では向かいの家の鬼瓦に対抗しているわけではなく、自分の家にふりかかる邪気から守るために取り付けられているのです。  ちなみに鬼門に植えられる南天や桃の木なども、これと同じ意味があります。  石屋のないしょ話でした・・・。

座布団

座布団

あちらこちらで桜が咲き始めました。 この春から新しい生活が始まり、改まった席におよばれされる機会が増えた方もいらっしゃるかと思います。 今月は座布団のお作法についてお話します。 ふだん私たちが何気なく使っている座布団ですが、表裏・前後があります。 座布団は「わさ」(輪)になっているところが一ヶ所あり、それが前です。 あとの三ヶ所には必ず縫い目があります。 表裏については一般的に房のある方が表で、〆糸がある方が裏なのですが、最近は両面に房がついたものが多く、一目見ただけでは表裏の判断が難しくなっています。 この場合は座布団の柄を見れば簡単に分かるると思いますが、無地のものは縫い目で判断します。  お作法上座布団の裏側を使うことはありません。 自分の使用した座布団を裏返しにして他の人に出すという行為は、大変失礼なことです。 他の人に座布団を渡す際は、形を整えて前後に気をつけて出せばよいのです。 座布団というものは、その人の座るべき位置を示したもので、勝手に動かしてはいけないことになっています。 もちろん正式な口上(結納時の挨拶など)を述べる時には、座布団は決して敷くものではありません。  むかし座布団には畳の下から刃が出てきて敵に襲われた時に、足の保護・防御をする役目があったのです。 ですから他所の家で挨拶をする時に座布団をはずすということは、自分がへり下るという意味だけではなく、私はお宅を信用しています。 という表現でもあるからです。 お茶室では座布団を敷かないことは皆様ご存知の通りです。 それは人を信用する茶道の伝統なのです。 また、むかしは人に座布団を出す時には必ず二つ折りにしたものを広げて出すというお作法がありました。 これは、この座布団には貴方を傷つけるようなものは忍ばせていませんという表現でもあったのです。 足の痛みを和らげるだけが、座布団の効用ではありません。 座布団というものをとおして、相手への信用を言葉ではなく形で表現するというお作法でもあるのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

節分のおばけ

節分のおばけ

年が明けたと思ったら、早いものでもう二月です。 二月と言えば節分です。 今月は『節分のおばけ』についてお話します。   今では殆んど見られませんが、ひと昔前の京都では、節分の日に女性が男性に扮したり、お年寄りが若い女性の格好をしたりして、お宮様にお詣りするという風習がありました。 色々な格好に「化ける」ということから、この風習を「節分のおばけ」と言ったのです。  昔は節分の日に神社にお詣りすると、境内は「おばけ」だらけだったそうです。 「おばけ」になるということは、悪い鬼を化かす為のカムフラージュであったり、自分と違う格好をすることによる厄除けの為であったり、お年寄りが若い格好をする場合は若返りの為であったり、子供が年頃の女性の格好をする場合はして良縁を願う為など、それぞれ意味があったのです。 これは仏事や神事に関係なく、民衆の風俗として広まり、昭和四十年頃までは盛んに行われていました。 「笑う門には)福来る」の諺がこの風習より先にあったはどうかは分かりませんが、色々な格好に化けた姿を見て笑い、その「笑い」で悪いものを追い払うという意味があったのではないでしょうか? 余談ですが節分の日にその年の恵方(今年は東北東)に向かって巻寿司をまるかぶりすると、その年に幸福が訪れるという風習がありますが、巻寿司には「福を巻き込む」という意味が込められていて、包丁を入れると「縁が切れる」という縁起かつぎから、まるごと一本を無言で食べなければいけないと言われているのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

除夜の鐘

除夜の鐘

明けましておめでとうございます。 今年もgood-stoneを宜しくお願い致します。 2004年一回目の《石屋のないしょ話》は、皆さんが大晦日に耳にした除夜の鐘についてお話します。  「除夜」は一年を除くという意味で、ご先祖様をまつり家族が一年間無事に過ごせたことに対して感謝の宴をひらき、夜を通して人々が過ぎゆく年を惜しむということでこの夜を過ごす・・・と昔の本に記されています。 近頃では年末年始の休みを利用して旅行に行ったりする人が増えてきたようですが、ご先祖様への感謝が忘れられているのは悲しいことです。 自分たちのことばかりしか考えられなくなって、直接目に見えないものに対する感謝の心がなくなったとき、幸せは長続きしないのではないでしょうか? お正月もお盆と同様、ご先祖様をまつるときであることを忘れないようにして下さい。  ところで皆さんは除夜の鐘がなぜ百八つなのか、ご存知ですか? 百八つの鐘がつかれるのは、人間の迷い・欲望(煩悩)が百八つ数えられるから、それを一つ一つ打ち消し、浄めるためだといわれています。 人間の煩悩を百八つに数える数え方は『感覚と心の六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)と、それによって感覚され、思考される対象となる六塵(色・声・香・味・触・法)、この六根と六塵が関係しあったとき、そこに好・悪・平(良くも悪くもない)という三種の関係が考えられるから、六×三の十八種の「迷い」がある。 そしてこの十八種にそれぞれ染(迷い)と浄(迷いのない状態)の二つがあるから、十八×二で三十六種となる。 この三十六にそれぞれ過去・現在・未来の三種があるので、合計すると百八になる』という説や、『眼・耳・鼻・舌・身・意の六根に苦・楽・捨(苦楽に関わらない)の三受(心の働き)があって十八。また六根に好・悪・平の三種があって十八、合して三十六種となり、これに過去・現在・未来の三世がそれぞれにあるから乗じて百八となる』という説があります。 これらの説は、人間の心の迷いを三世にわたって数えあげたものですが、この他に百八の数は、一年の十二ヶ月と二十四気・立春・立夏・七十二候の数に応じるという説もあります。いずれにしても来たし方を反省し、これから迎える新しい年に気持ちを引き締めてゆく一つの節として、古人は素晴らしいものを残してくれたのではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

霜柱

霜柱

日中は例年に比べて暖かいですが、朝夕は冷えこんで冬将軍の到来といった今日この頃です。 皆さん風邪には十分気を付けて下さい。 さて今月は、冬の晴れた朝に見られる「霜柱」についてお話します。 霜柱とは土の表面にできた氷の柱です。 しかしどうして水もない土の表面に氷が成長するのでしょうか? それは「冬の晴れた朝」という条件です。晴れているために地表の物体と上空の冷たい大気との間に光を遮るものがありませんから、地表の物体からこの冷たい大気あるいはその向こうの宇宙に向かって赤外線が放射され熱が奪われます。 これを放射冷却といいます。 熱が奪われるのは、石でも土でも落ち葉でも、みんな同じく大気に触れる表面です。 こうして気温に先立って地表の温度が下がります。 寒気が強い場合にはこれらの表面は0℃以下になり、大気中の水分が表面に凍りついて霜になるのです。 土の表面では、霜ではなく霜柱ができます。 しかしなぜ土にだけ霜柱ができるのでしょうか? 霜柱を手にとって観察すると、一番上の部分が必ず薄い土帽子を乗せていることに気が付きますが、この薄い土がポイントです。 この土が宇宙へ向かう赤外線の発信基地なのです。この部分が0℃以下になると、土は水を少し含んでいるので熱を放出することにより水が凍ります。 1㌘で80㌍という大きな熱が放出され、この氷に向かって液体の水がその下の土から流れ込みます。 そして放射冷却が進むにつれて次々と氷が成長し、霜柱となるのです。 土の中を液体の水が流れるのを毛管現象と言います。 毛管現象とは、水の表面張力により土の小さい隙間の中に水が保持されることです。 関東地方の霜柱が特に有名なのは、ときに10㌢にもなる大きな霜柱ができるからです。 これは土が火山灰起源であるため、毛管が発達していて水をよく運べるからです。 しかし、現在でも霜柱ができる現象は、完全に解明されていません。 土の下層から表面の氷に向かって非常に速く水が移動するメカニズムが解ってないからです。 この流れの速さは常温時より数段速いといわれています。 もちろん駆動力は大きな温度差によるのですが、それによって生じるポテンシャル差の大きさや、その時の土の浸透性など、まだ十分に解っていません。 このように、自然界には解明されていない秘密がたくさん残されているのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

お寺の神社

お寺の神社

皆さんはお寺にお詣りした際、境内に稲荷神社があるのを不思議に思ったことはありませんか? 今月は、なぜお寺の中に神社があるのかについてお話します。 平安時代の初めに、天台宗の開祖・伝教大師最澄は比叡山を開くにあたって、この土地に古くから鎮座する地主神である「比叡」の神を丁重にまつりました。 最澄が比叡山の開創に先立って、比叡の神をまつったことは、神仏習合(日本固有の神に対する信仰・神道と、仏教の信仰を調和融合したもので、我が国独自の信仰。 仏教伝来から間もない奈良時代に始まり、平安時代の後期以降は日本の寺社信仰の中心になった。 明治の神仏分離で神道と仏教は一応引き離されたが、現在でも根強い人気があり、山岳修業する山伏なども神仏習合の産物である。)の魁となる出来事でした。  そして平安時代の中頃になると、神社の境内には神宮寺というお寺が建てられ、僧侶が神前でお経を唱え、寺院には神々をまつる神社が建てられるようになりました。 つまり外来の宗教である仏教と日本古来の神道の神が、同じ敷地の中で仲良く暮らすようになったのです。 この不思議な現象を神仏習合といい、時代とともに盛んになっていったのです。 このように神仏が共存する状態は、江戸時代の末まで続いたのです。 しかし明治になって維新政府が神道と国教を定めると「神仏判然令」というものを作り、それまで一緒になっていた神社と寺院を引き離して神道の本拠地である神社の存在を確立させようとしました。 その結果、寺院内の神社や神社内の神宮寺は境内の外に出され、神仏の共存に終止符が打たれたのです。 しかしどうしても神社と寺院を切り離すことができない所もありました。 例えば日光東照宮は二荒山神社・輪王寺とともに二社一寺が渾然一体となっていて、これを完全に切り離すことは不可能でした。 そのため現在でも東照宮の入り口には五重塔が建ち、境内には薬師堂や鐘楼などが残されているのです。   第二次世界大戦後には神道が国教でなくなり、神仏をともにまつることも各寺院の裁量に任されました。 その結果、かつて神仏判然令で移転させられた神を再び観請(他所にまつられている神仏を招いて新たにまつること。 八幡社や稲荷社はすべて宇佐八幡や伏見稲荷の神霊を分けてもらってまつったもの)したり、さらには稲荷などを新たに観請して社を構える寺院が多くなったのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

お彼岸

お彼岸

皆様ご承知のように、お彼岸は春と秋の年二回あり、三月二十一日の「春分の日」と九月二十三日の「秋分の日」が国民の休日となっています。 法律では、春分の日は「生物をたたえ、自然をいつくしむ日」・秋分の日は「祖先をうやまい、亡くなった人をしのぶ日」とされています。 この祝日を中心に前後三日間を加えた一週間がお彼岸で、仏教寺院ではこの期間「彼岸会」や「お彼岸」といわれる法要を行い、亡くなった人を供養します。 また人々はお墓に詣でてご先祖様に感謝をささげます。 この日が一年三百六十五日の中で特別なのは、天文学の上で太陽が真東から真西に沈むからです。 春分の日には太陽は黄道(太陽の通る道)上で北から南へ移動する出発点にあたります。 それを春分点といい、逆に南から北へ移動する点を秋分点といいます。 この太陽の春分点から春分点に戻る一周の三百六十度を二十四等分して、各季節の変化に名称をつけたのが「二十四節気」と呼ばれる中国の暦です。 冬至・夏至・春分・秋分・立春・立夏・立冬などがそれで、太陽の動きで月を中心にした陰暦を修正したものです。 お彼岸は、節分・七夕・お盆・土用などと共に、二十四節気を補うために日本で設けた暦日の一つです。 この暦が便利とされるのは、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、季節の移り変わりがよく分かるからです。 農業国の日本では、春には五穀の種を供えて豊作を祈り、秋には収穫のお礼まいりをします。 この節目に当たるのが、春と秋のお彼岸なのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

四国遍路

四国遍路

最近のバスツアーで人気があるのは、四国のお遍路さんコースだそうです。 一度目はバスで行っても、二度目は自分の足で歩かれる方も多いとか・・・。 さて今月は、四国遍路についてお話します。  四国のお遍路さんがかぶっている笠には、「同行二人」という文字が書かれています。 一人はお遍路さん自身で、もう一人は弘法大師空海です。 四国遍路とは、かつて弘法大師が修業した聖跡を巡る旅なのです。 その旅には常に弘法大師が同行しているという意味で「同行二人」という文字が書かれているのです。 お遍路さんは常に金剛杖という杖を持っています。 これは弘法大師の分身と考えられ、大師の霊力が備わっていると信じられています。 そのためお遍路さんは宿に着くと杖をきれいに拭いて部屋の上座に据え、合掌して一日の無事を感謝し、明日も無事に旅ができるように祈るのだそうです。 四国遍路では、昔から「お接待」と称して土地の人がお遍路さんを手厚くもてなす独特の習慣があります。 人々が率先してこのようなお接待をするのは、生きた弘法大師と共に旅をするお遍路さんに対する尊敬の念からだといわれています。 このようにお遍路さんやお接待をする土地の人が同行二人を信じて疑わないのは、弘法大師が今も生き続けて人々を救ってくれるという入定信仰によるものです。 そして無事に遍路の旅を終えた人が最後に「お礼参り」として参詣するのが、高野山奥の院です。 杉の老木に囲まれた廟の中には、今も弘法大師が瞑想しながら人々を見守ってくれています。  ちなみに四国遍路では、うるう年に八十八番から逆に巡ると弘法大師に会えると信じられているそうです。 四国遍路の弘法大師は伝説から抜け出した身近な存在でもあります。 そして、そのように身近な弘法大師と共に行く四国遍路の旅には、限りない功徳があると考えられています。 遍路は単なる旅ではありません。 一歩一歩功徳を積んでいく旅なのです。 そしてその功徳は人生のどこかで思いがけない果報をもたらしてくれることでしょう。 その旅の一歩一歩は弘法大師が優しく導いてくれているのですから。  石屋のないしょ話でした・・・。

ミミズ

ミミズ

昔は道端などでミミズを見かけましたが、最近はあまり見かけませんよね? アスファルトが多くなったせいでしょうか・・・。 今月はミミズについてお話します。 ミミズは「目不見」「蚯蚓」「雨の虫」「地球の虫」「大地の虫」などと呼ばれてきました。 目がなく、体そのものが腸で、一日に自分の体重以上の餌を食べます。 餌は野菜のくずや枯れ葉などの植物質が中心です。 泣いたり二つになったりすることはありませんが、木に登ることはあります。 ミミズは雌雄同体であるにもかかわらず、子孫を作るには何故か異なる個体との出会いが必要なのです。 ミミズはその姿からあまり人には好かれませんが、古代エジプトでは土を肥やす神の使いとされていました。 さて、ミミズはどんな働きをしているのでしょうか? あるリンゴ園でミミズを持ち込んだところ、数年を待たずに地表にあった枯れ葉はなくなり、代わりにミミズの糞が大量に見られました。 このミミズ糞の塊はスポンジのように多数の小さな穴があり、大量の水や空気を保つことができます。 枯れ葉などがミミズの腸を通って分解されるので、植物の成長を促進させる効果もあります。 ミミズがいることでリンゴの生産量が増加したのは言うまでもありません。  また酪農で知られるニュージーランドでは、土の基礎はミミズと言われ、ミミズが大事にされています。 それは、この国の草地に土着しているミミズの働きが悪かったためイギリスからミミズを持ち込んだところ、草の生産量が増加したからです。 この成功のポイントは、多種類のミミズの中からその土地に相応しいものを選び出したことと、ミミズを住まわせる条件についての実験観察にあったのです。 かの有名なダーウインは、彼の最後の本【ミミズと土】の中で「ミミズとは黙々と活動し、遂には巨石をも地下に埋める能力のある、稀な生き物である」と述べています。 小さなミミズが糞をするという単純なことでも、絶えず繰り返されていれば究極の大きな作用になるのです。 石屋のないしょ話でした・・・。

紫陽花

紫陽花

もう少し続きそうな梅雨ですが、これが明けると夏本番です! 今月は梅雨時の雨上がりに咲く紫陽花(アジサイ)の色が何故変わるのかについてお話します。 一つの木に咲き始めの白から青、終わり頃の赤紫と様々な色の花(がく片)を楽しませてくれる紫陽花ですが、海岸地方などでは花が青くならないものもあります。 このような花には青い花よりアルミニウムが少ないことが五十年以上も前から判っていましたが、最近になって色素(アントシアン)とある種の有機物質にアルミニウムが加わって安定した青い色が出ることが証明されました。 アルミニウムが少なくてpHが高い砂質土壌では、アルミニウムを吸収できないために青い花をつけられないのです。 植物の色は環境によって変化します。 カシの葉は干ばつにあうと赤く色づき、海岸に生えるマングローブに葉は塩分が濃いと塩を吹き出して白くなります。 重金属汚染地ではイネの葉が黄色くなり、大豆の茎には赤い斑点が出るなど、植物はそれぞれの表現方法で、私たちに土壌や自然からのメッセージ(苦しみ)を伝えています。  植物の生育には窒素・リン・カリウムの他にカルシウム・マグネシウム・イオウ・塩素・鉄・マンガン・ホウ素・亜鉛・銅・モリブデンなどが必要です。 これらの元素がバランス良く供給されないと、植物は何らかの症状を示します。 例えばトマトは窒素や鉄の不足で葉が黄色く、リン不足では葉の裏が赤く、カルシウム不足では果実の先が黒くなります。 このような症状は元素ごと、植物ごとに違うので、専門家たちは作物を見ただけで土壌に何が足りず、何が多すぎるのか判るのです。  経験に頼っていた作物の栄養診断技術も最近では体系化されつつあり、また肉眼では見えない変化も機械の目を通して観察できるようになってきました。 その範囲は細胞から個体・群落・さら人工衛星を使った地球レベルのものにまで広がっています。 しかし人の気持ちを機械で測れないように、愛情をもって接しなければ植物の気持ちは解らないにではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

砂漠の防衛戦

砂漠の防衛戦

先月は砂漠からやってくる黄砂についてお話しましたので、今月は砂漠の防衛線についてお話します。 地球上には砂漠を含む砂丘地が約13億ヘクタールもあって、生活の為に砂漠の周りの木を伐採するので砂漠の面積が年々拡大していると言われています。 そしてこの砂漠化進行は最近大きな社会問題となっています。 日本には砂漠はありませんが、海岸砂丘が発達している所が多く、その砂丘地にはたいてい美しいクロマツ林が見られます。 林は海から吹きつける厳しい風を弱めて飛砂の発生を抑え、風に乗って飛んでくる飛砂を捕捉し、風下側の土地の利用を可能にしています。 飛砂の固定は現在では構造物によってでも可能ですが、林の方が成長に伴って大きな効果を発揮するので、経済的・防災的・景観的効果を総合すると海岸林を育成する方が構造物よりも有利だといえます。  砂丘上の砂粒が動き始める速度(限界速度)は砂粒の大きさ・比重・形・湿りぐあいによって変わります。 飛砂量は風速の三乗に比例して変わるので、飛砂量を少なくするにはまず風速を減少させることが重要です。 また、砂の飛ぶ高さは90%以上が高さ数10㎝以内の範囲に集中するので、少しの障害物や林木によってその移動が阻止されるのです。 クロマツ海岸林の防風効果の観測結果によると、砂丘の風土(海側)風速が15.0m/秒(観測高1.2m)の風は、林帯内に40~70m以上入ると2.0/秒以下に減少しました。 飛砂の限界風速は5~6m/秒ですから、15.0m/秒の風が吹いても林内では飛砂が全く発生せず、海側の砂丘で発生した飛砂が林縁から少し入った所で阻止されることがわかります。 風速の低下は、普通の気象状態では保護区域内の地面からの蒸発量を減少させ、土壌の乾燥を防ぎます。 この働きは乾燥地帯では特に顕著に現れ、これが砂漠地帯を緑に変える大きな役割として期待されているものなのです。 森林は飛砂や土壌の乾燥を抑える働きがあるので、砂漠地帯の砂丘移動抑制や環境の改善手段として期待されているわけですが、雨が多い日本の砂丘とは異なり、きわめて雨の少ない砂漠では森林を育てるのは容易でないことも知っておくことが重要ではないでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

地下水

地下水

京都と滋賀・大阪で開催されていた第3回世界水フォーラムも3月23日閣僚宣言「琵琶湖・淀川流域からのメッセージ」を採択し、無事に閉幕しました。 今月は水フォーラムにちなんでお話したいと思います。  皆さんは「水の旅」のお話を聞いたことがありますか? 屋根の上に降った雨が庭を流れ川に集まりダムや田んぼ・都市の中で色んな経験をしながら海へ到達するお話です。 これは地表を旅する水のお話ですが、私たちの周りにはもう一つ水の旅があります。 それは地下水の旅です。 両者の水量を比較すると、地下水は川や湖の水の約100倍もあり、殆んどの水が地下水の旅をしていることがわかります。 この二つの分岐点は土壌表面なのです。 では、土壌に浸透した水はどれくらいの速さで移動しているのでしょう? 関東ローム層を50cmの厚さを単位として深さ20mまで採取して、それぞれのブロックに含まれた水のトリチウム濃度を測定しました。 トリチウムは水素の同位体で、雨の中に含まれ濃度は1963年頃をピークとして特徴的な変化をしてきました。 このトリチウム濃度の違いの順序は土中にそのまま保存されていました。 新しい雨が古い雨を押し上げるように浸透していたのです。 その速度が毎年1m前後であることもわかりました。 しかし地下水の流速は一定ではありません。 砂利層の中は速くて粘土層の中は遅く、両者は何万倍以上も違うのです。 雨や井戸からの揚水によって加速される場合もあります。 1969年頃を境に浸透速度が倍増していますが、これは工業団地が進出した時期と一致しています。 ローム層の下の砂れき層から大量の地下水を汲み出したために、ローム層中の水の浸透が速くなったのです。     それでは地下水の滞留時間はどれくらいなのでしょう? 比較的浅い所を移動して山麓や崖から湧き出すなど短期間で地表に戻る場合もありますが、私たちが普段利用している数十メートルの深さの地下水は、数年から数十年前に土壌にしみ込んだ雨なのです。 一般に深層の地下水ほど滞留時間が長く、地下水全体の平均滞留時間は約5000年と試算されています。 中には地層が堆積する時に地層中に封じ込まれて何万年・何十万年と殆んど動かない、化石水と呼ばれる地下水もあります。 アメリカやオーストラリア・アフリカなどの乾燥地帯ではこの化石水を利用していますが、石油と同様限りある資源であり、いつ枯渇するかわからない心配があるのが現実なのです。  しかし京都盆地の地下には、琵琶湖の水量(275億トン)に匹敵する約211億トンもの地下水が眠っています。 その天然水がめの大きさは南北約33km、東西約12kmです。 天王山(大山崎町)付近が水がめの唯一の出口ですが、水がめの大きさの割に出口の幅が狭いため、地下水は溜まる一方で出て行くことは殆んどありません。 石屋のないしょ話でした・・・。

黄砂

黄砂

今年は例年に比べて黄砂が少ないという記事が、先日新聞に掲載されていました。 今月は砂漠からやって来る黄砂についてお話します。  「飛砂走石・天昏地暗・伸手不見五指」とは、ゴビ砂漠の黄塵万丈の世界を述べたものです。 砂嵐によって巻き上げられた砂は、偏西風に乗って東に移動します。 人工衛星からは太平洋上空を数千kmも移動しているのが見えることもあり、北アメリカ大陸にまで届くそうです。 春の黄砂は、中国の砂漠から吹き上げられ、西風に乗って運ばれてきた砂ぼこりが原因です。  日本上空にきた黄砂はそのまま素通りするのではなく、重いものから次第に地上に落下し、雨や雪の核となって地上に落ちてきます。 春先の雨の後、車の屋根や窓につく汚れや、時折積もる「赤雪」と呼ばれる色のついた雪を調べてみると、黄砂に由来する粒子が多く含まれています。 「赤雪」はヨーロッパ各地でも見られますが、これはサハラ砂漠から「ハルマッタン」と呼ばれる強風に乗って地中海を越えて飛んできた砂ぼこりが雪の核になっています。 サハラの砂ぼこりは大西洋を越えて、西インド諸島や南北アメリカ大陸にまで届きます。     もう一つの空から降ってくる「土」火山灰が日本では黄砂に比べて多いため、黄砂はあまり調べられていませんでした。 しかし最近の研究で黄砂も無視できないほど積もっていることが解ってきました。 日本に達する黄砂は数ミクロン~数十ミクロンですが、長い年月の間に降り積もると、3メートルに達するところもあります。 黄砂の影響の大きい土壌は中国に近い西南日本以外にも各地に見られ、東北・北陸地方では雪の多い所に厚く堆積しています。  黄砂の日本への降下量は場所によって違いますが、10万~1万年前の最終氷河期には1平方メートルあたり1000年19~32kg、氷期後の1万年前からは1000年で5~10kgと推定されています。 土1立方cmあたりの重さを1.4gとすると、この10万年に1平方メートルあたり2~3トン、厚さにして130~214cm、最近の1万年では0.5からトン、4~7cmの黄砂が積もったことになります。 この殆んどは中国の黄土地帯から運ばれてきたものです。  石屋のないしょ話でした・・・。

泥粘土

泥粘土

寒い日が続いてますが、街中に出かけてお洋服やお化粧品を見ると春満開って感じですよね? 今月はお化粧品にも使われている泥粘土についてお話します。  お化粧品に泥粘土?と思われる方も多いと思いますが、口紅や頬紅にも使われているのです。 太古の昔から化粧用として、泥粘土は重宝されてきました。 粒子が小さくて(メーキャップ用で20~40ミクロン・打粉用ではより粗い)、水に溶けにくく、肌によく付き、伸びがよく、肌に優しく、柔らかい感触を与える特性があります。 化粧用粘土の仲間にタルク・カオリン・マイカ(雲母)・ベントナイトなどがあります。   その中で大活躍しているのはタルクで、製品によって異なりますが「おしろい」の主要成分として40~50%の割合で入っています。 肌に塗布すると滑りがよく(タルクは滑石とも呼ばれている)、付着力も強いのが特徴です。 また汗をよく吸収する性質もあるため、ベビーパウダー(69%)・クリーム状ファンデーション(2%)などに利用されています。 カオリンは被覆力に優れていて、肌に対して鎮静・冷却作用を持っています。 汗をよく吸収しますが伸展性がないため、タルク・マイカや他の粘土と一緒に使われることが多く、おしろい(5~15%)・液体おしろい(5%)・ベビーパウダー(5%)・固形頬紅(20%)・パック(7%)などに利用されています。  カオリン・タルク・マイカはそのもの自体が粉体として利用されるのに対して、ベントナイトは水に分散して水の中で漂っている状態(コロイド状)として利用されるのが多いようです。 それは肌に塗布するとフィルムを作り、脂肪などの有機高分子のようにベタベタした感じがなく、さわやかな感触を与えるからです。 ベントナイトの構造の特徴は、内部表面積が大きく、たくさんの水や有機物分子までも取り込んでしまうケイ酸アルミニウムのシートを持っていることです。 この性質がベントナイト独特なコロイドの肌触りを与えるのです。 パック(5%)・ファンデーション(4.7%)に使用されるのはそのためなのです。 冒頭で口紅にも粘土が入っていることをお話しましたが、口紅には雲母チタン粘土が15%入っています。 雲母チタンとは、白雲母の結晶に酸化チタンが付着したもので、付着酸化チタン膜の上面と下面の反射光の干渉によって真珠のような光沢を出したり、青から紫色系の光彩を出したりするのが特徴です。 この酸化チタン膜の厚さを変えることによって口紅の色を調節することができるのです。  ちなみに弊社では、粘土ではありませんが日々の美容に関する新商品を近々発表する予定です。 皆様お楽しみに!! 石屋のないしょ話でした・・・。

おいしい水

おいしい水

健康と美容の為に、ミネラルウォーターを飲んでいる方も多いと思います。 今月は「美味しい水ができるまで」についてお話します。  最近は「飲み水は買うもの」という意識が強く、全国どこでも名水と称するミネラルウォーターを売っています。 厚生省が開いた美味しい水研究会では、水を美味しくする要件のうち蒸発残留物と硬度だけを見ると、全国殆んどの地域で下記の表の条件を満たすと言っています。     蒸発残留物 30~200mg/1 硬度 10~100mg/1 遊離炭酸 3~30mg/1 過マンガン酸カリウム消費量 3mg/1以下1 臭気度(臭気強度) 3以下 残留塩素 0.4mg/1以下 水温 最高20℃以下 美味しい水の水質要件   環境庁が選定した名水100選は日本各地に美味しい水が存在することを示しています。 岩の間からの湧き水や砂れき層から地下水が汲み上げられたりするのを見ると、美味しい水は地下深くで作られると思う人が多く、美味しい水を作るのに土が関係あると考える人は少ないでしょう。 しかし雨が地下に浸透していく前に土を通過することを忘れてはいけません。   一般に雨水に溶けている成分は河川水や地下水よりも格段に少なく、大雨時には蒸留水に近い純度になります。 しかし蒸留水を美味しいと言う人はあまりいません。 何も含まれていない水は味気ないからです。 しかも最近の雨はpHが4・5の酸性に傾いています。 水道水のpHの基準値は5.8以上8.6以下とされているので、雨水は飲めないことになります。 雨の中のアンモニア態窒素や粉塵も気になるところです。 では、日本国土の8割を覆っている農・林地に降った雨はどうなるのでしょうか?  地表面には植物と土壌があり、植物に当たった雨は茎葉や幹を伝わって土壌に注ぎます。 この際に植物体からのミネラルや他の成分の供給があります。 湛水期の水田には水の層が形成されますが、降った雨は稲の影響の他に用水や藻類の影響を受けながら土壌に浸透していきます。 そして日本に降った雨の大部分は土壌に注がれていくのです。 塵界や動植物など遺体の固形物は、微細な土壌粒子によりろ過されます。 そうして土壌を通り抜けた水はさらに地下で岩石と長い間接触して、硬度が増し遊離炭酸やケイ酸が増え、温度も安定して地域ごとの特徴を備えた美味しい水になるのです。  石屋のないしょ話でした・・・。

楊箸

楊箸

さて今月はお正月に使う「柳箸」がなぜ両方削ってあるかについてお話します。  「柳箸」とは、お雑煮などをいただく時に使うお箸のことで、「両口箸」や「両細」とも呼ばれ、両端が削ってあります。 その為、どちらを使っても良いのですが、実際食べる時には片方しか使いません。 片方で食べて、もう片方は取り箸として使用すると思っている方も多いようですが、そのために両方削ってあるのではありません。 もともとお正月には、「年神様(お正月様)」という神様が遠い山の向こうからおみえになっており、その神様と共にお雑煮やお煮しめを食すると考えられていました。 お箸の一方を人間が使い、もう一方は神様が使われるのです。 神様と共に食事をすることによって、神様のご加護を受け、神様と喜びごとを共にしているという思いを表わすために、こんなお箸があるのです。   このお箸は柳で作ったもので、折れにくく丈夫です。 それにこの木の木肌が白いところから、ものを清浄にし邪気を払うものと考えられてきました。 また、柳は春一番に芽を出す縁起の良い木でもあります。  日本人の一生は箸に始まり箸に終わるとも言われていますが、そこには神や仏が必ず存在しているという思いがあるのではないでしょうか? 食事をする時の「いただきます」には、神仏ともいうべき大自然の恵みをいただくことに対してのお礼の意味が込められていますし、「ごちそうさま」には仏様に対する感謝の心が表わされているのですから・・・。 石屋のないしょ話でした・・・。

家庭菜園

家庭菜園

最近は健康・安全食品・土とのふれあいなどを求めて家庭での菜園作りが盛んになっています。 今月は家庭菜園の土作りについてお話します。 誰にでも簡単に作れる小松菜・大根・茄子などを上手に育てるためには、菜園の土がどんな性質かを知り、土にあった肥料の管理をしたいものです。 そのためには土の細かさ・粗さを調べてみることが大切です。 まず湿った土を指先でこねて、こよりを作るように伸ばしてみて下さい。 ツルツルした感じで1cm以上伸びれば粘土が多く、ザラザラした感じで全く伸びなければ砂が多いということです。 粘土が50%以上の土を埴土、12%以下の土を砂土、中間の土を壌土と呼びます。 砂と粘土の違いは粒子の大きさの違いですが、粘土にはコロイドという独特の性質があります。 コロイド性とは伸びや粘りがあり、水や養分を吸着・保持する性質が強いという特徴があります。 そのため粘土の多い土は水や養分を保持できる反面、排水が悪く酸素不足で根が腐りやすくなります。 これとは逆に、砂の多い土は乾燥による障害が出やすくなります。 これらの対策として、粘土が多い場合には耕す深さを30cmほど深くするか、畝を作って空気の流れや水はけを良くすると良いでしょう。 砂の多い場合には有機物を入れることをお薦めします。   土の色は主に有機物(腐植)と鉄の量や質と深い関係があります。 黒っぽい土は腐植が多い土です。 腐植は窒素が多く、水や養分の保持・運搬に大きな役割を果たしますし、お互いに集まる性質があるので粒状の構造を作り、通気性が良くなります。 また微生物の繁殖も活発になります。 明るい色の土は腐植が少ないので、養分を保ちにくいということになります。 だから良い土を作るためには腐植の源である有機物を入れることが肝心なのです。 台所の生ゴミは貴重な有機物の材料となりますので、菜園の片隅に穴を掘り、半年ほど寝かせてから菜園の土に混ぜると良いでしょう。  日本に多い火山灰はリンを取り込んで離さない性質を持っています。 菜園の土が火山灰であれば、リン酸肥料を入れることをお薦めします。  良い土ができても上手に栽培できない場合もあります。 茄子・ピーマン・唐辛子・ジャガイモなどは皆同じナス科なので、繰り返し栽培すると養分のバランスや土の物理的性質が悪くなったり一種の自家中毒を起こし病気が発生したりするので、必ず土をローテーションするように注意して下さい。 石屋のないしょ話でした・・・。

ストレス

ストレス

何事も近代化された今日は、人々の生活を筋肉労働から頭脳労働へと変えてしまいました。 今月は心の病とも言えるストレスについてお話します。 本来、神経と筋肉はともに動物が身体を動かし行動するために進化・発達してきたものですから、神経と筋肉の両方を合わせて使用しなければ、アンバランスになり欠陥が生じてくることになります。 さらに現代社会の過剰な精神的ストレスが加われば、加速的に「心の病」を増やしてしまうのは言うまでもありません。 「心」を辞書で調べると、「知・情・意などの働きのもとになるもの、またはその動き」と書かれています。 つまり、知性が非常に豊かであっても、人間らしい思いやりが欠けていたり、やる気がなければ健康な心の持ち主ではなく、逆にやる気ばかりが旺盛でも知や情が伴わなければ、これもまた健康な心の持ち主とは言えないのです。 事実、ストレスの多い職場では神経症や心身症だけでなく、精神病の発病率も高くなる言います。 厳格で小言ばかり言う上司の下では心の病になる部下が多く、単身赴任や転勤などを頻繁に行っている職場でも心の病を発病する人が多いと言われています。  ある調査では、運動・スポーツに期待するものとして「ストレスの解消」が圧倒的に多く、「成人病の予防」や「体力の増強」よりも多いのです。 この結果は現代社会の人々が強くストレスを感じており、運動・スポーツに強い期待を抱いていることを示しています。 運動・スポーツでのストレス解消作用には、運動やスポーツの持つ娯楽性・気晴らし機能・孤独感の解消・達成感などの心理社会的側面や、苦痛を軽減し多幸感を生じさせるような体内麻薬の分泌や、脳神経・筋のリラクセーション効果などの生理的側面があります。     適度なストレス(快ストレス) ・適度な量と質、受けてにあったストレス ・心身の動きを活発にする 悪いストレス ・神経症は不安、不満、恐怖、欲求などのストレスによる心の異常 ・不眠症、頭痛、不安神経症、強迫神経症、抑うつ神経症など ・心身症:潰瘍、慢性胃炎、高血圧症、虚血性心疾患、気管支喘息、円形脱毛症など   皆さんもストレスのためすぎには、くれぐれも気を付けて下さい。 石屋のないしょ話でした・・・。

肥満

肥満

日ごとに涼しくなり、過ごしやすい季節になってきました。 秋と言えば「食欲の秋」です。 ついつい食べ過ぎて太ってしまいがちなこの時期に耳の痛い話ですが、今回は「肥満」についてお話します。 肥満は、食べ過ぎ・運動不足・遺伝・食事の偏り・熱産生障害(体温維持や食後のエネルギー燃焼低下)・自律機能の低下などが複雑に絡み合った結果であると考えられています。 ですから太る原因は人によって様々なのですが、皆さんもご存知のよう、肥満は殆んどの生活習慣病(糖尿病・高血圧・脳や心臓血管系疾患など)の温床になっています。肥満のメカニズムは複雑で、単に遺伝だけで決まるわけではありません。 ただ、父親よりも母親が太っているほうが、子供の肥満が多いという事例から、母親の毎日の食生活や生活習慣が子供に多くの影響を与え、結果的に遺伝しという形になってしまうのかもしれません。 最近のペットブームにおいても、家族の食生活や運動習慣がペットにまで影響し、まったく遺伝が関係しないペットにも肥満が蔓延している今日この頃です。 この飽食と運動不足の社会では、誰にでも太る可能性があるのです。   最近は肥満にかかわる幾つかの遺伝子が発見されていますが、食べたエネルギーを極力無駄遣いせずに貯め込めるエネルギー倹約遺伝子を持っている人々が日本人の場合、3~4人に1人の割合で見つかっています。 いわゆる「太りやすい体質」の持ち主です。 しかし遺伝的に太りやすい体質を持っていても太っていない人や、逆にそうでない体質の人でも太っている人がいます。 つまり肥満はその3割が遺伝的要因で、のこりの7割が後天的な要因によるものなのです。 遺伝的に太りやすい体質の人でも、食事や運動習慣などの生活習慣を変えていけば、肥満は十分予防できるというわけです。 いきなり食事を減らしたりするのではなく、30分でも歩くことから始めてみてはいかがですか? 「継続は力なり」です。 きっと良い結果がでるのではないでしょうか? 秋は「スポーツの秋」でもあるのですから。 石屋のないしょ話でした・・・。

お茶

お茶

今回は、皆様にも馴染み深い”お茶”についてお話します。 普段何気なく飲んでいるお茶ですが、皆様はお茶についてどのくらいご存知ですか? 緑茶・紅茶・ウーロン茶などが一般的ですが、これらはすべて同じお茶の樹で作られている事はご存知でしたか? 発酵させるかさせないか、また発酵の程度、そして覆いをするかしないかで様々な種類に分けられているのです。 さて、美味しいお茶の入れ方ですが、①あらかじめ茶器を温めておく。②お湯を充分に沸騰させる。③お茶の濃さがそれぞれの茶碗に均等になるように注ぎ分け、急須に残さないように出し切る。④抹茶はあらかじめ「ふるい」にかける。 以上四つのことに気を付けて下さい。 その際に、できるだけ良い水を使用し、出がらしの上に新しい茶葉を加えたりしないでおくと、さらに美味しいお茶が頂けます。 ご参考までに三人分の標準量は下記の通りです。   茶種 茶の量 湯の量 湯の温度 待ち時間 玉露 大さじ1.5杯(約7~8g) 半カップ(約100cc) 40~60℃ 2分半~5分 煎茶かぶせ茶 大さじ1.5杯(約7~8g) 1カップ(約200cc) 80~90℃ 30秒~1分 玄米茶川柳 大さじ3杯(約10~11g) 1カップ半(約300cc) 熱湯 即時~15秒 ほうじ茶 大さじ4杯(約10g) 1カップ半(約300cc) 熱湯 即時~15秒 抹茶(一人分) 茶杓2杯(約1.5~2g) 1/3カップ(約70cc) 70~80℃ 点てる間   以上のことを参考にお茶を入れ、目まぐるしく移り変わる現代社会を少しの間だけ忘れて、ゆったりとした時間を過ごしてみてはいかがでしょうか? 石屋のないしょ話でした・・・。

母親がお宮参りに行けない理由

母親がお宮参りに行けない理由

生後1ヶ月前後の赤ちゃんを連れて、近所の神社に行くのが「お宮参り」です。赤ちゃんを氏神様に引き合わせ、先々お守りしていただくための儀式です。母と子、親族が連れ立って神社に出向き、氏神様に子供の成長と健康をお祈りします。 この時、赤ちゃんを抱くのは父方の祖母で、その祖母が不在の場合は別の女性が赤ちゃんを抱くのが正式なしきたりです。では、肝心の母親はどこにいるかというと、後ろの方にいて、赤ちゃんを抱くことはできません。これは、母親の〝お産の忌み〟が明けていないためで、古くは母親が一緒に参拝することすらタブーとされていました。 お産を忌みとするのは、日本に古くからある習俗で、かつては女性が妊娠すると、母屋とは別に産屋を作り、妊婦はそこで生活してお産していました。別の部屋で生活するのは、同じかまどの火を使うと、お産の穢れが移って不吉と考えられていたからです。また、母親がお産で穢れたのであれば、産まれてくる子供にも穢れがついていると、昔の人は考えました。だから「お宮参り」の儀式は、その子供の穢れが晴れる日、つまり新生児の忌が明けた日に行われます。子供の忌は、東日本では男子が30日で女子が31日、西日本では男子が32日で女子は33日に明けます。 現在も、お宮参りには産まれてから1ヶ月前後で行くものですが、これは不浄を嫌う神様と対面するのに、忌が明けていない子供を連れて行ってはまずいと考えられていたためなのです。 ところが、母親のお産の忌は、東日本では75日、西日本では100日と、子供の忌に比べて長いです。忌が明けないうちは、神様と対面できないから、この日ばかりは母親は後ろの方にいて、付き添い役にまわったのです。   ご参考までに・・・。

砂岩

砂岩

砂岩は、名の示す通り、砂が固まってできた堆積岩の一種です。砂の大きさはまちまちで様々なものがありますが、硬さは中程度の硬さを持つ石材です。北アフリカ諸国や中東などでよく見られ、サンドストーンの名称で親しまれています。日本でも和泉砂岩が古いお墓に使われていました。主な構成成分、鉱物は石英と長石ですが、吸水率が高めです。このため、風化や耐侯性などに面では花崗岩に劣りますが、独特の風合いを持つ外観を醸し出すことができます。硬さは凝灰岩よりは硬いですが、他の硬石よりは軟らかめになります。このため加工はしやすい石材です。江戸時代から大正にかけては墓石材として関西ではポピュラーでした。これは、加工のしやすさと文字の彫刻が容易なため一般に普及したものと考えられます。

お墓の永代使用料

お墓の永代使用料

お墓や墓地は、一般の不動産と違い「所有権」を売り買いするものではありません。寺院や霊園からその墓地区画の「永代使用権」を購入したり、譲渡されるのものです。 あくまで使用権ですので、自己の都合で返還する場合は、「無償返還」が原則となります。また、祭祀のための使用であるため、継承者は親族もしくはそれに準ずるものに限られることになります。 (但し、ごくまれに例外もあります。)ただ購入するということでは、一般の商品となんら変わることはありません。購入される際には、契約時に「使用規則」「墓地・墓域図面」「使用許可証」などを必ず確認の上、お独りで決めずに御家族でよく話し合って決められることをお勧めします。もしも事業者に重大な過失・契約違反等があった場合【消費者契約法】や【訪問販売法】の適用を受けられることがありますので解約が可能です。

大谷石

大谷石

大谷石は栃木県宇都宮市大谷地区で、生産される緑色擬灰岩で古くから日常生活に用い られ、火に強いことから煮炊きをする、かまどをはじめ建物の土台石、敷石、土留め、蔵、倉庫などの積み石に使用される一方、火災から守るため、屋根石(石 瓦)や、板蔵の貼り石として、外装、内装の建築用材ほか、様々な形で使用されてきました。自然石として大谷石の魅力は柔らかくて 加工しやすく、熱を通しにくく耐久性に優れ、控えめな地色は素朴で温かみさえ感じさせる、独特の風合いを持った石です。昭和30~40年年代に石塀として多く使われましたが、最近は、外壁だけじゃなく室内にも使われることで見直されてきました。写真は、12月にオープンされた「モリタ屋」様の離れの施工写真です。

お地蔵さん

お地蔵さん

京都の街角ではよく見かける「お地蔵さん」ですが、最近では子供の減少・町並みの変化に伴い引き取りの依頼が多くなってきています。子供の頃には夏休みの終わり頃になると京都の街角では「地蔵盆」が催されてきました。昨今子供の数より高齢者の数の方が多くなり、「地蔵盆」自体を行わない町内が増えてきています。そういう中で今回「お地蔵さん」の改修工事をさせてもらいました。ご町内皆さまの喜ばれた顔を見て、これからも大切にしてもらえそうだなと感じました。やむなくお地蔵さんを撤去しなければならなくなった時など、当社にご相談いただければ、引き取っていただけるお寺様をご紹介します.

大理石について

大理石について

装飾や造形に適した大理石は、一般に直径0.3ミリメートル前後の等粒状の方解石がよくかみあっていて緻密で均一です。 光をある程度透過させ、内部では方解石の劈開面などで反射を繰り返し、入った光の一部を再び出す性質があります。 また、彫刻に適した硬度と粘りを持ち、研磨によって表面に滑らかさと光沢を与えることもできます。 日本での大理石の利用は、奈良時代の薬師寺の仏壇や、法隆寺の仏像の台座が最も古いといわれています。 本格的な建築用大理石の加工利用は大正に入ってからで、ヨーロッパからの原石の輸入も始まりました。 その後、第二次大戦後の復興と経済成長によって、建築内装の需要は急増し、ほとんどを輸入でまかなっています。 主な輸入先はイタリアをはじめ、ギリシャ・フィリピン・台湾・アメリカ・中国などです。 大理石には様々な種類があります。 多くは多少変成作用を受けていて、原岩の石灰岩がほぼ純粋な炭酸カルシウムからできている場合には、方解石だけが集まった純白の大理石が形成されますが、普通は少量の他の成分が含まれていて、炭質物(黒色)・酸化鉄鋼物(赤褐色)・緑泥石(緑色)などのために着色したり、方解石自身が色を帯びている場合もあるため、様々な模様や色を持った大理石になっています。 もっとも有名なイタリアのカラーラ産の白大理石は、白地に淡青灰色のすじや斑点が入ったものが多く、世界中の建築内装材に用いられています。 カラーラ産の次に有名な白大理石は、ギリシャのアテネの近くで産出し、パルテノン神殿にも用いられたもので、白地に淡灰ないし淡緑色の縞が入っています。 模様のある大理石で古来珍重されているのは、イタリアでブレッチア、日本では更紗と呼ばれている網目模様の礫岩状大理石です。 更紗模様の大理石には、黒更紗といって灰黒色の角礫を多く含み、礫や基質にフズリナなどの化石を含むものも産出します。  最近好まれる模様のある大理石は縞模様の石で、平行縞と細孔をもったトラバーチンと呼ばれるクリーム色の石は、温泉・鉱泉などに溶け込んでいた炭酸石灰の無機質な沈殿によってできたもので、世界的に内装用として用いられています。 オニックスと呼ばれる科学的沈殿でできた縞状半透明の石もありますが、大理石としては最も高価なため、建築利用は稀で主にテーブル・花瓶などの工芸品に用いられます。

岩石と土の違いについて

岩石と土の違いについて

岩石と土は、共に私たちが住んでる大地を形成している大切なものです。土には石ころも入っていますが、岩石と土は違うものです。硬い軟らかいの違いだけでなく、岩石には草木も生えず物質的で無機質な印象を受けますが、土は緑にあふれ生物的で有機的な感じがします。さて、その違いはどうして生じたのでしょうか? 岩石は主に鉱物粒子の集合した塊です。岩石は、マグマが冷えて固まってできた火成岩・色々な岩石が地球内部で高温高圧のため組織が変わったり、新しい鉱物が生まれたりしてできた変成岩・風化や浸食された岩石が運搬、堆積されて再び固まってできた堆積岩に分けられます。 このため火成岩や変成岩は地球内部の状況を反映しているのに対し、堆積岩は元になった岩石の特徴や堆積した場所などの地球表層の環境を反映しています。これらの岩石が地表に現れ、太陽や風雨にさらされると次第に細かい粒子になります。このような細かい粒子の集合物を「土」と呼ぶこともありますが、緑を育てている「土」とは少し異なります。 緑を育てている土の中には、動植物や微生物・その遺体や排泄物・あるいは微生物によって分解された腐植といった有機物が必ず入ってます。これは生物が関係していることを示すもので、このような土を土壌といいます。土壌は岩石表面にバクテリアやコケの類が生活を始めるときから少しずつできています。これらの生物は岩石から溶け出した養分を利用しますし、養分を取るために岩石を溶かす成分を出します。その遺体も岩石を溶かす成分に変わります。成分の一部が溶け出した岩石は砕けやすくなり、次第に細かい粒子になります。そこに住むことのできる生物も多くなり、加わる有機物の量も増え、土壌ができてくるのです。 岩石や砕けた粒子など土の元になる物質を母材と呼びます。土壌が侵食され、運搬・堆積した場合のように、母材には有機物が含まれることもあります。このような母材に生物が働いて一つの複合体になったもの、これが「土」すなわち「土壌」なのです。

日本の庭園について

日本の庭園について

八世紀末に京都が都になると、古い地層の山に囲まれて庭石と景勝にめぐまれた庭園に最適の地である京都には、本格的な庭園が次々と誕生しました。貴族の寝殿造の住宅の南庭は敷地いっぱいが庭園となり、白砂が敷かれ、遺水(やりみず)と呼ばれる流れもつくられました。当時の公家の橘俊綱が書いたといわれる『作庭記』では、とくに立石(石組み)について「石の乞わんに従って石を立てる」とし、自然の石が人間に要求してくるのに従うという、日本独特の自然観と造園思想がみられます。平安中期(十世紀)以後になると、仏教の影響が強くなり、寺院の庭園が発展して極楽浄土の有様をこの世の庭に反映させた浄土庭園が生まれました。 十二世紀の末に禅宗が伝わり、鎌倉時代には禅宗の自然観で構成された禅寺の庭が誕生しました。室町時代の末頃から京都や堺では茶の湯が流行し、茶室の周りの庭には、自然の山間の趣を出そうと山の常緑樹を植え、飛石と手水鉢と石燈籠を用いるようになった茶庭が生まれました。手水鉢は低くつくばって手を洗い清める「つくばい」が主に用いられ、燈籠は夜の茶会の照明として、飛石は歩くために据えられました。 これらは実用のために始まりましたが、庭の景観にも大きく寄与するものとなりました。茶庭は露地(路地)ともいわれ、茶室への道を意味しています。手水鉢や石燈籠は古びたものが好まれ、風化して苔が生えた「わび」の姿が鑑賞されました。見る要素が強くなるとともに、築山をもうけ池や流れをつくり、石組みも見られるようになり、飛石には自然石だけでなく切石も用いられるようになりました。 茶庭の様式は江戸時代に確立しましたが、町人文化が栄えると大名の庭園は広い芝生をもった明るいものとなりました。書院の庭や茶庭が建物に従属する性格をもっていたのに対し、築山や池の周りを散策する回遊式庭園が主体となりました。石組みは多く用いないで、石を置く場合は「捨石」といって要所に一個だけを捨てたように配置することが行われ、比較的に丸みのある石はが好まれました。金沢の兼六園などが代表的です。 大正から昭和にかけては小庭園の時代となり、自然主義的な写景ではなく、枯山水の伝統を受け継いだ抽象的な庭が復活してきました。また、建物に付属した庭園に始まった造園技術は、都市公園・集合住宅の緑地・広場・道路などに応用され、新しい造形が試みられるとともに洋風和風さまざまな伝統的庭園の様式も融合して用いられています。

神話の中の石について

神話の中の石について

「日本の神話中には、石や岩に関する言葉や話がたくさんでてきます。 「古事記」には、イザナギとイザナミの兄妹神が夫婦となって日本の島々や神々を生んだ後に、死んで黄泉国(よみのくに)に行ったイザナミをイザナギが呼び戻しに行く話があります。黄泉国のイザナミにはウジ虫がたかっており、これを見たイザナギは驚き恐れ逃げ帰ります。イザナギはイザナミとその軍勢に追われながらも、やっとのことで黄泉国とこの世との境界の比良坂に辿り着き、ここを千引岩(ちびきのいわ)でおし塞ぎ、岩をはさんでイザナミと問答して別れました。この黄泉の坂を塞いだ石はチカエシノオオカミ、またの名をヨミドノオオカミと名づけられています。 塞の神(さえのかみ)とも呼ばれ、境界や道の民族神とされている道祖神は、ほとんど石が神体としてまつられています。この千引岩の話は、石が道の神であるという古代人の観念を示すものといえます。この種の話は、死の起源を物語るとともに、石を不死あるいは永遠の象徴とみなす古代人の観念を示しています。現代においても”お墓”が何故石を使うかとの問いの答えになるのです。よく似た話は東南アジアに広く分布しています。 道祖神が石で表されることは、境界的な意味合いが強いと考えられています。堅固で不動の永遠性をもつと同時に生命の根源という存在でもある”石”は、日本の民族の中で生命のあるものと生命のないもの現世界と死後の世界、地上と地下など中間に位置してふたつの異質の領域をつなぐ境界性をもち、二面性をそなえたものと考えられているのです。我々の祖先にとって自然の大地を構成する石は、生命力の根源であり神霊が宿るところであり永遠の象徴として宗教心を表現する素材でもありました。死者の墓が石で作られているように”石”は宗教とかたく結びついており人々の心のよりどころでもありました。 これからも人の心と石のかかわりが決しておとろえることのないようにしていきたいものです。

現代の石の道具について

現代の石の道具について

石を用いた道具は、金属が道具の主材料になってからも続いて使われ、金属を加工するために用いられるなど、文明の進歩とともに新しい用途も出てきました。 石器時代の石皿の多くは平たい磨製石器で、塊状の食物などを叩いたり、押しつぶしたり、擂ったりして粉末にする道具ですが、くぼみが深い乳鉢型のものもあります。石臼とも呼ばれるこれらの石皿は、木製あるいは鉄製の臼とともに食物の調製をはじめ、鉱山で鉱石を粉砕するなど、目的に応じた石臼が工夫されて作られました。現在でも正月の餅つきや、穀物・陶磁器原料の粉砕などに石臼が用いられています。身近な石の道具に硯・碁石・灰皿などがあります。多くの硯は頁岩あるいは粘板岩ですが、中国の端渓石や山口県厚狭の赤間石は凝灰岩です。 碁石の白石はハマグリが用いられ、黒石は三重県産の珪質粘板岩(那智黒または那智石)が最上質とされています。那智黒は、試金石として金の純度の判定にも用いられます。銀や銅などと合金になっている金を試金石にすりつけてできる黄色の条痕は、硫酸をかけると銀や銅は溶けて金が残るので、標準品の条痕や溶け具合と比較して、金の純度を判定することができるのです。 印鑑の石質材料には、水晶・メノウなどが用いられています。筆記道具は情報伝達と記録の大切な道具で、古くには粘土板があり、石を用いた筆記方法として、粘板岩などの平らに剥がれやすい黒い岩石(石盤・石板)にロウ石やタルクなどの石筆で書く方法がありました。石筆という言葉は、江戸時代に西洋から渡米した鉛筆を意味していましたが、明治になって石盤が低年齢児の学習具として使われるようになってからは、石の筆記具のロウ石・タルクなどを指すようになりました。ロウ石は耐火物や陶磁器原料にもなる粘土質の軟らかい岩石です。石盤と石筆は、明治・大正から昭和の初めにかけて小学校などで広く用いられてました。

石の鑑賞について

石の鑑賞について

ひと口に鑑賞する岩石あるいは石といっても、自然の風景の石・庭園の石・建物や石碑などに用いられている石・家の中に飾られた石などがありますから、石のあり方や環境によって石の見方も変わってきます。 鑑賞される石の性状は、鉱物鑑定の時と同様にまず石の形が基本ですが、色・光沢・模様・触感・硬度などがあげられます。庭石などの自然に形がつくられた自然石の場合は、形態とともに「さび」や「野面」と呼ばれる表面の風化摩滅の状態が重視されますが、石材などの切石では加工表面の模様(岩石の内部構造・組織)が重要です。 石の加工がさらに進んで彫刻品になると、石は彫刻材料としての鑑賞対象になります。庭園の石なども同様で、石を鑑賞するというよりは、石の配置や植木・池・背景などとの調和の美しさを鑑賞するという方が正しいかもしれません。 山や海岸・渓谷など大自然の中の石を、雄大な風景をつくっている素材として風景全体を鑑賞したり、奇石や形状石から色々なものを連想して自然の造形を楽しむなどの見方もあります。しかし特に決まった石の鑑賞の仕方があるわけではないので、あまり難しく考えずに身近な石から鑑賞してみてはいかがでしょうか? (注:「さび」と「野面」について詳しくは石のおはなしvol.5をご覧下さい。)

水石・盆石

水石・盆石

日本庭園に庭石が重要な存在になった後、室町時代には茶の湯の流行とともに、書院などの室内に手頃な大きさの石を置いて楽しむ愛石の趣味が盛んとなりました。 このような愛石の趣味は盆石と呼ばれ、江戸時代中期頃から文化人の間で流行し、多くの流派が生まれました。本来は一つの石だけを盆に据えて鑑賞するものだったのが、後には盆山・盆景・盆庭・盆画などと呼ばれる縮景の要素も含むようになり、丸盆などに大小の石を置き、砂をまいて波や雲などを表して苔や草木を植えたり、家の模型を置いたものまで現れました。 盆石の趣味は盆栽の一種とも考えられ、茶道のほか華道・山水画・書道などとも関係が深く、石を陶磁器の水盤に入れて水を注ぎ鑑賞することも行われました。江戸時代の末頃から盆石と同じような意味で用いられるようになった「水石」という言葉は、この水盤の石から出たといわれています。しかし盆石・水石などの言葉の用法に様々な説がありますので、ここでは語感的に好ましい「水石」を用いることにします。 水石の条件として、①自然石であり、加工はできる限りしないこと ②室内で鑑賞するので、大きさが適度であること ③一個で鑑賞し、二個以上の石の組み合わせでないこと などがあげられます。①~③の条件を満たした上で、形が良く、石質が適度に硬く(硬度6~7程度)、色が濃くて気品があり、自然らしさや風格がある水石は、さらに優れた水石とされています。 また、宝石のような価値は水石にはなく、宝石の原石は一般的に水石ではないとされています。

庭石について

庭石について

おもに日本庭園で鑑賞のために用いられる庭石は、自然石の中から形態の良いものを選んでそのまま用いるので、加工した石材を庭石とはいいません。自然石は産出場所の違いによって風化や磨滅の程度が異なります。一般的に山地から出た「山石」は角張っていて形に厳しさがあり、河川から採取された「川石」は丸みを帯びて優しさがあり、海浜の「海石」は波があるため微妙な凹凸があるとされています。これら自然の形に加えて、傷や破損した部分がなく、表面の色彩が古びて「さび」を生じ、深い味わいのあるものが良い庭石とされています。 岩石が風化作用を受けた時に表面がざらざらになった状態を「野面」といいます。表面鉱物が風化分解して酸化鉄などの被膜を生じた「さび」は、庭石に用いる前の風化による「山さび」だけでなく、庭石に用いてからも風化を受けてまわりの植木などと調和した「庭さび」を生じ、様々な苔もついて、野面とともに年月が経つにつれて古色と風格がそなわってきます。したがって庭石の良否は石材とは異なり、岩質や美しさよりは外観や渋味が好まれることになります。 また、層理や節理など、石材としては均質な大塊を得にくい性質が、庭石には「気勢」といわれる石の方向性を与えるものとして歓迎されます。「石は気勢あるいは勢い」といわれ、層理・節理・片状構造などをもつことが庭石の大切な条件とされています。これらが見られない石は庭の重要点に据える庭石にはなりません。 岩石を庭石に利用するとき、庭を構成する上で重要な場所に用いる小数の庭石を一般に「景石」といいます。ときには眺めるために一つだけ置いた形の良い石を「景石」あるいは「捨石」といい、二つ以上の石を組み合わせて置いた場合は「組石」といいます。また、「飛石」といって歩くためと庭の空間構成とに役立てる石もあり、「短冊石」「沢渡」などと呼ばれる石もあります。 さらに燈籠や手水鉢などの加工された石も、庭の重要な構成要素の石として鑑賞されます。

石材について

石材について

色々な岩石のうち、種々の加工をして土木建築をはじめ墓石・記念碑・工芸品・実用品の製作などに利用されるものを石材といいます。量的には土木建築用に多く用いられています。自然石のまま利用される庭石や、採取してそのまま用いられる砂利や砂は広い意味では石材ですが、加工して使わないので石材には含まれません。 石材は石器時代から利用され、西洋の石造建築は古代エジプト・ギリシャ・ローマ時代の神殿から中世のゴシック教会堂へと発展しました。日本では明治になってから、洋風建築や鉄道・港湾などの土木工事が始まるとともに石材の需要が増えました。その後、鉄筋コンクリート技術の導入により建築構造材としての利用は減りました。 代わって骨材としての川砂利の利用が始まりましたが、近年は川砂利では需要を満たすことができないので、骨材はおもに各地の採石場から得られる砕石を用いるようになりました。 また石材技術の進歩とあいまって、建築石材はおもに板材として装飾用に利用され、磨くと美しい光沢面が得られる御影石と大理石が重視されるようになりました。最近はこれらの石材の多くを海外から輸入しています。 これらおもに建築の内外に用いられる石材と、庭石として庭園に用いられる自然石の特徴や種類は下の表のとおりです。   石材・庭石名 岩石名 産地 おもな用途・その他 本御影(ほんみかげ) 花崗岩 神戸市御影 装飾・灯篭・景石 淡紅色 稲田御影 花崗岩 茨城県稲田 装飾・石碑・飛石 鞍馬石 花崗岩 京都市鞍馬 景石・飛石・石垣 万成石(まんなりいし) 花崗岩 岡山市万成 装飾・石碑・桃紅色 鉄平石(てっぺいせき) 安山岩 諏訪市 板石・敷石 暗灰・暗褐色など 白丁場(しろちょうば) 安山岩 神奈川県湯河原 石碑・飛石・景石 灰白色 根府川石(ねぶかわいし) 安山岩 神奈川県根府川 石碑・飛石・板石 抗火石 流紋岩 静岡県伊豆新島 建築・景石 耐熱性 大谷石(おおやいし) 凝灰岩 宇都宮市大谷 建築・石塀・石垣 和泉石(いずみいし) 砂 岩 大阪府和泉 石垣・敷石 那智黒(なちぐろ) 粘板岩 和歌山県那智 工芸・碁石・景砂利 寒水石(かんすいせき) 大理石 茨城県久慈・多賀 装飾・配電板・工芸 赤板大理石 大理石 岐阜県赤坂 装飾・配電板・工芸 伊予青石 緑泥片岩 愛媛県西部地域 景石・飛石 秩父青石 緑泥片岩 埼玉県秩父 景石・石碑・飛石 鳩糞石(はとくそいし) 蛇灰岩 埼玉県秩父 装飾 青緑色に白色の網目

なぜお墓は石で作られているのか?

なぜお墓は石で作られているのか?

何年か前、ステンレスやセラミック製のお墓が新聞やテレビで話題になりましたが、人気がなくてすぐに消えてしまいました。日本人は「お墓は石で」という気持ちが強く、石以外は受け付けません。それは何故なのでしょうか? 日本人は神代の昔から「石」には霊力が宿ると考えてきました。日本には八百万の神々がいますから自然界のあらゆるものに霊が宿っていますが、「石」には特別な霊力があると思われていたのです。例えば「古事記」にはスサノヲの命が天照大神に身の潔白を明かす「誓約」のとき、天照大神の八尺の匂玉に息を吹きかけると五人の男神が生まれたという話があります。つまり匂玉は霊力がある石だったのです。 「日本書紀」大化二年の「薄葬令」には「王より以下、小智以上の墓は小さな石を用いよ」「庶民は土に埋葬せよ」とあります。しかし庶民も河原の丸い石を霊が宿る依り代にして埋葬地に置いた思われます。何故なら今でもその民族習慣が各地に残っているからです。 日本人が古代からお墓を死者の霊魂が宿る依り代の「石」で作るのは、「石」の霊力を信じる伝統があったからなのです。その伝統が一朝一夕に失われるものでないからこそ、二千年たった現在でもお墓は「石」で作られているのです。

花崗岩(御影石)の生成について

花崗岩(御影石)の生成について

花崗岩は地球の内部から上昇してきたマグマ(溶岩のようなもの)が比較的地下の深いところでゆっくりと冷え固まって出来ると言われています。岩石は地球の深いところにあるほど比重が大きく固体の状態で存在しますが、何かの原因で温度が異常に上昇したり周囲の圧力が低下したりすると岩石の一部が溶けて液体(マグマ)になることがあります。 同じ物質が液体になると固体の時よりも比重が小さくなるので、溶けた岩石は軽くなって上昇することになります。しかしもともと浅いところにある岩石よりも比重の大きな岩石ですから、ある程度上昇するとまわりのとけていない岩石と比重が釣り合ってしまい、それ以上浅いところへ上昇できなくなります。上昇できなくなったマグマはまわりの岩石を溶かし込みながら横方向に広がっていきます。 この時、より軽い鉱物を溶かし込んだマグマは再び周囲の岩石よりも軽くなり、更に浅い場所へと上昇していきます。このようなことを繰り返し、色々な種類の鉱物を取り込みながらマグマは次第に地表へと近づいていきます。こうして取り込まれた鉱物の含有比率の違いによって様々な色合いの岩石が形成されていくのです。 ・上の写真を見て解るように、御影石は2~3種類の異なる粒状の結晶が複雑な模様を描いています。その模様の違いはマグマが冷えて固まる際の条件によって生じるものです。マグマが地表に噴き出したり或いは地表のすぐ近くまで上昇してきた場合には急激に冷却されるために鉱物の結晶が作られず、御影石の特徴である「等粒完晶質」の岩石は形成されません。またあまり長い時間をかけて固まった場合は一つ一つの結晶が大きくなりすぎてしまいます。適度な時間をかけて冷却され、適度な大きさの結晶の粒が形成された場合に「御影石」が生成されるのです。

花崗岩 (御影石)

花崗岩 (御影石)

花崗岩は一般に御影石と呼ばれ、広く石材として利用されています。国会議事堂をはじめ、官庁、銀行などのどっしりとした建物の外装、堅固な橋、数多く並ぶ墓石などの大半は御影石で作られています。この名称は、神戸市の御影で産出された花崗岩が石材として有名になったために一般的になりましたが、花崗岩と御影石はまったく同じものではありません。それは含まれている鉱物の種類の違いで、見かけや強度等が似通った岩石が多種存在するからです。 岩石の種類で「花崗岩」と呼ばれるものは「石英」「長石」を主として、これに「雲母」「角閃石」「輝石」等の鉱物が加わったものです。個々の鉱物は大体同じぐらいの大きさの結晶で成り立っています。それを「等粒完晶質」といいます。花崗岩ではないけれども御影石と呼ばれている石材は、含まれている鉱物に違いはあっても皆この「等粒完晶質」であることは共通しています。では何故、含まれている鉱物に違いがあるのに見かけが類似した岩石があったり、逆に含まれている鉱物の種類は同じなのに見かけの異なる岩石があったりするのでしょうか?    (上・磨いた後   下・磨く前)     (上・磨いた後   下・磨く前) ・二つの写真を見て解るように、御影石は磨く前と磨いた後では表情が変わります。   ・白く不透明なところが「長石」、半透明の灰色がかったところが「石英」、黒い部分が「黒雲母」あるいは「角閃石」という鉱物です。